2013 . 02 . 17 up
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義務を果す生活とは、恨みつらみが縁からこぼれるほどの大波は立たないがまだ相手に対して善を為さんとする気持にはなっていない、つまり理性によって抑制が効いている中程度の心の状態を言う。
*この当時は遺伝するものと思われていた。
*詩人のニコライ・ネクラーソフの詩『トロイカ』(1846)からの引用。
メーテルリンクの曰く――『真夜中の太陽が波立つ海――そこでは人間の心理〔学〕が神のそれに近づきつつある――を支配している』、『アイスランドに薔薇を探しに行くな*』。なんと彼は正しいことか!
*ここと以後の引用はメーテルリンクの論文『従順な人びとの財宝』(1896)〔翻訳(1903)〕。
ゴキブリたちの礼儀正しさ。恐ろしい沈黙と空しいかぎりの言葉の時代ではあるが、しかし壁の向こうからは日がな一日、百姓たちのコムーナへの「ブルジュイじみた」お喋りが聞こえてくる。と同時にその同じブルジュイたちの沈黙から――『われわれは為すべきことをした、それ相応のことしたのだ、報われて当然なのに』という声も聞こえてくる。新しい君主〔統治者〕たちの事業の本質について、明確な言葉がひとつも発せられないではないか、そうした素朴な(一語判読不能)……も口にできない……そのわけとは――もしたとえば自分が、マクシム・コヴァレーフスキイ*1みたいに日がな一日、図書館でハーグ平和会議*2のための原稿を準備していて、ついにそれ〔自分の反戦平和の言葉〕を完成、さあ今から発表するぞと立ち上がったその一瞬を捉えたかのように、突然、何者かがハーグ市に向けて窒息性ガスを放射した〔としよう〕。するとどうなるか。いやいや、もうそうなったら戦争反対なんて吹き飛んでしまって、たちまち権力筋がすっ飛んでくるのである。ナロードが(老いも若きも一緒になって)ツァーリの権力を打倒したときも、たしかに風穴ぐらいはあいたのだが、でも臭い毒ガスのようにナロードのЖ〔жопа尻の穴〕から出てきたのはやっぱりその同じ権力だった。そしてそれがナロードを窒息させたのである。
*1マクシム・マクシーモヴィチ・コヴァレーフスキイ(1851-1916)はロシアの歴史家・社会学者。
*2ハーグ平和会議は1899年と1907年にロシア皇帝ニコライ二世の提唱でオランダのハーグで開かれた国際会議。国際法の発展に一時期を画した。第1回会議は国際裁判制度充実などを国際紛争平和処理条約と陸戦法規に関する条約を採択。第2回会議では戦争法規を中心とした13の条約を採択。これらの条約を総称してハーグ条約ともいう。
それゆえ何ら抵抗することなく、〈ブルジュイ〉がコミサリアートに最後の乳牛を連れていく。そしてこう言われる――『家に戻って〔搾乳用の〕桶を持ってこい!』。それで百姓は急いで桶を取りに戻る。だからこそコミサールの下ではすべてが共有であり、ブルジュイのものは個人所有のものなのである。コミサールの権力はいくら悪臭を放とうと、権力は権力だ。それで無政府状態のまま乳牛を所有したのである。
ヨナキツグミ〔ナイチンゲール〕の小さな舌の焼肉。「怠業者(サボタージニク)」のインテリゲントは、衆人環視の中で、ヨナキツグミの舌に変身しなくてはならないので、どうしたって雄鶏みたいに喧嘩腰にならざるを得ない。それだけでなくそれはナロードのためにもなるのだ(民衆教化のわれわれの功績!)。インテリゲントであるかぎり彼は必ずその焼肉を〔食べるが〕、もしその信念からインテリゲンツィヤと袂を分かってボリシェヴィキになったとするれば、間違いなく彼は大学生のラスコーリニコフのように論理的犯罪の道を歩むにちがいない。その自尊心と権力欲とはまさにナロードに近づこうして彼自身が渡った橋なのだ(したがって『悪いのはすべてアンテリゲンツィヤ〔彼はインテリゲンツイヤとは発音しない〕と言ったイワン・アファナーシエヴィチの言葉は完全に正しい。なぜならどんなに焼肉的であれ犯罪的であれ、その橋を渡ってしまえば、それは、結果として毒ガスのボンベに穴があいたということだから。
*ラスコーリニコフはドストエーフスキイの長編『罪と罰』の主人公。
*フレンチは4個のアウトポケットが付いた詰襟軍服(英国人ジョン・フレンチ元帥の名から)。チューブは男の前髪のこと。昔のウクライナ人の長い前髪。
雪の下から顔を出す花。レーニンは案山子〔馬鹿、阿呆〕だ。いま必要にして唯一の課題は何か? 顔のない者〔ベズリーコエ、無個性〕の中から個なるもの(リーチノエ)がいかにして現われるか、群衆の中からいかにして指導者が姿を現わすか、雪の下の根からいかにして花が現われるか、それをどう捉えるか――唯一の課題とはそのことだ。
沈黙の十字架。沈黙は地下の花を産み出す力に共通の兆候であり特徴であり、もし今わたしがそのロシアの大地の沈黙の力を十字架と呼ぶなら、それはたしかに有効的な言葉になるだろう。なぜならそれはあまり先走りしすぎた言葉だから。極端すぎる税金をどこの村でもコントリブーツィヤ〔償金〕と称している。
ボリシェヴィキがこう罵られているのを聞いた――『アンチキリストの魂が齧り尽されますように!』
百姓の見地――「迂回」。イワン・アファナーシエヴィチは言う――
「そりゃ学のある人間は自分の見地〔観点・意見〕というものを持ってるさ。もしそこに自分でないものが混じれば、そこで自分なりに何らかの結論を下せるわけだが、百姓の見地(もっともそんなのがあればの話だが)、まあ百姓にかぎってそんなものはない。そこでわしの意見はこうだ――そいつを払いのけずに避けて通る〔迂回する〕べきだとね。そうしたほうがいいってことだな」
そう言ってイワン・アファナーシエヴィチは一つの例を挙げた――それはパンに対するインテリと百姓の態度の大きな違い――パン屑をゴミみたいに床や地面に落とすことを百姓は罪と見なすが、インテリはそうではない、と。
主婦のタチヤーナ・パーヴロヴナは償金を前にして、死刑宣告をされた人間が最後の一日に味わうような経験をしている。そして同じ目に遭った者たちの半数もこんなことを言っていたと――
「わしらの国くらい駄目な国はなかった。土地を持たん貧乏人からパンを略(と)っていった国なんだ」
「ロシアとはそもそもナンであるか? それはみんなのためにあるべきもの。なのにそこではみんなが着ているものを脱がされ履いているものを脱がされている! 日の出と日没が同時に見られるロシア――そんな広大無辺の空間を人間たちが裸で跣でほっつき歩いているのだ!」
わがロシアのインテリゲンツィヤ――ただしロシアのセクトとしてのそれは、もう永遠に亡んでしまった。ナロードの中に今、それはあり得ない。なぜならそこにいるのは自分たちの(身内や仲間である)名の知れた人びと、もしくは権力の代表者(それもやはり仲間)のどちらかだから……
人びとの声に耳を傾ける必要がある――何より彼らの気持が和らぐであろうから。彼らの話を聞き終えたら、教師然たる態度でなくそっと助言をするのが望ましい。そうしたやり方に歓びの本源がある。大事なのは、周知のはずでももう忘れられてしまっているようなことをそっと気付かせること、秘かに助言すること――要はプロンプターに徹すること。
われらが坊さんたちにはこの歓びの感情がある〔あった〕。彼らの道は断たれてしまったが、運動のせいで〔革命運動か心の動揺か?〕この感情がそもそも何から生じたのかが思い出せないで、それを安息(パコイ)と混同している始末である。
村の古老もこんな凄まじい霜を思い出せない。まる一週間それは積もったまま融けなかった。だからあちこちの槲の樹幹や枝が折れた。白樺の林に(一語判読不能)があったが、そのあと(驚いて腰でも抜かしたか)一本の白樺がその凍りついた梢〔頭〕をどんどん下げて、なにやらこんなことを囁いた――『おいマロースよ、なんだってこんな冗談を言うんだ。もういいからやめてくれ!』。だが凍てと寒さはいよいよつのり、ますます枝々をうなだれさせると、こう答えた――『で、どうだね、気分は?』。みっともないほどひん曲げられた枝々にはもう返す言葉もない……
あっちこっち電線が大きく撓んでしまった。すっかり雪の上に落ちてしまったところ、断絶したところ、完全に倒壊した電柱もあるが、わがスキタイ人はそんな電線をクレンデリ〔8の字白パン〕みたいに巻いて、さっさと自分の家に持っていってしまうのだった。そのためわが郡の配線網はゼロ、電信柱だけが残った。それとてまともな形のものは一本もない。新聞にこんな記事が載った――「電線の窃盗犯には恐ろしい処罰が待っている(「十年の禁固ののち銃殺」)、覚悟せよ!」演説家たちは、市民に向かって、コムーナによる国家建設を呼びかけたが、スキタイ人たちは霜と嵐でずたずたにされた電線をぐるぐる巻きにして自宅に運び込んでいるし、相変わらず路上には家で出た灰(貴重な大地の肥料!)を投げ捨てていた……
レーニンは政治的見解を棚上げして、すべての人に勤労を呼びかける(『もうコミュニストだけが働けるという偏見は捨てるべきである!』)が、地元のコミュニストたちの締め付けはいよいよ強まっている。
友〔ソーニャ〕のために肥料を10袋(40ルーブリ)買った。袋の上にのっかってセンナーヤ広場をあとにする。誰彼なしに訊いてくる――
「何を運んでんだい?」
こちらは愉快そうに叫ぶ。
「パシェニーツァ*だ!」
「Vita!」
第七天国〔有頂天〕なり。
*プシェニーツァ(小麦粉)?
飢餓の時代に一杯のヴォトカが飲めシベリアのペリメニが食べられる――それがどんなに幸福に思えたことか? 新年に幸福を摑んだ――飲んだし喰ったし、あれは何? みなが最初に感じたこと、それは不一致。期待にそぐわぬ、現実味のない歓びだった。そしてそのあとお腹が痛くなった。このあとメーテルリンクと話をした――幸福の腕と悲しみのそれはどっちが長い? 問題は人びとが何を手に入れようとしているか――ガチョウの焼肉かペリメニか、どちらか一つ。たとえばもし好きな花の香りを嗅ぐために春を待つなら、この幸福は喜劇(コメディー)に属し、ついにそれを嗅ぐときには、満足も満腹もなく、反対に花の香りに一瞬の幻の、あるいは分かりにくさからくる新たな興奮〔波〕に捉えられてしまう。ちぎれた花を手にその人は歩いていくが、また花の咲いているところに戻ってくる。そして気持をひとつに集中し、またもや花に身を屈めるのは、不思議な光芒を放って一瞬のうちに消えたものの謎を本気で解き明かすためだが、それはすでに無い! ちぎれた花びらの残り香は純然たる草の匂いである。新たな春、新たな期待、そして再びまた。期待は一瞬のうちに消えてなくなる。歓びと悲しみ。そこにあるのは天上の歓びに似たものだが、ガチョウの焼肉にはおのれの地上の歓びが、でもそれすら一瞬のこと……
幸せと幸せが、悲しみと悲しみが――そこに生ずる混乱取り違え。われわれはしばしば悲しみであるものを幸福と呼び、反対に悲しみを幸福と呼んだりする。実現し難さ(これは運動の謂いではないか?)は、悲しみにも歓びにも同等のものだが、ただ悲しみにあるのは第1種(肉体的というような)の実現し難さで、第2のそれは歓び(精神的な)にある。悲しみは運動に対する阻害(実現し難さ、かなわぬもの)から生じる。悲哀とは停止された運動……
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