2012 . 11 . 18 up
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*花は心の自由(恋)、十字架はキリスト教的モラルを指すか? 死後にまとめられた評論集『花と十字架』(2004)は、1906年から1924年の間に新聞その他に発表されたもの(文芸作品、社会批評、日記の断片からなる)。
夜半、窓を開け放つ。空が澄んで星が見えた。自分は夜空に(どんなに小さくてもいいから)あの夜のあの月の痕跡を見つけようとした。しかし二人の月はかけらも見つからなかった。新しい月が出ていたら、生活も一新し、きっと月はこれまでとは違う顔でこっちを見下ろしていたことだろう。
今は日毎に彼女が離れていくようだ。彼女とは関係のない、それ自体が面白いさまざまなことが出来(しゅったい)している。二人が思っていたことがそっくり実現しつつある。何もかも思うどおりになるだろう。とにかく永遠に彼女は自分のものだ。たとえどんなに時が過ぎようと、僕らは会う、会って手を握っただけで……
深夜の別れ。縄をつけられた小さな雄牛。
彼女のために何か新しい作品を、たとえば戯曲のようなもの書きたくなった。モスクワに行って、そこで仕事をしようと思った。そんなことを思ったのは、彼女に自分が縛られて、ちょうど首に縄をつけられた雄牛のような気がして仕方がないということがあるからだ。縄をぐいぐい引っぱるので、こちらは逃げようとする。こちらが自由圏を広げようとすればするほど、いっそう強く引き寄せられてしまう。もう戻らないと手紙を書く。すると彼女も、待ってます、あなたは必ず帰ってきます、あたしにはわかっているの、と返事をよこす。縄はどんどん短くなり、それを引っぱっている彼女の姿が見えてくる。このまま終点まで行ってはまずいので、次の駅で降りようと荷物をまとめ、腰を下ろしてパイプをくゆらすが、なぜか汽車は臨時停車。気がつくと、そこはプラットフォームではなく、彼女のバルコニーである。主婦はやさしく首から縄をはずし、子牛の耳を摑んで撫でたり搔いたりする。青い炎が上がる。急に発火したのは、炎の中のまだらになった赤いものが次第に大きくなって、それがいつまでも続いて、もうそれが何なのか、さっぱりわからない。火事だろうか? 彼女は燃え盛る火の中にいて、分刻みに顔を変えながら魔法を使っている。さながらそれは、赤や青の光を発する静かな星たちの中の〈われらが天体〔太陽〕〉であった。
現実の生活に引き寄せられて、自分は一瞬にして理解した――赤も青もなく、自分たちの生活そのものがごちゃごちゃになって、それが手のつけられない狂気じみた行為であること、悪も善も、真理も地獄も、真実も嘘も、みな等しく先祖の守り神(ゲーニー・ローダ)に仕えているのだということを。
コムーナは脱穀〔脱穀に強奪の意あり〕する。
もう二週間以上も見ていないし知らない、知りたくもない。ナロードが何をしどこへ出かけ、どんな動きをしようが、そんなことにはさっぱり関心がない。自分はきょう、やっと、ぼんやりとながら、小窓を通して、閉ざされた空から地下の世界を覗き込んだ気がした。見ていて、じつに馬鹿らしいと思う。屋敷の内庭〔実家〕にいくつも干草の山ができていて、いやな予感がする。山を並べて一挙に火を放とうというのか? 近くで男女の百姓たちが脱穀をやっている。地主の本当の脱穀場は池の向こうにあるのだが、そっちは空っぽで、目下近づけない状況にある。菜園もあるが、今はそこに燕麦が植えられている。脱穀作業を見ていた。以前は百姓が1人でやっていたが、今は3人がかり。1人当て20コペイカ払ったものだが、現在は日当1人6ルーブリになる。脱穀機から出てくる藁を取り出す者、それを運び出す者。穀は湿っていて、まだ青い。わたしは年寄りの主人みたいに首を振ったり、にこっとしたりして、作業を眺めている。まわりで笑い声が起こる。わたしは質問をぶつけてみた――
「誰のためにそんなに頑張っているんだい? 主人は誰?」
「イワン・ヴェートロフのためさ」と、みなが答える。「わしらの主人は今は一人だけだ。イワン・ヴェートロフだよ」
*プリーシヴィン特有の旅あるいは放浪への欲求(憧れ)は彼の愛の哲学やドーム(自然の家)の思想と深く関わっている。「未知への出立は不思議な出会いへの機縁となる。そして世界がきみのドームとなる」(1940)
嘆かないで、泣かないで、愛しい人よ。どうか〈澱(おど)み〉のある僕らの罪に徒らに動揺しないで、振り回されないでくれ。結局、そんな罪は誰かが僕らを縛ろうとする縄の結び目にすぎないのだから。
ナナカマドが一本、トネリコの下に生えている。4月にそれは、小さな指を広げたような〔ちょっと入り組んだ〕葉をつけ始めた。トネリコはまだ裸のまま、その上にひょろりと立っていた。最後に葉をつけるのがトネリコだ。ナナカマドをうっとりと見下ろすように立っているトネリコは、5月に入ってようやくナナカマドと同じくらい大きさの、ちょっといる組んだ、光を透す葉を身にまとう。そのときナナカマドは、慎ましい白い小さな花を咲かせた。9月末に初雪が降った。するとトネリコから掌ほどの大きな葉がぱらぱら落ちて、たちまちナナカマドを覆ってしまう。緑の葉の下から顔を出したのは、ナナカマドの真っ赤な実であった。
反ロマン。彼女はわが友の妻。自分は男として彼女に何も感じないし、女という思いを抱くことを自分に許していない。では、彼女は自分の何なのだ? 血を分けし者、すなわち親類(ロドニャ)――友だちの妻であり、幸せな家庭に閉じ込められた2児の母である。ペテルブルグから帰ったばかりのころ、通りでばったり会った。ご亭主はどうしてます? 食糧事情は? 自分は向こうで何も食べられなかったとか、そんな話をした。
「きょう、うちへおいでください」と、彼女は言った。「ご馳走しますよ」
わが友はわたしから花嫁(ニェヴェスタ)を引き離した*。だが、まあいいさ。教会で彼らが結婚式を挙げたとき、自分は何とか涙を抑えることができたが、1年後、「勝手にしやがれ!」と思い、2年後には自分が独身であることを神に感謝した。5年後に客として招ばれた。彼は不在で、彼女と自分は思い出に浸った(藁しべ)。わが友の名誉は救われた。自分は、5年前に彼が自分を裏切ったようには、彼の信頼を裏切らなかった。
*以下の文章は明らかに言い過ぎである。コノプリャーンツェフ夫妻の結婚と生活にプリーシヴィンはそれほど深くは関わっていない。事実にそぐわない。
*友人の画家ペトロフ=ヴォートキンの「林檎とサクランボ」(1917)。これはプリーシヴィンの「芸術と革命」のテーマ。
きょう彼女にぜひ話したいと思うのだが、どうやらそれは気分だけのよう。言葉そのものに、沸き立つ地下の激情(ストラスチ)を超える力が、何かを実証する力がない。
女における〈悪の闇からキリストの光へ〉をスヒマ的*に理解すること。女には誰しも特別な隠された才能があって、そこからすべて成長発展するのだが、そもそもその才能とは? 女の才能とは何だろう? うちの姉〔リーヂヤ〕にはそれがない。*スヒマ――ギリシャ正教で苦行的戒律を発願した修道士(女)の最高位。
ときどき思うのだが、姉があんなに意地が悪いのは、善と悪ははっきりと見きわめているのに、それとどう関わりどう行動していいのかわからず、悪意の狂暴さに身を任せてしまうところ。彼女はその力を心なごますものに変えるにはあまりに激情的と言うか、賢すぎるのだ。彼女はわが女性たちの初期の(端緒となる)のタイプなのかも。母は娘の精神状態を「狂暴」と定義した。その理由は「結婚しなかったから」。
フェヴローニヤ*はリーヂヤと同じ(かなり近い)カタストロフィーを有していたけれど、なぜか(なぜだろう?)自分の激情を(あのまま行ったら娼婦になっていたかも)そっくりアムヴローシイ師にぶつけ、彼を自分の許婚と見なして身を捧げたのである。*プリーシヴィン家の隣人、修道女となった。
*マタイによる福音書第25章-12節。「十人のおとめ」のたとえ。婿を迎える賢い5人の娘と愚かな5人の娘。
ソスナー川のガチョウを思い出す……水の火花、波の撥ねる音。二人もまったく同じ、活発にして静かな喜び。愛は運動だ。最も静かな愛でさえ運動だ――流れる水の深み(ローノ)のような。
僕らはよく生活のことで冗談を言った。よく嗤った――1サージェンごとに闘争が繰り広げられている土地のこと、法と裁きが泥棒と札付きの殺人者の手中にある大地のこと、略奪され火をつけられて、土台まで破壊された家屋敷から持ち主たちがみな逃げだしたこと、裁判抜きの銃殺や、窓の明かりを標的に発砲してきた夜のことなどを思い出した。それから土地の分割をめぐるこの嵐の時代に、境界や畦を無視して屋敷から屋敷へ、公園から公園へ、毎日、高笑いと喚声と、キスするためにたえず足を停め、ありとあらゆる悪ふざけをするためにたえず足を停めながら、衆人環視の中をひと組の男女が闊歩していたのを思い出した。本物の紳士と本物のマダムである。彼らは手に手を取って、しかも特別誂えの立派な装い、いかにも文化人らしい態度物腰だが、じつは〈法律の保護外に置かれている〉男女なのでだった。彼らは自分たちのことしか頭になかった。世界は二人だけのために在ると思っているようだった。打ち続く動乱で分別も何もなくしてしまった道行く農民たちは、昔の旦那(バーリン)時代の幽霊の出現にびっくりして、急に足を停めてしまう。男と女が笑っているのを見て、どうしていいやらわからず、固い前びさしの帽子を取ったりするが、主人たちは愛想よく頷いて、やあこんにちは、諸君……幸せ者が何のために他人(ひと)の生活を観察するのかわからない。幸せ者は傘をさして歩いているようだ。上から落ちてくる水は少しも彼を濡らさず、脇へ滑り落ちて行く。不幸せな人間は最悪最低の不幸に行き着いて、もうこれ以上ひどくはならないだろうと思ったとたん、強風に煽られてバサッと傘が裏返る。そして全身ずぶ濡れだ。
娘たち――まったく汚れを知らぬ、つまり誰よりも〈愛〉に相応しい若い娘たちは、心が動けば恋は始まるが、本当のところ相手が何者かわからない。判断ができない。やはり愛の顔が見えないか、顔が人を誤らせるかするのである。顔は愛にはなく、非愛〔の世界〕が生んだ強い要求、自己主張なのである。で、それは同時にこの強い要求を持つ愛(永遠に、顔)だけが愛だというのは筋が通っている。 愛は個のための闘争である。*これは1912年にプリーシヴィンが受け取ったワルワーラ・イズマルコーワからの手紙についてのもの。彼女に贈った本の添書き――「ご自身がおっしゃった言葉を憶えておられますか? もう忘れておしまいですか? でも僕はあなたの言葉――『あなたとの最も素晴らしいもの』を忘れていません。今その『あなたとの最も素晴らしいもの』が心からの挨拶を送ります」。これに対するワルワーラの返事――「あなたのご本とお手紙を受け取りましたが、すぐにご返事できませんでした。なぜなら、ご本の一つにあった添書きに気分を害したからです。あなたはどういう権利があって、わたしの中の最良のものをご自分だけのもののようにおっしゃるのでしょう? ミハイル・ミハーイロヴィチ、いいですか、わたしの最良のものはわたし自身のものだったし、生涯わたしのものです。他人が奪うことはできません。それに、髪も白くなった女が二十歳の娘の言ったことや行為に責任など持てるものでしょうか? あまりに時が過ぎました。ミハイル・ミハーイロヴィチ、今あなたとお会いしたら、きっとお互いを見分けることもできないでしょう」(ワレーリヤ・プリーシヴィナ『言葉への道』から)
text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk