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プリーシヴィンの日記 太田正一
2013 . 01 . 27 up
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12月23日
われわれが足を踏み入れているのは、すでに――これまでと同様、友〔ソーニャ〕の個性(リーチノスチ)が生活の鎖に閉ざされて少しも見えない(少しも感じられない)ような一般生活(風俗習慣、ブィト)の領域である。
徐々にわれわれは〈おのれ〉を離れ〈おのれ〉から去っていくのだ、もしくは(よく言われるように)互いに馴れ合い始めるのだ。そもそもの最初のもの(あの初々しさ)は遥かな山や谷の向こうにあるだけで、それはもう甘美な思い出である。ステップに惚れ込んだ旅人はそこに住み着き、まわりに垣をめぐらすと、キャベツを植え、水を撒いた。そのためステップが一望できなくなってしまった。全体性の限定と習慣(使用)のそうした固定化はブィトの本質を成し、それ〔ブィト〕を透して(夢見もこれに同じ)霊(ドゥーフ)の最初の出会いが見えてくる。そのときすべてが無意識のうちに為される。それが運(スヂバー)だ……われわれは盲人のように、習慣からわがための神を創りつつ道を歩む。それは、その神がわれわれに悪臭紛々たる汚水を浴びせかけ、それに気づいてわれわれ自身がおのが運命を呪い反抗を開始するまで、続く。と、行く手に三本の分かれ道が見えてくる! 一つ目は、たえず自分と向き合いつねに自分によく似た霊たちと交わりながら歩む道。二つ目は、繁殖を繰り返しては分裂し、細分化し、最後に反抗して、被造物をことごとく破壊し尽したのちに、原初へ回帰する道。三つ目の道は、自らの従順志向〔キリスト教的つつしみ〕にとことん耐えて、細分化を歯牙にもかけぬ神に向かって十字架を突きつけながら、おのが生を地上の花と果てる道。
満を持した暴動者(ブンターリ)は今、等しくすべての者のためにおのれの目に見える〔うわべだけの〕法(ザコン)を制定しようとしている。地上の花は踏みにじられ、天上の花は血だらけだ。
われわれロシア人は、剝きだしのドゥーフを知らずに生きてきた。現身(うつしみ)を生きてきた。そして天上の花も古代ギリシアか西洋のどこかに生きているものと信じていた。われわれは〔キリスト教的〕従順の三つ目の分かれ道に立って待っていた――すぐにも、わが十字架がひとりでに粉々になり、わが大地が天の美そのものを具現する地上の花に蔽われるのを。だが、苦悩がまさに終わろうとする最後の最後に、われわれは踵を返して第三の道を、暴動者の道を歩きだしたのだ。こうしてわれわれは原初へ回帰しようとしている。若いわれわれには力がある。若者は新たな明るいドゥーフでもって新しい世界を創出し、老いたる者は暴動者として死に、子々孫々は遍歴者として世界中に散らばるだろう。
友よ、わたしが心に秘めていた最良のものは、別れてはじめて明らかになった。そしてそれが日増しに大きくなってくる。わたしは次第にそこにより多く〈自分〉を見出すのだが、それと同時に、混乱が動揺が、何か後悔に似たものが心中深く入り込んできた。それが何なのか、よくわからない。何か大事なものを見失った気がしている……ああ、でも、ようやく今、我に返った……逢いたい、もうこれからは自分を見失わないためにきみに逢いたい! 本当に、心から。もしそれが実現したら、わが第三者〔アレクサンドル・ミハーイロヴィチ〕のために動揺したり、〔たとえ彼に〕すべてを打ち明けても自分を泥棒みたいに思うこともないだろう。
わが身を天国=社会に奉げたマルーシャ〔?〕は、われわれのロマンを優しく見守ってくれると〔自分は〕思っている。もしそうなら、彼女はわが想像力が描いた稀有な存在であるかもしれない。だが本当のところは、彼女はただの平凡な老嬢(オールドミス)にすぎないのだ。『よその家庭に勝手に入り込んだ〔男〕』――これが自分を評した彼女の言葉! 『入り込んだ』は大概が「計算づく」という意味だが、しかしこのわたしにどんな計算があったというのだろう?
あの冷たく突き放す力がなぜまた生じたのかわからない。これは謎。彼女はこう考えたのだ――『あれは自分の家族を捨てて自分の友人の家庭を破壊した男ですよ』と。
パヴリーハのとこにセミョーンがやって来た。
「サモワールが鳴ってるけど、どうしたんだい、パヴリーハ? 破滅が目の前に迫っているってのに!」
「破滅だって? 生皮まで剥がれてさ、これ以上何があるというんだい?」
「こんなもんじゃ済まねえぞ。家から追い出されて牢にぶち込まれるかもよ。そうなったら、物乞いして回るしきゃねえぞ」
イワン・セルゲーエヴィチが自分の父親のセルゲイ・アファナーシエヴィチに3500ルーブリの償金を課した。課された父親は『おまえは未来永劫、呪われよ!』と言ったというが、その息子はとても愛すべき一人息子だったのだ。
農民の労働はまるごと貯金されていて、工場労働者のそれとは違う。これは所有権(その心臓部)への一撃だ。敵はそこに潜んでいる。敵の大軍は作戦行動を開始している!
12月24日
アレクサンドル・ミハーイロヴィチから目を離さずにいるうちに、だんだん彼のことが好きに(自分自身より)なっていくのがわかった。自分は彼女のことで彼に嫉妬しているのではない。問題は前代未聞の存在〔である〕自分自身なのだ。わが身と引き比べて彼を羨ましいと思う。彼は多忙だ。社会的かつ夢想的生活を生きていて、それを妻と分け合ってはいない。彼女は独りぼっちだ。夫のこのアキレスの腱に向けて妻はありったけの矢を放っている。
ついに彼は、自分が本物の事業に邁進しているという意識を抱くに至る。彼はそれに没頭したが、妻は夫の内にヒーローを見出す望みを失い、皮肉な態度で接するようになった。毎晩のように集会に出かけて、自分はいつも独り-―そう言って夫を責めるようになったのだ。
ウスペーンスキイ〔の作品〕には芸術的創造への意欲を殺す何かがある。かつての試みをすべて無にするような……
12月25日――冬至〔太陽暦では12月22日ごろ〕。
ケロシン〔灯油〕の問題は解決した。あと三月もすれば薪の問題も解決だが、パンについては不明〔どうなるやら〕。
ロシアの一大事業についてはすべて予見可能。何もかも揃っているが、ただ疲労(行動への縛りとぎこちなさ)が邪魔しているように思われる。
時(チャンス)を逸せず、自分〔の為すべきこと〕に取りかからねば……
過去を読み直すほうがはるかに有益だ――どれも似たり寄ったりの〔になってしまった〕現在を観察するよりは。ウスペーンスキイはロシアの不幸の予見者である。
きのうコミュニストのアレクサンドラ・イワーノヴナ(女教師)がやって来て、こんなことを言った――
「もう個(リーチノスチ)*というものを忘れなくてはいけませんわ」
「リーチノスチを――」とわたしは答えた。「忘れてはいけない。リーチノスチにはおたくたちのコミュニズムも含まれてるはずだ。わたしはね、自分の個性的人格(インヂヴィドゥアーリノスチ)*ではリーチノスチの下僕以上のものではないんだ。どうしてリーチノスチを忘れなくてはいけないのだろう? おたくたちはリーチノスチを個人的なもの、私的なもの(リーチノエ)と混同しているんだよ」
彼女はわたしの言う意味が理解できず、『もう降参しなさい』とそればかり。わたしは『もうとっくに降参してんだがね』と答えるしかない。
*個、個人、個性、リーチノスチ(личность)。*個性的人格(индивидуальноть=individuality)。
わたしはこれまでずっと、生活に希望のない灰色と文化の仕事人の愚鈍を感じてきた。滅亡に値し亡びたいものはみな亡びればいい。私的なもの(チャースノエ)は亡ぶ。自分はそれから離れる、そして生を讃美する。富も名誉も権力も要らない。自由でさえあれば、わたしには極度の貧窮をも受け容れる覚悟がある。自由を自分はおのれの可能性と理解している。
それに対して他の人びとも自分もそう生きたいと思っていると言うだろう。〔しかし〕大多数はお金にしがみついてるし、第二の大衆(マス)は権力に、第三のマスは権力におのれを委ねようと必死になっている。おのれに生き、困窮欠乏をみな我慢して生を歓ぶ人はほんのわずか。そうするためには余計〔なもの〕を捨てること、苦しみ悩みぬくこと、そして最後に自由になる必要がある。
自分の課題はそれを他の人びとに自覚〔目覚め〕させること。課題だろうか? いや、願望にすぎない。
エジプトについて書かれた本を貸してやった男の子*に訊く――どうだった、面白かったかい?
「べつに」
「わからなかったの?」
「すべて理解できました。エジプト人は水もないひどい暮らしをしてた。だからナイル川の水を神と崇めてたんですね」
「じゃあ、われわれ〔ロシア人〕が不幸なのは何のせだろう?」
「土地です。ロシア人は土地を神のように崇めているから」
*同じ少年かわからないが、のちに書かれる『ロシアに自然誌』の冬の章にこれとよく似たやりとりが出てくる。村の女教師はこの日やって来たアレクサンドラ・イワーノヴナに間違いない。「近くの村の女教師が、男の子に『イズヴェスチヤ』紙を持たせてよこした。わたしはその子にこんな質問をした。『明日は何の祝日だろう?』―『ソヴェートの祝日です』―『クリスマスはキリスト教のお祭りだよ。どうしてそれがソヴェートなんだね?』―『それがどうかしました?……』―『〈それがどうかした?〉じゃない。きみらの村でも祝うじゃないか』―『祝いませんよ! あのひとたちは僕らのクリスマスなんてどうとも思ってないし、僕らはあの人たちのお祭り騒ぎなんかどうでもいいんだ』―『馬鹿なことを言っちゃいかん。それに〈あの人たち〉というのは誰のことなんだね?』。わたしはその子に地球の公転といよいよ明日に迫った冬至の話をしてやった。
イワン・アファナーシエヴィチの思想。
百姓の勝利。百姓はそれを自覚していない……しかし勝利は勝利だ。つまり従順なる勤労者に神は労働期間中ずっとパンを与えたということだ。
インテリゲントの罰。レーニンは大学生だったし、ストルィピンもそうだ。学生たちは互いに論争した。おれはツァーリになりたい、おれは……ケーレンスキイも同じだ。われわれは「ツァーリは誰でもいい」わけではないのだ。
インテリゲンツィヤは、本人にとっても無知な人間にとっても敵である。
寄食者とは、土を耕さず種を播かず風選もせずに誰よりもいい暮らしをしている人間のこと。
あたしはパヴリーハ、あたしはブルジュイーハ〔ブルジョア女〕、あたしは富農(クラーク)、あたしはまあ怠業者(サボタージニツァ)のようなもの。
無知なるロシア農民大衆の理解では、インテリゲントはまず、不明の祖国(ローヂナ)からやって来た人間、耕さず(肉体労働をせず)播かず風選せずに誰よりもいい暮らしをする人間。概してインテリゲントは土地(と工場)から〔出てくる〕生活の運命を担わない。〈「反対にクラークは土地の人間」この一行抹消〉
12月26日
「インテリゲンツィヤは哀れだね!」そう言ったのはイワン・アファナーシエヴィチ。「ひょっとしたら、何かの役には立ったのかな? そりゃもちろん、存在意義はあったさ!」そう底意地悪く言いつのった。
ナロードの心理とインテリゲントのそれの根本的差異は、ナロードがどうにもならない〔不自由な〕状況下で働いているときに、インテリゲントは自由な……
12月27日
インテリゲンツィヤはプロメテウスのように天から火(民衆にとっての自由)を盗ろうとした。そして今、そのために罰せられ、めちゃめちゃに叩かれ、ぼろぼろにされて、都市(まち)のあちこちで飢えと寒さに消え入りそうになっている。
パンを齧って村は繁殖を繰り返している。町には勝利したが、村には頭が乗っかってない〔能なしだ〕。
黙りこくった村の〔社会〕層は革命当初からずっと不活発である。村は巣籠りの雌鶏のように卵=イデアを抱きながら、雛(ひな)が孵るのを待っていた。もちろん雛とはガチョウでありカモであり……あるいはカッコウの子どもたち……でももう今はわかってしまったのである。孵ったのはカッコウの雛たち――イワン・アファナーシエヴィチ言うところのインテリゲンツィヤの罪科、つまり徒食者たちだった。コミュニストはそのカッコウが産み落とした子どもたち〔托卵階級〕。
途方もない空間を有するロシアを行く旅人は驚いている。人口過剰の大都市ばかりか、北部の森林地帯でも、シベリアのタイガの奥でも、荒涼たるステップでも、至るところで『土地を、土地を!』と叫ぶ声が聞こえてくるからだ。
驚いた旅人は――
「土地を土地をと叫んでるが、いったいどういうわけだい? 空気だって土地だって、いくらでもあるじゃないか!」
土地〔地元)の人間は言う――
「ここは不便なんだよ!」
政府は百姓たちに土地を行き渡らせようと必死に(まるで催眠術をかけられたみたいに)もがいている。火山活動はますます烈しくなってきているのに、アイデアひとつ思いつかない。移住もフートルもうまくいかないし、国会も駄目。臨時政府の約束には大いに不満で、『〔土地は〕取りたい者が取れ!』も結局、功を奏しない。今はこれまでにないほど土地が不足しているのだ。ついにコムーナは、土地と労働一般への全面的権利を、本来土地は誰のものでもないみんなのもの、働けば手にすることができる、と宣言するに至った。その思想の根底にロシア的正しさを感じはしたものの、土地所有者の心の底には何かすっきりしないものがあった。しかし彼は自分をそんな無力な人間であるとは思っていなかった……
これだけしつこく時間をかけてねだりせがみ取った土地とは、いったい何であるのか?ウスペーンスキイ*。土地は制度、機構そのものなのだ。『土地だ、土地だ!』――これは新しいものが取って代わらなかった旧いものへの慨嘆であり号泣である。コミュニストとは、『土地だ!』という叫びの意味を全的に理解して、土地と一緒にすべてのものを引き渡すことを約束した人間たち、〔の中でも〕特別ユニークな人間たちのこと。
*ここで言及されているのは、作家のグレープ・ウスペーンスキイの『村の日記』(1877-1880)、『農民とその労働』(1880)および『土地の力』(1882)。
12月28日
何日も続いた吹雪(ふき)のあとで、わたしは雪に埋もれた村を通り抜けようとしていた。村そのものが巨大な吹き溜まりだった。そこの下の方に明かりがともっていた。冷たい雪の中の快適と暖、まさに恩寵である! 自分は立ち寄ってみたくなった。凍った雪を踏みしだきながら窓に近づく。ケロシンランプの炎をぎりぎりまで抑えているので、家の中までは窺えない。こんなに暗くちゃ本も読めないだろう。それに人影もない。寒いからみんなペチカの上で寝ているのだ。ノックしてみる。応えがあった。蜜蜂の巣箱から出る、何かが擦れたような、唸るような音。ペチカから老婆が降りてきて、どなたかな、何の用かと問うている。
「〔脱穀した〕黍(キビ)のことでセルゲイ・フィリーポヴィチに用があって来ました」
「うちには黍はありませんがの! どなたかの?」
わたしは姓を名乗る。
「それじゃワシーリイ・エヴドキーモフさんのお孫さんかの? あの圧延工場を持っておられたワシーリイ・エヴドキーモフさんのお孫さんが……」
臥せっていたセルゲイ・フィリーポヴィチもどたどた降りてくる。
「エヴドキーモフさんのお孫さんで? そんなお方がなんでまたこんなとこへ? 黍ですかい?」
今はもう誰も当てにはできないのだ。自分自身に頼るしかない!
コムーナについて。畜生じみた頭(ラーズム)で考える――奴らにとったってこれじゃ良くなりようがないし、こっちは奴らの身内じゃないんだ、と。
吹き寄せられた雪の山はさながら嵐の北極海。どこもかしこも凍りつき、道は閉ざされ、貨車は野原に立ち往生。雪は今も屋根と同じ高さだ。村全体が雪に埋まっているから、坑道(あな)を通って家に近づくしかない。吹き溜まりの上から下を覗く。灯がちらちら。そんな乏しい明かりの下で、爺さんが樹皮靴(ラーポチ)を編んでいる、小さな男の子が本を読んでいるのが見える。
ちょっとやり合った!
「いずれにしても、いいかね、個(リーチノスチ)は自由であるべきなんだよ!」
「責任はすべてインテリゲンツィヤにある!」
「国家が分解を始めたら、もうおまえさん方はどっかへ消えちまったね」
イワン・アファナーシエヴィチは見えざるロシア*というわたしの考えに――
「それは遠い国だね。よくはわからんが、自分にはそれを透して自分の村が見える気がするんだ。でもね、そこではコミュニストに向かって自分だけのもの(リーチノエ)を持ち出す人間なんて、たぶん一人もいないと思う」
みながソヴェートとぐるになって、薪を売るために〔町で〕泥棒を働いている。
富農は貧農をけしかけて――コミュニストなんて略奪者の集団だ、あいつらに期待しても無駄だよ、と。その一方で彼ら〔富農〕は、われわれ〔インテリ〕がコミュニストを突つき出し貧農とも決着をつけてくれるものと思っている。
12月29日
大衆(マス)の深層〔本性〕は不満の塊で恐ろしいほど強奪的だ。ボリシェヴィキがある時期まで利用してきた最下層民(チェルニ)すら、今では富農になびいている始末(問題は薪だ。誰もが泥棒稼業に精を出し、コミュニストは異を唱えている)。
パーヴェルはコミュニスト。懲役15年を喰らったその男が――
「いや、武器は使わんほうがいい。コミュニストが200人死んだほうがまだいいんだよ、かわりにコムーナの思想は残るから」
コムーナの実行手段の多様化、すなわち〈浄化〉は、個人レヴェルの癒し難い苦痛と苦悩を受け容れるロシア式〔のやり方〕で突き進むにちがいない(ラスコーリニコフ*)。
*ラスコーリニコフは『罪と罰』(ドストエーフスキイ)の主人公、殺人を犯す元大学生。
だが、問題なのは、誰も本気でコミュニストたちに向かって声を上げられないこと。コミュニストたちが正しいのか、それともナロードにそもそも良心というものがないのか……
12月30日
『同志諸君! 道徳心を忘れてはならない、忘れてはなりません!』
蒸気プラウ……だが、わが古き犂(ソハー)は……ああ、どうしたそうなのか? 犂を捨てよう、でも新式のプラウが間に合わない(なんでおまえたちは古臭い犂を選ぶんだ? もう蒸気プラウの時代なんだぞ)。大衆(マス)。マスとは恐ろしきもの。何か言い出せば、いきなりマスの誰かの口から、キリストについての発言(ゴーロス)と文化が飛び出してくる。だからハーモニーに転換する(キリストからハーモニーへ調和へ)。
12月31日
文学はジーズニ〔生、生活、人生〕を映す鏡だ。
砕け散った鏡。
鏡を割った人間(そんなもの要らないと)……
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