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プリーシヴィンの日記 太田正一
2013 . 02 . 10 up
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1月9日
きのうイワン・アファナーシエヴィチが来た。彼の未来のナロード論はこうだ――外国人がわがナロードを雑役夫にしてしまうか、ナロードが自ら進んでまた元に戻る〔元の木阿弥〕かのどちらかである。
村(セロー)に15万ルーブリの償金が課せられた。
夜明け。霜が降りていちめん真っ白。白樺の林の上に星がひとつ。ものみな眠りこけている。わたしは独りだ。この幸せ、この唯一わたしの、幸福そのもの。誰ともこれは分かち合えない。二人で孤独の幸せを知ることはない、心はむしろ塞いでしまうだろう。それを今〔冬〕、秋のことのように思い出す。いや秋ではない、そうだ、それはあたかも春の黄金の水〔無上の幸福〕にどっぷりと浸かったようないい思い出だ。
彼女は美しくないのかも……淫らな、ただの病気の女かもしれない。しかしそれは自分でもある。そしてその外面的なものはどれも、自分のゴミ、自分の灰、自分の寝室のごとく見なされる。
そ自分であったり彼女自身であったりしたものが消えてしまうと、ゴミも灰も寝室も突然、他人のものに変貌し、初めはただイライラ、そのあと存在(ブィチエー)の簡素化と耐え難さをしたたか注ぎ込まれる。彼ら〔コノプリャーンツェフ夫妻〕は話している――あっちの部屋の厭な息づかい、こっちの部屋のベッドのことを。
〈魂と魂の交わり〉――これは正確な表現。〈ひとつに合体〉――これも正確な表現だ。
彼女の力は本人がそう思い込んでいる権力というものではなく、魂と、魂の――いかなるときもすべてを捧げようとする魂の、秘かな覚悟の純一さ〔全一性〕にあるのだ。彼女のエゴイズム――それは心許ない〔曖昧な〕務めの活動舞台(ニーワ)での個としての現在の徴(しるし)。彼女は長いあいだ〔妻として母として〕自分の務めを果たしてきたが、今ひそかにその務め自体に疑いを抱いている。その疑いには、秘密の、生きた、わたしの彼女が、務めの履行には、冷ややかな、まったく別の女性が存在する。
思い出がかくも甘美なのは、現在に未来を味わう心地よさへの期待にすぎない。そこにはたとえば、2月の朝の氷片に春を見る面白さがある。だが、すでに経験済みの二度と戻らぬものへの追憶と未来(それへの烈しいヒステリックな信仰を伴う未来)に対する知的で頭脳的な装飾は、自分とは無縁である。わたしが愛するのは、背後に遠ざかっていったものと前方に期待されるものとがひとつに繋がる〈今〉という一瞬だ。わたしが愛するのはそれを、不合理な怪物じみた巨大で雑多な寄せ集めの中のほとんど取るに足りないちっぽけな穀粒=胚子を――〔頭ではなく〕感情(チューストヴォ)でもって探し出すことである。密林に分け入った狩猟家のように、わたしは言葉を惜しまず時間を無視して、その歓びの鳥を探している。それで自分の魂はとことわに生きいきと子どものままなのだ。自分の仕事は独特のもので、誰の邪魔にもならない――ちょうど子どもじみた想像上のアメリカが現実の合衆国の邪魔にならないのと同じように。そういうわけで、最も敵意に満ちた連中にとっ捕まったときにはさすがに腹を立てるが、運よく逃げ出すことができたら、それまでの侮辱などまるで忘れて、ゴリラの手に落ちてすんでのことに喰われそうになったそのときの自分の情けない状態を思い出して、思わず笑ってしまうにちがいない。
われわれの星とベツレヘムの星*。自分は、社会主義者、バプテスト派、福音派たちをその枝箒や住まいの清潔さやベツレヘムの星ゆえに、とても尊敬している。自分はブルジュイではないから、彼らが豚小屋のある方へ行くのは明け方ぐらいのもので、それもただ〈用を足しに〉行くわけだが、でもそこで奇跡中の奇跡!が起こるのだ。そこは豚の糞だらけの場所、しかもいちめんの霜で、まわりは霜の重さで傾いた白樺の木々ばかり。なのに、そんなものに囲まれた小屋の上に、わたしは奇跡中の奇跡を見るのだ! ベツレヘムのそれではなく本物のわれわれの朝の星を見るのである! 数秒後、それは昇る太陽の光の中に消えてしまう。そして真面目な人びとがブルジュイ女の豚小屋を掃除ししにやって来る――ベツレヘムの星を心に抱いて。わたしは彼らをとても尊敬しているが、その場を離れる。こちらがあまりにありきたりな星なので、彼らから身を隠そうとする――学校ののチャイムが鳴ったので、〔それまで聴いていた〕お婆さんのおとぎ話を最後まで聴かずにペチカを降りるみたいに。
1月10日
舞台装置。監督。『観客のみなさん、カンヴァスには冬の日のようなものが描きなぐられていますが、それよりひとつ頭の中で想像してみてください。ほら、だんだん冬の村に夜明けがやってきますよ……』
村の広場。霜が降りている。繁茂する木々、太陽。霜で飾られた木々の間に、白い顎鬚の老人そっくりの木がぽつんと一本。坂の上の雪に点々とついた子どもの長靴の跡。っそこが捲き毛のように波を打っている。対岸の土手が高いので、そこが平らな白い一本線になって、空を二つに切り裂いている。橇に乗った男の子が白い顎鬚のお爺さんそっくりの木を指さしながら――『見て、ほら、あそこにマロース爺さんがいる!』もうひとりの子も叫んだ――『ほら、こっちにも!』
霜の降りるさま。霜の降りる前夜。ゆっくりと移動する霧。霧の中に小さな藪。まるで黒い馬がだんだん白くなっていくようだ。霜が降りて、翌朝は〈王国の一日〉、その威風堂々……
悪餓鬼どもが図書館と小学校を襲撃した。教化啓蒙へのスチヒーヤ的挑戦。
イワン・アファナーシエヴィチが言う――『いつでもす動乱(スムータ)の因(もと)はインテリゲンツィヤだ、その最悪の思想は強制なし処刑なしに人間を管理支配できると考えていることである』
「でも、キリストは〈汝殺すなかれ〉と言ってるぞ」
「たしかにキリストはそう言ってるが、強盗どもの処刑までは禁じてないさ」
悪いのはすべてインテリゲント――ミリュコーフ然り、ケーレンスキイ然り。自らの罪で奴らは〈十月〉に破滅した。彼らのあとに樹立したのは、いまだツァーリ体制下にある暗愚なロシア民衆(ナロード)の権力だ。新しいことは何も起こらなかった」
コミュニストのアンナ・イワーノヴナは、疲れきって腹ペコのインテリゲンツィヤを公然と辱しめる――『一片のパンのために今やインテリゲンツィヤはナロードと一緒に働きたがっている!』と。
この権力は欺瞞の上に、偽りの約束の上に成り立った。彼らは欺瞞を通してナロードに近寄った……
ある者は約束の欺瞞を通して、ある者はパンを求めてナロードに近づいた――犯罪者と乞食。さあこれからは犯罪者が乞食を嘲笑うのだ――『なんというざまだ、哀れなもんだな!』。教師たちの大会がそんなことを言われている。
基地の火線〔最前線〕にいるボリシェヴィキ部隊は、犯罪者と〈聖蓄(牛)〉まがいの聖なる改宗者(プロゼリット)で溢れ返っている。
パン。いのちのかけらは今、冬のそら恐ろしい雪嵐(ブラーン)の下に埋まっている――スキタイの地に投げ捨てられたまま*。
*雪に埋まった古代スキタイのイメージは、革命後まもなく中篇『村の杯――二〇世紀の19年』(1922)に十字架として現われる。「古代スキタイの主たる雪嵐(ブラーンは荒れ狂った……しかし、上空は明るく日が照っていた。太陽のまわりにマロースの幾本もの柱が十字架のように整然と立ち並んだ。まるで太陽そのものが磔になったかようだった」
吹きは収まった。白い光の甲冑に身を包んだブラーン王は、霜と化した白樺の清純な乙女たちの傍らに軍(いくさ)を集めた……スキタイの地に遺棄された〔正体不明の」いのちのかけらたちは無理やり土の下雪の下に押し込められてしまう。仕方がない。なんとかそこで冬麦の根っこともども必要不可欠な熱と養分を求めなくてはならない。
あらゆる生きものを埋める石と土と灰の中で、自分も、生きている毛根との接触を求めている。冬の雪嵐による滅亡とすべての人間のためのいのちの復活を用意する地下の沈黙の中で、自分が、土の一部として投げ捨てられた、極細の、まだ生きている毛根との接触を求めている。
1月11日
ブラーン大嵐。全スキタイの主であるブラーン王は何世紀も前から他の民族を脅かしており、この冬も猛威を振るった。
町という町を埋め、列車を野原に立ち往生させ、貨車からは煙突だけが黒い杭のように突き出ているという有様だった。村という村は吹き溜まりの下にあった。わが村では毎朝、戸口や窓の近くに雪のトンネルを掘っている。昨夜、雪の山から下を覗いたら、吹き溜まりの底の方にうっすらと明かりが見えた。そのかすかな明かりの下で爺さんが樹皮靴(ラプチ)を編んでいた。なんとかそこまで降りていく。戸を叩いた。応答がある。蜂の巣箱の中のような物音がした。ペチカの上で寝ていた人間たちがみな体を動かしたのだろう。
「どなたですか? 何か御用ですか?」
「キビを少々手に入れたくて参りました」
「キビはありませんよ、きょうびは誰も当てにしてはいけません。頼れるのは自分だけです。どちらから参られましたか? どなたの身内で?」
わたしは名を名乗る。『ワシーリイ・エウドキーモフの孫、あのローラーミルを所有していたワシーリイ・エウドキーモフの身内の者です』すると――
「ああ、ワシーリイ・エウドキーモフさんのお孫さんで。製粉所の持ち主だった……そのエウドキーモフさんのお孫さんが、なんでまたキビなどを!? ああまったく、そういう時代になったんだ!」
なにやらそのとき、家の中のほかの者たちも新しい時代のことで重苦しい溜息をついた――そんな気がした。
こちらも自分の祖父がいつかこの一家のために何か善いこと(ドブロー)をしたらしいことを知った。ラプチを編んでいたのは百歳のお爺さんで、その人の結婚祝いにと現金17ルーブリと10プードの麦粉と2プードのキビをプレゼントしたのだそうだ。おかげで一家を挙げて歓待してくれた――何日でも泊まっていきなされと言われた。ところで、あの製粉所は今どうなっているのかとか、いろいろ訊かれた。
わたしはそんな昔の製粉所のことも今の所有者が誰かも知らない。
キビはなんとかしようと言ってくれた。自分も彼らと同様、雪嵐のため吹き溜まりの下で辛うじて地下の植物の養分を吸いながら生きているのである。
年寄りが毎日わたしに繰り返したこと――それは、緑の葉も花もなくし忍の一字である植物の根にひたすら祈って、地下の闇の中の養分を手探りで求めよと、いうことだった。
「今は誰も当てにするな」老人は繰り返し諭すのだった。「頼りになるのは自分だけじゃ。今は誰も自分のことしか考えとらんのだから!」
1)地下暮らしの十二戒――コムーナに対抗して。
2)兄弟同士が一緒に暮らせない――分け合おうとしても互いに自分がすべてを独り占めしようとする。
3)コムーナはトラクターを所有している。これからはトラクターだ、古臭い犂(ソハーは捨ちまえ。
4)戦争はやめたが――また戦争へ。
5)鉱山労働者〔に抗して〕――働けない者たちが支配統治している。
村に客人がやって来ると、彼らはいつも同じことを言う。こんなふうに――
「いいかね、今は他人を当てにしちゃいかん。誰も自分のことしか頭にないんだからな」
そして最新のニュースを語り始まる――
「一週間前,熱出して臥せっていたセルゲイ・フィリーポヴィチの女房のマリヤがどっかへ行っちまった」
「なんで呼び止めなかったんだい?」
「そんなことできねえさ、家族中が熱で臥せってたんだ、とめるもなんも……」
「行っちまったって? どこへ?」
「どこへ行ったか、わからん」
「捜しやいいのに。いちいち訊いて回らにゃ……」
「ほうぼう訊いて回ってるが、どこにもいねえんだ。でも、なんとかしねえと。今どこを捜してる? 声も聞こえてこんのか?」
「ほかの奴らはどうなんだ?」
「ほかの奴らはまだ熱に浮かされてて起き上がれねえ。かかあがいねえとそりゃ大変だわな」
「今は他人を当てにしちゃいかん。そういう時代なんだ。頼れるのは結局、自分だけだってことさ」
話題が新年と小学校の新年祝賀が及ぶと――
「話は尽きんようだが、わしら、こんな時代にいったいどんな新年を迎えるつもりだい?」
威風堂々〈王国一日〉。いちめんの霜。朝、シャベルで雪掻きをしトンネルを掘った。吹き溜まりをよじ登るが、現在位置さえわからなくなる。小さな家の窓明かり……まったくの静寂。目を凝らす。誰かが亡くなったようだ。女の遺体が横たわっている。クチヤー*。遺体のまわりに人が集まっている。
「あれは誰かね?」
「こないだ外に飛び出してずっと行方不明だった女だよ、熱病の……猟をしてた人が見つけたんだ、雪に埋まってたのをね」
*法事粥のこと。蜜・干し葡萄を入れた通夜・葬式用の米〔麦〕飯。
嬉しくてニキータが身を震わせている――隣の女が償金を課せられたので。
「アンチキリストの魂が齧り尽くされますように!」
根のいのちの基本法則。根っこたちの囁き、言葉、その浅薄きわまる意識。他人を当てにするなかれ、か! 自分はほのめかしや会話のやりとりから彼らの秘密をすべて知った。この家族だけの秘密を知った。土中に酒樽が埋められている。煙突の中に豚の脂身(サーロ)が隠されているが、なかでも最大の秘密は、壜の中にお金が少し入っていて、これはまだ誰にも見つかっていないこと。
〈激変(ペレヴォロート)(春)への期待。春の到来による人間の暮らしの全面的変化、自然の激変(春)の予知。植物の根の言葉、その目に見える行動は、その沈黙とはまた別のもの。いつか開花(春に)するだろう十字架(十字架にも花が咲く)。その沈黙を暴くことができるのは、個々の人間との心のこもった対話だけである。私心なき誠実の人に出会うなら、彼らだってまったくの別人であるだろう……
いかにも百姓の無駄話。こんなのが朝から晩まで延々と……
「おれたちのせいじゃねぇと、そう思ってんだな? いや、そうじゃねえぞ、今はこんなだが、いずれ責任は取らされるんだ!」
「おい、やめてくれ! まったくなんてこったい!」
「『壁へ寄れ(ク・スチェンケ)〔銃殺刑〕!』はまだ罰のうちにゃ入ってねえとおれは思ってる」
「罰だと? 罰ってナンの罰だよ? まずいクワスを作るからか?」
「そうだよ。まずいクワスは作っちゃまずい。いいか見てろ、コミュニストの奴らはすぐにおまえらをみんな身内(クム)にしちまうぞ! おれもチモフェイ奴もチモフェイ、どっちのチモフェイが勝つか、見てようじゃねえか」
ドミートリイ・セルゲーエヴィチのとこに一冊の秘密のノートが保管されている。自由について何か書かれているらしい。ヨードフォルムが染み込んでいる。野戦病院で一緒だった教師が書き写したもので、捕虜生活中ずっと3年も読まれ続けたとか……
「噂で聞いたよ。ああちょっと待ってくれ、エフロシーニヤ〔妻とは別人?〕、おれたちにもジャガイモを焼いてくねえか」
「おれも聞いたよ、グトコーフに3万ルーブリだってよ」
「そいつはいいや、いいこった!」
「マトヴェーエフにも1万2000ルーブリだ!」
「いいぞ!」
「エウドキーム・フェオフィラートヴィチに1万ルーブリ」
「おおっ!」
「びっくらこいてねえで、行って1万ルーブリ取ってこい! アニーキンにも1万ルーブリ、あいつの親父にも!」
「アニーキンに誰がそんな金を貸してくれるかよ」
「息子にも5000ルーブリ」
「息子にも?」
「キール・コーノフにも5000だと。どこ捜したってそんな大金出てくるわけがねえ。あいつ言ってたぞ――『くそっ、こうなったら冷てえとこ〔獄〕で死んでやる!』って」
「アルチョームに1万、アルチョームの息子に5000、もう一人の息子にも5000。アルチョームが言ってたよ――『そんなこた赤毛野郎(ルィジイ)*に押し付けてやりゃいいんだ。奴がなんとかしてくれるだろ』って」
*赤毛について『裸の春』に面白い記述――「『ああほれ、いいあんばいに赤毛のお出ましだ!』こちらはもう一度ならず出くわしたが、それこそが、わがロシアの民衆に特有の言い回しなのだった。つまり、相手は赤毛でも何でもないのに、〈赤毛野郎に押し付けてやれ、奴ならたいてい我慢するからな〉ぐらいの意味で、誰かをそう呼ぶのだ(「マザイの細枝」から)。ちなみに赤毛(ルィジイ)には「劣った人」「間抜け」の意あり。
「そりゃあ、ただの略奪じゃねえか!」
「でも、フョードルにはナンも課せられてねえ、あいつにゃナンも!」
「フョードルにはナンも課せられてねえってよ。ああ、あいつらは畜生だ。フョードルのとこにゃ槲の木が200本、どれも二抱えもある太い木だ。槲だけで1万ルーブリはする。なんでナンも課せられねんだ!」
「ナンもな! なぁにそのうちフョードルだってやられるさ。みんな乞食になってな、東からも西からも乞食の群れがさ迷いだすんだ!」
「福音書の言葉はどこに行っちまったい? 自尊心、自惚れ、そればっかしじゃねえか」
「そりゃもちろん、自尊心のかたまりだ。でも、わしらは主にお願いするつもりだよ――どうか時間を縮めてくれますようにってな」
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