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プリーシヴィンの日記 太田正一
2012 . 11 . 04 up
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(1918年7月21日――〈ロマンの始まり〉の続き)
心と体。愛は肉欲から始まるのではない。初めは手、それから唇へと、徐々に、文字どおり〈肉化〉していくのだ。たぶん彼女〔ソーニャ〕の心に断裂――男のほうも女のほうもこれ以上やっていけない――が生じていて、体のほう(つまり夫、妻、習慣、子どもたち)はこちらとよく似た状況に……
だから彼女はこんなことを言ったのである――
「今というのではないけれど、いつか、あたしはあなたと互いの経験を分け合ったら、そこに(心の愛と肉欲との間に)橋が架かります」
自分は罪を犯していると思っているが、きみは彼ら〔夫その他〕を責めている。
この先どうなるのだろう?
互いが心を通わすようになったのは、互いが恐ろしく孤独だったためである。もし二人が互いに高め合っていけば、恥ずかしいと思うこともなくなるのだろうか?
こうして〔感情も知覚も〕鈍麻していくのだ――何もかもが。
問題は彼女のわたしの仕事への関わり方だ。わたしに影響力を及ぼすなら、当然、自分は自由のままではいられなくなる。
どうすれば女性のために奉仕できるのか。生まれて初めて……いやまったく、人生はじめての経験だ。彼女は、アレクサンドル・ミハーイロヴィチ〔夫〕に自分のために働く非常に賢い人(家庭的な意味で)を見出し、それを最後まで利用したということだろう。もう二人の間に子どもはできないし、その先は行き止まり。彼はよく気のつく働き者、彼女は自分の子どもたちの家庭教師(グヴェルナーントカ)だ。そして彼も彼女をそれ以上には買っていない。彼は彼女に(『からっぽを埋めるために』)仕事をせよと説くが、彼女は彼女で、夫の言うエレーツ市(の自治体)の再生など少しも信じていないのである。
これでは〈ミーハー娘〉が――「あたし、男としてあの人が好きなの」と言うのと変わらない。似たようなことを、わが飢えたるコーザチカ〔モスクワの隣家の娘〕も、短剣(キンジャーリ)を下げたカッコいいカフカース人を指して言ったことがある。
NB. 欺瞞だ。ここには、一つの世界が、それなしには理解できない彼女の過去がある。
彼女のわたしに対する評価は(むろんアレクサンドル・ミハーイロヴィチへの反発からだが)、真っ正直に心と心を通わす勇気、どこにいても彼女と共にあろうとする、持って生まれた自然な情熱、らしい。
彼女は夫を無視するわたしの態度が好きでなかったようだが、それは嘘。わたしはそうした態度を彼女に対して取っていたのだ。だから彼女は以前はわたしが好きでなかったのである。わたしは彼女を〈しっかり者の司祭の娘〉、アレクサンドル・ミハーイロヴィチの守護天使と見なしていたし、彼にとっても彼女は理想的な〈安息の地〉だろうくらいに思っていた。自分が関わっているエレーツでの活動を理想化するように理想化するのと同じように、彼女を理想化していたのだ。わたしは彼女に過去があることを知らなかった。あるとき、ふと振り向いて相手の顔を覗いた。そして忽然として〈過去〉を知る。過去は過去でもそれは彼女の過去ではなく、騙して家庭をめちゃくちゃにしたのは彼のほうであるように思われた。自分はそれがとても不快で、それで何もかも見えなくなってしまった。
今や彼女――かつてこのわたしに無視されていた司祭の娘は、わがコーザチカを指先でぽいと窓の外に弾き飛ばし、わが避難所たるエフロシーニヤ・パーヴロヴナを逃げ場もないところに追い詰め、おのれの宗教的出自を叙事詩(ポエーマ)のごとく描いて見せた。そんなことになるとは、こちらは夢にも思わなかった。
彼女が『あなたとは仲良くなれるわ、お友だちになりましょうね』と言ったとき、わたしは心の中で呟いた――『ほう、これはまたどういう風の吹きまわしだ!』。しかし数日後には、彼女以上に心を許せる存在はないとわかったのである――今こそ決断しよう!
彼女の本性には内に秘められた限りないやさしさがあり、そこに未来の関係の危うさ(はらはらドキドキ)もあるように思われた。沈めん、安息。彼女の性格(ナトゥーラ)に恋愛の、しかし揺るぎないしっかりした意思(ウカザーニエ)は見つかるだろうか?
サーシャ〔アレクサンドル・ミハーイロヴィチ〕の悲劇を彼女はすぐに理解した。サーシャを愛してはいなかったが、一個の人間として彼を愛さないことはできなかった。そういう性分なのだ。
わたしがサーシャの若いころの話をすると、彼女はすぐにそれが女にまつわることだと見抜いて、つい自分の本音を洩らしてしまう。もともとそんな性分なのである。
だが、これだけははっきりしている――彼女とは〈コーザチカたち〉と別れたようには決して別れないということ。家族関係の複雑さを自分はどう見ているか――考えられる情熱の狂気と精一杯(とことん)戦うなら、いずれ正しい道は示されるはず〔そう思っている〕。
自分は〔焦がれて〕〈干上がったり〉はしない。干上がってしまうのは物質的〔肉体的〕繁殖の情熱〔のほかには〕何もない連中だ……
彼女はわたしのヒロイン、真昼間に輝く星であれ……若い人のように手紙を書いている。自分は45歳、相手は35歳。見よ、この奇跡!
さらにわたしたちは語った――こっちの愛は(彼女とわたしの愛は)自尊心(サモリュービエ)の戦いだ。決して結ばれないが、しかしあっちの愛(家庭の)も似たようなもの、かりそめの(死ぬまで続くわけでない)愛ではないか。
7月27日
こんな気持で戦うことはできない。なぜなら、気持が勝手に現実を理想化していまうから。妻は美しくチャーミング、ところが実際は、更紗のチェックの毛布と同じで、あっちもこっち継ぎはぎだらけ。今こっちには継ぎなど一つもない。何もかも新しく、しかも非常に深い……あっちは計算ずく打算ずくだが、こっちには信がある。愛しながらも自分は、彼女の内なる不信を一つとして許すことができない。
夫のことで彼女を嫉妬することは絶対ない。自分にとってそれは(〈生理的要求〉)ほどには重要でないようだ。ただ向こう〔彼女の夫〕が自分で彼女の心を暖炉(ペーチ)の自在蓋のように塞いでしまったらと、懸念するのはそれだけだ。
お喋りムクドリ。
お喋りムクドリがイワン神父の家で飼われていた。坊さんは女房のひどい虐待に泣かされていた。それでよくムクドリに向かって(もちろん女房がいないときにだが)――『ああ、まったくひどい暮らしだよ、イワン神父!』と語りかけたものである。
あるとき、そのムクドリが籠から逃げた。飛んでいった先は定期市(ヤールマルカ)。市にはキビの入った袋が置いてあり、ムクドリはその袋にもぐり込んだ。そして猛然と啄ばみだした。キビの持ち主である百姓が戻ってきて、何も知らずに袋を担いで街道に出た。かんかん照りの暑い日で、百姓はふうふう言いながら、やっとこさ歩いていた。と不意に、背中で人の声――
「ああ、まったくひどい暮らしだよ、イワン神父!」
社会にとって必要な顔(仮面)をつくるには、やはり、おのれの内なる〈Я〉の出費が要求され、多くの仮面が多額の出費が求められる。多くの仮面を持つために、女優などはおのれのすべてを支出せざるを得ない。生きていてもつまらないが、それでも生きていかねばと、女優はみんなのために手早くひとつの仮面を選ぶのである。
家の窓敷居やテラスの手すり、庭や公園の木の幹から彼女の手のぬくもりが消えないうちに、丘の上の彼女が踏んだ草の茎が元に戻らないうちに、彼女がいい加減に積み上げた干草に干草の持ち主である百姓の手が触れないうちに、彼女が摘んだ花がまだテーブルの上で萎れてしまわないうちに、自分はそのぬくもりを残らず急いで思い出し、彼女の面影を追うことにしよう。
自分はそんな情熱を少しも恐れていない。
セミヴェールヒの盆地で、夕方、涸れた川床を、好きな小石を拾いながら子どもたちが駆けていく。丈高い槲の影と影の間の、まだ日の当たっているあたりに小さな蚊柱が立っている。丘の向こうでは農家の娘たちが燕麦を刈っては束ね刈っては束ね――
フキタンポポ、うす紫のフウリンソウ……
春先にはぞっとすることばかりだった。槲や白樺の林が伐採され、今はそこに青いフウリンソウの花が切株を隠さんばかりに咲いている。いちめん青く美しい野原の、挽かれた切株の一つに彼女は腰かけて、よくこんなことを繰り返したのだった――
「ねえ、どうしてあなたはあたしに黙ってらしたの? 本当にここは素敵ね。どうしてこんな美しい場所を教えてくれなかったの? お百姓たちがみな獣みたいになったとお話しなさったけど、でも、向こうであたしたちにお辞儀をしているわ、それにあの大きな人はどうでしょう、ほら見て、小さな病気の女性をやさしく抱いて……あの人たちはどこへ行くのかしら? 病院? ああなんてやさしい人たち! ここの人たちはほんとに素晴らしい人たちね」
おお、自分はこの情熱を少しも恐れてはいない。自分は幸せを手にしたのだ。自分は正しい。
初めに天空のプロローグ。どうしてそうなったのか、よく憶えていない。わかっているのは、ひとこと聞いただけで二人が互いの気持をすぐ理解したこと、うっかり手と手が触れ合ったとき、『あ、失礼!』と言うべきなのに、なぜか何も言わなかったこと。そうだ、まさにそのとき、彼女の手に触れたいという気持が生まれたのだ。そしてそれがどんどん募っていって、キスをしたい体にも触れたいと……大胆にも二人はそこで甘美な毒に浸かってしまった。彼女の体にキスしようとしたとき、ふと自分は、彼女の着ているものを引き裂きたい衝動に駆られた。でも何が自分を引きとめたのか? 太陽が見ているので恥ずかしい気がした。それに日向で見る彼女は少しも美しくなく、どこか不自然で醜くかった。顔が歪んで……自分は息を殺した。そして思わず、彼女のパンティの白いレースの端を黒いスカートで覆ってしまった。
ただわからないのは、誰がそこで自分に手を差し伸べたかだ――アレクサンドル・ミハーイロヴィチの守護天使か、それとも悪魔の誘惑者か? そのどちらかだと思うのもずいぶん妙な話である。彼がたった今ここへやって来るなら、かえって吉兆かも。そうでなければ、抑えつけられた欲望はどんどん強まってどんな障害物をも破壊してしまうにちがいない。なぜかと言えば、欲望は蒸気のようには閉じ込められないから。閉じ込めようとすれば、壁に大きな圧力がかかって……ではどうするか、暖炉の焚口を開けるか、火を消すか?
彼女の言葉――
「あの人〔夫のアレクサンドル〕は愛してるけど、あなたは恋してるんだわ。恋は愛より強い。だからあなたは輝いているのよ」
自分もそう思っていた――彼女は夫を愛し、自分には恋をしているのだと。もしいろいろあったあとで、わたしがきみの夫になったら、わたしはきみを心静かに愛して、彼のようにきみに仕えるだろうね。
さらに彼女の言葉――
「あなたの愛とアレクサンドル・ミハーイロヴィチの愛は同じ種類の愛。あなたの愛がより強いのはそれはそれでいいけれど、あなたのは一つのタイプ、あちらは(有史以前の)まったく別のタイプ、イデアリズムのない愛なのです」
そのときふと思い出した――かつて、ほんのさらりと、指輪を嵌めた女のことを書いたのだが、それにアレクサンドル・ミハーイロヴィチがいたく興味を示したのだった。たいして気にも留めなかったが、でも今なぜか思い出した。
愛における最高目的(イデア)とキスの役割。イデアは黄葉のようにばら撒かれるが、キスは赤い花の種子である。
肝腎なもの――それを分析解明する必要あり。彼女は乱暴や強要に耐えられないが、同時にそのことに快味(かいみ)を感じて、秘かにそれを求めている。そしてそれを見出すと自分の高潔(イデアル)なる友人たち(シュービンスキイ)の闘いに加勢を申し出て、(〈面当てに〉)そのうちの一人(アレクサンドル・ミハーイロヴィチ)の言いなりになって、より正確には、強要する者に身を任すことなく彼と結婚してしまう。
わたしは彼女にブロークの叙事詩『ナイチンゲールの庭』を読んでやった。驢馬を失くすところまで来たら、読んでいる自分が泣きそうになった。彼女の夫の顔、日々献身的に働いている自分の妻の顔や姿が眼前に髣髴としてきたからだ。堪らなかった。彼女は〔ひょっとしたら〕自分よりもっと強く〈驢馬〉を愛しているかもしれない。だが、たとえそうであっても、やはりわたしのようには、彼女には自分の(自由のため自分の)ペンも、いや紙さえも与えられずに、ただ押し込められた女の気持だけが残るだろう――それが二人の愛(悲劇的な愛)への解答なのだ。
「ヤーセニ(ясень)*というロシア語、とても素敵な名だと思いません? あんなにふわっと明るく光が透けて見える木なんて、ちょっとありませんよ」(トゥルゲーネフの『父と子』)。
*ヤーセニは「光る、明るい(ясный)」という意味の形容語と関係がある。樹木のトネリコの一種。この木については日記(六十二)のエッセイを。
8月26日
静かな夜。蠟細工のような樹、小窓に月の光がまた射し込んできて、暖かい。初秋の物悲しいやさしさ。そこにはきみのやさしさ――二人の愛の〈澱(おど)み〉を忘れて、独り離れて物思うときのやさしさと同じやさしさがある。それは少しも悪いことではないし、必要なことだ。きみはあらゆることで僕に感謝し、僕は僕で明るいトネリコのようにきみを心に描く。
愛しい人よ、きょう、わたしの心はきみへの感謝でいっぱいになった。一日中、本も原稿も手に取らないし、きみのことしか思わなかった。幸せにもゆったりとくつろいでいる。自分だけの幸せを恥ずかしいと思わないのは、こちらが恥じ入らなければならないほどの、つまり対等な人間が自分の前には存在しないからだ。
きみは公園の端の小さな丘を、丈の高いモミの木を憶えている? いちど夕方、日没を眺めようと、子どもたちを連れて行ったことがあったね。じめじめしていた。僕はモミの下枝を二本ばかり地面に押しつけて、きみと並んで腰を下ろした。子どもたちは茂みの方に駆けていった(彼らはミーシャに駆けっこを教えていたのだ)。もちろん自分はきみを抱き、こっそりキスをした。きょう、僕はそこにいて、長いことあの枝の上に坐っていた。僕は思った――たったひとりの女性がこの(自分にとって)悲しい(今ではほとんど意味のない、死んだも同然の)この場所を通って、彼ら〔村人たち〕を祝福し、彼らも民話(スカースカ)のいのちの水でも振りかけられたように、新たに美しいものとひとつに合体したのだった。僕はそれが素晴らしいことだということを忘れていた。きみは僕のところに来て言ったね――『さあ起きてくださいな。ほんとにここは素敵なところね!』と。どうか愛しい人よ、遠くにいる僕の話を聞いて、いま僕がどうしているか想像してみてくれ。頼むから、どうか、ときどきばらばらになって見えるらしい知と情に心をぐらつかせないでくれ。そう、今の僕のように立って高みから見下ろすことだ。じっさい、ここには二つに見えるものは何もない。あるのは愛だけだ。愛しい人よ、僕は心からきみの祝福を正当化し実証したいと思っている。きみの背の高いあのトネリコの木は折れても、自分を落としてつまらぬものにするつもりはない。
病人〔エフロシーニヤ・パーヴロヴナ〕がきみの寝ていた部屋に臥せっている。僕はときどき彼女のところに行き、きみが命じたように、努めて愛想よくしている。彼女は病気なのだ。二人の会話は天と地の悲しい会話だ。
「あなたは――」と彼女が言う。「いつでも天に向かって突進するけど、あたしはどんなにつまらないものでも守っていかなくてちゃいけないのですよ。あたしが愛想をつかしたら、どうなりますか? あたしはおさんどんじゃありません。誰も守ってくれやしない。あたしが行ってしまったら、もうお仕舞いなんですよ」
そしてそのあとは話題は薪のこと。彼女がいなければ、薪どころじゃない、間違いなく親牛も子牛も子豚も盗まれてしまう。病人のそうした言葉には、オフィーリア*の花輪みたいに――頭に虹色の小さな花冠を乗っけて登場する羊や子山羊や小さな雄牛と同様、何かしら特別な意味があるのだ。確かに心臓こそ締めつけられるが、理性はそのこと自体には動揺を来たさない。
*シェイクスピアの悲劇『ハムレット』から――「オフィーリアの眼差しには深い意味がある!」。恋人であるハムレットの奇行と父ポローニアスが殺害されたことから錯乱、小川に落ちて死ぬ。サー・ジョン・エヴァレット・ミレーの絵を。
ずっときみのことで頭がいっぱいだ。でも、きみの手を取ったあの夜の思い出に浸ってはいたくない。彼女〔フローシャ〕は微笑みながら、やさしく僕に話しかける――きょう心臓が少し右に寄ったみたいなどと。その話しぶりはやさしく悲しげだ。そんな恐ろしい瞬間(とき)にも、僕はきみを愛することをやめなかったが、でも自分を罪人のように感じていた。そしてそれが自分を卑しい不幸な人間にしたのだ。だから思っていた――きみはもう僕を愛さないだろうとね。しかし、きみがここにやって来て、僕のことを愛してるとわかったとき、二人とも(きみもフローシャも)僕の心に仲良くしっくり納まった、本当に。右と左に等しく、でも別々に――ちょうど十字架と花のように。
深夜に目が覚めた。鎧戸をはずして、窓を開けた。透き通ったレースの、ふんわりした白雲の中に煌々と大きな半月が輝いていた。
text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk
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