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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 07 . 29 up
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(1918年4月29日の続き)

 年老いた前の借地人が突然やってきた――彼はわたしから庭園を借りていたのだが、驚いたことに、なんとそれが委員会に没収されて、もうわたしのものではなくなった、しかもこれから競売にかけられるのです、などと言う。それを知って、彼は今からその件で委員会に行くところなのである。が、待てよ、委員会も永遠ではない〔いつ潰れるかわからない〕、もし駄目になったら、借地人である自分は改めて貸し主〔わたし〕に借地料を払わなくてはならなくなるぞ。要するに、そのことを心配しているのだ。
 「手付け金はどうしましょうか?」
 「そんなこと、あり得ますか?」と、わたし。「豊作だから2倍払うなんて。そんなことをしてたら、おたくには何も残らんでしょう?」
 「どうぞご心配なく。わしらはあなたの税金を肩代わりするんです。それで委員会からのものは、まあ科料ってことにしましょう」

 〔自分の〕庭は公共のもの――そもそもそれはどういう意味か?  

 わが町は今や遠い昔のものとなった――モスクワ大公国の辺境の住人たち、その外側にはタタール人とドイツ人

モスクワ公国の出現は1276年、1472年にイワン三世(大帝)がビザンツ皇帝の姪と結婚、1547年に孫のイワン四世(雷帝)がモスクワ大公国(統一された帝国)のツァーリとして戴冠した。「ドイツ人(немцы)」という言葉はピョートル大帝の時代から「外国人」とほぼ同義語である。ドイツ人女性であるエカチェリーナ二世(女帝)の時代以降、ヴォルガ沿岸地方へのドイツ人の入植が盛んになった。

 そしてそんな連中もここにやってきて、土地の分配に与(あずか)って無茶なことをするのではないかと心配しているのだ。どういう結果〈悪くても好くても)になろうと、もうこんなことは終わりにしなくては。誰もがそうなることを期待しているのである。
 ある税務署員から手紙が舞い込んだ。その役人は南方〔ウクライナ?〕にあるエコノミヤの砂糖工場内に住んでいるという。全エコノミヤが略奪に遭って、無事なのは今彼の住んでいる小さな家が一軒だけであること、それが被害に遭わなかったのは自分のとこで働いている料理女の息子が偶々ボリシェヴィキだったから云々。そのあとにもう一通。それを読むと、自分が住んでいる小さな家も農民たちに分割分配された――ドアを壊す者、屋根も剥ぎ取る者、垂木をばらして持って行くす者、とにかく何もかもめちゃくちゃにされた、と。でも、まだ今のところは何とかなる、なぜなら料理女の息子がボリシェヴィキだから――そのことをまた繰り返し書いている。それからしばらくして、その地一帯がドイツ軍に占領されたという噂が耳に入ってきた。人づてに聞いただけで、直接的な情報は何もない。ドイツ軍の進駐前にその役人の小さな家が〔農民たちに」完全に破壊されてしまったかどうかは、わからない。

エコノミヤは帝政時代の若干の経済関係の官庁名。国家経済省とか国家管理農民庁など。

 現在この地方(クライ)、ここの独立農場(フートル)全体が、そのエコノミヤほぼ同じ状態にある。じきにドイツ軍がやってきて、無法な国土分割の徹底を謀るだろう。役人の手紙にあるように、最後の丸太まで残らず奪ってしまうにちがいない。
 土地は空気と同様、誰のものでもなくなり、庭園は係争中なので、庭仕事を始める気になれない――誰が所有者かわからないし、どこに出向いても正確な証明書(スプラーフカ)が発給されないからだ。町〔エレーツ〕では、郷はこことは〔庭園の扱いが〕違うからとなどと言っている。が、どっちにしても、土地も庭園も同じ運命を辿るだろう。

 年寄りの借地人がやってきて、これからはあなたの庭園は委員会から借り受けることになりますなどと、しきりに言い訳をする。
 しかしそうは言っても、収穫時に権力〔ボリシェヴィキ政権〕が変わったら大変なので、用心のために今、わたしに借地料を払っておこうとする。だから、委員会に納める金は賠償金(コントリブーツィヤ)ということにしますよ、と。爺さんはドイツ軍の侵攻を確信している。そうなれば、そもそも主人〔土地の所有者〕がいなくなる――それこそ救い、絶好のチャンスじゃないか!
 完全に破壊された隣の領地で、きのう委員会が庭園の掘り返しに取りかかった。きっと次はこっちの番だ。
 こんなことを言う者もいる――「なに大丈夫ですよ、どうってことありません。ソヴェートは小さい林檎を要求するだけ、それだけですよ。ちゃんとした林檎はおたくのものとして残されます」
 「それじゃ、わたしは林檎で祖国を売ったことになるんじゃないかね?」 
 「祖国なんてもうありません。林檎と一緒に生き残ったほうがいいに決まってますよ。そうでなきゃ祖国も林檎も、あなた……」

 自分がボリシェヴィキと闘おうとすると、両手が利かなくなる〔麻痺する〕ようなことが、ひとつある。今、自分が20歳(はたち)か25くらいの若者だったら、きっとボリシェヴィキになっていた、エスエルではなくマルクス主義の一派に属していたと断言できる。そのはっきりした証拠がある。その齢で自分は、今にも世界的なカタストロフィーが起こり、世界のプロレタリアートが権力を握って、この世が天国になると確信していたのだ。そうした終末(終末論)は一般庶民もわが国のインテリゲンツィヤもみな同様に抱いており、それがまさに今、ボリシェヴィキに(単にマルクス主義的論談というのではなく)力を与えているのである。
 この感情の最も微妙な偏向について自分はよく承知している。それは、刑務所でもそれ以後〔出所後〕もしばらく、高い緊張感を保ったまま維持されていたが、ドイツでの留学中に急速に弱まったのだった*1。なぜドイツでか? 理由は、自分のマルクシズムが(レーニンがあれほど憎悪した)メシチャンストヴォに染まった〔堕した〕のをそこで〔ドイツで〕見出したから。そこで〔ドイツで〕それとは正反対の意見に出会って、ようやく自分は完全にマルクス主義から解放されたのである。そして自分の火事(パジャール)*2によって対極へ抛り出され、そのときから本格的に(フプラトヌーユ)にデカダン主義に接近していった。

*1出所後、故郷エレーツへ送還され、ロシア国内で学業を続ける権利を失った。1900年にドイツへ出国、1900〜02年、ライプツィヒ大学哲学部(農学科)似在籍、のちベルリン大学(生物学)とイエナ大学で夏期講習を。

*2ソルボンヌ大学留学中のロシア人女性、ワルワーラ・ペトローヴナ・イズマルコーワとの出会いと別れ。この恋愛事件はプリーシヴィンの対女性観に甚大な影響を及ぼしたが、同時に芸術家としての自分を見出すきっかけにもなった。

 もちろん、そういうことを経験したのは自分ひとりではない。もし自分の個性(インヂヴィドゥアーリノスチ)のある特質(それは深く確信しているところだが)が自分の経験をことさら典型的なものに――今これほどはっきりと全容を曝け出すことを許すほどティピカルなものならなければ、こんなことを他人に語ることはなったろう。
 このテーマについてはストルーヴェやブルガーコフやベルヂャーエフのような優れた人たちが書いた本がいっぱいあるが、それは彼らが高い教育を受けた指導者であるにとどまらず、厖大な知的許容量の持ち主でもあったことを示している。すべての人間を彼らによって判断してはならない。自分こそは本物の改宗者(プロゼリット)、この群れの中のごく普通の羊だったのだ。だからこそ自分の発言は広い一般大衆(マス)を心理的に説明するものでなくてはならないのだ。

セルゲイ・ニコラーエヴィチ・ブルガーコフ(1871-1944)は経済学者。19世紀末に合法的マルクス主義者として論壇に登場。1897年、『資本主義生産下の市場理論』を、のちブルジョア・リベラリズムに転じ、第2国会のカデット議員。革命後は神秘主義哲学へ。1922年に亡命、フランスのエコール‐ノルマルの神学教授となる。

 社会主義への確信の前夜におけ精神の組成(ソスターフ)について言うと――それは、家族との関係断絶、その深い無知・浅学、混乱した知的欲求(それは自分をあんなにも学部と転々とさせた)、それでもどうにかこうにか実家学校を卒えることができ、濫読に継ぐ濫読からその中身を一気に我がものにせんとする、例によって例の死に物狂い――そんなことだっただろうか。その果てに錬金術としての化学に飛びついた(分析はまことに下手くそだった)が、ちょうどそのころ熱心にメンデレーエフを読んでいたから、当時もし結婚相手に誰を選ぶかと訊かれたら、まず間違いなく〈女化学者〉と答えたにちがいない……。自分の天分に対するぼんやりした感じ。自分はみなちは違う人間だ、さあ行くぞ、すぐにも何かに飛びつき、そいつで自分の真価を見せつけ、何もかもひっくり返してしまうんだ――まあ大して目立ちもしないロマンチシズムだが、でも、みなのように振舞えない(ことに性の方面で)ことからくる悩み、女性への突飛すぎる傾向(これは極端な臆病、はにかみ、舞い上がる〔厚顔のせい〕。そのあとでの完全確信と行動――鍵と錠。国家的問題の解決と、外国でのおのが信念の漸次的希釈が起こる。肉親縁者的なもの(農学(アグラノーミヤ)――(一語判読不能)への、エスエルへの傾斜、そして最終的激変。気狂いじみた恋と、知的探求から人間心理の探求への大転換。北極点、足場の発見。生と再生……人間の魂の本質へ目を向ける……

ドミートリイ・イワーノヴィチ・メンデレーエフ(1834-1907)は化学者。1868年、無機化学の教科書『化学の原理』を書こうとして、当時知られていた63種の元素の関連を研究、元素の周期律を発見し、69年に《周期律表》を発表した。当時は未発見のガルウム・スカンジウムなどの位置を予想し、その後の発見で正しかったことが証明された。娘のリュボーフィ・メンデレーエワは詩人のブロークの〈永遠の女性〉、1903年に二人は結婚した。もうひとりの娘マリヤ・ドミートリエヴナ・メンデレーエワ=クジミーナはドイツ産の猟犬の愛好家としてつとに有名、プリーシヴィンとも付き合いがあった。

 ボリソグレープスコエ〔村〕のさまざまな所有者たちの土地は、扇を大きく広げた形で郷の半分を占め、その扇の要(かなめ)が広大な家屋敷(ウサーヂバ)群。素晴らしい庭園付きの屋敷が幾つも肩を並べて、ひとつの大きな塊を成している。そして真ん中にちょっとした牧場があって、その扇の本当の中心(留金)にどっかとひとりの神父が腰を下ろしている。彼を囲むように雑多な小者たち(メーロチ)――輔祭の子孫やら幇堂者〔下級教会勤務者、鐘撞きなど〕やら菜園や庭園の借地人やらが。そして現在、その扇の羽根がすべて百姓たちに毟り取られてしまったのである。唯ひとつ無事なのがある屋敷の屋根の先っぽだけという有様。打ち壊され、やっつけられた所有者たちの間で、それでも神父依然として農民たちの目に若干の威信を保っている〔かのように見える〕。彼らは〔今のところ〕神父に敬意を表して、以前のボリソグレープスコエを単にポポーフカ〔坊さんの村〕と呼んでいる。

 百姓たちを見ていて驚くのは、自分らに欲しいのはただの権力じゃない、超権力なんだと、そう思っていることである。
 自分は試練〔捕縛と拘禁〕のときに、黒い大鴉となって故国へ飛んで帰ると、カーカー不吉な予言をした。  不吉なことを口にしたので、みなが飛びついてきた。でも自分はなんとかそれを振りほどいた。
 今にして思えば、自分の口走ったことが現実となったのである。みなが可哀そうになった。何とかしなくちゃ、慰めてやらなくちゃ。自分は大鴉になんかになりたくない。
 ところが彼らは自分にぺこりとお辞儀をしたではないか。
 「おまえの言ったとおりだ、すべて予言どおりになっちゃったよ」
 自分は今は彼らのためにナイチンゲールの歌をうたいたいのだ。でも彼らはわたしの中に不吉な黒い大鴉を見ている。

黒い大鴉――ワタリガラスのこと。黒鴉(черный ворон)には囚人護送車の意もあり。

5月8日

 激変を起こすのは百姓たち自身にちがいない。新しい人たち事業自体はすでに正体を曝してみせた。彼らの言葉はすぐに動かなくなるだろう――道端でくたばって干からびた犬の皮のように。そしてそんなとき姿を現わすのが、それまで隠れていたチュマーズイだ。そいつはあらゆる手を使ってモノを貯め込むのだが、でもそれを追剥ぎのようにではなく経営者的に巧くやるはず。よく観察しているとわかってくるのだが、どうやらそのチュマーズイは自分に出来ないことは敢えてせず、むしろ強奪者どもを大目に見ることで彼らの行為を巧みに利用し、そのあと彼らを一堂に集めて、強盗どものポケットから大胆にちょろまかすのである。

чумазый――薄汚れた人の意。蔑んで〈成り上がり者〉、農奴制廃止後、没落地主の土地を買い占めて産を成した者、富農=クラークに通じる。

 鍛冶屋のニコールカとアルチョーム一方は吊るされ、一方はお金持ちの主になるだろう。
 が、彼らの暮らしは、ない、以前どおり沸き立っている――嫁をもらい、本気で何でもかでも自分のものにするつもりでいる。
 まる1時間、ニキーフォルに解説してやった――いいかロシアに攻めてくるのはブルジョアジーではなく本物のドイツの軍隊なんだよ、と。今ウクライナがどうなっているか、なに、ウクライナという国はどこにあるかって? 講和のされ方と、それがなされても戦争はまだ続いているのだ云々。
 きょうニコライ・ミハーイロヴィチ〔次兄〕がわたしに言った――
 「ありがたいなぁ、どうやら百姓たちは正気を取り戻しつつあるらしいじゃないか。それに、やってくるのはブルジョアじゃなくてドイツ人だそうだから」
 そんなことを誰から聞いたのかと問うと――
 「ニキーフォルがそう言ってた」

 友よ、あなたは、この燃え上がる火の手を観照しつつ、絶望に、あるいは炎の洗礼のあとの永遠の生の更新についての高揚した思想(おもい)に身を任せることができます。でも憶えていて欲しいのは――あなたのすぐ隣にいる、空の赤らみに照らされた暗い影たち(それがあなたにとって有利に働くものならともかく)が、その炎の中から自分のために何か(何でもいい、とにかく)奪い取ろうとしていること、そのためには命がけで、すぐにもおのれの暮らしのテリトリーの一片に勝手に線を引いて、いいか、ここは《おれのセーンキノ〔村〕だ!》と言い出すような者たちがいるということ――をしっかと肝に銘じておいて欲しいのです。
 そうした暗い影たち――掠奪大尉でも呼びましょうか――は、互いに闘っている敵対種族の国にやってきて、両者が最終的に共倒れ(自滅)するのを待っています。巧くいけば土地は自分のものに、そこに自分の旗を立てられる――セーンキノの土地であれ、プリューヒナ・ソビーンカであれ、ニキーシカのフートルであれ、何でも思いのままです。
 友よ、わかってください。その破滅のことであなたがそんなにも苦しみ嘆いている祖国を、すでにそこの住人たちはわれわれの以前の三色旗の下にひとつにしようとしているのです――所有者然とした顔で、自分らの利益〔貪欲〕のみに従いながら。彼らは今、まだびくびくしていて臆病そうに見えます。それはバラバラだからです。でも、ときおり、穀粉を担いで首都行きの大列車で自分の力〔勢力〕を知らしめようとします。そして至るところで、見せかけの〔ソヴェート式〕戦争の衝立の陰で、あなたは(見る目がおありなら)百姓ブルジョアジーのどきどきするような本物の戦争を、本当の戦というものを、しかとその目で観察できるのです。彼らの手には銃はない――じっさい銃など必要ないのです! 彼らが手にしているのは、越えられない永遠の法(ザコーン)としての生活術であって、肝腎なのは、彼らには、そういう生への親密さ、強い親近性があって、彼らをそういう横断路(祖国へのどんなに高揚した感情をもってしても、あなたはきっとその横断路の最初の一歩で息切れするでしょう)を越えてまで、おのれの目的・目標へと導いていくところのウクース〔好み(フクース)を抹消〕、嗅覚、勘が働いているのです。

ウクースの意味がはっきりしないが、1937年4月21日の日記に、ノルウェイの作家クヌート・ハムスンの『土地の恵み』(原義は「地中の養分」・1917)を精読して、土地(ゼムリャー)の真の意味を知ったことを記しながら、なぜこれが〈母〉であり、〈力〉であるのかを解説している。「ウクース(〈咬み・痛み〉の意)=労働への貪欲さとしてのフクース(味・好み)にこそ、わが母、わがポエジーと幸福がある!」のだと。ハムスンと自分との、自然な、ほとんど人類学的(アンソロポロジカル)な親近性に言い及ぶ。

 歴史の書物から得られたあなたの教養は、ご自分の個人的品位とその人格をもってする犠牲の才能との結合(ウーゼル)としての祖国観やそれに類したあらゆる可能性をあなたに与えてきました。ところが、人生においてはそれらすべてがまったく不必要なものであることがわかってきて、現在、わが祖国はこの全面戦争で所有権の結び目を他よりも強くし、他人に引き渡すことなく、祖国のために死ぬことのできる人びとによって救われようとしているのです。

5月12日

 スメルヂャコーフとプラトン・カラターエフ。スメルヂャコーフとはコミサールのこと!

スメルヂャコーフはドストエーフスキイの長編『カラマーゾフの兄弟』の登場人物(前出)。プラトン・カラターエフはトルストイの長編『戦争と平和』に出てくる純朴な農民兵士。この有名な(とはいえ作品ではほんの少ししか描かれていない)形象は、「生ける人物というよりはむしろ抽象、シンボル、ロシア国民の化身であり、彼らの精力、善なる心、無言のヒロイズムの権化だ」(マーク・スローニム)。それゆえ無数の『戦争と平和』論が〈ロシアのナロード〉を論ずるときには必ず言及される人物である。だが、プリーシヴィンのプラトン・カラターエフについての感想はそう甘くない。

 わが町の主たるコミサールはスメルヂャコーフである。長い、蒼白い、つるつるした毛のない顔。濁った目、誰に対してもにこりともしない。非常に賢く生まれつきの才能はあるが、学習なし出口なしで、その人並み優れた資質もいつしか自己愛(自惚れ)の怨みに変じ、大きな歪みを生じてしまった。自分は編集室でその種の人間をしばしば見かけた。彼らはいずれも文学の失敗者だ。まったく訓練も習得した技能もなく、文法もろくすっぽ知らない。あるものと言えば、何かしら凄いもの、世間ををあっと言わせるようなものを書いてやろうという野心ばかりで、じっさい何を書いたらいいのかまるでわかっていない。よく見かけたのは、そんな、文学作品と爆弾の違いもわからない連中だ。彼らと付き合う唯一の方法は、とても退屈でうんざりこの上ないものだが、それは彼らを撫で撫でして赤ん坊みたいにあやしてやること。時間が足りず十分に慰撫してやらないと、文化の代表者のような人物に対しても、盥に溢れんばかりの勝手気ままな自尊心のまた自惚れの汚水をいきなり頭にぶっかけてくる。わたしは、そこまでした一人の男を知っている。男は拳銃を手に編集者に向かって『自分の短編を雑誌に載せろ!』と強迫したのである。いやはや。スメルヂャコーフというのはそういう輩なのだ。わが国のコミサール(都市でも村でも)にしょっちゅう自分はその種の恐ろしいタイプを見出す。
 きょう裁判所(トリブナール)からやってきた知人がこんなことを言った――
 「まあ概してロシア人にはいい男が多いが、でもなぜか〔常に〕唇の位置が違っている、鼻が少しずれているとか、目がひんむくれているとか、鼻息が荒くて鼻の孔が大きくなり過ぎる傾向があるんだが、きみはそう思わないか?」
 甘ったるいもの。
 革命の顔と目的の中にスメルヂャコーフシチナ〔的傾向ないし主義」がある。
 革命から出てくるスメルヂャコーフ――悪意(遺恨)をもっておのれの個性を確立する――つまり〈破壊者〉。
 一方で自分は、感動(これは自分にとっては改善であり修正で、スメルヂャコーフからの休息である)なしには、この種のどこにでもいる人間と――つまり何かつまらぬ仕事をし、わずかばかりのケーレンキを家に持って帰り、それを壜に詰め、栓をし、タールを塗って、土中に埋めるような人間と会うことはできない。じきにそのケーレンキは使い物にならなくなるだろう―なんせ紙で出来ているうえに時代も変わってしまうから。しかしわが国の生活全体は信頼の上に成り立っているのだ。そんなナイーヴな人間など存在しなくても、この信頼、わが1ルーブリは14ケーレンキではなく、ほぼゼロである。ルーブリの永遠性と物質およびスチヒーヤに対する優越への信頼(信仰)の中にこそ、プラトン・カラターエフに由来する何かがあるのだ。こうしたスメルヂャコーフ(破壊者=ボリシェヴィキ)とプラトン・カラタ-エフ(創造者だが今ではケーレンキを壜に詰めているそれだが)の形象の中にあるのが、今のわが国の革命の骨格(スケレット)である。
 ブルジュアーはひっくり返ったゴキブリで、小さな脚を上にして必死にもがいている。ひっくり返ったゴキブリのように、手足をばたつかせるだけで、少しも動けない。
 最も才能豊かなわが友でさえ、民衆の中でひっくり返って、ずっと歩道に横たわっている。手足をばたばたさせるだけで、他人の助けなしには起き上がれない。ほとんどひっくり返されたゴミの山。
 わが〈ブルジュアー〉はひっくり返ったゴキブリで、必死に何かにしがみつこうと〔短い〕足をばたばたさせている。そばを行くスメルヂャコーフは「いい気味だ」という顔をしている。  ドイツ人にでもしがみつきな、てなもんだ。

5月14日

 生ける魂〔ゴーゴリの『死せる魂』――死んでいるが戸籍上はまだ生きていることになっている人間(農奴)、その反対〕。窓の向こうに目をやっている。池の先、狭い10デシャチーナの菜園で、イワン・ミートレフはもう30年もキャベツと胡瓜を作っている。今、そこに細かく畝を走らせて、よく肥えている土に燕麦の種を播いている。イワン・ミーレフ自身は今、誰かの畑で働いているが、分与地を貰えれば、自分の土地で普通の農民としてやっていくことだろう。
 もうすぐキャベツを植える時季だが、苗をどこで見つけるか? まさか柳の木からキャベツを作るわけにはいかない。
 「同志諸君よ、いったいおたくたちは何をしでかしたのか? 胡瓜がなくちゃどうにもならないではないか?」
 「大丈夫だ、委員会が何とかしてくれるさ」
 「わしらは知っている。そういうことは委員会が何とか手を打ってくれるよ」
 「しかし、あんたらはイワン・ミートレフの非を問うだろう。彼のことは放っといて、自由に菜園の仕事をさせとけばいいじゃないか。彼ならキャベツも胡瓜もちゃんと作れるんだ」
 「でも勝手にさせたら、奴だけ肥え太る〔金持ちになる〕だろう!」
 とまあ、こういうふうにして生ける魂にすべてを分配するわけだ。それで野菜は姿を消してしまった。しょうがない、自分の村で野菜が作れなくなったのだから。イワン・ミートレフ自身は生ける魂の分与地を手に入れたが、じっさい手にしたのは死せる魂だった。おそらく彼は、わが町にドイツ軍が迫っているのを喜んでいるだろう、コミュニストどもを鞭打ったり銃殺できる日が来るのを心待ちにしているはずである。
 だが、本人はいたっておとなしい、勤勉で、慎ましい性格の人間である。財産など何ひとつなく、菜園だって借地、分与地すら持っていなかった。去年、自分は、土地のアナールヒヤ〔無秩序状態、あるいはもともと土地は誰のものでもないの意〕の実現に際し、自然本来の理由により〔汗水流す〕労働者は侮辱を受けない(トルストイ)ということを読んだとき、わたしの頭に真っ先にイワン・ミートレフの顔が浮かんで、彼についてメモを認めたほどだった。今になって思うと、トルストイは正しくなく、イワン・ミートレフは侮辱され、徹底的にやられたわけだから、彼は憎んでいるのだ。〔付け足しあり――彼の赤子のような心は死んでしまった〕。彼は死せる魂になってしまった。
 もうひとつ例を挙げておこう――イワン・ミートレフの場合よりずっと強烈なやつを。サプルィチカという隣村で永く自分の理想的な日々を過ごしてきたひとりの老女。彼女は今も健在でいる。ドゥーニチカ〔使徒のごとき〕という形容詞は抹消〕は学校の先生だった。意地の悪い地主は〈使徒のごとき〉と彼女を呼んでいた。初めは皮肉をこめてそう言ったのである。今でも憶えているが、大家族持ちのトルマチーハ(息子たちはどれも出来の悪い落伍者)がしかし、あるとき、うちの伯母さん〔実母〕にドゥーニチカのことをこう言ったことがあった――
 『一生を馬鹿者相手に悩み苦しむのね、何ひとつ報われないのに。でもあの人、自分から他人の子どもたちを教育しているわ。ドゥーニチカは復活祭(パスハ)が来ると、必ずどの子にもクリーチカ〔パスハ用の円い甘パン〕と卵をプレゼントしたわね……まるで使徒(アポストル)ね(これは賞賛のことば)』。
 自分も一度ならず耳にした――百姓たちもあの女(ひと)は主がお遣わしになった天使だよと言うのを。
 天使が降りてきて、30年も前から、この外国で教育を受けた娘が、自分のお金で小学校を建て、30年間、立派に多くの子どもたちを教育したのだ。(それもいい加減なものじゃなかった)。家のまわりに自ら庭を造り、ものを植え、あんな裸の土地に今では見事な草木が風に揺れている!
 しかし今はどうだ! その庭を百姓たちが勝手に分割し、私有し、他人に貸し出したりしている! 神父からそのことを聞いたとき、自分はわが耳を疑った。そのことをどう説明したらいいか、二人で考えた。
 「こういうことじゃないかな」と神父。「彼らには他人のドブロー〔善〕のために自分を犠牲にしてまでドブローがなされるということがどうしても理解できないのだね。人間は自分が苦労するのは自分のためだしかないと思っている。なのにドゥーニチカは自分が生きるに必要なものだけを受け取って、あとは彼らのもの〔庭でも何でも〕とした、ということだ」
 そうなのだ、トルストイは正しくない。自分は彼の間違いがわかっている。彼は個人のうちに咲き誇った正義を、この世に生ずることのない正義を、受胎しない大衆(マス)のお腹に、人間の粘土の塊(伝説によれば人間の素材は粘土だという)に、美意識も善の意識もない(それもこの世の外に存在する価値としての)物質(マテリヤ)に、その正義やら公正やらを移植しようとしたのすぎないのである。

 友よ、この村には来られないほうがいいでしょう。呼ばれないうちは(でもきっと呼ばれますが)、ご自分の石造りのアパートでじっと静かにしていたほうがいいと思います。ここは世界から切り離されていて、新聞もほんのたまにしか送られてきません。まるでパプア人のような暮らしです。昼日中に、通行人があなたに『このブルジョアジーめ!』と毒矢を放ってきますし、夜は鎧戸を下ろさなくてはなりません――浮浪者が明かりの点いている窓を狙って発砲してくるからです。すべて誤解がそうさせるのです。あなたはここでは立派なブルジョアジーにされてしまいます。ここでの暮らしは自分の必要をいかに満たすか――それを考えることで過ぎていきます。どうしたら牛を泥棒から守るか、いっそ窓のの下に繋いでおくかとか、そんなどうでもいいような気苦労ばかり。ロシアはぐるりと柵に囲まれた牢屋のようです。鋸(のこ)を挽くこともかなわない鉄格子の中のようです。われわれはそんな狭苦しい不安の中に無理やり押し込められてるのです。
 それで自分はどうかと言えば、ただ後ずさり。なんせ自分はこうしたことにはあまりに無力です……。あらゆる行動が(武器を手に抵抗することさえ)禁じられている時代には、また一方には燃え上がる真っ赤な炎が、他方には子どもたちを十字架にかけようとする暗い顔(リーク)がこっちを見据えている時代には。

真っ赤な炎がボリシェヴィキの権力(政治)なら、不吉な暗い顔(リーク)はおそらく幼いプリーシヴィンをしんそこ怯えさせた、黒く煤けた聖者たちのイコン(宗教)。前出。

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