2012 . 10 . 14 up
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*日本のことがたびたび話題になるのは、この年(1918)の4月初めに、日本軍陸戦隊がウラヂヴォストークに「上陸」し、8月2日には「シベリア出兵」を宣言したためである。
こんなふうに、次第に第九の波〔嵐の海で最も危険な高波〕は近づいてくるのだ。波の先に見えてくるのは、はたして新天地の砂浜か、それとも断崖絶壁か?
星とハートの弦の音。フルシチョーヴォ。わが古巣はどこまでも辱しめられ汚されてしまったが、でも風は少しも変わらず懐かしい木々をざわめかせ、トゥルゲーネフの小径の至るところにグレージツァは生きていた! ほら、だからこんなときでも(何がどうあろうと)、とにかく姿を見せてくれたのだ!
ああ、愛しい人よ、今はただこの嬉しさをあなたのために書き留めておこう――手紙でも認めるように。これまでわたしは、自分の文学を紙の上の磔刑(不幸)か何かみたいに思っていたが、今はこう感じている――まだ何もわかってないな、と。だからすべてを包み隠さず書こうと思う。
自分は心の奥を見せずに、そこへ逃げ込んでいた。辛いけれど同時に嬉しいのだ。痛みと喜びがごちゃ混ぜになって、何がどこにあるのかわからない。自分の幸福は《あなた》にある。悲哀と不幸はここにはない。では、どこに? わからない。ただあの愛すべき人たち(アレクサンドル・ミハーイロヴィチやエフロシーニヤ・パーヴロヴナや子どもたち)にだけはない〔と願うばかりだ〕。わたしにはすべてがこう思われる――この人生はぞっとするような悪夢であって、そうなったのは星とハートの弦を断ち切ったためなのだ、と。あなたにはわかるだろうか? 人間の星とハートとは遠くきにあって近きもの。暗夜の星々は、たっぷりと血を送り込まれた心臓のように大きくなったり小さくなったりしている。あなたはわかってたね? もう僕らの星もハートも破裂してしまった。見てのとおり、残ったのは蜘蛛の巣だ。銀の糸、細いとても細い糸が、ぷるぷると震えるように揺れている。いずれぼろぼろになってしまうだろう。
*セーヴェル(北ロシア)への民俗探訪の記録――『驚かざる鳥たちの国(邦題『森と水と日の照る夜』(1907)だが、ここで言わんとするのは、少年のころに友だちと脱出を企てた「黄金のアジア」、見果てぬ夢の国こと。
夫(理解度を広げる) | ||
強姦者 | 女のハート | 物静かな客人 |
旦那(パン)その他 | (海) | アリョーシャ・カラマーゾフ |
オネーギン | ――― | 白痴その他 |
社会活動家 | ――― | 詩人 |
人びと | ――― | 星々 |
誘惑(デーモン) | ――― | 熱中〔愛着〕 |
殺人者 | ――― | 愛 |
結婚は不可能であること |
*1断続的に執筆されたエッセイ『黒いアラブ人』のこと。
*2プリーシヴィンとソフィヤ・パーヴロヴナはモスクワを脱して故郷フルシチョーヴォをめざす。故郷には妻のエフロシーニヤ・パーヴロヴナと子どもたちがいる。三人とはその妻とソフィヤと作家自身のこと。ソフィヤの夫(コノプリャーンツェフ)がそれを疑わないはずがない。
これまでの経緯――8月4日(土)の朝、薪づくりをするからとワシーリイが呼びにきた。鋸を引いていると、Сが飛び込んできて――
「エフロシーニヤ・パーヴロヴナが来たわよ!*」
*はるばる故郷から妻(フローシャ、エフロシーニヤ・パーヴロヴナ)が夫を訪ねて近くまでやって来たこと。これと似たことは以前にもあった。モスクワ近郊でフローシャと同棲を始めてから一年後の1904年、独り首都(当時)ペテルブルグでものを書き始めていた夫のもとに、赤子〔第一子、のち死亡〕を抱き、連れ子〔ヤーシャ〕の手を引いて、はるばる妻が上京してきたのだ。
*「われわれはみな役者だ」という言い方は、のちのち(1940)、ワレーリヤ・ドミートリエヴナ・レーベヂェワ(リオルコ)と結ばれたときにも、たびたび口をついて出てきた。日付のないある日のメモに――「生活の表層(おのれの内なる生ではない)はわたしという役を演ずる芝居にすぎない。それを通してのみわたしがわたし自身を知ることのできる人びと――さほどにも繊細な役者とよばれる人間たちがいる。自分にとって厄介なのは何かと言えば、それは自分の役が見事なくらい下手くそに演じられてしまうことではないか」。さらに日付のないメモ――「1914年、人と交わっても、結局のところ自分自身と向き合ったにすぎないようなこと。確かに生(き)のままで姿で登場しても、そこに「いいもの」はあまり無い。じっさい無いのである。おそらくわれわれは自分自身に不満であり、今の自分よりもっと面白い何かを自分から引き出したい、自分を越える者になりたいと願っているのだ。きみはどう思うか? わたしは、それは……人びとの前で自身の個性を明らかにすることの難しさに、それを意識し過ぎることに由来するのだと思う。だが、まさにそれこそ、われわれが役を演じて自分自身の代わりにレゲンダを作り出してしまう最深の理由なのではないだろうか」。また1943年の日付のないこんなメモ――「リャーリャ〔妻ワレーリヤ・ドミートリエヴナの愛称〕が何よりわたしを戸惑わせるのは、彼女の止むことなきゲームだ。彼女は人生における才能豊かな俳優であり、自分が演じているものを完全に信じ切っている。自分はときに、それが彼女の愛のヒロイズムであるとわかっていつつも、この人〔彼女〕はその愛をただ演じているだけかもしれないと思って〔疑って〕しまう。そうわたしに思わせるもの、まさにそれが彼女のヒロイズムなのである。生のまま、自然のままではあり得ない。そんな愛し方ができるのは〈神のごとき役者(ボージイ・アクチョール)〉だけ……では、自分はどうか? 自分が彼女を選んだのも、共に演じ合うほうがいいと思ったからではないのだろうか?」。「1944年7月21日、人と人との出会いには常に〈演劇(プレツタヴレーニエ)〉がある。誰もが他人の前で自分自身の役を演ずるが、登場人物は必ず二人――一人は役者、もう一人は観客。男女の出会いも然り。互いに演じ合うのだ……」。「1944年9月12日、だが、それは自分にとっては……われわれの愛もまた演技(遊び)? いや違う、そうじゃないだろう。われわれは愛人同士ではなく、互いに興味を示した二人の舞台俳優が出会ったということだ」(リャザーノワ編『あなたとわたし』の草稿から)。
*1ブリュックワ(スウェーデンカブ)は普通のカブより大きい。根は食用にも飼料にも。
*2鬼ごっこの一種。ペアを組む相手がいれば鬼には捕まらない。古くからある遊びで、『ネストルの年代記』にも出てくる。
明るすぎるほど明るい。ついこんなことを口走る――
「何もかもいい具合に進んでいる。これはつまり、自分の心にまだ無垢の片隅が残っているということなんだ。なんせこんなことは、あとにも先にも初めての経験だからね」
「そうね、そのとおりだわ」と彼女(自分のことに絡めて)。
彼女はどうやら、最初にこちらがふざけて二人の親密な関係云々を言いだしたとき、自分がどんな言葉を口にしたか、忘れてしまったようだ。彼女はこう言ったのだ――『あたし、ぜったい自分を許さない。だって自分の心には究極的善のようなのがあるのに、エフロシーニヤ・パーヴロヴナを不幸にするなんてできないもの」
その後、そのモチーフは思い出のかけらも残さず完全消滅。邪魔をしているのは夫との関係だけになった。
アルチョームがやって来る。これは狼も尻尾を巻いて逃げ出すほどの我利我利亡者。ボリシェヴィキから給料を貰っている。上から下まできれいな白尽くめで、赤いのはいつも血走っている目だけである。
あれこれ話しているうちにレーニンが殺られた*らしいとの情報〔を得る〕。ところがどうだ、そういうことにはいっこう無関心なのである。どっかおかしい。まるで狂犬が始末されたらしい――この〔革命〕事業を為し遂げるためにわれわれに向けて放たれた罪深くも大いに役に立つ犬、でも今は不要になった畜生がどこかで殴り殺されたらしい――その程度の反応しか示さないのだ。
*「レーニン暗殺さる!」の噂はこのころよく聞かれた。
われわれは不幸な人間を見るような目で見られている。
「おまえさん方は貧困階級の話なんかしとるが、そんなのはつまらんチンポさ。いいかね、貧困階級てのはボリシェヴィキのことだよ。貧乏臭い小屋なんかに足を踏み入れるまでもないが、ちらり覗けば、束になった釣竿なんかが見えてくる。それだけだ、ほんとにそれしか持ってないんだ。住んでいるのは誰か、ボリシェヴィキだよ。それで、農業はどうなってる? 野菜作りはどうだい? エンドウには水をやったかな?」
アルヒープが馬に乗ってやって来る。頭のいい、狡猾な、厚かましい百姓だ。どんな政府の仕事にも就いて、そのたびに水の中から少しも濡れずに出てくる〔巧みに罪を逃れている〕男である。
「共産主義の経営をおれは立派な正しいものと思ってる。でもやっぱり、よそんちの親父にもものを食わせなくちゃならんところが、おれは嫌なんだ」
「おめえはいつも自分のためにだけ生きたいわけだな?」
「自分のために生きてどこが悪(わり)い? 赤の他人のために働くだけじゃねえかよ――農業だってコムーナだって!」
こっちへ来るのは主任のシーニイだ。この男はクーデタが起これば吊るされるとわかっているから、つねに耳を欹てている。逃亡のチャンスを見誤らぬよう注意を怠らない。
「どうだい、町の様子は?」
「コミサールの演説を聴いた。こんなだった――『同志諸君、たとえば村に貧民が30戸とブルジュイが100戸あれば、ブルジュイは消えてもらわなくてはならない。まず第一に、貧乏人に窓の下の菜園を差し出すこと。なぜなら貧乏人は貧しいから、そうするのが当然である。第二に、貧乏人にスプリング付きの敷布団を、第三に貧乏人の家には蓄音機が置かれなければならない。この30戸は生き延びるが、ブルジュイ100戸は消えてもらうしかないのである』
アルチョームが甘言で釣ろうして――
「どうしてまた100戸対30戸なんだろう?」
アルヒープ――
「んじゃ、これまでどんなふうにやってきたんだ?」
アルチョーム――
「いろいろやってきたが、『やめ!』のひと声で、長柄を返す〔すごすごと黙って引き返す〕しきゃなかったね」
アルヒープ――
「中国人なら〔ブルジュイなんか〕機関銃であっさり片付けちまったろうな。いや兄弟、そうじゃない〔中国人じゃない〕、以前はおれ自身がそう考えてたってことだ」
アルチョーム――
「そうか、考え直したわけか?」
アルヒープ――
「もちろん考え直したわけさ」
アルチョーム――
「ほんとのとこ、どうなるんかな?」
アルヒープ――
「でも、おれはどこにも出ていかんよ。端っこに並んで、《右へ倣い右!》だろうな」
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