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プリーシヴィンの日記 太田正一
2012 . 09 . 02 up
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(1918年6月2日の続き)
篩(ふるい)にかけた麦粉が白くなるように、コミュニズムの篩にかけられたブルジョアジーも白くなる。黒い麩(ふすま)のように貧民も篩い分けされて、ついには革命から本物の白いブルジョアの民主主義が出てくるにちがいない。
諸々の事実が民衆の記憶から消えていくが、その事実の意味は残るのだ(アポロン・グリゴーリエフ*)。
*ロシアの詩人で評論家(1822-64)。23歳で文壇に登場し、スラヴ派の「モスクワ人」誌、ドストエーフスキイの「時代」誌などを編集。ベリーンスキイ派の歴史的・美学的評論に反逆し、シェリング流の民族的有機体論を主張した。プーシキンとオストローフスキイが彼の理想像だった。その詩と評論は同時代人には理解されなかったが、半世紀を経てブロークラによって再発見された。引用の出典は不明。
安食堂、取引所、定期市のような、いつでも人びとで賑わいワイワイ騒いでるところへ自分はよく出かける。もともと放浪や自由な会話の交わされる場所が好きなので、それはしょうがない。それでそういう場所では、たいていセルゲイ・ペトローヴィチかピョートル・セルゲーエヴィチ(これはよく殴られつけてるいかさま男)の疑るような鋭い目線に気づく。この手の人間は学問的なもの、苦労して学び習得されたようなものすべてに疑いの目を向ける……
「おれは学問のある奴にうんざりしてんだ」と、セルゲイ・セルゲーエヴィチ(これは高等中学6年を卒えた、ちゃんとした教育のある商人だ)が言う。「学問を信用していたから学校に通ったんだが、今ではがっかりしている」*
*初期の日記(1905-1913)には、ロシアの民衆(ナロード)の自主的主体的な生き方(理想)へのこだわりを示すコメントが数多く述べられているように思われる。それは、あらゆる文化的思惟体系(学問や書物)に対するかなり攻撃的な意識というにとどまらず、伝統・文化・信仰(「すべてを新たな気持ちで始めること――それが自分の主要な、概してロシア人一般に見られる特徴である」)からは原則的に独立した意識、でもある。1914-17年ころの日記に出てくるのは、「とうの昔に忘れられた旧いものへの」また「中世〔ロシアでは古代〕時代のさまざまな問いかけ」への回帰というテーマである。革命は、文化の皮膜の下の、〔文化によって〕抑えつけられていた〈根の部分〉を露わにした。プリーシヴィンが文化との闘いのうちに見ているのは、文化を回避し文化を無視してでもわが道を突き進もうとする意識、独自の道を行こうとするロシア人たちの避け難い夢想(ゆめ)なのだ。
ソヴェート政権(権力)の形態の単一性について。ボリシェヴィズムの果ては専制国家のそれとよく似ている。たとえば、定価(専売権)。
自分の家(フートル)でパンを噛みながら旧い手帳を改めて読み返している。周囲は村。その村が、敷き藁の上の雌鶏みたいに、余所者の思想の上にどっかと腰を据えて、〔ボリシェヴィキからの〕〈最終方針〉のようなものが出されるのを首を長くして待っている。雛が孵るなら、ガチョウでも鶏でも鴨でもカッコウでも、このさい何でもいいと思っている。今ではもう自分は畑にはめったに出ない。『また出しゃばりだしたな。てことはドイツ軍が近づいてるってことだ』――どうせそんなことを言われるのがオチだからである。自分も罪深い人間だ(と、ときどき思う)が、わが家に誰かが立ち寄れば――『ほれ見ろ、また客が来てるぞ。てことはバザールでドイツのことで何かニュースを持ってきたのかも』。
だが、そういうことも慣れてしまえば、どうでもよくなり、べつに気にもしなくなる。あたりを見渡しても、なに、自分なりに生きていけないはずはないとわかっている。大丈夫だ、混乱などしてないし、何も縺(もつ)れてない〔ことを知っている〕。変わるのは旗の色だけだ。しかし、よくこんなことを考えている自分に気づくことがある――それにしてもなぜ、自分はこんなに吐き気を催すほどの憎しみを抱くのか? いったい誰に、何に? たしかに自分は心のどこかで――『忘れるな、機を逸するな、ぜったい許すか!』――そう肝に銘じているのである。
6月4日
芸術家への遺訓。
生を切り刻んではいけない――政治においても経営においてもその誘惑に負けてはいけない。精進(努力)せよ、さもなくばそれを愉しめ。だが精進と愉しみをごたまぜにするな!
きみがもし芸術家なら、きみにとって人生はハラショーだ、ハラショーでなくなったら、それから脱すること、自由になれ!
今はこの牢獄がわれわれの生活だ。だから昼も夜も、ここから自由になることを思い続けよ!
陰鬱なるわが客人よ、その覆いを取るな、姿を見せるな、曝すな。わたしはおまえを知っている……
6月5日
文化(クリトゥーラ)*はヨーロッパから入ってきた言葉で、今日わが国では〈読み書きできる、ヨーロッパふうの教養ないししきたり〉を意味する。
*教養、文化、カルチャーは文明とほぼ同義に用いられることが多いが、ヨーロッパでは人間の精神的生活に関わるものを一般に〈文化〉と呼んでいる。原義は「耕すこと」。耕作・栽培・培養・養殖から教化・教養・技能・農作物まで、すべてこれクリトゥーラ。
文化人とは受けた教育と教養を介して生の福祉(ブラガ)を〈理性的に〉活用できる人間のことを謂う。〈理性的に〉というのは、自らは快(ハラショー)であっても他者にとって不快であってはならぬように、という意味である。
文化人の真反対は、ロシアの富農(クラーク)と呼ばれる者たちだ。彼らは自分のことしか念頭になく、仲間たち(スレダー)を情け容赦なく利用する。
霊的に啓かれたロシア人、たとえばアムヴローシイ師については言うまい、アムヴローシイ師は文化人であるなど言っても始まらない。言うほうが恥ずかしい。むろんヨーロッパ式の教養を身につけたプーシキンだって今さらそんなふうに呼ぶのは可笑しい。大学生を読み書きできる人と定義するようなものだ。換言すれば、文化とは平均的人間へのヨーロッパ的要求の総和を意味する。最も文化的と称されるのは、どこよりも多く石鹸が消費される国である。
文化とは主人と下種(ハム)の間の緩衝器。ロシアは最も非文化的な国だ。ジャイルズ・フレッチャー*の時代は奴隷を棒で叩いたが、革命時代は解放された奴隷が同じやり方で昨日の主人を叩いている。ロシアで最も文化的な党はカデットだ。
ロシア人が文化を憎むのは、第一に、ロシア人一人ひとりが自分の思うとおりに生きたいと思っているから、第二には生の福祉を秘かに自分のやり方で(みなと一緒にではなく)利用享受しているから、第三には神聖な事業も実務上の計算も、どっちも殊更ロシア人が得意とする分野ではないからであり、第四の理由に至っては、たんにロシア人のその生まれついての才能から観て、自分自身と何ら変わらず(もしかしたら、自分より愚かでたちが悪いかもしれないが)、それこそがロシア人の文化人たるところ(彼にとってそれは公然たる事実)、むしろ自分のほうが非文化人なのかも……
*イギリス人のジャイルズ・フレッチャーは、1588年から89年にかけてロシアを訪れ〔女王エリザベス一世の使節〕、その経験をもとに『ロシアの国家あるいはロシア皇帝(文中では単にモスクワのツァーリと称されている)の統治形態について』を書いた。この著作(1591年にロンドンで出版)には、ロシア人の習慣や礼儀作法に関する辛らつな記述が多く含まれていたため、のちにエリザベス一世は発禁処分にしている。ロシア語で読めるようになったのはそれから300年後の1905年である。このときのロシア皇帝はイワン雷帝の子のフョードル一世(在位1584-1598)。「その統治は純粋に専制的なものだ。ツァーリにのみ利益が集中するようになっているので、誰の目にも野蛮な形態と映る」……「ツァーリは外見から言うと、背が低く、小太りに見える。顔はむくんでいて、血色が悪く、鉤鼻だ。少し足が悪いせいか、足下がおぼつかない。動作は鈍く、ほとんど体を動かさない。だが、笑顔はつねに絶やさない。資質については、無知で頭が悪いと言いきってしまえないところがあり、気立てはことのほか優しく、物静かで、慈悲深かった。性格は好戦的でなく、国を治めるだけの資質も才覚も持ち合わせていなかった。信仰心が厚いというのか、非常に迷信深い」
ロシア革命における〈ブルジュイ〉は共通認識として2つのカテゴリー――相対立する人間のタイプを生んだ。一方には組織された、つまり規律ある才能の持ち主で、もう一方がロシアの富農層(クラーク)。現在、クラークが文化人より良い暮らしをしている例は至るところで観られる。それは当然だ。と言うのも、クラークが身内の人間で機知に富む仲間(スレダー)に近い存在だからである。エンジニアやあらゆる種類の技術者が為すこともなくただ坐しているというのに、今では多くのクラークがさまざまな協同・産業・消費組合の所有者や出資者や従業員(コオペラートル)になっている。コミュニズムの篩(ふるい)を通してまず最初に、ぱらぱら篩い分けられたのが、いちばん零細で、ろくすっぽ読み書きもできないクラークだったが、現在では権力(のごときもの)を手にした地方の革命家というのが、読み書きできない連中(クラークとプロレタリア)の〈反乱としての革命〉をわが身に擬している。われわれの手元にあるのは、あるヂクタートルがゲルマンの進攻のときに書いた一記事にすぎない。
大ぼら吹いたのさ! おまえさんに代わって言ってやりたいが、そうするには発言の許可を求めなきゃならんのだよ。
われわれの代表はどっかに消えてしまった。が、ロガートフカ村の牧童たちは言うのだった――『おとついだったかな、町の方から一斉射撃みてな音が聞こえたよ。わしらの代表に当たらなかったらいいんだが』
誰も新聞を運んでこない。新聞は出ているのだろうか? 夜、代表のひとりが戻ってきて、言った――『ほんとにやばかったなあ。でもなんとか逃げてきた』と。そんなことが現に起こっているのである。20の郷のうち独裁制(ヂクタトゥーラ)に賛成したのは3つの郷――送られた1200名の代表のうちの100名ほどだ。ヂクタートルたちとの烈しい論争のあと、大会を放棄しようとしたが、議場の出口で懲罰隊に阻止され、席に戻らされた。翌日、議場の扉に次のような告示――〈ここで行なわれているのはボリシェヴィキ党の農民とエスエル左派の集会である〉。農民たちは建物には入らず、郷からの代表者1名を選び、全員の署名を付して、〈自分たちは非党員である〉との声明文を手渡した。署名者を逮捕すべしとの命令が下った。
ちょうどそのとき、町の三方から、略奪を兼ねた一斉捜査が始まった。労働者たちは運動停止のシグナルを発した。装甲車が出動して銃撃戦になる。代表人たちはそれぞれの村に散った。
今、郡中がこの話でもちきりだ。代表団に向けた発砲ではなかったが、農業コミサールなどはまるで鶏にも税金をかけまじき勢いだ――
「ま、これはおれの好み(オホータ)〔オホータには趣味と狩猟の両義あり、前出〕なんだが、雌ウズラかブレスレット〔手錠〕か、さあどっちにする?」
なぜ代表1500人〔1200人?〕の中にボリシェヴィキが1人もいないのだろう? いったい村にボリシェヴィキなどいるのか?
「あんたの味方になってやりたいが、アンナ・コンスタンチーノヴナよ、そのためには発言の許可を得なくちゃならんのだよ」
扉口に懲罰隊が現われたので、百姓たちはみな意気消沈している。コミサールが例によって大ぼらを吹いた――
「今年は、金的を射落とさん百姓なんてひとりもおらんだろうよ!」
しかし、講和に誑(たぶら)かされて、兵隊たちは前線を捨てて逃げたし、土地に惑わされて、百姓たちは働かなくなっってしまった。今はもう人びと幻惑させるものが何もない。だから百姓には金的だの林檎だの幼稚園だのを約束しているのである。
かつては戦争のロマンチズムというのがあったが、今そんなポエジーはどこにある? 革命のロマンチズムというのもあったが、今その甘(うま)みはどこに?
元刑事犯から成るソヴェート体制も今は、じつは〈クラーク〉ではなく、なんだかよくわからない教養みたいなものを身につけた〈町の百姓〉なのだ。そう、取って代わったのである(たとえばホテルのドアマンなどに)――シーニイはコミュニストだ。〔プリーシヴィンがペテルブルグで親しく付き合った同郷人もドアマンだった(前出)。おそらくシーニイも田舎出の町人なのだろう〕。
どこかで人殺しが行なわれている。でも、街道や田舎道を行く庶民たちの話題はと言えば――どうも鶏にも税を課し、どんな狩り(オホータ)も好き勝手にはやらせんらしい――そんなことばかりである。
農人は猟人だ。心のかたちという意味では、どちらも生きるオホートニキ〔生を熱望する者〕だから。では、新体制は何をしようとしているのか? これは、その生きたいと思う切なるもの――成功や期待や見込みを人間の心から引っこ抜き、一人ひとりを神の奴隷でもツァーリの奴隷でも民衆の奴隷でも人類の奴隷でもない、誰にも理解できない〈党の作り話〔この文字抹消〕〉の奴隷、しかも生きた人間の心に繋がる伝動装置をまったく欠いたはずみ車の、単なる機構(システム)の奴隷にしようとしているのだ。
また一方では、その作り話を支える力になっているのが何かと言えば、反乱奴隷が掲げるただの旗(フラッグ‐ズナーミャ)なのである。今、奴隷は思いを達成してくたくたになっているか幻滅するかしていて、秩序を求めているが、旗はペトログラードの家々の赤い三月〔二月革命〕の旗の黒ずんだぼろきれみたいに、今もぱたぱた音を立てている。
6月7日
エレーツ市では〔ボリシェヴィキによる〕大会招集以来の動揺が依然として続いており、どこかそれはエレミヤの夜*の到来をさえ思わせる。
*旧約の預言者エレミヤのエルサレムの滅亡を嘆くの哀歌。
6月8日
司祭がぽつりと――
「こりゃあ、ボリシェヴィキの完勝かな……」
6月11日
去年リーヂヤ〔長姉〕は――『勝手に持ってけば、何もかもぶち壊せばいいのよ!』と叫んだ。
『それであんたはどうするの?』と、ニコライ〔次兄〕が訊いた。
『あたしは自分の部屋を建てるわよ!』
ニコライは当惑し、ちょっと考えてから、真顔で――
『今、家を、小屋(イズバ)を建ててる最中だよ、部屋どころじゃない……』
『あたしが馬鹿だって言いたいんでしょ? あんたたちがみんなしてあたしを、あたしを……』
今年リーヂヤはこう叫んでいる――
「この嫌な家を壊しなさいよ、あたし、出ていくから!」
「どこへ出ていくって言うの?」と、ニコライ。
「もっと広いとこに、あたし、広くて何もないとこに行くわ!」
家の前の空き地に小さな草の芽が吹き出し、それが毎年トロイツァの前には細かい砂でも撒き散らしたようになる。現在そこは雑草だらけで、緑の中にかつての花壇の跡である円い輪郭だけがくっきりと見えている。
N-aの章〔?〕。隠すこと――花台の下、煙道〔ペチカと煙突をつなぐ〕の中、煙突その他。
〔われわれを〕扶養しているのは畑ではない、〔ボリシェヴィキの発する〕法(ザコン)なのだ。
こっちへサーシカをよこすこと――家具荷車5台分、48時間〔いよいよ脱出か?〕。古い根っこは引き抜くこと。栽培作物(クリトゥーラ)は駆除する。作物からの利益、まったく無し。
「どこへ行くの?」
「文化(クリトゥーラ)のあるところへ」
偉大な革命。むろん神の御業(みわざ)である。あちらの、〔ひょっとしたら〕われわれの(と呼べるものとなったかもしれない)革命は、偉大な民衆(ナロード)的意義を有しているのだろうが、こちらの、(見よ!)目下の生の裁きの庭で、われわれ人間の生ける魂を暗黒の力の責め苦〔地獄〕へ投げ込んだこんな事件を、どうして偉大な〔革命〕などと呼ぶことができるだろうか?
ロシアの偉大な拷問者たるピョートル〔一世また大帝〕。この男は自国を世界の岸を洗う海へ進出させようと心血を注いだが、その大事業は、ロシア人の生ける魂に今日に至るも未だに癒えない傷を負わせた。その未だに塞がらない傷口を見つめれば見つめるほど、それは闇の力と見分けがつかないほど暗い。
偉大な拷問者はそのヨーロッパへの窓を通して自らと最良のロシア人たちの思想(ムィスリ)とを連れ去ったが、そのからだ、全民衆(ナロード)の身体はいっそう苦しいジャングルの奥、どろどろの底なし沼に沈められてしまったのではないか? われわれは今、民衆の身体が偉大な変革者の魂を同じ拷問にかけて苦しめ苛んでいるさまを見ているのではないのだろうか?
彼らは不死の人のように行動している。なぜなら死を怖がってはいないから。彼らの力はリスク、彼らの目的は血にまみれた波頭の上での〈束の間の喝采〉だから。
小市民(メシチャニーン)は、権力・土地・資本の分配に加わり、平等論を高らかにぶち、自ら党に身を置いている。党員はすべてメシチャニーンだ。理屈をこねている詩人もみなメシチャニーンだ。
小市民階級(メシチャンストヴォ)がそうしたあらゆる分離区分に関わっている。殊にウクライナにその傾向が強い。ウクライナがメシチャンなら、郷もメシチャンだ。ツァーリ権力の分離区分にも必ず同伴したのがこの階級である。メシチャンストヴォ――個人主義――個人所有の小さな家――メシチャンストヴォ(不自由)。
わが国には、その轟き渡る音響から、思いつき・作り話・でっち上げを町中に発しようとして、ただそれだけのために馬鹿でかい鐘を鋳造する習慣がある。
今、地方都市で肝を冷やしている住人たちの噂話の中心は――どうやらどっかでこれまでどの国にもないほど大きな鐘(つまり〈鐘の王様(ツァーリ‐コーロコル*〉)が鋳込まれているらしい、というもの。じっさい、どうなのか?
*モスクワのクレムリンの中にある〈鐘の王様〉は重量核200トン。高さ約6メートル。1733-35年に鋳造され、37年のモスクワ大火で破損し、現在はその破片だけが遺されている。
地上はそんな噂でもちきりだ。ロガートフカ村の牧童たちがここの村の牧童に語ったそうだ――射撃音が聞こえてきた、びっくらこいて逃げてきた労働者もいるし、町は火の海で、ラムスカーヤの丘〔エレーツの北西〕ではボリシェヴィキが、アグラマーチ〔?〕の丘ではメンシェヴィキがドンパチやっている。そのあとも次つぎとそんな話が流れてきた。村で人に会えば、話題はいつもそればかり。
「なあ、ラムスカーヤの丘にボリシェヴィキが大砲を運び上げたら、メンシェヴィキも負けずにアグラマーチの丘に大砲を据え付けたってよ……」
司祭が町から戻ってくると、言った――
「ボリシェヴィキが勝った、完全勝利だ! 処刑が始まってぞ。敵を捕まえては銃殺してる、捕まえては撃ち殺してる」
6月14日
女子中等学校の視学官、シチョーキン=クロートフは敵にも味方にも尻尾をふる犬猫野郎(スーキン・コット)だ。
コンスタンチン・ニコラーエヴィチ・ロパーチン*に関する記事が「ソヴェーツカヤ・ガゼータ」紙の雑報欄に8ポイント活字で載っている――反革命とスパイ行為により銃殺、と。
*エレーツ市における赤色テロの犠牲者で、以後たびたび日記にその名が出てくる。
テロが始まった。陽気なイワン・セルゲーエヴィチ・コジュホーフはちょっとした秘密の会に入って、気晴らしにご婦人方を夢中にさせている。自分に対する恐怖を植え付けているらしい。オリョール市でも大鐘の鋳造の噂*あり。
*「鐘の鋳込み」には「デマを飛ばす」の意味合いが混じっている。
一歩ごとに停止を命じられるような人物が、しかしまだ殺されずに生きている! そのことがみなを安堵させた。ほっとしている。」でも翌日の新聞には――「銃殺」と。
拳銃を手にしたフレンチとガムフェが、スーツを着た町人(メシチャニーン)、40歳くらいの、さんざん弄(いじ)られ痛めつけられた男を連れていく。2人の後ろには小銃を構えた赤衛兵が10人ほどの。「連行」だ。
最高級のホテルが反革命派たちの牢屋にされている。
text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk
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