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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 12 . 30 up
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10月7日

 生の虜囚。悪夢。きのうだったか、ただそう思っただけなのか、よくわからない――時間が削げ落ちた……独り暗い部屋のソファーに横になって、英国人作家、たとえば、ウェルズのことを考えている。彼はちゃんと自分の椅子に坐ってちゃんとものを書いているが、彼と同業者であるロシア人作家は、悪夢の中で、創作もせず、日を送っている――人間のいない生活を眺めながら。どちらも避けられない――生活のない人間も、人間のいない生活も。

ハーバート・ジョージ・ウェルズ(1866-1946)――イギリスの小説家・文明批評家。「タイム-マシーン」(1895)、「透明人間」(1897)など数多くの空想科学小説を書き、1903年にフェビアン協会に入り、「現代のユートピア」(1905)などの社会小説も執筆。第一大戦後は、世界国家の構想を主張し、「世界文化史体系」(1920)を世に出したが、晩年、理想国家建設に対してかなり絶望的だった。

 生の虜囚だ――わがロシア、わが荷馬車の泥だらけの車輪にひっついた野育ちの矢車草(ワシリョーク)。

 人生が死に瀕している、あるいはすでに死んでしまった二度目の母のようだ。近親者には辛いが、家の外では葬式ピローグ〔饅頭〕が食えると、みんな喜んでいる。もしくはは、悲しい結婚式。(花嫁が泣き出した。そして泣きながら『あたしは死ぬほど泣くのかな』などと考えている)。しかし涙が出すぎて死ぬことはないのだ。
 試験前の3日間は本気で勉強し、半分ほど頭に入ったが、あと半分は3日ではとても足りない。でもそこは自分を追い込んで――そんな感じだろうか?

 灰皿に変身した乾パン〔ビスケット〕入れの話。

 24時間――なぜ24なのか?
 マリヤが言う――「これからみんな、どうなるの!」
 「これからって、いつ?」
 ゾーリカは〔雇ってくれる〕主婦を探している――やってきたのは、これ以上悪くなりようのない女。〔創作のメモか? 次の『彼女』も同様?〕

10月8日

 彼女は殉教者になりたかった。彼女は自分のために想像上の敵たちをこしらえ、自分を殉教者にしようと、彼らに喧嘩を吹っかけて苦しめた。今、〈時〉が来て、彼女の願いは実現した。望みどおり殉教者になった。

 掘り返された墓。遠くから古い屋敷を眺めている。屋敷というより、今それは掘り返された母の墓のようだ。墓の中でロードの蛆虫が蠢いている……
 冬鳥たちが家の近くに飛来し、庭では雀の大家族がぺちゃらくちゃら。そんな季節がやって来たのだ。
 自然の法則。他人の不幸を喜ぶ、つまり、自己保存の感情とは、同時にいっさいが愛の上に成り立つコムーナなのである。
 コーリャ〔次兄〕とわたしは茂みの中からわが家を見ている――敢えて近づくことはせずに。
 ニコライ――
 「ね、神はどうしたんだろう?」
 「なんでまた神なんか持ち出すの?」
 「こんなこと〔神は〕許さないよ!」
 「で、あんたは祈ったの?」
 「祈らずにいられるもんか! いつだって祈ってるよ。十字架だって持ってる」

 「どうしたらいいだろう?」と、わたしは訊いた。
 「町〔エレーツ〕へ行け。森を突っ切って。なるべく早く。風呂敷ひとつで行け……子どもたちには手を触れないから……独りで行ったほうがいい……」
 わたしを見送ってくれたのはワシーリイと野ウサギの声。わたし自身は野ウサギの心境だ。ときどきしゃがんで、フルシチョーヴォの方を振り返る。ひょっとすると、これがわが家の見納めかも。フルシチョーヴォは6回、見え隠れした。
 アルヒープにわたしは言った――
 「おまえには子どもがいないんだから、女房と二人でウクライナへ行ったらいい」
 「戻って来れるかな? こんなあばら家でもね……必ず戻って来るさ」
 「どうしてまたそんなことを?」

 われわれ〔道連れと〕はわざと回り道をした。人と出会うのが恥ずかしくもあり、恐ろしくもあったから。
 いよいよ憎むべき敵どもの住む家だ……町の教会がつぎつぎ地面の下から生えてくる。懐かしいその土くれを握り締めながら、わたしは自分に誓った――必ず自分の自由な故郷(ローヂナ)を見つける、と。

(9月23日ー10月5日)

 先週の土曜日に「立ち退き命令書」。今は町にいる。日曜の朝、ミシュコーフのところへ、夜は密輸(コントラヴァンダ)〔食糧調達?〕。月曜〔〈ポクローフ祭〉の文字を抹消〕、「現在、心に疚しいところなし!」。火曜日、誰もが客〔援助の手〕を待っている。水曜日……木曜日にエレーツを去る。土曜日、『ザミャーチン〔(四十四)の注〕が来た』との知らせ。リョーヴァ〔長男〕が徒歩でフルシチョーヴォへ向う。日曜日、神父のメモから『わたしたちが追放された』ことを知る。月曜日、コーリャ〔次兄〕、ペーチャ〔次男〕、ポーンチク(?)が到着。火曜日、クセノフォント(?)が荷物をつけた馬車で。水曜日、真夜中12時、エフロシーニヤ・パーヴロヴナが到着。金曜日、夜11時、ニク・ミフ〔ニコライ・ミハーイロヴィチ〕とその家族が4台の辻馬車で去る。

モスクワは涙を信じない
泣きながらアレクサンドラ婆さんが何かを引きずっている。

諺で「泣いたとてどうにもならぬ」。ソヴェート時代に同名の人気映画(1980)。

10月20日

 きのうリーヂヤ〔長姉〕が歩いてやって来た。自分は何も感じない〔みじめでも哀れでもない〕。なぜなら家屋と家庭の破壊が起こったのは、いろいろとひどい経験をしたあとだったから。反対に、これでいいのだ、迷って決断できなかったことが実行されてよかった〔とそっと囁く自分の声〕。まずいのは自分の弱さと先の見通しのなさ。もっと慎重にもっと考えて動かなければ。

 今はこのとおりだが、去年、エフロシーニヤ・パーヴロヴナは〈森の女房〉のように逞しかった。今では、アレクセイ・トルストイ描くところの、捨てられた愛人である。ソフィヤ・パーヴロヴナは彼女を理解しようとしない。エフロシーニヤ・パーヴロヴナを人間ではなく、腹を立てた〈めす〉と見なしている。

森の魔レーシィの女房。(七十二)の編訳者の参考メモ(5)を。

 村を出て以来、疲れがひどい。しかし言わずにおれないことが多過ぎる。疲労は禁物だ。
 ソーニャは、自分の目にも、次第に女君主ではなくなって、今では幼い妹のようである。彼女は嘘を言わない。驚くほど正直だ。彼女は感情的にものを考えないし、余計なことは口にしない。『愛してる?』には『愛してるわ』、『いつまでも?』には『わからない』と答える。『どうして?』と訊くと、また『わからないわ』と答える。泣いているので『どうして泣いているの?』と言うと、やっぱり『わからない』。まるで女の子である。

10月22日

 きのう、きみ〔ソーニャ〕は僕と話したね。〔なんだか〕とても怖かった。きみは僕の妻であるばかりか、でもまだ……ああ、どう言ったらいいのだろう。エリザヴェータがマリアの挨拶を聞いたとき「そのお腹の子が躍った」というのだが、自分も同じようなものを感じたんだよ。その感情は愛の熱中症などよりずっと大きく深いのだが、不思議なのは、発火も興奮もなければ何も起こらないのに、つまり薪に火はついてないのに、ペチカがどんどん熱くなってピローグが出来てしまったような〔気持……〕

聖霊に満たされたエリザヴェータが、マリアの受胎を感じて祝福する場面。ルカによる福音書1章41節。

 今は縁の下の鼠のような暮らし。あっちは大火事なのに、家はまだ立っている。

10月28日

 『いかにすれば世界は社会的変動(ペレヴォロート)に対抗できるか? 何のために世界は自らを主張するのか? その宗教は世界を衰弱させ、君主制の原則は権威を失墜させた。世界は恐怖と暴力で保たれている。民主主義の原則は世界の内臓に巣食った癌ではないか(ゲールツェン『向こう岸から』)。
 『終わってしかるべきであり、あらゆる精神的侮辱と拷問とをもって対抗すべきであったのに、過ぎし年はわれわれをして恐ろしき光景を、すなわち「人類解放者たちと自由な人間の闘争」を目の当たりにさせた』(『ゲールツェン『向こう岸から』)。
 それら破壊勢力は個人にはまったく向かっていない。きのうまで自分に敬意を払ってくれる人たちの間で暮らしていたのが、きょうは法令(ヂクレット)下に置かれたために、その同じ人間たちが自分を犬ころみたいに追い払ったのだ。自分は法令の為すがままである。誰かが感慨深げに――『そうさ、頭のいい奴らは何でも知っている、でも本当はただの馬鹿なんだ』と言えば、誰もが、そうだそうだと相槌を打つ(こちらは逃げる間もなく法令にとっ捕まった)。
 ところで、ニコライ・ミハーイロヴィチ〔次兄〕は現実をどうしても個人的にしか捉えられなかったから、〈あっちでもこっちでも〉地獄を見る羽目になった。そこで掘り出してきたのが自分の古臭い神、あのとっくの昔に忘れてしまった神様だった。悪夢にうなされて、こんなことを口走る――『ところで、神はどうしたんだ? どうなってるんだい?(『青銅の騎士』のエヴゲーニイも同じ……)

 外〔脱〕社会的喜び。
 わが経歴。しばしばわが人生に訪れた喜びのその源泉は、〈勤労者大衆の背骨によって保障された余暇〉――たとえばローザノフ、レーミゾフその他大勢のもの書き(ことばの勤労者たち)からでは、まったくない。ゲールツェンの嘆きがわれわれにはさっぱりわからない。その喜びは外〔脱〕社会的喜びだ。

 ロシアのスフィンクスの仮面はすでに暴かれている……

 フルシチョーヴォを風呂敷ひとつで後にしてまだ18日、なのに、もう1年も過ぎた気がする。駆け足なのは無意味な空騒ぎの時間だけ。誰もが頭を抱えて昼も夜も食糧を求めて昼も夜も駆けずり回っている。ふと振り返ると、1年が1月のように過ぎていく。

11月1日

 女子高等中学(ギムナージヤ)に呻きと泣き声。少女たちの半数が男子中学へ移されることになったので。教師はしきりに親たちを宥める――『聖ウラヂーミルの時代の洗礼を思い出してください、あのときだって無理やり洗礼させられたじゃありませんか!』

 野蛮な人食い人種の島に捨て置かれた自分は、絶望の余り、手を揉みしだきながら、岸にへたり込んでいる。心の底に揺れ動くただ一つの光明は、あすかあさってには、海を越えて別世界へ自分を運んでくれる丸木舟を穿ち始めるだろうという思い……

 小舟をつくる木を選んでいる。できるだけ強く頑丈なやつ。堅くて刳(く)り貫くのが難しければ、それは強い木である証拠。頼りは持てる力、暴力〔圧制〕に負けるわけにはいかない。
 心の大いなる氾濫が砂粒のように悪事を呑み込もうとしている。でももし今、その大いなる心の氾濫がちょろちょろ流れる小川に変わってしまえば、いかにしてまた何によってあの君臨する軍勢を打ち倒せるのか? 勝利は〔敵を〕圧倒する愛の力にしかない。しかしそれをどこで手に入れる? 敵だって人類愛の名で行動しているのだ――そもそも両者の愛にどんな違いがあるのか?
 この人類の解放者たちと自由人の闘いは、詰まるところ、何か自明性のようなもので決着がつくと自分は思っている。腫物が破れれば傷はひとりでに治り始める。もちろんそうなのだが、しかし生のかけら、その一片一片(いや、わたし)だって、早晩、自分の自由の計画を引っさげて起ち上がるはず。まず起こるだろう最初のこと――それは共同事業の意識とその主要な……
 今は誰もが外からの救助を待っている。ドイツ、日本、ウィルソンを、かつてコルニーロフやアレクセーエフたちを待っていたように。ばらばらにではなく、彼らをひとつに束ねなくてはならない。それが救いの鑰(かぎ)だが、ひとつに束ねるには〈プロレタリア階級〉と共にあることが必要だ。

トマス・ウッドロー・ウィルソン――第28代アメリカ合衆国大統領(1856-1924)。第一次大戦では初め中立を維持したが、ドイツが無制限潜水艦作戦をとるに及んで参戦に踏み切った(1917)。平和のために十四ヵ条平和原則を発表するなど国際的指導力を発揮し、国際連盟の創設に努めたが、上院の反対で参加は阻止された。

11月3日

 〔男は〕役所から退屈な日常を引っさげてやって来る。彼の心はここずっと崩壊状態だ。このままでは持たないぞ――また生活らしい生活を始めねば。

11月4日

 冷たく乾いた、しかし草にも雪にも覆われていない、素っ裸の、底意地悪い老婆の体みたいな黄色い地面、それとゴーゴー吹きすさぶ悪意のこもった風。
 黄色い砂が通りに撒かれて、まるでお墓だが、さらにその上にモミの枝が敷き詰められたから、これでいよいよ死者の道の完成かと思いきや、それは偉大なる十月革命祝賀の準備であった。

11月5日

   初雪がちらりほらり。
 ロシア・コムーナのエポックを演出する舞台の数々――
 1)男がやって来た! (クセノフォント)お茶が出されると、男は〈ピローグ〉と脂身(サーロ)を「ブルジョアの」家庭(インテリ)の子どもたちに配る。
 2)命令(オールデル)により熱心党の亭主の家に引っ越してくるのは、若手の将校だ。
 3)石鹸のかけらを手に女地主は4時に家を出る――ミルクと交換するために。「ちょっと、おばさん!」と声をかけられる。「あんた、吹っかけようたって、そうはいかないよ!」
 4)百姓たちはもう情勢を左右し得る存在ではなくなった。
 5)山羊たちが勝手に庭を歩き回っているので、追い出しにかかる。しばらく追い回したが、無駄だった。いっそのこと乳を搾ってやれと――おかげで子どもたちは満腹だ。
 6)街区の分署主任(女)がきのう、明朝6時に街灯の下にナイフ持参で集合するようにと言った。ナイフを? とりあえず鉛筆削り用の小刀を持って指定場所は。何のことはない、キャベツを切るためだった。
 7)ひとりの男が公園の、自分好みの小さな木を勝手に掘り出して、それを自宅の窓の下に植えた。その瞬間から、そこが一本の木から成る私設の公園になった。以来、彼は言い言いした――『これはおれの木だ』と。ここにおいて自然の変容が生じたのである。『おれの木だ』――それは必要欠くべからざる意識〔自覚〕の最初の瞬間であり、『われわれの木だ』という別の意識の瞬間が最もかけ離れた遠い遠い理想のように思えてくる。
 8)最年長者である公証人のシュービンは深夜にいつも自宅の庭で暖房用に枝を挽いている。ほかにも、封筒貼りの内職をし、靴下を編んだり、刻みを詰める紙筒をこさえたりしている。

11月8日

 きのうエレーツで見たのは、じつに奇妙なまがいもの(ブタフォーリヤ)。十月革命一周年の祝典で、赤軍兵士、中学生、少女、役人が全員、カール・マルクスの石膏像と革命に殉じた3人の酔っ払いの棺を囲むように整列すると、サイレンを合図に役人、兵士、子どもたちの旗が一斉に傾(かし)いだ。胸像から覆いがはずされた。表示板の一つには『人民保健事業は衛生事業なり。エレーツ市代議員ソヴェート(ソヴデム)万歳! 中央執行委員会(ツック)万歳!』とあった。夜になってイリュミネーションが輝き、トルゴーワヤ通りに『働かざる者は食うべからず!』の文字が浮かび上がった。
 ロシア・コムーナの生存権に対してウィルソンが示した唯一真面目な反駁は、「コムーナは動かないし決して動けない〔働かないし決して働けない〕」、これだと自分は思っている。

 二人の関係は限界にまで達した。もうこれ以上家には居られない。そのことばかり考えている。自分からは動かず、ただ身を委ねるのみ。彼女のいない自分を想像するだけでおかしくなってしまうのだ。自分が動けば彼女の姿が消え、じっとしていればそばに〔彼女が」いたり……彼女と一緒にいられるという可能性にこそ唯一可能な活動的生活があるのだ。
 しかし彼女には、突然わたしが関係を絶って、彼女より〈もっと広い世界〉を取るかもしれないという根深い不信感が、つまり本意ではないとしても、ちょっとした〈へま〉からそういうことになるかもしれないという不信感がある。言い換えると、彼女には、わたしの〔彼女に対する〕執着心が十分でないように思われるのである。
 どうもおかしいのは、望みを遂げようとすれば通常は強く働くはずの感覚的紐帯がほどけかかっていることだ。本来は今の今こそさらに強くもっともっと互いの心と心を引きつけ合っていなくてはならないのだ。改めて真剣に自分は彼女を愛し始めている。

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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