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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 10 . 28 up
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9月8日

 アグラマーチの週〔アグラマーチは激戦地、前出〕があり、次にモスクワの別れの週が、シュービンの週(?)が、フルシチョーヴォの週が来て、休息(ローズドゥイフ)の週、そして今は鬱(トスカー)の週だ。

 ニコライ〔次兄〕は人間(ストルーヴェ、カルタショーフなど人間すべて)にすっかり絶望している。わたしは訊いた――
 「でも、連中を誰かと引き比べるから嫌になってしまうんじゃないの?」
 「そう言われりゃ……では、誰かとは誰だろう?」

 レーニンの罪はロシアの民衆の歓心を買って誑(たぶら)かしたことにある。

 わがインテリゲンツィヤの世代は、地上のパンを獲得する運動の過程で、ロシアの庶民(ナロード)への〔異常なまでの」宗教的恭敬の念を植えつけられた。植えつけたのはトルストイとナロードニキとスラヴ主義者たちだ。そうした感情はおそらく教会によっても齎(もたら)されたのである。今ではその信仰も煙のごとく消え去って、あとに残ったのは日々の必要(〈マルクス的必要不可欠〉)の車輪のせわしない回転と直接対決(現実)だ。それはまるで、自分の妻を愛している男が突然、妊娠させたのが自分ではなかったと知って、来る日も来る日もやけ食いを続けるようなもの。きのうまで『おれこそ地上における来るべき新しき存在の創造的原因であり生命繁殖の聖なる奇跡の体現者なのだ』などと言っていたのに、きょうになって、そのことに自分は何の関わりもなかったこと、生命そのものは羽虫のごとき自己増殖によるものであり、しかもそれには嘘や騙しやありとある犯罪(殺人にまで至る)が伴っていることを、嫌というほどはっきりと知るのである。平凡な生活用具――畑を耕す犂かまぐわのような……
 ナロードを救済し鼓舞するには彼らに生きること(ジーズニ)への全面的個人参加の意識を植えつけなくてはならない。そもそもクリーチ〔復活祭に食べる円筒形のケーキ〕を聖化したり、神の火花はすべての生きものに飛ぶとか教えてきたのが教会なのである……
 (注目に値するのは農耕儀礼やさまざまな祭の習慣が失われてきているという事実)本当のところは、社会主義の諸原則も教会のそれもまったく同じなのだ――ただし社会主義には教会の愛の学校(愛の苗床)が不足している。
 愛の個人的な結びつき(いのちとの)が不足していて、すべてが全体(〈余所(よそ)の親父のために〉)の名において行なわれる――たとえばコムーナの(共産主義的)脱穀作業だ。その作業中にアルヒープが無邪気にもこう叫んだ――『なんだよ、まだおれたちはどっか余所の親父のために働くんかよ!』と叫んだように。
 今は動乱の時代だ。社会のさまざまな精神階層の〈働くプラン〉がまず混乱している。ヤロスラーヴリの百姓も個人主義者も生まれついての企業家もみんなみんなコミュニストになって、みんな(〈余所の親父〉)のために働かなければならない云々。

 心配なのは――臆病風を吹かしてあの人は姿を見せない、あたしを独りぼっちにした、とそうС〔ソーニャ〕が思っていることだ。

 一方、おのれの幸福、本物の永遠の幸福を自分は静かな偉業(ポードヴィク)、財産獲得の拒否を伴うところの秘かな事業〔目下進行中の愛のこと〕のうちに理解する――これは自分の秘められた本質、その決断を妨げるのは、恥じる心か誇る心か、はたまた自分だけ知らない万人周知の経験の無さか、ともかくそれは小さな、同時に大きなものを覆ってしまう何かごく小さなものらしい。わが家のごたごたのために世界の大いなる家に足を踏み入れることができないでいる。

 この時期のテーマは愛、ゲーニイ・ローダの事業(全体性)と自分の愛。

гений Рода――Род(ロード)は一族、氏族、〈族〉動植物分類上の〈属〉。гений(ゲーニイ)はローマ神話の守り神、権化、化身の意。

 彼女への愛によって他を愛する道、それによって生きる道など見つかるだろうか? 愛はいつもそんなふうにして始まるが、世界を愛するとなぜか愛と一緒に世界も滅びて幕となるのだ。
 愛しい人よ、二人の幸福を手にする遠い未来に望みをかけることはできないのだが、きみへの愛によって世界が愛でわたしを包むことはないのだろうか。本当に今、自分にはきみのために世界を愛することができないのだろうか?

 われわれの齢ではそうあることではないが、肝腎なのは、最後まで信じ合い、困難な障害をことごとく踏み越えて、ついに互いの出会いを喜び合うことだろう? 大波に呑み込まれて落ち込んでいたころ、ときどき自分は、どうにも信じられない思いで、ぶつぶつ呟いたものだ――『いったいどうして彼女は踏み出せたのか、そのときそこに何があったのだろう……何が? それを何と呼べばいいのかわからないのだ……何かこう簡単に説明できるようなものなのか?』。だが、早晩、自分は波の上に顔を出す。そのときは……

 いくら年を経ても、いくら長い家庭生活の殻の下にあっても、保たれるべき処女性〔純潔、無垢〕のない愛はあり得ない。

 きょうは見事に実ったソバを一家して刈る。刈り終わるころになって、にわかに露が降り霧がかかって、ソバの実が白い粉を吹き出した。近ごろは百姓たちもこちらのやることに慣れたせいか、わたしたちをただ不幸な人間か自分らと同等の人間のように見なしていて――わしらは今では旦那と百姓を分ける境界を越えてしまったらしいと感じているのだ。確かにそこには何か素晴らしいものがある。でも、どうもそれは、ナロードとの合一を求めた先人たちが夢見たものとはぜんぜん違う。

9月9日

 人間の姿をした猿。ソロモン=政治家はわたしに問うだろう――
 「そのとき、あなたはどこにいましたか?」
 わたしはこう答える――
 「わたしはいたのは、政治が行なわれず、時計のネジが巻かれず、人間が幸せに暮らしているところだよ」
 「それはどこでしょう?」
 「ある町だ。昔はもっとずっと素晴らしい町だった……」

 愛は習慣の破壊者である。

 При-вычка(習-慣)〔プリヴイチカ〕、От-вычка(失-習慣)〔アトヴイチカ〕、На-вычка(慣れ)〔ナヴイチカ〕、Навык(習性)〔ナーヴイチカ〕、○○вычка〔○○ヴイチカ〕とВык〔ヴイク〕、それと戦う愛があり、愛そのものはそこで死滅する。Вычка、Вык、あるいはВек(生涯、時代、世紀)〔ヴェーク〕が愛の仮面をつけて、愛を打ち負かしてくれればまだいいのだが……
 愛する人の名による十字架の何と軽いこと――愛の炎が十字架の根の部分にあって、炎に包まれた十字架が現われるが、Векはわれわれにしつこく義務と謙遜と忍耐を教えようとする。国家のВек、家族のВек、全面的Вык-Векは建築労働者であって、決して建築家ではない。愛の上に結婚を建てることは不可能だ。もしそれでも結婚が成り立っているとすれば、それは夫と妻が愛し合っているからではなく、彼らの気質(ナトゥーラ)にВык-Векがあるためである。恋人たちにサヨナキドリは歌をうたうが、既婚者たちに歌うのは(アファナーシイ・イワーノヴィチとプリヘーリヤ・イワーノヴナの田舎家)のドアだけである。

ゴーゴリの短編『昔かたぎの地主たち』の主人公たち(前出)。

 そのようにわれわれの教会(見える教会)こそまさに、Вык-Векがキリスト教の愛を完全に呑み込んで、その上から愛の仮面をかぶせた〈結婚〉そのものなのだ。

地上の教会のこと。『巡礼ロシア』(1907)第二部「キーテジ――湖底の鐘の音」の第四章は「見える教会」。

 Бычок-Век(ブイチョークは小さな雄牛〔ブイチョーク-ヴェーク〕)(反芻)――百姓(コムーナを反芻している)にナロードに国家に働きかけて全面的反芻にまで拡大発展させること。Выкは最後の最後で不死のイデアをさえ反芻(あの世を咀嚼)する。聖なる小さな雄牛。
 だが、人間の(女への男の)愛――それはВыкには最も美味しい料理なのだ。

9月10日

 夢の中で大声でわたしの名を呼ぶ声。わがパリのグレージツァ〔ワルワーラ〕だ。しきりに〈わたしよ、わたしよ!〉と自分の名を言う。その顔はいつもの彼女の顔ではない。似ても似つかない。彼女は自分の過去の非を認め(まったく新しいモチーフ!)、わたしを自宅に招くが、行ってみてわかったのは、そこにはもう自分が探し求めるようなものが何もないこと、ああこれですべ終わったと思ったことだった。哀れな、からっぽ女――酔っ払っているようだった。

 秋。肌寒い空焼け。夜、明るい星のシャレード。夜明け前、うちのトネリコの木の近くでシャレードが解かれる。ひっくり返った大熊座と金星。朝露が灰色の金属か何かみたいに濃く降りている。

 ほんのたまにだが、まるで無縁な(他人のような)彼女〔ソフィヤ・パーヴロヴナ〕の横顔が不快なくらいはっきりと見えてくる。そんなときはすべてが迷いでほかには何もないように感じられる。

 ВыкとはわがБычок(小さな雄牛)の別称だ。名はひとりでについたのだが、自分はそれを思索によって確かなものにした。あるとき、テラスに腰を下ろしていた。そばで子牛が反芻していたので、そのリズミカルな咀嚼を数え始めたら、どうもそれが自然な時の歩みのように感じられた。狂奔するのはわれわれ人間の時間であって、あまりの速さに1年が1週間になり、知り合いにひと月も会わずにいると、びっくりするほど年を取っていて、ずいぶん頬がこけている。だが反芻のあるところでは、誰もがそんなに年を取らずにいる。『ВыкはВекだ』とわたしは自分に言い聞かせた。そしてそのためにわれわれが生き、苦しみ、創造し、たえず咀嚼し消化している〈при-вычка〉や〈на-вычка〉や〈○○вычка〉や〈○○Вык-Век〉が何を意味するのかを考え始めたのである。
 Вык-Векは不死のイデアをさえ噛み砕き、それを天国に変えた――地上での善なる事業のために。また地獄に変えた――悪しき事業のために。Вык-Векは雑食性の生きものだが、その好物は〈愛〉という名の、女への男の欲望だ。
 その愛は二つの永遠(、、)のバトルラインである。空の瑠璃(ラズーリ)のどこかで永遠の同盟のために清らかな魂と魂が出会う。不注意にも相手の手に触れて――何もかもが変わる、炎が上がる。すると地面に撒かれた灰の中には永遠だけが残り、その上にВык-Векがたっぷりと時間をかけて習慣を定着させようと立っている――再び愛(習慣の破壊者)と次なるВык-Векが互いの指先に触れ合うまで。

 トゥルゲーネフの国(クライ)の気分――リーザとラヴレーツキイ。百姓たちはちょっとびっくりしてお辞儀をするが、いろいろあったあとで考え直したのだ。猿たちの寄合、裁判。

長編『貴族の巣』のヒロイン(リーザ)と主人公ラヴレーツキイ。

 きのう、草刈り場にいたわたしたちのところにアンドレイ・チェリョーヒン〔フルシチョーヴォの百姓〕がやって来て、こんなことを言った――『わしらの暮らしはちっともよくない、まったくなんちゅう政府だ!』。わたしは言ってやった――『農民にはいちばんいい政府じゃないか。おまえさんは嘘を言ってる。言うべき言葉もないよ。腹ぺこの犬が、投げてもらった骨――オシミーンニク〔4分の1デシャチーナ〕の土地――が喉につかえて苦しがっているのさ』。チェリョーヒンはぶつくさ言いながら戻っていった――『やっぱしな、旦那と百姓はひとつのなるのをやめたんだ』
 今は脇に引っ込んでいるほうがいい。関わらざるを得なくなっても、奴らには〈面と向かって真実を語る〉べきではない。

 朝、元気よく起床。体調はいいと思ったが、心が重い。胸のあたりに誰かいる――太い棍棒を手にした番人、どうやらそいつは鎖に繋がれているようだ。何かが、やはり生きものなのか、身を揺すっては、こっちを罵ったり叩こうとしたり……

 9月も半ばを過ぎた。家屋敷(ウサーヂバ)での秋冬の生活環境についてみなで話し合う。灯油無しの長い夜、明るいうちは薪割りに精を出すしかない。新聞が無いので、ニュースはもっぱら百姓たちの噂話。馬も無く、オシミーンニクだけではやっていけない、などなど。これは孤立無援の村ではない、無人島だ。無人島なのになぜだか未開の野蛮人たちに取り囲まれている。

 大のボリシェヴィキ嫌いのニコライに、わたしはカラカーチツァ〔土地?〕の返還を提案した。そのときニコライは言った――『いや、このままじゃどうにもならんよ』。ロシアの未来のあるべき姿は、富農(クラーク)たちを組織してインテリ・カデットとかつてのエスエル右派(一部ツァーリを擁する)から成る民主的な党をつくる――要するに、彼はそういうことを言いたいのだ。

 棍棒を手にした番人がわたしの胸のあたりに深夜まで居残っていて、二人が別れてからずっと(あれからもう3週間!)、あれが〔別れたことが〕なんだか今では夢の中の出来事のようである。状況はいよいよもってナンセンス……それでも間違ってはならない。モスクワでも自分は、ああこれで終わりだと思ったが、結局それは終わりではなく始まりだったのだ。

 今、胸の上に彼女の面影が……書き終わった手紙のように置かれている。もう以前のあの、気狂いじみた不安もないし動揺も起こらない。きみは僕のもの……
 これを読んで、彼女は不満に思うかも――これまでのより短いのね、と。いいや、そうじゃない、愛しい人よ、手紙はこれでも長いくらいだ。それだけ思いが詰まってる。今はただ静かにきみを愛している……でもいずれまた新たな不安はやって来るのだろうね。

ロマンの始まり(日付

ノートのこのページに別の日記(9月24日まで)が何枚か。そのため日付が7月21日に戻っている。

7月21日

 発端。ボリシェヴィキによる逮捕は免れたが、女〔〈藁の未亡人〉の字を抹消〕に捕まってしまった。それから1週間、母なる大地の最も知恵ある息子として、町には尻を向け、顔はソスナーの川べりのエレーツの窪地の静寂と奇妙な音に向けている。言うことなしだ、素晴らしい眺め! ここからは何もかもが透けて見える。権力を分け合う獣どもの愚かしさ。齧りすぎた骨。恐怖で呆けたさまざまな実務家たち。権力を分け合った者たちの中に女が一人いて、なんとその自負心(プライド)を血で洗っている……

一時やもめ、また空閨を守る妻の意。ソフィヤ・パーヴロヴナのこと。

 おととい、そんな静かな暮らしの中へ入り込んできたのは、ペテルブルグのマダム――幼い子どもたちをいっぱい連れて。エレーツへ行け(パンが手に入る)と亭主に言われてやって来たという。女は植え替えのために掘り出された灌木のよう――根がいっぱいついている(マダム・ゲラーシモワと根っ子たち)。可笑しいのは――ソスナーの向こう岸に女が一人いるが、それはマダムではない。カフェ〈アムピール〉。

 彼女〔ソーニャ〕が言った――
 「アレクセイ・ミハーイロヴィチ〔プリーシヴィンの名はミハイル〕、なぜ背信は心にはなく体にあるなどと言うのでしょうね。あたしにはむしろここに(、、、)、心のほうにあると思えるのだけど」

 彼女の気性から、それはすでに決定済みのことと思われるが……
 死ぬまで彼女が忠誠を誓うもの――隠れもない儀式。でも今は祈りの対象がなく、祈りはひたすら自動的である〔ソーニャは司祭の娘〕。
 イヴのように最初に彼女が林檎を目にし、それを人に与えた。彼女がまず触れたのだ。吐露された幾千もの思いは忘れられしまったが、そのタッチ、その感触は残って、さらに人の心を魅了してやむことがない。
 すべてを自覚し理解し究明しようとするが、それでも自分を抑えられない。
 結果として泥棒まがいのことが起こるかも。でも、彼のほうが先にわたしから彼女を盗んだのだ、としたら? 自分はただ自分のものを取り戻そうとしているのだ、としたら?
 もしそれを自分が信じるなら、きっとそれは正しいだろう。でも、自分が信じているかどうかわからないのだ。その小さな家の(自分と彼女の)壁を壊さずに、彼女の心が自分のものであるかどうかをしっかりと見定めなくては。
 彼女の側からの人間的に深く思いやりある関係をまず受け容れ、彼女を通して自分自身を理解すること。
 彼女は思っている――わたしが彼女を女として愛していると。でも心のうちではわたしを男として愛しているとは思っていない。
 だが、自分もまったく同じことを思っているのだ――彼女を女として(つまりその体を)愛しているのではないと。
 彼女は言った――
 「なぜだか手だけあなたのものだわ」
 自分もそう感じている――手だけが自分のものだと。
 いいや、われわれは同じように感じながら、同じように愛の理解において損なわれているのだ――〈男として〉とか〈女として)とか。

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