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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 07 . 14 up
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 ありとあらゆる生の恐怖……生の恐怖はわれわれのまわりに、いや、すぐ近くにひそんでいる……不幸はそろそろと忍び寄ってきて、日々ひそかに居つき、一緒に飲み食いしながら、誰にも気づかれない。そしてあるとき不意に正体を現わす。なんと隣にいたのは恐怖だ、恐怖そのものではないか……そんなふうに恐怖はいつでもわれわれと共にある――見えない恐怖。だからいつだって警戒を怠ってはならないのだ。ああでも、警戒したところでどうにもならない。何の役にも立たない。そのうちヒトは慣れてしまうから。つまるところは、慣れ、お決まり、紋切り型、いつものことさ。生にはいかなる決まり(правило)もない。決まりは命数の尽きたあとにやってくる。決まりというのはいつだって死んでいるから、意気阻喪させるし、ほっとさせてもくれる。決まりは疲労の果実だ。そしていつでも他人のもの。自分のそれはまだ大したものじゃない。そんなに怖くはない。ヒトに無縁の決まりの力、権力(власть)。

 大尉は肩から下を失くしているのに、ときどき(無いはずの)小指に痛みを感じるという。母もちょうどそれと同じだ。自分はいま母とは遠く離れて暮らしている。わたしには家族がいるのに、母はそれを認めようとしない。でも、彼女の小指はいつでもずきずきしている。小指の先には息子が一人おり、彼女は息子の子どもたち、つまり想像上の、理想的な孫たちのために生き、蓄財にも励んでいる。もしわたしにカタストロフィーが生じても、彼女は自分を責めはしないだろう。彼女は公明正大だ。自分のためではなく、想像上の孫たちのために生きていたのだから。  以前と比べれば、ずいぶん状況は良くなっている。まあでも、そんな気がするだけかも――うちの息子たちが母の思い描く孫たちであることに変わりはないのだ。

妻のエフロシーニヤ・パーヴロヴナは父なしの貧農の娘、子連れの再婚者。プリーシヴィンの母はなかなかこの身分違いの結婚を認めなかった。

編訳者によるエッセイ(三)

レーミゾフとプリーシヴィン

 アレクセイ・レーミゾフ(1877-1957)に魅せられた人たち、言うところの〈レーミゾフ好き〉は大勢いた。では、いったい彼らはレーミゾフの何に魅せられたのか? 人柄に? それともその駆使する言語に、か? おそらくそれはスタイル、つまり彼の文体にある。文は人なり。だがしかしその〈文体〉は曲者である。一語一語の重みと響きと多義性に、彼自身の選り出す音・リズム・間が巧緻をきわめた絡み方をするとき、翻訳作業は間違いなく徒労に終わるから。一般化された個々のことばの意味は移せても、肝腎要の〈文体〉には手も足も出ない。ロシア語好きの〈レーミゾフ好き〉にはそこが堪らない。
 このネオ写実主義の中心人物は、相当な変わり者だった。「早くから象徴派の影響を受けたが、やがてそれは独自の世界に――民間伝承の伝統や言語学的研究に基づく〈民族的文体〉の探求へ、宗教的道徳的問題へと沈潜してゆく。霊感の湧き口は、民衆の話しことばに、ラテンあるいはフランスの影響に汚されなかったキーエフおよびモスクワの口碑や記字的伝統に、あった」(スローニム「象徴派とその時代」)。レーミゾフの場合、普通に用いられている話しことばをそのまま採用するのではなく、それら口語の要素を慎重に選びかつ入念に彫琢しつつ、俚諺、警句、謎々、引喩、通俗的語源解釈を重層的に駆使して、不思議なうえにもなお不思議な、グロテスクな〈文体〉を作り出すのである。
 レーミゾフは名代の出不精だった。だから、彼の〈文体〉が聴きたくなると、ペテルブルグ人士はよく打ち揃って、その住まいへ出かけていった。ペテルブルグ市ワシーリエフスキイ島14条。だが、借家の主は至って無口。自分が醜男で繊細な神経の持ち主であることをよく知っている。かわって奥さんのセラフィーマ・パーヴロヴナ(1876-1943)がせっせと客人たちの茶の世話を焼くが、でもやはり、名だたる本の虫である主人のことばには独特の美しさと深み(含蓄)とが、さらにまたことばの源(語源)へのこだわりと執着にも、なにかしら鬼気迫るものがあるのだった。芸術家である客人たちが家路につくころには、そういうわけで、誰もがレーミゾフ好きになっていた。
 モスクワの旧い商家に生まれたレーミゾフは、学生時代(モスクワ大学数学科)にちょっとばかり政治に熱中(社会民主党員)し、取っ捕まって、タガンカ監獄にぶち込まれた。それが最初の拘禁。自宅とは目と鼻の先の刑務所である。そのあとペンザへ流刑になり、そこで再逮捕、ウスチスィソリスク(コミ地方)を経て、1901年にヴォーログダ(セーヴェル=北ロシア)に移住した。そんな暮らしが6年も続いたが、不幸中の幸いであったのは、その暗い流刑時代に、個性豊かなさまざまな人間たちと知り合ったことだった。俳優で演出家のメイエルホーリド、哲学者のベルジャーエフ、マルクス主義者のルナチャールスキイ、テロリストのカリャーエフ、サーヴィンコフ、のちにプーシキン研究家となるシチョーゴレフなどなどである。どうやら最初から、彼には、自分の一生の仕事が政治ではなく文学であることがわかっていたようである。
 親交を結んだ政治犯たちの中に、やがて生涯の伴侶となるセラフィーマ・パーヴロヴナ・ドヴゲッロがいた。彼女は1899年、ベストゥージェフ女学院在学中に社会革命党(エスエル)のデモに加わって逮捕され、ソルヴィチェゴドスク(ヴォーログダ県)に流刑になった。その地で彼女に恋した若いポーランドの作家が自殺をし、居たたまれずにヴォーログダへ走った。レーミゾフと出会ったのは、そのとき彼女が身を寄せていたサーヴィンコフの家だった。あるとき、初めて訪れたレーミゾフの下宿でボードレールの詩一編を聞かされて失神。自殺した恋人への罪の意識に打ちのめされ、セラフィーマはついに自殺を図る。幸い未遂に終わったが、今度はレーミゾフが深く重くどこまでも沈んでしまった。
 セラフィーマ・パーヴロヴナはのちに帝国サンクト・ペテルブルグ考古学研究所で研鑽を積み、古文字(古文書)学の優れた専門家になった。結婚前の彼女はよくこんなふうに言われていた――『オーリャ(セラフィーマ・パーヴロヴナのこと)からはついに革命家は出てこないだろう。彼女の中には不思議な虫が棲んでいて、そいつが邪魔をするんだ』と。またこれはレーミゾフ自身のことば――『わたしが好きな〈ことばの基礎知識〉を与えてくれたのは彼女だった。単語、語根、要するに〈ことば〉の歴史だ。彼女は40年ものあいだ、わたしの先生であり、文学と人生における検閲官であり……母親のようにわたしに注意を与え、わたしを叱ってくれた』。 
 彼は自作をほとんどを妻に捧げている――長編『池』、中篇『時計』、童話『ポーソロニ』、幾つかの短編集、有り余るほどの小品群や水彩画、あの独特のカリグラフィーやコラージュを。彼女は流刑地でも亡命地(ロシア革命のあと、1921年に二人は祖国を捨て、初めベルリン、のちにパリへ。その地で1943年に彼女が、1957年に失明と困窮のうちに夫も没した)でも精一杯働いて、夫の文学生活を支え続けた。
  レーミゾフより4つ年上のプリーシヴィンが彼と出会ったのは1907年、やはりあのワシーリエフスキイ島14条のアパートだった。その3年前にプリーシヴィンは天職と生活の場を求めて独り上京、初めて住んだのが同じ14条の貸間だったが、そのときは面識もないままレスノーイへ越し、1906年にはとうとう生活に行き詰って、マーラヤ・オーフタ地区((十三)「ペテルブルグの春」の*を)の「豚小屋とキャベツ畑の間のあばら家」に移っている。レーミゾフを知るまえ、すでに彼は、民俗学者のニコライ・オンチュコーフ((六)の写真を)やシャーフマトフと昵懇になり、彼らから大いに刺激を受け、結局それが彼の文学生活への最初の大きな転機――セーヴェル地方への民俗探訪の旅――となったのである。首都の知識人たちの間で評判を取ったその著作(事実上の処女作である『森と水と日の照る夜』(邦題)、成文社刊)のおかげで、じつにさまざまな人びとと顔見知りになった。〈宗教・哲学会〉での多くの出会いは言うまでもないが、しかし何と言っても刺激的だったのは、レーミゾフの、文学への姿勢とことばへの執着、すなわち〈文体〉との出会いだった。知り合ってすぐに、プリーシヴィンは、レーミゾフが主催する世にも不思議な会〈猿類大自由院〉の一員になる(というか、させられた)。略称オベズヴェルヴォルパル。奇人レーミゾフが自ら考案・創設した怪しい「秘密」結社で、自身は院の元書記官という肩書きである。レーミゾフ一流の手の込んだ遊びで、彼を敬愛する首都の作家や詩人、哲学者、画家たち(多少の変人も含めて)は、例外なく会員=受勲者にされている。 
 この会には、〈森と自然界の帝王アスィカ王(レーミゾフ本人)とすべての猿は忌まわしき人類の偽善と奸策を一切許さず〉とするマニフェストと入会規則があった。会員証も勲章も彼の手書き――凝った古代ロシアの装飾文字(愛する妻は前述のとおり古文字の専門家)と得意なイラストである。その会員名簿には、ローザノフ、シェストーフ、ゴーリキイ、シシコーフ、イワノフ=ラズームニク、ブローク、ベールィ、アフマートワ、アレクセイ・トルストイ、バクスト、ペトロフ=ヴォートキン、エレンブールグ、シチョーゴレフ、〈セラピオン兄弟〉の面々が名を連ね、みなそれぞれ騎士、公候、主教などの位を授かっている。
 プリーシヴィンはそんな帝王の親炙に浴した。奥さんのセラフィーマ・パーヴロヴナの魔力にも魅せられている(1914年2月の日記)。ローザノフの述懐に――「現代作家のうちでプリーシヴィンくらい、宣伝のためでも悪意からでもなくわれわれについて語ることのできる作家はいない。森や野や獣について、彼ほど感動的なことばを発した作家はいません。目、耳、鼻がじつに非凡だ。彼はね、きみ〔レーミゾフ〕の弟子ですよ」。プリーシヴィンの日記には――「わたしはレーミゾフに非常に近しいものを感じていた。今でも彼を自分の師と思っている」、また「レーミゾフを通してわたしは自分を信ずるに至った」とも。レーミゾフの芸術世界がもたらした影響は想像以上に大きく(「文体までレーミゾフじみてきた」)、弟子はそこからの必死の脱出を試みる。「レーミゾフを真似たあのナンセンスは、ああ思い出すだに恥ずかしい」 
  エレンブールグの回想記(『わが回想―人間・歳月・生活』、朝日新聞社刊・木村浩訳)に、貧窮のパリの穴蔵で最後に聴いたレーミゾフの話が出てくる。「レーミゾフはしばしば愛情をこめてМ・М・プリーシヴィンについて語った。亡くなる直前の手紙の中で、彼は、モスクワでミハイル・ミハーイロヴィチ〔プリーシヴィン〕の追悼記念祭が盛大に行なわれたことを喜んでいた」と記す。また、あるとき、異国の地で彼がこうも言っていた、と――「プリーシヴィンはわたしにはロシアの息吹そのもの。わたしはロシアのことばによって生きています。ことばと大地はわたしにとって分かつことのできないものなのです」
 アレクセイ・レーミゾフは作家であり造形芸術家でありナンでありカンであった。ともかく不思議なけったいな人生を生きた人だった。祖国を捨てたために、本国(ソヴェート)での評価は(評価どころか)まったく無視されたきりだったが、現在ではさまざまな芸術分野の目利きたちが彼の遺したものに熱いまなざしを向けている。

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