2013 . 02 . 03 up
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*〈十字架と花〉は革命後の日記にたびたび記される対立概念。必要性と自由、沈黙と言葉、冬と春、地と天、カオス(スチヒーヤ)とコスモス(個、芸術家)、ナロードとインテリゲンツィヤなど。十字架と花、すなわち苦と再生のシンボルは生のアンビヴァレンスを示す。十字架はナロードの地下に消えた生命の根――〈雪に埋もれたスキタイ人の故地(空間)〉を象徴し、花は漂泊者=インテリゲントの空間、芸術家の空間を象徴している。また同時に〈十字架と花〉は不可分の相互関係にある。十字架は大地の根の力が花を追い出すまで存在する。
イワン・アファナーシエフがこんなことを言う――
「強盗を裁判官にしてみちゃどうか? 意外とまともな裁きをするかも。立派な人よりずっとまともな立派な裁判官になるかもよ」
〔夫は〕会議に出なければいけないが、〔妻は〕それより薪集めと雪掻きをしてくれと言う。『退屈以外の何ものでもない会議なんて、氷点下の薪集めの当番やそのあとの一本の薪をめぐる戦いに比べたら、ほとんど夢のひとときだわね。こんな生活は……ああ、まったくもう、いったいどんな夢を見たら、こんなあからさまなむき出しの試練〔現実の必要性〕に耐えられるのかしら?』
今の暮らしをこれを〈試練〉と捉えて〔そう見なして〕生きるなら、会議に出たい気持を抱えて薪集めに行く必要性、つまり夢と現実は思いのほか容易にひとつになるのだろうが……
あのときミハイル〔自身のこと〕が彼女とばったり路上で出会わなかったら、互いの間にどんな問題も生じなかったはず。生理学(フィジオロジー)の問題も。だがそれはこんな消耗の只中でどんなフィジオロジーなのであるか? 脂肪分の多い羊肉あるいはガチョウを手に入れ、久しぶりに羊肉を食べたあとで、深夜彼がセックスを迫れば、彼女は冷ややかに(ごく自然に夫婦らしく〕夫に対する性の務めを果して寝入ることだろう。そして翌朝には、おのが生活の本質の何たるかは一切これ弁えずにただ活発かつ精力的にその日一日を送ることだろう。もし夕方、立ち寄った親しい友〔女〕が『どうなの?』と訊けば、きっと彼女は『大丈夫、ちゃんと自分の務めを果たしてるわ』と答えるにちがいない。
結婚指輪はどこかにいってしまった、おばさまたちとは喧嘩をし、旧家の床や羽目板の割れ目には南京虫が棲んでいて、どのドアも歌をうたわず、ただキーキー鳴ったり嗄れ声を出したり咳をしたりしている*。まるでどのドアもすべての父祖たちの病を患っているかのよう。彼らの罪をみな償えと訴えているかどうかは、神のみぞ知るである〔誰にもわからない〕。
*ニコライ・ゴーゴリの中編『昔かたぎの地主たち』(1834)。プリーシヴィンの常用例――家父長制の調和に満ちた暮らしの典型として。そのアンチテーゼはそうした暮らしに隠された〈罪の意識〉と〈病〉のどす黒い影。
彼女はオーリャ・ヴォローヂナ*の人生について話してくれた。おかげで言葉の本来の意味で(つまり文字どおり)われわれ全員が亡びつつあることが完全に明らかになった……男たちはあまりにも早く老い、女たちはしわくちゃになり干からびてしまった。われわれは亡びつつある、われわれは沈みつつある!
*オリガ・ミハーロヴナはプリーシヴィンの知人、エレーツの人。
嵐のあと――雪解け陽気、それからマロースが始まって、雪面を氷が覆った。
馬で原っぱへ向かう。路上の馬糞をシャコたちが啄ばんでいる。かまわず突っ込んでいく。シャコの群れは一斉に飛びのくが、前方へ移動するだけだ。また追いつく。飛びのく。その繰り返し。シャコたちには落ち着く場所がない。雪面はカチンカチンで、緑などどこにもない。目下、彼らの生を支える唯一の場所は路上であり路上の馬糞である。
今ではわれわれの暮らしもシャコのそれと大差ない。どこかで何かを手に入れなくては……
誰よりも有利なのはユダヤ人だろう。拠って立つべき土地を持たぬこの民族の根は、とっくから人工栄養〔の摂取〕に順応している……
〈務め〉を果す女に寄せて。町外れの牢屋の先の雪原にお嬢さんが立っている――4分の1リトル壜を手にして。
『ああわが愛しき人よ、きみはどうしてそんなことになったの?』―『そんなことってどんなこと?』―『酷い恰好だ、みっともない恰好だよ』―『あたし、一瞬思ったの、あなただってアレクサンドル・ミハーイロヴィチのようだわ。みんなあんなエゴイストの空想家なのね、あなたたちは性格的に言って生活の探求者ではないのね』―『しかしきみはどうなんだ? 今のきみは僕も気に入らない。僕もきみの言葉は前にどっかで聞いたように思う。なんだか旧家の古い蝶番(ちょうつがい)の軋む音みたいだよ。きみの言葉は僕の耳に馴染んでいる。エフロシーニヤ・パーヴロヴナを思い出してしまった。彼女がそれとまったく同じことを僕に言ったんだ。彼女には僕の心がわからない、僕の夢を自分にとって必要なものとして心に留めることができないのだ。僕はそう思うことで自分を守ってきた。僕と彼女はそこのところで食い違っていた。そして今またそれの繰り返しだ。ああ愛しい人よ、そこで大いに僕は……うろたえた』
わたしたちはリョーヴァが財布を盗んだ話をしている。『そんなことは何でもない』とわたし。『あなたたちは男の子を知らない。男の子というものはたいてい盗みをやる、自分も小さいころバザールで林檎や白パンをちょろまかしたものだが、今はどうだろう、盗みの専門家だろうか?』。彼女は思わず本音を吐く――『でも、あなたは自分の友人の女房を盗んだでしょう!』―『ああ何を言い出すかと思ったら。あれは自分の意に反したことです。結果としてそうなってしまったのです』―『それはわかります』―『そんなのは陳腐な言葉ですよ。だって村では花嫁を略奪してるじゃないか。しかしああベストゥージェフ出の女を盗むなんて……ああ、あなたは下らないことを言ってる。いや、もしかしたら、ベストゥージェフ出の女もハーレムの女も大して変わらないのかも』
アンナ・カレーニナの生理学(フィジオロジー)を考えてみると面白い。もし彼女が肉体的に一度も満足したことがないとしたら――そういうことはよくあるわけで、子どもは生まれるが、女のほうはどんな動物でも体験することを一度も味わわなかった。*レールモントフの詩「わたしはひとり 旅に出る。霧の向こうに 石ころ道がひかっている……」か?
キリストは指導者。集会である男が言った――『わたしはナロードが何によって騒ぎだすのか〔台頭するのか〕、ナロードがどんな才能を顕すのか、よくわからない。キリストなしのナロードは騒ぎださない、キリストなしということは指導者なしということだ』
〈ボリシェヴィズム〉、〈コムーナ〉――こういう革命の言葉に〔必要以上の〕意味を持たせるのはもうそろそろやめていい。どこにいようがどう名乗ろうが同じこと。人間として留まることが重要なのだ。そしてそのあと、そこから自然に、本当の生きたスローガンが生まれてくるのだ。それだけだ。
われわれの方にそっと音を立てずに新たな敵が近づいてきた。彼〔アレクサンドル・ミハーイロヴィチ〕はおまえ〔プリーシヴィン〕を苛立たせる。理由もなくおまえをカッカさせる。おまえは彼の目の前で、醜く、狡く、公正でなくなる。
敵はわれわれが思っている以上に恐ろしい存在だ。なぜならそこには同情〔同苦〕があったから。でも、ここには何もない。苛立ちしかない。
きのう若い男がやって来て、こんなことを言った――村から税を徴収するよう党から委託されたが、どうしたらいいかわからない。自分は党員なので実行しなければならない。でも村の人たちが可哀そうだ。どうしたらいいのだろう、と。
わたしはまず、権力について話した――だいたいロシア人はそれを避けてきたのだが、ついにそれ〔権力〕にかかずらって、結果として身を亡ぼしたのである、と。革命の時代の到来とともにロシア人は、権力の問題をおぞましい問題と理解した。〔だが〕われわれにはもともと人間を支配〔統治〕する使命などないのである云々。
青年はコムーナについて語る。やたらと広い概念のようで、これだと駱駝もらくらく通れる首輪である。いずれコミュニストたちは地下の布教師か農業生産協同組合の活動家のどちらかに変身するに相違ない。
*初期の日記(1905-1913)にすでに同様の記述がいくつも見つかる。マルクシズムの人間・組織機構と宗教セクトのそれに関して、たびたびプリーシヴィンは、レフコブィトフの語るセクトの歴史とマルクシズムの歴史(隠れたミスティックな本質)の非常な類似を指摘している。
焦眉の問題。風が猟犬たちの吠える声を運んでくる。野ウサギがひょいと駆けだす。そしてまた蹲る。が、またぴょんぴょん。何か食べ物を探しているのだ。自分も痛めた足を引きずって家を出る――脱穀したキビを探さなくては。都会ふうの服を着て、雪の吹き溜まりを行く……キビを10フント。幸先がいい。黄色いキビ、粒ぞろい――嬉しい。生肉5フントと塩を少々。小さな器に入れて塩漬けにするやり方を習った。胸騒ぎがして深夜に目が覚める――鼠どもにやられては堪らないので、戸棚に移す。そこでふと疑問が生じ、塩抜きを試みる。牛がいたらどんなにいいだろう。飼うべきはやはり乳牛だ! それが夢に出てきた。ドロップ2フントをウールの長靴下と交換。靴底を持ってきたら麦粉半プードやると言われた。ガチョウを100ルーブリで買うが、脂肪はほとんど腸(はらわた)にあるので、そこは主人が自分で取る。それでガチョウの腸のことでしばらく言い合った。茶葉ひとつまみで祝日までに水漬け林檎を入手。砂糖4分の1フントで重さ3フントのピローグ。町では百姓に約束、薪一台分(一語判読不能)……青いウールのジャケット。
捕虜になっていた小店主が戻って、自分の屋台を捜すが見つからない。ブルジュイみたいに居場所がない。土地もパンもない。ただ許婚がいた。これがそんな境遇をものともしない娘。男は娘と所帯を持ちたいと思う。どっかでワーレンキ〔フェルトの長靴〕を手に入れなくては。30露里先まで出かけ、あるところで麻実油(あさみゆ)〔塗料用または食用〕を手に入れ、それをワーレンキと交換した。娘の親から部屋の一部を貸してもらえることになった。まず必要なのは、小麦、キビ、ジャガイモ、肉、脂身(内臓の脂身がいい)それと毛皮の長外套(トゥループ)だ。
すべてがこんな調子。地下の生活、経済的必要性、女の、ユダヤ人の――それから漂泊者(何も要らない、ただ漂泊あるのみ)。捕縛された放浪者……根(共同)のエゴイズムと個(霊的)エゴイズム。漂泊者=インテリゲントは寄食者。漂泊者に根の力(個人とスチヒーヤ〔盲目的自然力〕)に対抗する力を発見。根の力が花を追い出すその一瞬(とき)まで十字架を負う漂泊者の力。
ユダヤ人たちが強いのは必要性を知っているから(われわれは今になってやっと知った)。ユダヤ民族の生活――それは人類の冬。そこにあるのは断崖――深淵だ。個的なものはそこでは生存不可能……
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