2010 . 07 . 20 up
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クラウヂヤ〔構想中のロマンの登場人物。(十)以下、断片的に記される〈永遠に女性的なるもの〉の一部。未完に終わっている〕が町工場で働くのは、夫の気に入るような女になろうとしているからである。 〈彼女〉にはこれといって目立ったところはなく、個性と呼ばれるようなものもない。セルゲイ・パーヴロヴィチ〔夫〕にしても、個性ある女に特別な関心を示したことはなかった。彼は誰とも同じように付き合ってきたが、でも彼女に対するようにみなと接してきたわけではない。彼女が、〈女〉と名のつくもの――いずれ現われるだろう女と夫の仲を嫉妬するようになったからである。自分たちふたりを虜にしてしまうそんな女が――実際には存在しないのに――生きて自分らを支配すると思い込む。その女こそがヒロインだ。むろんクラウヂヤもヒロインだが、その女がおのずからなるヒロインであるのに対し、クラウヂヤは、夫に気に入られたいだけの、いわば男のため夫のためのヒロインにすぎない(だから校正の仕事や倫理の問題等々にのめり込むのである)。これは事実資料(факты)なしのドラマ。モデルとなる事実はあるかないか? ない。想像上の〔ファクト?〕だ。貧困、辱め……台所と子供部屋に姿を現わしたのが彼女、想像上のヒロインだった。クラウヂヤは、自分がその女を相手に話をすると、決まって夫が強い霊感を受けることを知っていたし、自分は〈翔んでる女たち〉とはまるで違うこと、そういう女たちと一緒だと夫はすごく元気になるが自分とはそうでないことに、心底ジェラシーを感じている。翔んでる女たちのために用意された、豊かな、美味しそうな食事を見て、唖然とする。一方、彼女たちはよく食べよく飲み、高尚な話をした。その中に未来の女もいた。 エウゲーニヤ・ペトローヴナ〔登場人物のひとり〕は母性(материнство)を警戒して、あらゆる手を尽くす。母性というのが恐ろしくて堪らないのだ。それで音楽院に声楽を習いに通っている。もうじき30歳。全体に感覚が鈍くなってきて、よく物忘れする。頭にあるのは自分の歌のことばかりだが、オペラ歌手は無理だろうとの自覚はある。声帯の力を10倍にしようと頑張っている…… リーヂヤ・カールロヴナ〔登場人物のひとり〕の絶えざる悩みは、自分に子どもがいないこと。 フローシャ〔妻のエフロシーニヤ〕は、わたしのためなら子どもも捨てるだろう。わたしと一緒に暮らせたらいいのだ……子どものために亭主のことなど忘れてしまう女もいる。
Жの仕事は芸術。カラーシ〔鮒または薄のろの意〕は赤ん坊のお守りだ。サーシャがカラーシに言った――「赤ん坊をかまいすぎちゃダメだぞ。おまえがただの雌(めす)になったら、赤ん坊にはよくないんだから」。つまりは、♀への恐怖。 アレク〔サンドラ〕・ワシー〔リエヴナ〕は真のヒロインだ。頭は白いが、ずっと医学を学び続けている。すべては彼(ニク〔ニコライ〕・アレク〔サンドロヴィチ〕)のためである。だから、彼のことを他人に尋ねるときは、決まって照れたりどぎまぎしたりする。彼女こそ未来の女である。マルクス主義者に恋し、音楽家になって労働者のためのコンサートを開きたかったが、結局、音楽の道には進まず、医師になった。遠く離れて暮らしているマルクス主義者は、彼女のことを愛してはいない。でも、彼女のほうは彼を愛しながら、労働者の子どもたちの治療に専念している。
ドゥーニチカ〔村の教育家、プリーシヴィンの従姉。(五)に写真と説明〕と試験官。スターホヴィチ〔ミハイル・アレクサンドロヴィチ(1861-1923)、プリーシヴィン家の領地と境を接する地主。この一家のことが日記によく出てくる〕が子どもらを試験しにやってきて、ドゥーニチカの学校を褒め上げた。彼女は子どもたちを教えながら、いつも期待しているのだ――スターホヴィチがまたやってきて、〔自分の仕事を〕認めてくれるだろう、と。
母性愛はかくして他者への愛へと移ってゆく。愛の本質には、本能的動物的なそれが人間的な愛になるということがある。何がそうさせるのか? 愛の苦しみがそうさせるのだ。だからこそ春には、暗い夜もどんどん明るさを増してきて、一晩中、光と人間の誕生(分娩)の痛みに満たされる。そしてその痛みと哀しみから新しい天空が生まれるのだが、はるか遠くの深みにとどまったままの南国の空は、そのあいだも闇の中で眠っている。こちらへは歓喜に満ちた太陽が昇ってくるのに、南の昏い空の下では光は、嬉しくもまた淡々と集まり散じていくだけである。大地は緑なり。でも、それは嘘だ。昏い空の下の植物は、花は、とうに枯れてしまって、いま横たわっているのは、黄色い、死の大地。(青い鳥が北の大地で白い鳥を産んだのだ)。
なぜ人間は、他人と出会って相手が誰かがわかると、思わずにっこりするのだろう? 彼女はずっと彼を愛し続けているから……彼のことをあれこれ尋ねる。アレク〔サンドラ〕・ワシー〔リエヴナ〕――音楽家でもあり医師でもある彼女は、なぜ自分のマルクス主義者のことを訊くのか? それは彼が、北の清らかな愛に生きながら、南を、緑の大地を眺めているからではないか? しかし南の土地はとっくに焦土と化してしまって、もうずっと新しい土地を夢見ているのだ……(変だな、そうじゃないと……)
余りに率直な告白は友情を損なう。友の誰もが耐えられるわけでない。率直過ぎる告白、それは振り出された手形……借金だ。 だが、男(ヒーロー)は、愛ある結婚へ漕ぎ着けるだろうか? 沼の花を萎れさせずに、束ねた花々の中に立てるのだろうか、そのあと家族は、家庭はつくれるだろうか? それがテーマだ。
個(личное)から一般(общее)は――ドゥーニチカ、サフノーフスカヤ、アンナ〔後者ふたりは構想のヒロイン〕はいかにして生まれるか? 彼女たちの罪は奈辺にあるか? なぜ彼女たちはジャンヌ・ダルクでないのか? なぜ彼らはヒーローでもヒロインでもないのか? 彼らはまったくそれ〔理想またイデア〕を産まず、知りもしない。ドゥーニチカは(使徒のごとくに)子どもたちを産み育てている。彼女は教育者だ〔従姉のドゥーニチカ=エウドキーヤ・イグナートワ(1852-1936)は、生涯を農村の子どもたちの教育に捧げた熱烈なナロードニク〕。思うに、これらはいずれも、幸福をめぐる運動、新しい情況下で生まれたありふれた女性たちである。しかし真のヒロインであるジャンヌ・ダルクは、純粋無垢の力を授かった乙女(ヂェーヴァ)――処女性の誉れなのだ。ここにおいて王はプリンシプル――神秘の花婿ではなく、反対にアレクサンドラ・ワシーリエヴナの彼氏は許婚者であって、プリンシプルなどはシャツのボタンみたいなもの。
自然は、森は、われわれ人間に対し、なんという不思議な一体感、なんという緑の興奮(зелёное волнение)をもたらすことだろう! なのに、ちっぽけな存在というものは盛んに自己流ばかり発揮して、まわりのグリーンなど見もしない知りもしない。百姓(ムジキー)はあらゆるものに生きものを見るような視線を注ぐ――石にも、水にも、木にもみな。ところが、この未開人がひとたび詩人となって、全体を外界を一般(つまりобщее)を小さな小窓――ここでは必ずや小窓か通風孔のようなものであるはず――を通して見つめだすと、小窓の向こうはどこも緑の世界! 獄舎を出たとき、わたしも(彼らと同様)最初に目に映じたのは〈森〉だった。
修道女アントーニヤ・フルシチョーワ。ロシアのジャンヌ・ダルク。その一途な〔生き方〕。つりあがった眉が鼻梁の上でひとつにつながっている*。女子高等専門学校生。トルストイ主義へまっしぐら。一切を捨てた。それからもっと何か……そう、芸術すら捨ててしまって、花を〔売っている〕。母親の悲劇。上流社会の貴婦人である母とその娘。娘は老師アムヴローシイ〔オープチナ僧院の長老。俗名アレクサンドル・ミハーイロヴィチ・グレンコフ(1812-1891)〕のところへ送られた。そして戻らなかった。〔母親〕の不安、恐怖、屈辱。娘は自ら修道女になることを選んだ。
最初の女性革命家(ペローフスカヤ、フィーグネル*)その他の人たちの人生を――その心と心の結びつきを知る必要がある。問題は、彼女たちの行動がまったく純粋無垢から生まれたのか、それともどこかに〈女(женское)〉が隠されていたのか、ということ。
text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk