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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 10 . 21 up
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9月3日

 パリの思い出。そこに愛はあったのか? あった! でも、ああなんという愛だったろう。もしかすると、あれこそ本当の恋だった、のかも。しかし自分はあまり夢中になり過ぎた。混乱して、何がなんだか、自分で自分がわからなくなってしまったのだ。
 そのとき、彼の心〔ここだけ自己を客体化〕は女性との出会いをあまりに待望し身構えていたから、ほんのちょっとでも触れ合えば(相手は誰でもよかった)、きっと情熱の醗酵も精神的オルガニズムの再建もいや新しいものの創造をすら自分の内に生み出していたにちがいない。また相手の女性にしても、わたしに対して特別の関心を示したり、自分を愛してくれる男性が必要だったのだ。ところが突然、二人は別れてしまう。彼女には思えたのだろう――この人が愛しているのは自分ではなく、この人追いかけている夢(メチター)なのだ、と。

ワルワーラ・イズマルコーワ。

 「怖くない? 大丈夫か?」
 「どうしたの、あなた?」
 「きみは、僕が愛しているのは自分ではないと思って苦しんでいるのじゃないのか?」
 「いいえ、少しも。将来のことを考えたら、そんなことも思うでしょうね、でも、こののあたしは今を生きているんです。あなただってそう思っているでしょう? あたしたちの生活に未来はないし、あたしたちの未来があるのは夢(メチター)の中だけだって?」

ソフィヤ〔ソーニャ〕・パーヴロヴナ。

 35歳の女の恋にはそれ相応の苦しみが伴う。思い出すのも困難な初々しい乙女心の高ぶりと、恋については多分に経験を積んだ大人の女の情熱が騒ぎだすわけだから。

〈禁欲的な性行為〉(自然な、あるいは夫婦のセックス)。もし自然なセックスが邪魔されれば、それは心理学的に深化して、ロマンあるいは姦通(罪)が生ずることになる。

 不満感を緊張させることによって、一度のキスもしくは一度の手への接触から一千回の夫婦のセックスよりずっと多くのものが得られるのだ。

 彼女(ソフィヤ)が、自分の夫に対してもわたしの妻への関係に対しても、やや自信過剰であること、エゴイスティックで鈍感であることがわかった。ただし自分の夫に対してはそれなりに真面目だが、わたしの妻にはただのひと言――『好きじゃないわ』。エフロシーニヤ・パーヴロヴナに対するわれわれの少々粗暴で無作法な関係は、彼女と夫との関係とまったく同じものだった。いやいや、ソフィヤ・パーヴロヴナよ、きみと僕とはその〈阿呆さ加減〉ではまったく同等だよ。

 エフロシーニヤ・パーヴロヴナがソーニャに対してとった態度はまったく立派なものだった。エフロシーニヤ・パーヴロヴナはアレクサンドル・コノプリャーンツェフを自分と同じ真面目な人と考えていて、二人が手を組めば、こんな子どもたちなど何とでもなる(つまり、われわれを分別のない〈子どもたち〉)と思っていたから、自信も余裕もあって落ち着いていたのだろう。

9月4日

 きょう、ライ麦の種を播いた。百姓たちが言う――
 「おや、きょうは自分で種播きかい? やろうと思えばやれるんだ。同じ人間だしな」
 「そりゃそうだ」と、わたしは応じる。「その点ではわれわれは平等なんだ。でももしイリヤー・コルシューン〔フルシチョーヴォの百姓〕が本を書き出したら、そりゃこっちは腰を抜かすだろうよ!」

 いやまったく、こうまで孤立無縁の環境にあって同じ一人の人間にこうまで打ち込んだら、いったいどこまで行ってしまうのだろう――自分でも想像がつかない。(書簡体のポエーマ――『きみは世界そのもの(Ты―весь мой мир)』を書くこと)。

プリーシヴィンの主要な宗教哲学的直観の一つ。作家プリーシヴィンの言葉はもう一人の、あるты(2人称単数)を措定する。その芸術世界における〈я и ты〉の結合は、人間のまた個(я)の世界とのユニヴァーサルな関係を生ずるに至る。

 木々にたくさんの美しい秋の葉が、ニシキギの濃紅色が加わった。あるとき、みんなで〔プリーシヴィンとソーニャはプリーシヴィンの子どもたちを連れて散歩に出た〕花束をつくりながら、お気に入りの場所へ――そこは隣の公園の端の、エゾマツの生い茂るちょっとした丘だった。雨の多い時期で地面が濡れていたので、低いエゾマツのひと枝を押し曲げて、わたしたち二人はその上に腰を下ろすと――子どもたちに気づかれないように、そっと抱き合った。それをきみは憶えているだろうか? 自分は枝の上に坐って考えた――さあどんなふうに、どんな言葉で『愛している』と伝えようか。トゥルゲーネフに出てくる女性たちを思い浮かべ、その中からきみの面影に近いヒロインを選び出そうとしたが、きみに該当する女性はいなかった。『では、この女は自分の何なのだろう?』そう自問し、こう自答した――『この女こそ自分のすべてだ』と。
 愛しい人よ、きみのことを思わない時もなければ、きみの記憶が冷めることも僕にはない。僕は幸せだ――きみは僕のものだった。もう何も要らない。こうしてきみの坐っていた場所で、きみを恋しく思い、その面影を抱きつつ家路に就き、心静かに仕事を始めた。次の日、わたしは置き忘れてきた美しい秋の花束を見つけた――あの丘のきみが坐ったあの場所で。でもその花束はそのままにして、改めて摘んだ花を少し家に持ち帰った。そして、きみの思い出の中に、そのうちの1本か2本をいつも身近に挿しておこう。愛しい人よ、今きみは僕を信じているだろうか、きみを愛していると信じているだろうか?

9月5日

 現実的イデアリズムと夢想的イデアリズム。深夜、眠れずにいるところへ、できれば早く忘れる必要のある馬鹿げ切ったことが、わざとのように次から次と浮かんできて、弱った。自分ではすべて過ぎ去ったと思っている自分を感じていた。寝とぼけた頭にトゥルゲーネフの令嬢たち――ナターシャ、リーザ、アーシャたちが出てきて、よく見るとその中に彼女がいた。そこにいたのは、家庭の幸福の愛すべき夫で始まり、すでに経験済みの家庭の幸福からはどう扱いどう定義すべきかわからない婚約者(つまり情人)で終わる、何やら〈アンチロマン〉のヒロインみたいな女なのだった。

ナターシャは長編『ルーヂン』(1855)の、リーザは長編『貴族の巣』(1858-59)の、アーシャは中篇『アーシャ』のヒロインの名。ロシア人には馴染みの女性たち。

 モスクワでの手紙のやり取りは電撃的出会いの下準備だった。
 きっと今、彼女は自分とまったく同じことを思っているはず――『もし彼女に勇気があって、ずっとそれを保(も)ち続けられるなら、もちろん僕も一緒に敢然とあらゆることに立ち向かっていく』


     危ない立場――電撃的出会い。

 彼〔アレクサンドル・ミハーイロヴィチ〕が〈足払い〉を食わせようと、ケチな、弁護士めいた〈企み〉を抱いているのが次第にわかってくる。三人の関係もひどいものになった。もうこれ以上はとてもやっていけない。

 昼までに気分が一変――人を苦しめているという後悔の念に苛まれる。もし彼女が自分の惚れたと同じ人であるなら、じっさい誰よりも苦しむのは彼女であるはずだ。

9月6日

 今度逢ったら、こう問いただそう――
 『きみはこの3日間、何か僕を裏切るようなことをした? してない? 考え直そうとはしなかった? してない? じゃ、愛してるね?』
 もしも答えが〈愛してる(ダー)〉なら、こう答えよう――
 『そうか、よかった。僕も愛してる。これは秘密の結婚だよ』

 きみは、きみの言う〈聖の聖なる〉がどういう意味か知っているかい? それはきみが僕と結婚したということだよ。もしきみが彼とも同じことをしているなら、それは重婚だ――夫が二人いるということなんだ。

 このロマンはパリでの出来事と展開の仕方がよく似ている(僕の懺悔の気分を綴って彼女が夫に出した手紙(きつい手紙)などはまったく同じ)。でもここではさらにずっと先へ進んでいる。いろいろあった(パリでの)最初の経験(初恋)の意味が今になって初めてわかってきた。

ワルワーラや同じ留学生仲間の間で起こったことのようだが、よくわからない。

 個人的感情を内に押し込めたため、周囲がよく見えてくる。それらをすべて書き留めた。そこに記された〈わたし(ヤー)〉は常に個人主義的な〈ヤー〉の否定だが、そこにはその反対の、あるがままに為すがままに身を任せた〈わたし(ヤー)〉の記述もある。自分の文学は生活と同様、個人主義の殻(誰しも持つ)を有し、殻の中に独りの禁欲者(アスケット)がいる。
 変な話だが、『〔僕は〕時間もお金も浪費する人間なんだ』と女性たち相手に威すようなことを口走ったのだが、でも同時にそのとき、彼女たちに本命の彼女〔ワルワーラ〕をぶつけていたのだ。つまり、彼女への愛には選択があり理想(プレクラースナヤ・ダーマ)がいるということだ。自分がこんなに烈しく恋をしているとき、自分は誰の邪魔もしていない(兄弟にも父親にも亭主にも)と思っていたが、しかし不幸(ベダー)は……キス、キスにあった。キスをされたプレクラースナヤ・ダーマとは――(巻き上がる二人の旋風)――それはいったい何?
 普通こんなとき女友だち〔ワルワーラの留学仲間〕は助けに来ない。よく憶えているが、パリで自分を捉えて離さなかったのは、地上の感情を拒否する感情だった。そして彼女もそのときわたしに夢中になって、突然、火の玉みたいにわたしにキスの雨を降らせたのだった。
 そして今の相手〔ソーニャ〕も、それを求め、わたしのそれを何より大事と思っている。求めるものが見つかれば相手は情熱のすべてをもって報いるが、その情熱に応えなければ決して許さない。理想の純真無垢はかくしてただ美味しいだけの料理となる。

麗しき淑女の意。日記で「プレクラースナヤ・ダーマ」、「ヴェルサイユの乙女」、「いいなずけ(ニェヴェースタ)」などと呼ばれるのは、ワルワーラ・イズマルコーワだけ。

 ソーニャ自身がそのことで泣いているのを自分は知っている。あるとき、口をついて出たこんな言葉――『あなたもあたしも自分の気持を抑えられないんだわ。あたしが何とかしなきゃならないのね』
 たしかにそうだ。二人のどちらかが自分を抑え、齷齪しないで、正しい道(そこにこそ多くの夫が妻に対して素直に何らかの社会的仕事(職業)を提供するという大なる心の秘鑰(ひやく)がある)へ向かう努力をしなくてはならないのだ。ソーニャはやっとそこでにっこりし、その意見に同意する(女教師の道!)……どうやらそこに、外へ出るという受身のレジスタンス(女子高等専門学校生(クルシーストカ)の大半が抱いている)に、彼女にとって最も大事なものがあるようだ。
 専門学校生との女の戦いでサフノーフスカヤ〔エレーツの女医〕は医学士になったし、ソーニャは主婦(もっとも、あまり有能な主婦ではないようだが)に、女になった。彼女はかなり保守的で(より正確には、社会生活には無関心で)、感情面では大いに情熱的――それで、ときに思い切ったことをする。
 もし彼女自らこの愛欲地獄からの脱出のイニシャティヴを取ることに成功すれば、そのとき彼女はプレクラースナヤ・ダーマになるし、自分が成功すれば、イワン・ツァレーヴィチ〔イワン王子〕になるだろう。でもそれには必ず一緒に同時に脱出しなくては。
 太陽が顔を覗かせてまた隠れる。庭の若草は光の鬼ごっこの真最中――あちこちでエメラルドを発火しまた消える。庭中が息づいている。吸っては吐いて――光と影。
 われわれの真実は目下のところ唯ひとつ――飛んで一緒に落ちること。助かろうと思うなら、一緒に落ち、一緒に……

 彼女は美しい――窓辺に坐って、何か思いに耽りながら、遠くに目をやるときの横顔の、またときどきものを訊ねるときのその仕草……そんなときは顔の下の方、決して美しくはないその部分――とくに、誰かにその罪深い情熱を盗み見されてドキリとしたときの、一瞬にして凍ってしまった、肉感的で少々崩れた感じの唇――が見えないだけに、その唇には、どこかしら生まれもっての(遺伝的)罪深さがある。まともに正面から唇と鼻の先を見ていると、この女は魔法を使うのでは、人に呪いをかける力があるのではと思ってしまう。
 自分はこれまで彼女が日常的に気紛れを起こすことを知らずにきたので、たとえば、彼女が自分の義理の姉妹と喧嘩するなど、想像すらできない。
 彼女の心には決して顔には表われないもの(優しさ、白さ)がある。それはまるで生きた心の影のよう――彼女の心に触れ合って初めて知った秘密である。でもまわりに人間はそこに彼女の単なる影しか見ていない。
 彼女の顔にはマドンナと魔法使いが同居している。

колдунья(コルドゥーニヤ)と言えば、妻エフロシーニヤ・パーヴロヴナの実母も、かつて〈村の魔法使い〉――善き力を授かった呪術師だったと言われている(前出)。

 エゾマツの傍らに置かれた花がとても美しい。そこに彼女の何かが残されていた。わたしが摘んだ花なのに、彼女が自ら手向けたもののような気がしてならない。そうか、そうなんだ。花でいっぱいの柩はこうして愛から生まれるのだ。墓にはだから花が手向けられるのだ。
 愛の徴候(しるし)は確かで、断じて盲目的なものでない。愛の光に照らされれば相手の姿ははっきりと見える。そして自分も相手を愛しているかを知っている。それゆえ、鏡のように他者に映じた自分自身を愛することができるのである。

9月7日

 兄〔次兄のコーリャ〕がわたしに言った――
 「いま村中がおまえのことを噂しているようだが、言ってもいいかな? 知っておいたほうがいいと思うんだ。もちろんくだらない話だ。でも、どう言われているかは知っていたほうがいい……非難される方はたいてい自分の落ち度を最後の最後に知ることになるのだから。どうも、おまえとそのナニが……その場所まで知っているようだ……」
 自分の耳にも村の噂は入ってきていた。村のオランウータンどもがわたしの愛をどう思っているか、そんなことを聞かされるのは堪らない。ぞっとする。(バラバラにされた体を〈生ける水〉で甦らせようと夢見る者たちも、村の猿どもにかかると、せいぜいそんな下種な話に墜ちてしまう。そこで新しいテーマは思い切って〈ファンタスティックな物語〉。ヒトの愛とケモノの愛との比較対照。
 ニコライが訊く――
 「どうなんだい? あいつらの噂に何か根拠はあるの?」
 わたしは言った――
 「もちろん、僕らのロマンはそんなものじゃないさ。全然ちがう」
 それからさらに――
 「もしかしたら、これが僕の最後の恋かも。とても苦しい」
 「しかしまあ――」と、彼。「おまえももういい歳なんだから」
 じゃ、サーシャのことはどうなんだ?

1911年に亡くなった長兄アレクサンドル(愛称サーシャ)。アレクサンドル・ミハーイロヴィチ(1868-1911)は医師だったが、ある日、みんなから親しくマルーハ(本名は未詳)と呼ばれていた看護婦とともに家を出た――妻には、死んで戻ってくると言い置いて。だが、早々に死病に取りつかれて、母マリヤ・イワーノヴナのもとに帰ってきた。彼の死を知って、すぐさまマルーハはそのあとを追った(自殺)。――「ミハイル・ミハーイロヴィチの兄弟、姉、父の運命はそれぞれ鮮烈にして異常な、各人の性格や傾向を裏書している。揺れ動き、探求する、複雑なそのあくなき本性は月並み・平凡を良しとせず、高い理想をめざすが、その志操を実生活に活かすことができない。ミハイル・ミハーイロヴィチが彼ら一人ひとりの生の意味と個の秘密に深い理解を示したのは、彼らの求めたもの(ポーイスク)が彼自身にとって最も本質的で重要なものだったからかもしれない(中略)兄であるアレクサンドル(『あの人はある種、生まれついての芸術家だった(ミハイルの言葉)』)の中に、わたしたちはミハイル・ミハーイロヴィチに非常に近い特徴――芸術家としての天稟(使命)と大いなる愛の夢とを見ている」(ワレーリヤ・ドミートリエヴナ『言葉への道』から)。

 今ではもうはっきりしている。これまで書いてきたものはみな、狂熱(ザドール)のポエジーとでも言うべきもの。狂熱に駆られておのれの個性を主張してきたが、今やそれも使い果たしてしまって、ここしばらく何も書けずにいる。
 鉱物的なひんやりした死のごとき冷淡・無関心なものを必要とする気持(運命の必然か)が今、人間への(これまで馴染みの)熱い信頼の場に踏み込もうとしている〔のを感ずる〕。

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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