2012 . 08 . 11 up
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騙された人間の勘定。1)花も恥らう乙女のごとく。祖国=ツァーリのためじゃないか。モスクワ・ペテルブルグはドイツに売られた。2)内なるドイツ人――ブルジュイ――それはわたしだ。宮中のブルジュイ、テーブル、金張りの扉――宮殿に突入し、金と銅を引っぺがし、工場からは車と工作機械を盗み出し、機械を停止させ、土地を分捕り――再分割、すでに余分な土地(もの)はない。播種が始まれば、いずれ穀物は接収されて、搬出と略奪品の売買が始まる。ケーレンキは動くが、所詮、紙切れ。それでも、とにかく何でもかんでも地中に埋め隠す。
ナロードはインテリどもに騙された。
わたしは今、自分の過去であるところの実践的エスエル主義あるいは自己の労働ノルマにおけるトルストイ主義〔自分で土地を耕すこと〕を振り返って、やはり微笑を禁じえない。
その特別仕立ての自己欺瞞。おのれの土地と財産を守るために働いているのだと、自分にも他人(ひと)にも言い聞かせてきた。しかし、それは真実でない。つまらぬたわごとだった。わたしの心の奥にあったのは、エスエルやトルストイ主義者と同様の、必要欠くべからざる厳しい労働を自分なりに克服せんとする夢(メチター)にすぎなかったのだ。
*ナロードニキの作家、グレープ・ウスペーンスキイ(前出)の代表作に、農奴解放後の農民の崩壊過程を描いた評論的ルポルタージュ『土の力』(Власть земли)がある。作家はそこでこう呟く――農民は土を相手にしてさえいれば堕落しないのに、今は(解放以後)〈土の力〉から切り離されている……〈土の力〉に縛りつけられていた農奴時代のほうがまだよかった、と。
*1ヴェドロはロシアの旧い液量単位で、1ヴェドロ=約12.3リットル。
*2チェヴェルチは旧いロシアの液量単位で、4分の1ヴェドロ(約3リットル)。
とにかく何でもふんだくる――じつに見上げたもの! このわたしにさえ誰かが友情のしるしとか称してアルコールを2壜、工場から掠めてきた。飲んでみたが、川の水が混じったのとはぜんぜん違う本物のアルコールだった。こちらもべつに拒みもしなかった。また、主人の(で、現在は公共のものとなった)庭園から林檎の苗木を引っこ抜いて、自宅の窓下に植えた者もいる――どうせ秋には何もかも消えて無くなるんだ、盗める奴は今のうちに何でも盗んどけ。
現に、自分の庭で今、どこかの牛が節だらけの枝にごしごし体を擦りつけている。枝の折れる音。まったく、憎たらしい牛だ! もういちど自分の乳牛を庭に放ってやろう――庭などどうなっても構わない。折られた枝はどうせ助からない。ただ敵どもを肥やしているだけ。もう今は何もかもが公共施設なのだから!
どっかの汚い男は堂々とアルコールを砂糖や麦粉に換え、それらを売ってケーレンキを溜め込んでいる。ケーレンキをみな壜に詰め、地中に埋めている。魂を売りわたす畜生(スーキン・スィン)やけち臭い小悪魔がうようよしている。
だが、もっとひどいのはケーレンスキイ時代、しきりに『ドイツ人はわれらの友、彼らと戦うべきではない!』などと打(ぶ)っていた演説家たちだ! この連中は、『もしそれでもドイツ軍が向かってくるなら、われわれは真っ先に銃を手に立ち上がる!』――そんな調子のいいことを言っていた当の演説家どもがいま何をやっているかと言えば、〔今こっちに向かっているのがそのドイツ軍だというのに〕、いやいやあれはドイツ人じゃない、ブルジョアジーだ、騙されてはいけないなどと声を張り上げる始末である! 騙しているのはおまえらではないか! 銃のことなどオクビにも出さず、おまえらはせっせとものを強奪し続けている。
気が咎めるような、恥ずかしい気持ちになるだろう――外国人でもロシア人でも物持ちは(もっとも、物持ちと言ってもピンからキリまであるけれど)自分と同じようなことを考え、理解の程度も似たようなもの。思考において自分はアナーキストか、良心においてトルストイ主義者か、生来の漂泊者(ストラーンニク)か――町ではそれでもいいが、この村〔フルシチョーフ〕ではどんな思想も気分も素裸にされて、ああなんだ、自分はただのブルジョアジーじゃないか……
町の知り合いのところに泊まったが、そこで出会ったのは、えらく勇ましい士官学校生(ユーンケル)だった。ボリシェヴィキや掠奪する百姓たちに対する彼の憎悪は甚だしいもので、聞いてる自分はじつに爽快だった。今にあいつらを束にして、吊るすか銃殺するかしてやりますよ、などと言う。善良なる人びと(ドーブルィ・リューヂ)よ、祖国でその善きもの(ドブロー)を失くしてしまった人びとよ、祖国を思って嘆くがいい、来るべき時代の温もりある慰謝を思って泣くがいい! だが、何も持たぬ旅人は祖国について何を語れよう? 何を思い出せよう? 村はずれに貧しい小屋が建っていた――藁葺きの屋根、煤けてすっかり黒くなっていたが、春が来て、その小屋がまるごと雨の深い地割れの中に崩落してしまった。街道脇の小道を村から村へと〈荒野(ヂーコエ・ポーレ))を辿る人には、祖国を思い起こさせるものなど何もないのである。
赤ん坊が泣いている。ジャムをあげたら泣き止んだ。これは巧くいった文字謎遊び(シャラーダ)――СТИХ-ОТ-ВАРЕНЬЯ(スチーフ・アト・ヴァレーニヤ)=ジャムをやったら〔赤ん坊が〕静まった=СТИХОТВОРЕНИЯ〔スチハトヴァレーニエはロシア語で〈一編の詩〉の意〕になる。たまに村人と話をする。たいていは泣言やら不平不満を訴えだす。いやこれは大変だぞと思うが、なに、相手は一筋縄ではいかない国家的人物だ! 人が見ている前で堂々と、ほんとにつまらぬものから、こいつは冗談かと思ってしまうほどどうしようもないものまで、とにかく盗むのである。かつての主人の屋敷の庭から林檎の木を掘り起こして、ちゃっかり自分の家の窓の下に植えるかと思えば、馬勒(ばろく)、縄、紐、何でも手当たり次第に掻っ攫ってきて、独りにんまりしている。何と言っても、大儲け仕事(ピローグ)が自分の方から懐に飛び込んできたのだ。元来がちっぽけなものでけっこう満足してしまう性質(たち)の被いロシア人の中でも、最近はどうも、それに輪をかけた、まるで〈慨嘆する能力〉に欠けた若者たちにその傾向が著しいようである。
きのう、きみに〔コーザチカ〕に手紙を送った。きょう、バラ色の紙に認められれたきみの、悲劇的な内容の手紙を受け取った。きみのまわりときみ自身の中で、3つの要素が働いている――飢餓、きみが「熱烈に愛している」ゴリャーチェフ――(ということは、彼のとこに嫁ぐわけだね? 彼氏が救ってくれるから、一方ミーシャ小父さん〔プリーシヴィン自身のこと〕は地平線の彼方の星の下にいて、ペテルブルグからはあまりに遠く、姿も見えない。
コーリャ〔次兄〕はまるでプリューシキン*だ。古くなった茸色の外套を着て、鍵束をガチャガチャ鳴らしながら歩き回っている。何もすることがないので、そこらのがらくたを何でもかんでも溜め込む。きょう、彼とわたしはズボンのホックを見つけた。鋼鉄製の、飾りの付いた、明らかに外国製品である。二人して壁椅子に坐って、そのホックをためつすがめつしながら、話し込む。
わたし。
「外国人は何てものを作ったんだろうね、こりゃあ大変な時間の無駄だ!」
彼。
「でも、今はもっと良いものを作ってるんじゃないかな?」
「今作っているのは、もっと真剣なもの、たとえば砲弾だけど、だいたいがずっと大きいものをね、ま、未来に備えているというか、未来を工作している……」
「そしてそのあとまた、ホックみたいなものに移っていくんだ」
「どうかな。でも、空中に結び目(ウーゼル)が無数に出来て、道標がどこまでも広がっていくね〔電信網?〕」
コーリャはこの意見に同意し、頷く。わたしはとても嬉しかった。二人の間でこんなことはめったに起こらないのである。ちょっとの間、口を噤んでいたが、ふと我に返ったような顔で――
「ところで、僕なんかどうなるんだろう? おまえだってどうなる? 生きてられないんじゃないのかね。きっとこの冬には餓死しているんじゃないだろうか?」
*ゴーゴリの長編『死せる魂』に出てくる地主。極端な〈どけち〉で、何でもかんでも溜め込む。人名がすでに普通名詞化してしまったロシア文学の数多いの登場人物のひとり。
text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk