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プリーシヴィンの日記 太田正一
2013 . 01 . 06 up
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11月10日
愛あるところ達し得ざるものはなくすべてが許される、ただし習慣とはならないが……
「おたくらは理念(イデア)についてお話しのようですが」と、イワ〔ン〕・アフ〔?〕。「わたしはね、イデアというのはナイトキャップみたいなものだと思ってますよ。われわれは、竿の先のナイトキャップにお辞儀をしてるんです」
ソフィヤ・ミハーイロヴナ〔?〕が短靴をつくっている。リーヂヤ〔長姉〕は靴下を編んでいる。わたしは言った――
「何か起こったら、まず真っ先に牛を助け出さなきゃ!」
「牛をですって!」叫んだのはソフィヤ・ミハーイロヴナ。「牛をですって! どうか〔町を〕出て行かないでくださいよ、あたしたちを見捨てないでくださいね。あたし、きょう夢を見たんです。おお、あれはいったいどういうことでしょう……夢で、その、みんなに乳牛が配られたんですよ、あなたは牛のことを言ったけど、あたしは牛の夢を見たんです」
お役所仕事〔ここでは煩瑣な書類仕事の意〕。ここ2日、モスクワ行き〔の許可の申請〕のことで走り回った。パンが少なくなればなるほど書類の数が増える。お役所仕事が週単位で増えていく――物価のように。
民警(ミリーツィヤ)が証明書をくれた。登録課に書類(署名)二つ提出したが、それでは足りず、軍事委員でもさらに二つを要求してくる。それでまる一日。『あす財務委員部へ行くように。そのあと内務委員部へ。あとは追って指示する』。次の日、ある男に会った(知らない男)。彼は子どもの洗礼の許可を貰いに来たのだ。長蛇の列である。こっちがあちこち回ってすべて用事を済ましてその列に戻ってみると、なんとまだその男が並んでいるではないか! すると突然、コミサールが言い放った――『さあ解散だ、帰れ帰れ、収入印紙が足りなくなった!』
みんな思っている――これじゃ生きていけない、冬が越せないぞ。爪に火を灯して暮らしているのに。もう駄目だ、やってられない。
11月15日
執行委議長のエゴール・イリイーチ・ロマーノフはひたすら上〔出世〕をめざす活動家。コムーナの福利(ブラーゴ)について語るのを聞いていると、そんなことは自分の任じゃないと言っているように聞こえる。セミョーン・コンドラーチエヴィチ・ルーキン(ペルシューク・バブールヌィ)が顔を出す*。太いロープを体に巻きつけているこの男は水兵上がりで、マルクスを読んでいる。これがいきなり坊主たちを攻撃しだした。まるで爆弾。教会の嘘の間隙をぬってボリシェヴィズムが飛び出した。カミの真実(プラウダ)とヒトの嘘(ニェプラウダ)を一緒に抱えたようなボリシェヴィズム! エゴールとのやりとり。坊主と文化啓蒙サークルを逮捕し、それをドイツ人にまで(一語解読不能)。今やレーニンは全世界に命令を発しているのだ! ルーキンが通ると、人びとは口々に苦情を申し立てる。すると、即座に彼は思い切った手を打つ。だが、彼はあまり集中できなくなっている。次から次と仕事、仕事、仕事。閃きがなければ仕事はできない! 彼の値打ちは、その決断力、動揺ためらい不決断への憎悪、にある。エゴールは考えている――金がいくらかかっても、とにかく図書館その他をつくってしまおう。ここまで来たからには成功させなくては。なに1ルーブリ課税すればいい。ルーキンなんか富農に10万ルーブリ拠出させようとしているではないか!
*セミョーン・ルーキン――のちの作品『村の酒盃』(1922)に登場する〈コミサール〉の典型的人物。体にロープを巻きつけた、マルクスを読む水夫上がりのペルシューク・バブールヌィという形象は、1919年からよく日記に書かれるようになるレアリア(ある文化の固有の事物、風土、文物のこと)、たとえば、「スキタイ人(野蛮人)」、「寒い納屋」、「同志〈故人〉」、「パヴリーハ(パヴリーニハ)」、「フォームカの兄弟」などの一つ。
吹く風に、ボリシェヴィキに、腹を立ててもしょうがない。われらがコムーナうを個人を見逃している〔大目に見ている〕が、そこに彼らの間違いがある。そのため、以前のマテリアリスティック〔物質(実利)〕な個人主義者たち〔の体制〕とそっくり同じ機械的な体制になってしまっている(必要なのはヒトの統治なのに、結局はモノの統治に陥ってしまう)。マテリアリスティックな個人主義とマテリアリスティックな集団主義(社会主義)。
初雪。凍結した地面。120露里砲の発射を見に橇山(ゴールカ)へ。誰もが120露里砲を信じている。住人の声――ニコライ〔二世〕のころは脂身(サーロ)の値段は……だったのに、今じゃ……だ。世間知らずの娘はしきりに訊いている――あたし、この町で親戚たちと一緒に死ぬことになるのかしら、それとも他国の野蛮人たちと暮らすのかしら?
星座の第七星――大熊座。
もう書くこともない。〔彼女には〕きょう一日、かつてないほどの愛を感じたのに、夜になったら、わたしをまるで死の王国(アッシリアとバビロン)の冷淡さをもって遇した。愛の不幸がさらに大きくなったようである。しかしその不幸は去った……今はこんなことを思っている――自分は彼女の家庭においてもシュービン家の生活においても一時的(エピソード的)人物である。それにしても、彼女はきょう何が嬉しくてあんなにはしゃいでいるのだろうか、と。〔亭主と〕仲直りでもしたのか? それはどんな講和であるか? 彼女が嬉しがっているのは、愛を取り戻してミハイル〔自分〕と一緒にいられるからなのか? それが一つ。もう一つは、アレクサンドル〔夫コノプリャーンツェフ〕も相変わらずそのままでいるからか? だがなぜ自分は不機嫌になったのか? 革袋で川を渡るアッシリアの軍人たち。
〔11月〕20日
モスクワ――夕方6時着。救世主キリスト大聖堂の生垣に咲く野バラとそれに関わるすべてのことを思い出した。そのあと1時間、街の人たちと話し込む。いかにも妙な展開だ、この先どうなるやら……
〔11月〕21日
モスクワに住めないかとか、ここで為すべきことは何かとか、頭の中は、さまざまな思いが渦巻いている。おかみさんは言う――『あなたみたいな人は住むだけの理由があるのだから、ここにいるべきです。インテリはみんな食糧のことで苦しんでいるけど、あなたはそんなことを気にしていないようだし……独りで村にいたって、しょうがないでしょう?』
〔11月〕22日
政治的会話。1)ドイツで破壊的な革命は起こるか? 2)ヨーロッパが起こすのは革命か反動か? 3)どうなるのか―ペレヴォロート〔激変〕かソヴヂェプ〔代議員ソヴェート〕の改革か?
破壊〔自宅と土地の徴発〕の日から一ヵ月半、おまえさんは何をしていたかとよく訊かれる。たしかに、一行も書かなかった。そんなことはついぞなかったのである。本は一冊も読んでない。いったい何をしてたのか? 考えるとぞっとする。甘い夢、完全な嗜眠(しみん)状態(ランプ、ソファー)。深夜、あたりは静まり返っている。夢の中で、不意に、彼女のこんな問いかけ――『どうして書かないの?』。それはなんだかロシアに対してなされた問いかけのよう。『なぜ生きようとしないのです?』
おお、どうか光を、最初のひらめきをお与えください。ほのかな一閃は泊まるべき宿と向かうべき方角を示してくれますから。
このままではとても堪りません。すべて〔のしがらみ〕をほどくには最初の一閃が必要です。おお、どうかどうか光をお与えください!
11月23日
ゲルシェンゾーンがアクロバットをやっている――おのれの自尊心のか細いロープの上で。
ボリス・レオニードヴィチ・パステルナーク*はまだ若いが、ともかく天稟(霊的な)に恵まれた詩人だ。この詩人から自分は、人間の仕事(為すべきこと、выполнение)は惑星の光の中で描かなくては――自分の念頭にはわがグレージツァがある(そう、本来グレージツァの活動舞台は国家=惑星(運命)なのだ)――古代人がアポロンやディアナから造り上げた人間ではなく、現にここにいる人間をこそ惑星の光の中で描くべきである――そういう強いメッセージを受け取ったのだ。
*ボリス・パステルナーク(1890-1960)はロシアの詩人。父は画家、母はピアニスト。初め音楽を志したが、モスクワとマールブルグの両大学で哲学を。象徴主義の影響を受け、未来派に属しながら、『雲の中の双子』(1914)、『わが妹人生』(1922)を出版して文名を確立した。『第二の誕生』(32)その他。翻訳にシェイクスピアなど。1957年にイタリアで長編小説『ドクトル-ジヴァゴ』を出版、翌年ノーベル賞授与を辞退した。
もうゲルシェンゾーンは寝返ってしまった。2ヵ月前には、ドイツ人は仕事なしでは生きていけない、だから彼らの革命は破壊的なものではない――そんなことを言っていたのに、今では「恐ろしい大虐殺」になるかも、「とはいえ、問題はウィルソンがどう出るかで……」などと。こういう連中のボリシェヴィズム評価の過ちは、その批判の対象がボリシェヴィズムの理念(それをつくっている人間たち)にではなく、ボリシェヴィズムのいわゆる国家形態にあること、そのことなのである。
もちろん、結局のところ、ボリシェヴィキは悪を為しつつ善を為している。(レフコブィトフは自分のコムーナに達する(を得る)前に、すでに頭の中では世界中の国家という国家を破壊していた。今日のボリシェヴィキはこの人物のごく小さな職務(ファンクション)を実行しているにすぎないのである。メレシコーフスキイにはレフコブィトフは悪魔的存在と映った。なぜか? レフコブィトフを見ていると、これこそ船乗りの自由気儘(ヴォーリャ)の源という気がして仕方がない。レフコブィトフとペルシュク・バブールヌィ。
余白に以下の2行――〈「それで、どう決着するのかね?」と、わたし。
――「彼はもういねえよ!(ワーシカの話だとミーシカはすでに銃殺されている)〉
11月24日
親愛なる友よ、もう3日もきみに書けなかった。モスクワでは封筒も見つからない。文房具店がすべて国有化されてしまった。マッチだっておかみさんたちから借りている始末だ。封筒どころか、マッチもペンも買えない。そんなわけで、一日延ばしの便りが今日になってしまいました。2ヵ月も留守にしていたモスクワの荒廃ぶりには目に余るものがある。モスクワは今では完全に死の町です。マロース、吹雪。きのう自分は空きっ腹を抱え、ひどい咳をしいしい(どこかに開いてる店はないかと思いながら)プレチースチェンカを歩いた。見ると、こっちへ美しい奥方がやって来る! 誇り高いが、いかにも苦しげなその顔。通行人とは目を合わせないように、しきりにどこか地下の階段を覗き込むような仕草をしている。これまで長いこと陽に当たらなかったのか、復讐と悲しみに満ちた彼女の表情から読み取れるのは――『出されたら塩1フントだってその場で食べてしまいそう、もうほんとにずっと何も口にしていないのです!』。
マッチと封筒を求めて「ロシア通報」社のイグナートフ〔イリヤー・イグナートフは母方の従兄、前出〕のところに寄ってみました。爺さん〔プリーシヴィンより15歳年長〕は毎日社にやって来ては1、2時間、昔なじみの編集者たちと意見を戦わしているようです。
12月1日、昨日エレーツ着。
労農兵代表ソヴェート(Совдепия)の首都で。かつてないほど世界から孤絶したモスクワは現在、大きな農村のようである。その村の橇山に登って砲撃音〔のようなもの〕に耳を澄ます――あれが解放の合図ならいいのだが。モスクワ市民はアメリカに何かを期待している。何かあればと、クズニェーツキイ・モストの壊れた商店街を歩き回った。なんだか〔18〕12年〔ナポレオンのモスクワ遠征〕のあとのモスクワを描く作家のような気分。ブルジョア(零細投機家)たちが集まる、唯一残った一角(マルチヤーヌィチ〔?〕)がある。そこでは以前と変わらない白衣の給仕人たちが働いていて、オルガンの演奏もあるし、ちょっとした馬肉の取引なども行なわれている。
建物の中は寒い。「ロシア通報」社に立ち寄る。イグナートフは毛皮の外套(シューバ)にくるまっていた。年寄りたちは例によって情報交換の真最中。ヴャチェスラフ・イワーノフは気温4度のアパートにいた。帽子を被ぶった姿は老婆そっくりだ。
こんなことで春まで生き延びられるのだろうか?
プチミストは『このままじゃ駄目だ! 何かが変わるはず、変わらなきゃあ!』と、ペシミストは『人間の身体(オルガニズム)は無限に適応可能だが……』などと言っている。
ロシアとドイツの革命は革命ではなく崩壊、敗北、不幸な出来事である。いつかそのうち革命、つまり新たな社会的国家的生〔活〕の創造は起こるだろう。
エレーツに向かう車内で。
車室(クペー)は奥方たちで立錐の余地もない。徴発部隊の隊長(ノヴィコーフ)が入ってきた。『どけどけ!』そう言って自分はご婦人方と一緒に坐る。紙切れに何か書き、それが終わると、何度も唾を吐き、ドアに貼紙をして、またぞろ捜索をしに。徴発物を入れた袋を担いで戻ると、また閉じこもる。二人の老婆――嘆きのマグダレーナがクペーのドア近くでしきりに訴える――『同志(タワーリシチ)! うちら、キャラコ5アルシンとイースト1フントを取られちまった、なんとかしてくれませんかい?』
余白に以下の数行――そのとき、錆びたドアの軋み音。人文科学の教授が隣の男について言った。『いや、とんでもない、この人は祖国に戻ったことを残念がっているんです!』―『じゃ、おたくらは編鞭(プレーチ)賛成派なんだ!』――『編鞭大いに結構。腹や額に弾丸を喰らうよりはましだから』
車中の会話――
「黙れ、黙りたまえ!」
「ロシア人はロシア人だ。ロシア人はすべてに賛成している」
「おたくは〈ロシア人〉と言ったが、もしそれがドイツ人かアメリカ人だったら?」
小さい声で――
「アメリカは2週間後にはわれわれのところにやって来るよ!」
「2週間だって! いやもう、1週間もしたら!」
「聖書にはこう書かれています――『あらゆる呼吸は主を讃美せよ、ハレルヤ*』ってね。だが、まわりを見てみろ。鳥は飛ぶことも歌うこともできない。飢えた犬は仆れているのです!」
「ボリシェヴィズムの仮面の下にはね、胡散臭い奴らが隠れてるんだよ!」
*詩篇150「息あるものはこぞって主を讃美せよ、ハレルヤ」の間違った引用。
パヴェレーツキイ大停車場。
軽食堂のむき出しの棚にガチョウの肉2つ〔2かけら〕で25ルーブリ也と鶏肉50ルーブリ也がのっかっている。わたしはガチョウ肉を1かけら買った。背後に餓鬼が数人。坐ったら、ぴったり後ろに立った。おこぼれにあずかろうとしているのだ。『骨をくれよ、ちょっとでいいからさ!』。『食べ終わるまで待てよ!』とたしなめる子もいるが、下から手が出て小骨の取り合いになった。皿を舐めるのもいる。わたしは隣の男に言った――
「どうも、これがコムーナの平等というものらしいね。本物の平等はいつ始まるのかな?」
「ガチョウの肉がなくなれば、本当の平等が始まるかな」
「じゃあ、おたくは、人間ちゃんと働けば、誰でも同量の配給を受けられると思ってるんだ?」
「そうかもね。あるいは〈墓は万人を平等にする〉、かな」
「かもね」
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