2012 . 12 . 02 up
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指輪を失くしてしまった。家族(子どもたち、小母さんたち爺さんたち)の誰もがその意味を、指輪を失くしたことがどういうことかを知っている。それで彼女は、ただの指輪の遺失にその意味を加味して、泣いている。彼女が泣かないためには、そんなの迷信だ偏見だと思わせる必要がある。彼女を愛しているから、なんとか解決策を見出したい。そんなに悩まず陽気になるよう彼女の偏見や思い込みをやめさせたい。きっとニヒリストたちもこんなふうにして人間を苦悩から救うために宗教破壊に邁進したのだ。〈人類の宗教〉*と呼ばれるもの――ロベスピエール式の最高原理――理性(ラーズム)もその生じ方は同じなのである。
*フランス大革命の思想に近いフランスの哲学者・社会学者・数学者オーギュスト・コント(1798-1857)によって1847年に提唱された。その教義と崇拝は実証主義の立場を取るが、のちにその実証的精神の優越を説くあまり、理性の崇拝を固定してユマニテ教を考えるに至る。
二人はА.М.〔アレクサンドル・ミハーイロヴィチ〕になるべくやさしく接するようにしている。一種の罪悪感から来るものだ。したがって、自分たちが惹かれ合う背景には疚(やま)しさに由来する、繊細にして微妙この上ないニュアンスがある。
リョーヴァの洗礼式はとてもよかった。親戚たちは褒めてくれたが、彼女〔フローシャ〕は――
「あたし〔ソーニャ〕、決して境を越えないわ」
「そんなことを口にするのは、まずい。とてもまずい」
「どうしてまずいの?」
「余計に嘘が多くなるからさ。その〈境〉には何か意味があるの?」
「何かあるのよ」
かくして永遠なる罪人(つみびと)の〈淫蕩と嘘の越え難き野〉はつくられていく。もちろんそこには、「境を越える」真の激情、真の罪、真の十字架とは異なる意味があるのだ。
いつだったか、ある晩、彼女〔フローシャ〕は心にもなく彼〔夫プリーシヴィン〕に言う――
「また集会〔逢引の意〕に出かけるの? ああいやだ、恐ろしい!」
「恐ろしいって、どうして? 僕は自分のことをしている。おまえはおまえの好きなことをすればいい……」
わたしたちはちらっと見交わした。また始まるのだ!
「あなたが行ってしまったら、ここはどうなるの……」と彼女が言えば――
「ここはね、火山地帯なんだ!」と彼が言い返す。
彼女は夢を見た。大都市が崩壊し炎上しているというのに、彼女は誰かとそれを見ている。皇帝ネロのように、うっとりと炎の美に見惚れているのだ。そして今度は丘の上から、クリミアのような白い庭園の町を見下ろしている。空に向かって迸るたくさんの噴水。まるで幸せが心のふちから溢れ落ちるかのようである。彼女と一緒に見惚(と)れていた男は、なぜか洞窟に去ってしまうが、今度はそこに小さな男の子が現われる。そして彼女を責めて激しく泣く。『どうしてあんな奴といるの、あいつは悪魔なのに!』。彼女は修道院へ去ると、そこから〈彼に〉これですべておしまいですと手紙を書いた――〈シスター・アグネッサ〉と署名して。
自ら放った火事に見惚れる……それは、燃え盛る僕らの火遊び気分……遠い過去からのこだま――〈シスター・アグネッサ〉だ。だが、肝腎なのはこの夢のわが本性である。
妻は自分をかまってくれないと言って夫を責める。第三者には奇妙に映るが、彼が一日中自分の好きな仕事にかまけて話もしてくれない。彼はその点では多くの男と大して変わらない。妻は居心地のいい存在であり場所、だが仕事は仕事。完全に分かれている。同じようなことを自分も、もうお仕舞いと確信した最後のころに味わっている……(飽きたのか、愛が冷めたのか?)
彼女は、夫は嫉妬していないと思っている。〔妻の浮気も本気も〕よくわかってないし、そんなことはあり得ないと思っているのだ。だがわたしは、彼はそれを承知の上で、〔にもかかわらず〕嫉妬していないと、そう思っている。おそらくそれは、嫉妬したところで彼女の値打ちが上がるわけではないとわかっているためだ。『結婚の最良の条件(環境)は三人まとめて結ばれることさ』――関係のない皮肉屋はしたり顔にそう囁くだろう。
〈シスター・アグネッサ〉の夢のこと。町の火事。炎。突然、小さな火が炎を上げるが、すぐ消える。炎はふと思った(ようだ)――ああ駄目だ、これは罪なことだ! そう言っていったん炎は見えなくなったが、まもなく思い直したように、さらに強く燃え上がる。そしてまた――駄目だ! 罪だ、これはどうしたって罪なことだ! また姿を消す。町は暗くなった。鎮火か? 空が赤らんで、町全体が照らし出される。そのとき、心に秘めたものと不決断とが炎の中に消えてしまう。丘の上の者たちは燃え盛る幸福の炎に呑み込まれてしまった。
「憶えてる?」と彼女が言う。「あたしたち、何かを恐れていたでしょう? でもほら、もう何もないわ。あるのは歓びだけだわ」
疑念がすべて消えた。花が色と光を失うように、明るい泉は腐葉で覆い尽くせ。冬がすべてを凍らせ、森が埋もれて橇も人も通れなくなる。結局それがいいのだ! 彼女の十字架は暗い秋の夕べにも冬の夜にも心に花を保(も)ち続けよう。
森の口(オプーシカ)へ出る。そこが神聖不可侵であることは誰もが知るところ。絡み合った悦ばしき梢(上層)がきらきらと輝いている。最後のヒバリが歓呼しながら空の明澄に舞い上がる。
森で何が起こっていたか――ここでは周知のことだ。見よ、枝の絡み合った最上階へ梢へ音も立てずに〔ヒバリが〕2羽、飛翔する。見下ろせば、大地のなんという奇跡、なんと美しい装いだろう! なんと繊細な、なんと微妙な緑のレースだ!
ヒバリは空高く舞い上がり、やがて若草の境界の果てに掻き消えた。あとに残されたのは、若い若い冬麦畑。
自分は畑に忍び寄る静寂を前に、びくつき、途方に暮れてしまったが、闇はまだやって来ない。まだまだ夕陽が眩しい、と一方から大きな大きな月が昇ってきて、見る間に月光と夕映えとがひとつになった――絢爛たる黄昏に花と十字架がひとつに絡んだみたいに。
叙事詩の語り始めはこれ――わたし某とあの分割された大地の2羽。彼らの道は十字架と花(合体)。彼らの誘惑は分割。分割のシンボルは猿の暮らし。
猿たちに。猿たちがクローヴァーの原で馬の番をしている。地上における人間のさまざまな発明を物語るグレープ〔ウスペーンスキイ〕の作品。ケロシンが無いときは、小皿でランプの油をともす〔工夫〕、定期市ではそちこちに配置されたし、聖母庇護祭(ポクローフ)〔旧暦10月1日〕にはあっちでもこっちでも灯された。塩を使ってニスからアルコールを抽出する発明……牝牛がウサギの脚を踏んづけた。ウサギは牛の足の下で体を丸める。画題にはもってこいだ。ウサギはセミヴェールヒをぴょんぴょん一周する。猟犬たちが現われ、驚いた〔牛の〕群れが一瞬、跳び退く。『でも、ドイツの奴らは糞(ガヴノー)で油をつくったっていうじゃねえか!』。製粉所(水車)が使用禁止になった。だからどこでも手回し臼ばかり。自転車もコーヒーミルも禁止だ。コムーナについて。アラクチェーエフ体制とコムーナ(すべて余所の親父のため)*。自由から奴隷制度が生まれる例もある。コムーナの原則は献身的英雄的行為(ポードヴィグ)から――ポードヴィグに形を与えて。個人のポードヴィグを否定しその成果を儀式化する。そしてそれをもはや十字架を必要としなくなった最貧民たちに与える。
*ここではコムーナが、アラクチェーエフ(1769-1834)によって強行された悪評高い〈屯田兵制〉になぞらえられている。アラクチェーエフは一時アレクサンドル一世が重く用いた超反動政治家〔前出〕。
振り出しにはもう戻れないわ、と彼女は言ったが、自分としては、一つの感情をもう一つの感情に替えることはできると考えている。互いに内に向けた感情を世界に向けた感情に置き換える。一つは情熱(ストラースチ)と〈その結果〉(子ども、所有物(財産)、国家その他)を生み、もう一つは愛ある関心を生むだろう。
『たしかにそうね』と彼女。『もしここを〔あなたが〕去れば……』。つまり、感情の川床〔進行方向〕を変えるには何かしら外的理由がなくてはならないのである。
そんなに面白くない、そんなことは前にもあった。芸術は家族の代わりだ。でも、これは面白い――一緒にいて自分自身を保ち続けること(献身、人生の課題、献身的英雄的行為(ポードヴィグ))。
余白に――〈工場から流れ出たアルコールが粘土に染みこんだ。粘土からアルコールを今、百姓たちが抽出している〉〔1918年五月9日を見よ〕
トゥルゲーネフの女たち(の寄宿学校出のお嬢さんたち)のうちでオヂンツォーワ〔*にいちばん近いのがソーニャ(誰にも冷たい女と思われている点で)だが、実際のところ、彼女のひんやりした腰帯はその秘密を守るだけの役目しか果していない。その秘密が何であるか彼女自身も知らないのである。
「ひょっとしてそれは、あたしの未使用の情熱(ストラースチ)かもよ?」――一度そんなことを言ったことがある。
その秘密をこそ自分は見つけ出さなくては。
*アンナ・オヂンツォーワはトゥルゲーネフの長編『父と子』(1862)のヒロイン。
彼女はわたしの生まれ故郷にやって来た。そしてすぐにわたしのことを理解した。こう言った――『ここは本当に素敵ね。あたしの中には宝が数え切れないくらい眠っていたんだわ。ほんとに吝嗇の騎士*のお金みたいにね』。それを掘り出せるのは彼女だけ……彼女も静かな客としてわたしのところにやって来たのだ――わたしの宝をぜんぶ見て回るために。
*プーシキンの詩『吝嗇の騎士』(1830)。
彼女には亡くなったマーシャ〔プリーシヴィンの従姉、若くして亡くなった。前出〕に似たところがある。彼女は、どんな人間も、どんな仕事も、どんな状況も厭わない。いつも自分自身でいられた――真の貴族(アリストクラートカ)。
あるとき、レーミゾフが言った――独りで寝ている。ぞっとする! 万一に備えて、部屋の隅に棍棒を、ベッドの下に手斧を置いている。以前は人を殺すのは大変だとてもじゃないと思っていたが、今はそう難しいことではないように思っている。こいつは殺したほうがいいという奴の姿が見えてきさえする。精神的道徳的な砂州(ないし危険な暗礁)といったようなもの――至るところ、生ける水(いのちの水)が流れ下る砂と岩と。
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