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プリーシヴィンの日記        太田正一

2013 . 01 . 20 up
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1918年12月13日の「日記」の続き

 ラスプーチンがやったこと、その成功の因は、性交のさいのあの心理学的〔恍惚の〕モメントを拡張深化(ラズヴィーチエ)させたことにある。つまり破滅を避け難いもの〔運命〕と恐れていた者たちは、そのとき、完全ではないにせよ、ともかくそれ〔最悪のもの〕を回避できたのだ。

 パヴリーハは聖母に罵倒を浴びせたが、相手は言い返した――『わしに馬鹿なことを言わせろ、罵るのはそのあとにしてくれ!』
 背後から彼らのやりとりが聞こえてくる。聖母は、『ああ』だの『おお』言っているが、要するに、どうしようもなく卑しいごろつき(ブラヂャーガ)の聖母なのである。

 コムーナがなぜ成功したか、その理由(わけ)をめぐってのやりとり(会話)。
 「トルコと戦った、ドイツと戦った、イギリスと戦った。誰と戦っても勝利を収めたではないか、コムーナは、敵すなわち飢餓と闘う軍隊(と自分は理解している)だが、それではなぜそのコムーナがさらに飢えに苦しむようになったのか、更紗ばかりかいろんな多くのものが無いのはどうしたわけか?
 「泥棒がいるからさ」
 「そうだ。たしかに泥棒だらけである。だがいったい何をもってあいつらをわれわれより悪いと決めつけるのか? 泥棒を悪いと言ってるのは泥棒に入られた連中だけで、そうでない者には、ひょっとしたら、あんたやおれたちよりずっとましな人間かもしれんね。いや、そうじゃない。問題なのは泥棒じゃないんだ、泥棒を見ても黙っている奴ら、見て見ぬふりしている奴らにあるんだよ」
 「しかし、なんで黙っているんだろう? ついこないだ、わしら村で、掴まえた泥棒をみんなで犬畜生みたいに叩き殺したんだが」
 「きっとおまえさんの村はわたしの村と違って、教父(クム)だの仲人(スワート)があんまりいないんだ。うちの村にはそんなのがいっぱいいるから、敢えて誰も真実(プラウダ)を暴かないんだ」
 「村ではそうでも、ではなんで車内じゃあんなに泥棒がいるんだ? 女たちがキャラコを5アルシンも盗られたって〔これは泥棒ではなく徴発隊の仕業〕のに、誰も何も言わない? なんでだ? 自業自得だと思ってるのかな?」
 「ロシア人は無学だよ、何でもおっかながる。悪魔が出るかも、そう思うと真夜中、自分のうちの穀物小屋にさえ行けない。まともな人間なら、この世に悪魔なんかいるわけがないと思うだろうに。ああでも、うちの穀物小屋に限って出るかもな? いや、そんなことはない……悪魔はいない思ってたが、穀物小屋に近づくと、嫌な臭い、何かつんと鼻にくる。いや、いない、いない、悪魔なんかいるわけがないと自分に言い聞かせる。でももし、いきなり飛び出してきたら、どうしよう?」
 「戦場だったら棒で追い立てて戦わせるが、きょう日は強制的労働はいいことじゃないとされているから、戦争は起こらない、とまあ自分なんかは思ってる……そんで飢えでも棒でも戦争はできんのさ。でもな、そうなると誰も自分から進んで仕事をしには行かんよ」
 イワン・アファナーシエヴィチはコミュニズムについてこんなふうに考えている――『わたしは未来の生活をあらゆる才能(能力)の多様性であると理解しているんです。靴屋は靴屋になるし作家は作家になる。誰もがみなそれぞれ何かになるが、しかし靴屋が靴屋になりたくないとき、その男の人生はどういうものになるだろう? 人間にではなく、ただの靴屋になってしまうではありませんか! そうならないために、コムーナは、自分の個人的な仕事のほかに、ありとあらゆる屋外の生活も可能であるように努めているのです。ただひとつ疑問があります。それは、もしこの世ではめったにお目にかからない(コムーナでもどう扱っていいかわからないような)大変な才能の持ち主が現われたときどうするか(そういう人間はいかにおのれを発揮すべきか)という問題です』
 「コムーナは(自分の理解するところでは)〈壁〉だと思う――みんなが入るべき壁であり、チャンであって、そこではみんなが一緒、ある期間は外に出られない。みなが同じように理解し互いに邪魔をしなくなったら権力など必要なくなる。権力なしで生きるようになれば、個人と個人がモノゴトを一緒に、まったく同じく理解し、自由になる、つまり解放されるのです。今もし成功者がいるとすれば、それは泥棒の類でしょう。自分のために自由を盗んで自分は自由になるでしょうが、ほかの者は囚われの身になるのです」

前出。鞭身派の指導者レフコブィトフを。チャンはこの宗派のキーワード。

 エピーシカは言った――
 「それがどうしたい? キリスト教じゃ、最後の肌着を脱いで貧しい者に……」 
 「貧しい者にだって……この国のルバシカはどうして貧しい者たちのところには回っていかんのだろう?」

 パヴリーハ――生の歓び。パヴリーハは女富農(クラチーハ)。
 パヴリーハの娘は富農ではない。彼女が大事にしているのは……生の歓びだ。本人は不幸せだが、花を植えている……花のために苦しんでいる。

12月14日

 夜、ペチカの上にいるイリヤー(元近衛兵)と裸ん坊のヤーシカ(オーストリア人捕虜)が過去の戦闘の話をしている。
 イリヤーが言う――
 「あのとき、わしらの飛行機が上になって、そっからパンパン機関銃を撃ったんだ。そしたら、おまえさんたちの〔飛行機〕がびっこ引き引き墜ちてった」
 オーストリア人が言う――
 「どっちに墜ちていった? ロシア軍の方か、うちらの方か、どっちだった?」
 「その真ん中だったな」
 そこでわたしが――
 「じゃあ敵陣だ!」
 「敵なんかいなかったんだ!」と、イリヤー。「ほんとの敵が誰なのか、わしは今やっとわかった」
 「誰だい?」
 「資本家どもさ」
 「また戦争があるんだろうな、あるとすりゃ、日本とだが……」
 「いつかはな。そのときはもう裏切る奴なんかいないだろうよ!」
 「ところで、そもそも国家なんてあったんだろうか?」とオーストリア人。
 「そんなもの、ゼーン然!」とイリヤーが答えた。それは社会なる海の大暴露、未曾有の告白である。ツァーリのことで心を痛めるその一方で、コミサールのために大声を張り上げる。
 〔人を〕個々に分析すること。目下進行中の出来事が結果においてつまらぬもの(ドゥリャニ)とわかっていても、やはりそうした事件の重い流れの下では民衆(ナロード)の良心が身を震わせているのだ。その戦きが伝わってくる。
 ペチカの陰でゴキブリのイワン・ミハーイロヴィチは戦々恐々である。懲罰隊がやって来て自分のとこのガチョウをぜんぶ収奪していくのでは! 心配で心配で堪らない。それでゴキブリの髭をぴくぴくさせながら、訊いて回っている―『どうなんだい? 聞いてないか、アメリカはまだか、まだやって来んのかな?』

 ルーシでは才能と趣味のある人間は、まあそれなりに自分の個人〔私〕的生活を打ち建てるのだが、革命となると突然、誰もが自分をまるで泥棒のように感じて、静かなペチカの陰であれだけぼやいていたのに、ほとんど言葉を発しないで、持ちものすべてを差し出してしまったのである。
 今みんなはコミュニスト反対を叫んでいるが、実質的にはアンチ坊主の表明であり、〈修道院=コムーナ〉の聖性はほとんどすべてのブルジュイたちによって認められている。
 木曜日に対話集会(ベセーダ)を催そうということになり、自由参加にしたが、結局、不首尾に終わった。脇の方に立っていた堅気の娘たちは活発な発言が飛び出すものと期待していたのに、突然、手のつけられないチンピラどもが押しかけてきたために、めちゃくちゃになってしまった。チンピラどもは部屋にあった文書と本棚の〔錠〕まで持ち出したが、わたしに追い出されると、毀れた本棚で外から扉を塞いで――『やいてめえら、そこで勝手に守備隊ごっこでもやってやがれ!』などと捨て台詞を残し、おもての方へ逃げていった。まずかったのは、同志コミュニストが一人も参加しなかったこと。一人でもいれば、あんな奴らに〔……〕

この対話集会についてはよくわからない。プリーシヴィンの発意によるもののように読めるが、場所・時期ともに未詳。

 券を配る? とにかく入場無制限は駄目だ。コムーナの第一章は『すべてを一気に!』、第二章は『選択と建設』になる。

 クモフストヴォー〔кумовство――洗礼親同士の付き合い。クムの間柄、なあなあ主義、身内・仲間・縁者のえこひいき〕はロシアの地下方面、〈女の女たるところ〉である。これでもってあらゆることが為されているから、真実(プラウダ)には踏み込めない〔ことになっている〕……『ほれ、乾燥さしてたよそんちの牛革を盗んで、がさごそ藪の中を行く男。耳を澄まし、しきりにあたりを窺いながら……そいつがクマニョークよ。そいつをおれはこの目でちゃんと見たんだが、他人(ひと)には喋らん。余計なこと言ってみろ、とんでもねえことになる!』
 クモフストヴォーは不自由ということだ。クムの関係は理想を縛る紐か縄のようなもの。ルーシではこの縄でもって真実(プラウダ)が地上に引きずり降ろされて、きつくきつくプラトークで縛りつけられている。教父(クム)と教母(クマー)(ラスプーチンは自分流のやり方で全ロシアをクム化しようとした。そのためには各人が悪事に加担すようにもっていく必要がある)。
 同志諸君、時は来たのだ、真実(プラウダ)からクマーのプラトークをほどき縄をぶった切るその時がやって来たのだ。もしかしたら、その時のためにロシア人の臍の緒を神から切り離す必要があるかもしれない。なんとなれば、そいつはわれわれが祈っている神ではなく、われわれのクムだからである。

鞭身派の指導者パーヴェル・レフコブィトフの言葉。前出。

 「おまえ、アレクサンドルを知ってるか?」 
 「どこのアレクサンドルだい? チェリョーヒンのことか?」
 そう言って、男は目を剝く。
 「なんでそんなに目を剝くんだよ!」
 「おまえこそなんでそんなことを訊く?! アレクサンドル・チェリョーヒンはおれのクムだぞ!」

 イワン・アファナーシエヴィチが言った――
 「わしの主義は〈みなが走る方には走るな〉ってことよ。そっちへ走ったって何の分け前にも与(あずか)らんからな」
 せいぜいその程度の主義であり原則である。
 「平らな道を行け。坂道を避けよ。平らなとこを歩けば、そうそう靴は擦り切れない」
 わがラスプーチンはクムの普遍的存在である。『愛しい人のためならば、高価な耳飾り(どんな大事なもの)も惜しくはない』。クムもクマーもロシア中をクム化しようと狂奔する。天の花は血まみれになり、その花びらはいよいよぎらぎら燃え盛る。ついに酒盃から血が炎の葉を伝ってぼたぼた落ちた。

 パーヴェル・トレーポフは畑を耕したことがない。犂の持ち方も種の播き方も知らないのに、こんなことを言う――『おれはコミュニストだ。おれたちの仕事は土地の改造だ!』。そこでわたしは言ったやる――『それじゃ、なぜこれまで〔革命前に〕それをやらなかったんだね?』

12月15日

 ニージニイ・タギール〔ウラル〕出身のエゴール・ミハールィチは土地委員会の議長で、コムーナの組織活動家だ。この聖なるペテン師は白煙のごとく地を這い、かつての僧院の献身者のごとくコムーナのために最適の位置ないし地位を確保しようと頑張っている。もちろん、その意気込みは素晴らしい。女ブルジュイのとこに居坐って、楽しげに歌をうたい、がぶがぶお茶を飲み、脂身(サーロ)は喰いたい放題。何を期待しているのかって? そりゃあ賄賂に決まってる!
 聞けば、エゴール・ミハールィチは革命前は巡査(ゴロドヴォーイ)だった。それは今をときめく指導者(ナチャーリニク)のブートフと同じである。革命前のブートフも村の警備員(ストラージニク)だったから。

ミハイル・ブートフはソヴェート体制下のエレーツ市の指導者の一人。

「ただの警備員じゃない、巡査だよ」と、エゴール・ミハールィチ。「警備員は警察だが、巡査はまったく別だ。そこをはっきりと区別しなくちゃいかんよ。なぜなら巡査は警備員じゃないからだ」
 「じゃ、何なんだろう?」われわれは訊いた。
 「記念すべき像〔記念碑には〈木偶坊〉の意もあり〕とでも言うか、まあそんなとこかな」
 さらに〔調子づいて〕エゴール・ミハールィチは言う――「宗教については心配せんでいいよ。カール・マルクス〔の本〕には福音書がまるごと入っとるから」
 女ブルジュイが言った――
 「エゴール・ミハールィチ、あんた、何を言ってるの? キリストの教えがそれに〔マルクスの本に〕まるごと載ってるなんて?」
 「間違いないよ。そりゃもちろん、聖者伝だの預言者どもは余計なもんだが……」
 「もちろんそうだ、そんなものはぜーんぶ余計だ」

 イリヤーにわたしは言った――
 「おまえさんもコムーナに入ったらどうだい? 牛を一頭くれるらしいから」
 「うん、そう思ってんだが、あれに入るとカザークと縁組みさせられちまうからなぁ、おれはそれが心配なんだ」

 ある読者からの質問――「今、作家たちはどこで何をしているのですか? 本はどのくらい出ているのですか? ぜんぜん何も無いが、本はどこに行ってしまったのでしょう?」
 「賢明な作家はウクライナに行ってしまったが、中堅どころはシベリアだね。わたしは愚かだから、馬鹿みたいにおたくたちとここでこんなことをしている」

 ひとは好いのだが、なにせ地上〔この世〕の甘さ美しさときたら、じつにあっさりと〔ひとを〕欺いてくれる……老婆は甘言でつってあっさりわたしと縁組みをしてしまう。つい口を滑らして――きょうはあんたの娘さんに頼みごとがあってやって来たのだ、と。
 「レピョーシカを作ってくれないかね、駄目かな?」
 「麦粉が足りなくて、自分たちのさえ碌に作れないんですよ」
 仕方なくわたしは帰ったが、婆さんは娘に向かってこう言ったという。
 「馬鹿だよ、おまえは。あたしなら、大事な人〔あとあと役に立つ人〕のためには自分のを削ってでも作ってやるよ。ほんとに〔おまえは馬鹿なんだから……〕」

 愛しい人よ、僕たちを毒しているのは官能だの肉欲なんかではなく、そいつの発露に合わせて紛れ込んできた一瞬の、つまりその場その場の〈嘘〉なんだ。そうは思わないか? これが日毎に蝕み始めたんだよ……意気投合するって? 三人が? そんなこと不可能だ。たとえ一緒に暮らせたとしても、それに手を貸すのは、例のやたらと世話好きな客人、つまりふつうに〈嘘〉と呼ばれている手合いにすぎないのだ。

かなり奇怪な話である。アレクサンドルとソーニャのコノプリャーンツェフ夫妻とプリーシヴィン自身。

12月21日

 月曜から金曜までヴェーヌスの山(?)に逗留。

リヒャルト・ワーグナーの歌劇『タンホイザー』(1843~45)の舞台である禁断の地ヴェーヌスベルク。チューリンゲンの騎士にして吟遊詩人のタンホイザーは愛欲の女神ヴェーヌスの虜になる。ヴェーヌス=ソーニャ。

 リョーヴァ〔長男〕も連れてきた。哀れなアレクサンドル・ミハーイロヴィチ〔コノプリャーンツェフ〕はなんだか今にも消え入りそうである。徐々にあらゆるものに新しいモラルが浸透してきて、多少なりとも喰うに困らない人を見れば、羨ましそうな目で、なぁに、あいつもこっちと大して変わらねえよなどと呟いたりする。今は何かを隠すということができない――互いに見張っているので。今は何もかもが遠慮なし、どどっと来てどどっと出ていく。自由参加、出入(はい)り自由だ。平均化のためぶっ壊す。個人(インヂヴィードゥウム)、すなわち個人所有の家とその外皮の根絶。原始的な平等の力、無差別の力が働いて、それとともにインヂヴィードゥウムの選択に基づくところのわれらが文化全体がひとりでに〔自然に〕根絶されている。『その〔文化の〕下でカオスがぐらぐら揺れている』――カオスが、その平等化〔均一化〕が始まったのである。

詩人フョードル・チュッチェフの詩――『夜風よ、吠えているのか?』(1836)の一節(?)。

 自分の椅子とテーブルとテーブルクロスを主婦たちが泣き叫びながら見送っている。顔の無い〔持ち主の存在しない〕品々が山と積まれ、その山をコムーナの名のもとに残らず盗み去っていく。どの家も夜の寒さに吠える犬たちの小屋と変わらない。吐く息の白さばかりが目につく。寒さ(ホーラト)、空腹(ゴーラト)、略奪的家宅捜索、病気。

 それでも村では、都市部の危機的飢餓が大袈裟に語られている。町では文化人の正当な要求が通らない。町の人間は逆に、そこらの未開人〔村の者〕たちの倹しい暮らしさなど一顧だにせず、いや村じゃ誰も喰うに困らないそうだ、と勝手に噂し合っている。

12月22日

 あまりに吹雪が烈しいので、風呂小屋(バーニャ)に向かう途中で凍死しかねない。それでそのあと……〔文章途切れ〕。町では顔も体も洗えない。公衆浴場は薪不足のため閉鎖に追い込まれた。屋内は寒く、まるで塹壕のよう。虱(しらみ)の大量発生。蔓延している。〔そんな町の連中が〕体を洗おうと村にやって来た! 虱との闘いなのだが、村の衆は結構それを面白がっている。〔町の親戚たちは村の〕クムに気を遣っているようだが、碌に口を利いてもらえない。

 蜜蜂の生活……

メーテルリンクの評論集「蜜蜂の生活」(1901)か?

 イワン・アレクセーエヴィチはどんな本も気に喰わない。以前はどんな本でも読んだらしいが、今はもう新しい時代のものしか頭にない。頭にあるのはすべて新しい生活、新しい国家であり、大都会ではなく小さな町である。どの家にも美しい庭が付いていて……大きな村でもなくて、誰もが街道沿いか運河沿いの独立農家(フートル)に住み云々。わたしは彼に言ってやった――そういうものは昔もあったし今もあるんだ、珍しくもナンともないよ、イギリスなんかはとっくに実現してる。するとイワン・アレクセーエヴィチはしんそこ驚いたという顔で――
 「てことは、〔こんなのは〕新しいことでも何でもないんだ!」

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