成文社 / バックナンバー

プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 11 . 18 up
(百三十六)写真はクリックで拡大されます

1918年8月30日

 庭に日が射して、これ以上望むべくもない初秋の静寂があたりを包み、自分は深い幸福感に浸っている(これは春にも味わったと思う)。まわりがみな貧窮の底にあるとき、幸福であるのは恥ずかしいが、逆に居直って〈えいくそ、知ったことか!!〉、おれは……(花が勝ちを制する。花と十字架の格闘、花が勝利するあの運命の夜)。

花は心の自由(恋)、十字架はキリスト教的モラルを指すか? 死後にまとめられた評論集『花と十字架』(2004)は、1906年から1924年の間に新聞その他に発表されたもの(文芸作品、社会批評、日記の断片からなる)。

 あのぞっとするような深夜が自分の勝利のように思われるのは、エフロシーニヤ・パーヴロヴナを思いやる気持がこんなにも高まっているというのに、一方では自分を卑下もせず、ソーニャに対する気持も失うことがなかったこと。しかし人の道として……何と言っても自分が恋した女を自宅に連れてきて、女房の正気を失わせ、愛人の前でヒーローを気取ったあげくに、病人〔妻〕を町へ連れ出して、愛人と生の歓びを満喫したのだから……

 夜半、窓を開け放つ。空が澄んで星が見えた。自分は夜空に(どんなに小さくてもいいから)あの夜のあの月の痕跡を見つけようとした。しかし二人の月はかけらも見つからなかった。新しい月が出ていたら、生活も一新し、きっと月はこれまでとは違う顔でこっちを見下ろしていたことだろう。
 今は日毎に彼女が離れていくようだ。彼女とは関係のない、それ自体が面白いさまざまなことが出来(しゅったい)している。二人が思っていたことがそっくり実現しつつある。何もかも思うどおりになるだろう。とにかく永遠に彼女は自分のものだ。たとえどんなに時が過ぎようと、僕らは会う、会って手を握っただけで……

 三日連続の雨。どこもかしこもじめじめしていて、坐れる場所がない。藁山のそばを通りかかったので、濡れている藁束を振って水気を落とし、それを敷いて、その上に腰を下ろした。公園の向こうから庭の上に、まるで湿気を吸って膨れたような、大きな、緑の月が昇ってきた。ソーニャと自分は藁の上で熱くなり、今にも発火しそうだった。と、不意にがさごそ音がして、鼠が一匹、飛び出してきた。月に照らされた林檎の木の下を慌てて家の方へ走り出すが、こっちもダッシュ! そしてすぐに追いついた。
 「藁を取って!」と囁くように彼女が言う。「ねえ、この藁を取って!」
 わたしは彼女のカーデガンの中に手を入れて、小さな藁を引っぱり出す。 
 「もう一本、もっと下の方に……」
 わたしはさらに下の方に手をやる。
 「まだチクチクする!」
 少々曇らされた理性でもって、自分はさらに奥へ指を伸ばしていく。あたりは湿った草と水気を吸って膨らんだような大きな月。
 「それじゃ、お休みなさい!」そう言って、彼女は自分の部屋に去った。
 取り残された自分は、雄犬のように舌を火照らせ息を弾ませながら、水膨れした月の下に突っ立っていた。落ち込んで、そこらを歩き回った。寝室の子どもたちと濡れた草と水の月とが、わが不在の友の名誉を守っている。藁の女の亭主。
 翌朝、彼女は――あなたにはやさしさと感謝の気持でいっぱいだというようなことを言った。彼女には、概して、情熱的なものより理想的なもののほうがずっと多いのである。

 深夜の別れ。縄をつけられた小さな雄牛。
 彼女のために何か新しい作品を、たとえば戯曲のようなもの書きたくなった。モスクワに行って、そこで仕事をしようと思った。そんなことを思ったのは、彼女に自分が縛られて、ちょうど首に縄をつけられた雄牛のような気がして仕方がないということがあるからだ。縄をぐいぐい引っぱるので、こちらは逃げようとする。こちらが自由圏を広げようとすればするほど、いっそう強く引き寄せられてしまう。もう戻らないと手紙を書く。すると彼女も、待ってます、あなたは必ず帰ってきます、あたしにはわかっているの、と返事をよこす。縄はどんどん短くなり、それを引っぱっている彼女の姿が見えてくる。このまま終点まで行ってはまずいので、次の駅で降りようと荷物をまとめ、腰を下ろしてパイプをくゆらすが、なぜか汽車は臨時停車。気がつくと、そこはプラットフォームではなく、彼女のバルコニーである。主婦はやさしく首から縄をはずし、子牛の耳を摑んで撫でたり搔いたりする。青い炎が上がる。急に発火したのは、炎の中のまだらになった赤いものが次第に大きくなって、それがいつまでも続いて、もうそれが何なのか、さっぱりわからない。火事だろうか? 彼女は燃え盛る火の中にいて、分刻みに顔を変えながら魔法を使っている。さながらそれは、赤や青の光を発する静かな星たちの中の〈われらが天体〔太陽〕〉であった。
 現実の生活に引き寄せられて、自分は一瞬にして理解した――赤も青もなく、自分たちの生活そのものがごちゃごちゃになって、それが手のつけられない狂気じみた行為であること、悪も善も、真理も地獄も、真実も嘘も、みな等しく先祖の守り神(ゲーニー・ローダ)に仕えているのだということを。

 別れぎわの彼女の顔の表情を分析すると、それは神聖にして狡猾、犯罪的で忠実で嘘だらけの率直な女人の顔――大聖堂長司祭パーヴェル・ポクローフスキイの敬虔な子孫たちの社会に生きカルメンだ。

 コムーナは脱穀〔脱穀に強奪の意あり〕する。
 もう二週間以上も見ていないし知らない、知りたくもない。ナロードが何をしどこへ出かけ、どんな動きをしようが、そんなことにはさっぱり関心がない。自分はきょう、やっと、ぼんやりとながら、小窓を通して、閉ざされた空から地下の世界を覗き込んだ気がした。見ていて、じつに馬鹿らしいと思う。屋敷の内庭〔実家〕にいくつも干草の山ができていて、いやな予感がする。山を並べて一挙に火を放とうというのか? 近くで男女の百姓たちが脱穀をやっている。地主の本当の脱穀場は池の向こうにあるのだが、そっちは空っぽで、目下近づけない状況にある。菜園もあるが、今はそこに燕麦が植えられている。脱穀作業を見ていた。以前は百姓が1人でやっていたが、今は3人がかり。1人当て20コペイカ払ったものだが、現在は日当1人6ルーブリになる。脱穀機から出てくる藁を取り出す者、それを運び出す者。穀は湿っていて、まだ青い。わたしは年寄りの主人みたいに首を振ったり、にこっとしたりして、作業を眺めている。まわりで笑い声が起こる。わたしは質問をぶつけてみた――
 「誰のためにそんなに頑張っているんだい? 主人は誰?」
 「イワン・ヴェートロフのためさ」と、みなが答える。「わしらの主人は今は一人だけだ。イワン・ヴェートロフだよ」

 こめかみの辺が白くなりかけた今ごろになって(しかも故郷で)しかも突然、自分は思った――真(まこと)の友を求めてあんなによその国を歩き回ったのは、まったく無駄だったのではと。不思議の国は自分の身近にあったし、われわれは互いが互いのためにこの世に生を享けたのである。そしてそのとき、よその土地があんなに強く自分を惹きつけた理由がわかった。つまり、遠いのものが遠く離れた到達し難い土地により近いと思われたのだ。だが、自分の土地に戻ってきたとき、その貧しい男は、地上には生まれ故郷より素晴らしい土地はないと知ったのである。

プリーシヴィン特有の旅あるいは放浪への欲求(憧れ)は彼の愛の哲学やドーム(自然の家)の思想と深く関わっている。「未知への出立は不思議な出会いへの機縁となる。そして世界がきみのドームとなる」(1940)

 わたしの好きなアレクサンドル・ミハーイロヴィチは素晴らしい人間で夢想家であるが、その夢想には何かしらこちらを苛立たせるものがある。それは何だろうと自分は考えた――彼は自分の夢を超えようとするが、〔人〕生の暗い奈落を覗くことに失敗し(わたしが覗いたようにはうまくいかず)、新たな夢にからめ取られると、それが彼を飛び越えて彼をさっさとどっかへ運び去ったのではないか。要するに彼は生〔の意味〕を知らないし、知ることができない。彼は働く人間で、自分などよりずっと重く辛いものを知っていた。だが、焦り過ぎたのか尻に火がついたのか、生活に順応するために適当なところで手を打ったから、理想主義者(イデアリスト)に留まるしかなかったのだ。きっとそれがわたしを苛立たせ、彼の内に二重の存在をつくり上げてしまったのだろう。生活に順応するおのれの器用さを決して他人(ひと)には見せないが、むしろそのために打ち勝ち難き夢想家=理想家なのである。しまいには、殴る(ビッチ)ことも愛する(リュビッチ)こともできない奴になった。たぶんそこらから、彼の妻――美しい完璧な女――の悲劇も生まれたのだ。彼の意に従いはしたものの、心の底を見せようとしない不誠実な人間には完全に身を委ねることができず、他の人を愛してしまう。でも、夫との関係を絶ち切れないのは、やはり愛しているから。そんな彼でも愛さずにはいられないのだ。彼との関係を絶つためには自分自身を〈フィジカルに〉引き裂くか、あっさり手斧で自分をぶった切るかしなくてはならない。しかしそれはできない相談なので、自分の胸の奥にすべてを押し込み、彼との間に二重にも三重にも壁をつくって、もっぱら自らを慰めるために、できるだけ彼に(〈心の準備をさせるため〉)話しかけるようにしている……

 嘆かないで、泣かないで、愛しい人よ。どうか〈澱(おど)み〉のある僕らの罪に徒らに動揺しないで、振り回されないでくれ。結局、そんな罪は誰かが僕らを縛ろうとする縄の結び目にすぎないのだから。

 ナナカマドが一本、トネリコの下に生えている。4月にそれは、小さな指を広げたような〔ちょっと入り組んだ〕葉をつけ始めた。トネリコはまだ裸のまま、その上にひょろりと立っていた。最後に葉をつけるのがトネリコだ。ナナカマドをうっとりと見下ろすように立っているトネリコは、5月に入ってようやくナナカマドと同じくらい大きさの、ちょっといる組んだ、光を透す葉を身にまとう。そのときナナカマドは、慎ましい白い小さな花を咲かせた。9月末に初雪が降った。するとトネリコから掌ほどの大きな葉がぱらぱら落ちて、たちまちナナカマドを覆ってしまう。緑の葉の下から顔を出したのは、ナナカマドの真っ赤な実であった。

 反ロマン。彼女はわが友の妻。自分は男として彼女に何も感じないし、女という思いを抱くことを自分に許していない。では、彼女は自分の何なのだ? 血を分けし者、すなわち親類(ロドニャ)――友だちの妻であり、幸せな家庭に閉じ込められた2児の母である。ペテルブルグから帰ったばかりのころ、通りでばったり会った。ご亭主はどうしてます? 食糧事情は? 自分は向こうで何も食べられなかったとか、そんな話をした。
 「きょう、うちへおいでください」と、彼女は言った。「ご馳走しますよ」
 わが友はわたしから花嫁(ニェヴェスタ)を引き離した。だが、まあいいさ。教会で彼らが結婚式を挙げたとき、自分は何とか涙を抑えることができたが、1年後、「勝手にしやがれ!」と思い、2年後には自分が独身であることを神に感謝した。5年後に客として招ばれた。彼は不在で、彼女と自分は思い出に浸った(藁しべ)。わが友の名誉は救われた。自分は、5年前に彼が自分を裏切ったようには、彼の信頼を裏切らなかった。

以下の文章は明らかに言い過ぎである。コノプリャーンツェフ夫妻の結婚と生活にプリーシヴィンはそれほど深くは関わっていない。事実にそぐわない。

8月31日

 よく憶えているが、ペトロフ=ヴォートキンは革命の最中(さなか)に林檎の絵を描いた。そしてあとでわたしに、なぜまたよりによって革命の最中に林檎を描いたのか話してくれた。愛しい人よ、僕らの愛だって革命の最中に生まれたのだよ(第一に、時が恐ろしい速さで過ぎていった。何もかも壊されて、僕らは生き残るために最後の力を振り絞ったから、ほかのときには思いもしないような、つまり暇なときにしか考えられないような行動を起こしたのだ)。

友人の画家ペトロフ=ヴォートキンの「林檎とサクランボ」(1917)。これはプリーシヴィンの「芸術と革命」のテーマ。

 愛しき人よ、これで終わり、あとは墓場だなどと思わないでくれ。この転落は僕らの永い愛にとって避けることのできない始まりなのだ。このあと必ず僕らは夢にも見なかった高みに昇る。今は僕らの神に――最後の最後に僕らの近親者たちを不幸にすることを許さなかった神に感謝しよう。なぜ僕らが闇の底に落ちるのか、きみは知ってるだろうか? 暗くてものがよく見えないのは、僕ら自身の弱い、力のない目でじかに愛の火を見ようとしているからなんだ。でも、これからはもうそんなことはない……僕らはこれまでのように、これからも生きていく――きみはきみの家族と、僕は僕の物語と。でも、僕らの暮らしの瑣末さ・くだらなさは、どれも僕らの愛の光に照らし出されなくてはならないんだ。

 きょう彼女にぜひ話したいと思うのだが、どうやらそれは気分だけのよう。言葉そのものに、沸き立つ地下の激情(ストラスチ)を超える力が、何かを実証する力がない。

 女における〈悪の闇からキリストの光へ〉をスヒマ的に理解すること。女には誰しも特別な隠された才能があって、そこからすべて成長発展するのだが、そもそもその才能とは? 女の才能とは何だろう? うちの姉〔リーヂヤ〕にはそれがない。

スヒマ――ギリシャ正教で苦行的戒律を発願した修道士(女)の最高位。

 彼女〔ソーニャ〕の才能の第一は、僕を高く評価すること。僕がもし自分のためだけに彼女を愛するなら、それはエゴイズムだが、そうではない。僕が評価しているのは、彼女の基本的性格と繊細でやさしい心だ。

 ときどき思うのだが、姉があんなに意地が悪いのは、善と悪ははっきりと見きわめているのに、それとどう関わりどう行動していいのかわからず、悪意の狂暴さに身を任せてしまうところ。彼女はその力を心なごますものに変えるにはあまりに激情的と言うか、賢すぎるのだ。彼女はわが女性たちの初期の(端緒となる)のタイプなのかも。母は娘の精神状態を「狂暴」と定義した。その理由は「結婚しなかったから」。

 フェヴローニヤはリーヂヤと同じ(かなり近い)カタストロフィーを有していたけれど、なぜか(なぜだろう?)自分の激情を(あのまま行ったら娼婦になっていたかも)そっくりアムヴローシイ師にぶつけ、彼を自分の許婚と見なして身を捧げたのである。

プリーシヴィン家の隣人、修道女となった。

 二人は福音書の女たちのようだ。一人は暗く、一人は手に燭台を持っている
 処女のタイプ――マーニャ〔俗名マリヤ〕・フルシチョーワ(アナトーリイの母)、従姉のマーシャとドゥーニチカ。

マタイによる福音書第25章-12節。「十人のおとめ」のたとえ。婿を迎える賢い5人の娘と愚かな5人の娘。

 二つの暗いタイプ。闇の底に横たわるリーヂヤ、傲慢と嘘の奈落にはセラフィーマ・パーヴロヴナ・レーミゾワ(〈複雑なタイプ〉)、マルーシャ・スピリドーノワ〔マリヤ・スピリドーノワは革命家、左派エスエル党指導者〕。
 最終決定は美に味方するが、それはわれわれの手に及ばぬこと。耽美主義者たちの罪は彼らがその権利をわが身に引き受ける、つまり美を好き勝手にあげつらう〔とやかく論ずる〕ところにある。

9月1日

   別離と逢瀬(悲しみと歓び)。

 ソスナー川のガチョウを思い出す……水の火花、波の撥ねる音。二人もまったく同じ、活発にして静かな喜び。愛は運動だ。最も静かな愛でさえ運動だ――流れる水の深み(ローノ)のような。

 僕らはよく生活のことで冗談を言った。よく嗤った――1サージェンごとに闘争が繰り広げられている土地のこと、法と裁きが泥棒と札付きの殺人者の手中にある大地のこと、略奪され火をつけられて、土台まで破壊された家屋敷から持ち主たちがみな逃げだしたこと、裁判抜きの銃殺や、窓の明かりを標的に発砲してきた夜のことなどを思い出した。それから土地の分割をめぐるこの嵐の時代に、境界や畦を無視して屋敷から屋敷へ、公園から公園へ、毎日、高笑いと喚声と、キスするためにたえず足を停め、ありとあらゆる悪ふざけをするためにたえず足を停めながら、衆人環視の中をひと組の男女が闊歩していたのを思い出した。本物の紳士と本物のマダムである。彼らは手に手を取って、しかも特別誂えの立派な装い、いかにも文化人らしい態度物腰だが、じつは〈法律の保護外に置かれている〉男女なのでだった。彼らは自分たちのことしか頭になかった。世界は二人だけのために在ると思っているようだった。打ち続く動乱で分別も何もなくしてしまった道行く農民たちは、昔の旦那(バーリン)時代の幽霊の出現にびっくりして、急に足を停めてしまう。男と女が笑っているのを見て、どうしていいやらわからず、固い前びさしの帽子を取ったりするが、主人たちは愛想よく頷いて、やあこんにちは、諸君……

 幸せ者が何のために他人(ひと)の生活を観察するのかわからない。幸せ者は傘をさして歩いているようだ。上から落ちてくる水は少しも彼を濡らさず、脇へ滑り落ちて行く。不幸せな人間は最悪最低の不幸に行き着いて、もうこれ以上ひどくはならないだろうと思ったとたん、強風に煽られてバサッと傘が裏返る。そして全身ずぶ濡れだ。

 娘たち――まったく汚れを知らぬ、つまり誰よりも〈愛〉に相応しい若い娘たちは、心が動けば恋は始まるが、本当のところ相手が何者かわからない。判断ができない。やはり愛の顔が見えないか、顔が人を誤らせるかするのである。顔は愛にはなく、非愛〔の世界〕が生んだ強い要求、自己主張なのである。で、それは同時にこの強い要求を持つ愛(永遠に、顔)だけが愛だというのは筋が通っている。  愛は個のための闘争である。
 ワルワーラ・ペトローヴナ〔イズマルコーワ〕はいい例だ。20歳で恋に落ちた女は言う――「わたしの最も素晴らしいもの、そうですわ、わたしの最も素敵なものはあなたとともに永遠に残ります!」。それが35歳になると、こう書いてよこす――「わたしの最良のものをわたしから奪うことなど誰にもできません。それはいつもわたしだけのものですから

これは1912年にプリーシヴィンが受け取ったワルワーラ・イズマルコーワからの手紙についてのもの。彼女に贈った本の添書き――「ご自身がおっしゃった言葉を憶えておられますか? もう忘れておしまいですか? でも僕はあなたの言葉――『あなたとの最も素晴らしいもの』を忘れていません。今その『あなたとの最も素晴らしいもの』が心からの挨拶を送ります」。これに対するワルワーラの返事――「あなたのご本とお手紙を受け取りましたが、すぐにご返事できませんでした。なぜなら、ご本の一つにあった添書きに気分を害したからです。あなたはどういう権利があって、わたしの中の最良のものをご自分だけのもののようにおっしゃるのでしょう? ミハイル・ミハーイロヴィチ、いいですか、わたしの最良のものはわたし自身のものだったし、生涯わたしのものです。他人が奪うことはできません。それに、髪も白くなった女が二十歳の娘の言ったことや行為に責任など持てるものでしょうか? あまりに時が過ぎました。ミハイル・ミハーイロヴィチ、今あなたとお会いしたら、きっとお互いを見分けることもできないでしょう」(ワレーリヤ・プリーシヴィナ『言葉への道』から)

 『顔見知りだが、それほど親しいわけでない二人の人間が、思いがけず急に(ほんのちょっとしたことで)親しくなることがたまにある。そうした意識はすぐに二人のまなざし、愛想のいい静かな笑い、身体の動き(しぐさ)などに表われる』(トゥルゲーネフ『貴族の巣』)。 

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


成文社 / バックナンバー