2012 . 10 . 28 up
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ニコライ〔次兄〕は人間(ストルーヴェ、カルタショーフなど人間すべて)にすっかり絶望している。わたしは訊いた――
「でも、連中を誰かと引き比べるから嫌になってしまうんじゃないの?」
「そう言われりゃ……では、誰かとは誰だろう?」
わがインテリゲンツィヤの世代は、地上のパンを獲得する運動の過程で、ロシアの庶民(ナロード)への〔異常なまでの」宗教的恭敬の念を植えつけられた。植えつけたのはトルストイとナロードニキとスラヴ主義者たちだ。そうした感情はおそらく教会によっても齎(もたら)されたのである。今ではその信仰も煙のごとく消え去って、あとに残ったのは日々の必要(〈マルクス的必要不可欠〉)の車輪のせわしない回転と直接対決(現実)だ。それはまるで、自分の妻を愛している男が突然、妊娠させたのが自分ではなかったと知って、来る日も来る日もやけ食いを続けるようなもの。きのうまで『おれこそ地上における来るべき新しき存在の創造的原因であり生命繁殖の聖なる奇跡の体現者なのだ』などと言っていたのに、きょうになって、そのことに自分は何の関わりもなかったこと、生命そのものは羽虫のごとき自己増殖によるものであり、しかもそれには嘘や騙しやありとある犯罪(殺人にまで至る)が伴っていることを、嫌というほどはっきりと知るのである。平凡な生活用具――畑を耕す犂かまぐわのような……
ナロードを救済し鼓舞するには彼らに生きること(ジーズニ)への全面的個人参加の意識を植えつけなくてはならない。そもそもクリーチ〔復活祭に食べる円筒形のケーキ〕を聖化したり、神の火花はすべての生きものに飛ぶとか教えてきたのが教会なのである……
(注目に値するのは農耕儀礼やさまざまな祭の習慣が失われてきているという事実)本当のところは、社会主義の諸原則も教会のそれもまったく同じなのだ――ただし社会主義には教会の愛の学校(愛の苗床)が不足している。
愛の個人的な結びつき(いのちとの)が不足していて、すべてが全体(〈余所(よそ)の親父のために〉)の名において行なわれる――たとえばコムーナの(共産主義的)脱穀作業だ。その作業中にアルヒープが無邪気にもこう叫んだ――『なんだよ、まだおれたちはどっか余所の親父のために働くんかよ!』と叫んだように。
今は動乱の時代だ。社会のさまざまな精神階層の〈働くプラン〉がまず混乱している。ヤロスラーヴリの百姓も個人主義者も生まれついての企業家もみんなみんなコミュニストになって、みんな(〈余所の親父〉)のために働かなければならない云々。
一方、おのれの幸福、本物の永遠の幸福を自分は静かな偉業(ポードヴィク)、財産獲得の拒否を伴うところの秘かな事業〔目下進行中の愛のこと〕のうちに理解する――これは自分の秘められた本質、その決断を妨げるのは、恥じる心か誇る心か、はたまた自分だけ知らない万人周知の経験の無さか、ともかくそれは小さな、同時に大きなものを覆ってしまう何かごく小さなものらしい。わが家のごたごたのために世界の大いなる家に足を踏み入れることができないでいる。
この時期のテーマは愛、ゲーニイ・ローダの事業*(全体性)と自分の愛。*гений Рода――Род(ロード)は一族、氏族、〈族〉動植物分類上の〈属〉。гений(ゲーニイ)はローマ神話の守り神、権化、化身の意。
われわれの齢ではそうあることではないが、肝腎なのは、最後まで信じ合い、困難な障害をことごとく踏み越えて、ついに互いの出会いを喜び合うことだろう? 大波に呑み込まれて落ち込んでいたころ、ときどき自分は、どうにも信じられない思いで、ぶつぶつ呟いたものだ――『いったいどうして彼女は踏み出せたのか、そのときそこに何があったのだろう……何が? それを何と呼べばいいのかわからないのだ……何かこう簡単に説明できるようなものなのか?』。だが、早晩、自分は波の上に顔を出す。そのときは……
いくら年を経ても、いくら長い家庭生活の殻の下にあっても、保たれるべき処女性〔純潔、無垢〕のない愛はあり得ない。きょうは見事に実ったソバを一家して刈る。刈り終わるころになって、にわかに露が降り霧がかかって、ソバの実が白い粉を吹き出した。近ごろは百姓たちもこちらのやることに慣れたせいか、わたしたちをただ不幸な人間か自分らと同等の人間のように見なしていて――わしらは今では旦那と百姓を分ける境界を越えてしまったらしいと感じているのだ。確かにそこには何か素晴らしいものがある。でも、どうもそれは、ナロードとの合一を求めた先人たちが夢見たものとはぜんぜん違う。
愛は習慣の破壊者である。
При-вычка(習-慣)〔プリヴイチカ〕、От-вычка(失-習慣)〔アトヴイチカ〕、На-вычка(慣れ)〔ナヴイチカ〕、Навык(習性)〔ナーヴイチカ〕、○○вычка〔○○ヴイチカ〕とВык〔ヴイク〕、それと戦う愛があり、愛そのものはそこで死滅する。Вычка、Вык、あるいはВек(生涯、時代、世紀)〔ヴェーク〕が愛の仮面をつけて、愛を打ち負かしてくれればまだいいのだが……*ゴーゴリの短編『昔かたぎの地主たち』の主人公たち(前出)。
*地上の教会のこと。『巡礼ロシア』(1907)第二部「キーテジ――湖底の鐘の音」の第四章は「見える教会」。
秋。肌寒い空焼け。夜、明るい星のシャレード。夜明け前、うちのトネリコの木の近くでシャレードが解かれる。ひっくり返った大熊座と金星。朝露が灰色の金属か何かみたいに濃く降りている。
ほんのたまにだが、まるで無縁な(他人のような)彼女〔ソフィヤ・パーヴロヴナ〕の横顔が不快なくらいはっきりと見えてくる。そんなときはすべてが迷いでほかには何もないように感じられる。
ВыкとはわがБычок(小さな雄牛)の別称だ。名はひとりでについたのだが、自分はそれを思索によって確かなものにした。あるとき、テラスに腰を下ろしていた。そばで子牛が反芻していたので、そのリズミカルな咀嚼を数え始めたら、どうもそれが自然な時の歩みのように感じられた。狂奔するのはわれわれ人間の時間であって、あまりの速さに1年が1週間になり、知り合いにひと月も会わずにいると、びっくりするほど年を取っていて、ずいぶん頬がこけている。だが反芻のあるところでは、誰もがそんなに年を取らずにいる。『ВыкはВекだ』とわたしは自分に言い聞かせた。そしてそのためにわれわれが生き、苦しみ、創造し、たえず咀嚼し消化している〈при-вычка〉や〈на-вычка〉や〈○○вычка〉や〈○○Вык-Век〉が何を意味するのかを考え始めたのである。
Вык-Векは不死のイデアをさえ噛み砕き、それを天国に変えた――地上での善なる事業のために。また地獄に変えた――悪しき事業のために。Вык-Векは雑食性の生きものだが、その好物は〈愛〉という名の、女への男の欲望だ。
その愛は二つの永遠(、、)のバトルラインである。空の瑠璃(ラズーリ)のどこかで永遠の同盟のために清らかな魂と魂が出会う。不注意にも相手の手に触れて――何もかもが変わる、炎が上がる。すると地面に撒かれた灰の中には永遠だけが残り、その上にВык-Векがたっぷりと時間をかけて習慣を定着させようと立っている――再び愛(習慣の破壊者)と次なるВык-Векが互いの指先に触れ合うまで。
*長編『貴族の巣』のヒロイン(リーザ)と主人公ラヴレーツキイ。
朝、元気よく起床。体調はいいと思ったが、心が重い。胸のあたりに誰かいる――太い棍棒を手にした番人、どうやらそいつは鎖に繋がれているようだ。何かが、やはり生きものなのか、身を揺すっては、こっちを罵ったり叩こうとしたり……
9月も半ばを過ぎた。家屋敷(ウサーヂバ)での秋冬の生活環境についてみなで話し合う。灯油無しの長い夜、明るいうちは薪割りに精を出すしかない。新聞が無いので、ニュースはもっぱら百姓たちの噂話。馬も無く、オシミーンニクだけではやっていけない、などなど。これは孤立無援の村ではない、無人島だ。無人島なのになぜだか未開の野蛮人たちに取り囲まれている。大のボリシェヴィキ嫌いのニコライに、わたしはカラカーチツァ〔土地?〕の返還を提案した。そのときニコライは言った――『いや、このままじゃどうにもならんよ』。ロシアの未来のあるべき姿は、富農(クラーク)たちを組織してインテリ・カデットとかつてのエスエル右派(一部ツァーリを擁する)から成る民主的な党をつくる――要するに、彼はそういうことを言いたいのだ。
棍棒を手にした番人がわたしの胸のあたりに深夜まで居残っていて、二人が別れてからずっと(あれからもう3週間!)、あれが〔別れたことが〕なんだか今では夢の中の出来事のようである。状況はいよいよもってナンセンス……それでも間違ってはならない。モスクワでも自分は、ああこれで終わりだと思ったが、結局それは終わりではなく始まりだったのだ。
今、胸の上に彼女の面影が……書き終わった手紙のように置かれている。もう以前のあの、気狂いじみた不安もないし動揺も起こらない。きみは僕のもの……
これを読んで、彼女は不満に思うかも――これまでのより短いのね、と。いいや、そうじゃない、愛しい人よ、手紙はこれでも長いくらいだ。それだけ思いが詰まってる。今はただ静かにきみを愛している……でもいずれまた新たな不安はやって来るのだろうね。
ロマンの始まり(日付*)
*ノートのこのページに別の日記(9月24日まで)が何枚か。そのため日付が7月21日に戻っている。
*一時やもめ、また空閨を守る妻の意。ソフィヤ・パーヴロヴナのこと。
彼女〔ソーニャ〕が言った――
「アレクセイ・ミハーイロヴィチ〔プリーシヴィンの名はミハイル〕、なぜ背信は心にはなく体にあるなどと言うのでしょうね。あたしにはむしろここに(、、、)、心のほうにあると思えるのだけど」
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