2012 . 07 . 23 up
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*母のマリヤ・イワーノヴナのこと。プリーシヴィンは日記ではよく実母を〈伯母〉と、周囲の人びとも彼女を〈侯爵夫人(マルキーザ)〉とあだ名していた。
〔以下のメモは前後している〕
やっと今、町に着いたところで、まだ自分のフートルは見ていない。ある小店に立ち寄った。そこで頭の白くなったリュボーフィ・アレクサーンドロヴナを見かけたので挨拶したら、返事もせずにいきなり――
「見た? 堪能した?」
わたしはすでに噂で、彼女の領地が焼討ちに遭ったことを聞いていた。
「いいえ」とわたしは答えた。「見てませんし、堪能もしていません」
「そりゃ残念ね。あれはあんたのせいよ」
「どうして僕のせいなのです?」
「あんたじゃないの、あんたがやったんじゃないの!」と彼女は叫んだ。
「参りましたね。僕はまわりからは反革命家と思われているんですよ」
「じゃどうして――」彼女は声を上げる。「どこの地方の屋敷も壊されて消えてしまったの? それで、あんたの家はまだ残っているの?」
わたしは自宅がどうなったか、まだ知らなかった。
「本当にまだ壊されてないの?」
彼女はさよならも言わず小店を出ていった。店の番頭が言った――
「あんな齢なのに、ずいぶんひどい仕打ちをされましたからね」
わたしはふと思った――『自分の家はまだ何でもないが、旧権力が戻れば、きっと持ち堪えられずに潰れてしまうだろう。あの婆さんはこっちを破滅に追い込んで、たぶんボリシェヴィキと一緒に自分を同じ木に吊るすにちがいない』。彼女の恨みは底なしで、そのうえ大変な信心家である。ボリシェヴィキはこの世の《真実(プラウダ)》で息を詰まらせ、あの女は《妙なる神》でひとの首を絞める。
自分の家を見た――建物はそのままだが、家政(経営)はめちゃくちゃ。〔自分の地所を〕見て歩くのはさらに辛かった。あんまり哀れで情けなく、まともにものが考えられない。いや考えられないのではないが、いちいち何か影が差す感じ。考えてはすぐに検証にかかる――個人的に受けた侮辱が自分をこんな考えに駆り立てるのではあるまいか、とか。
きょうもこんなことを思った――『イプセンのように小市民的(メシチャン)な世間に住みながら、全世界のために偉大な暴動扇動者や革命家になる(当然、最も近しい人たちでさえ隣の住人の恐ろしさに気づかない)ことも、また反対に、隣人たちにとっては偉大な暴動扇動者であり革命家であって、しかも一市井人として人生を終えることも可能。それは現在のロシア人である。世界から見れば、戦場から逃げ出した哀れな臆病者、かつての主人たちから全財産を掻っ攫った〔本物の〕メシチャンだが、自分や自分の隣人たちにとっては恐ろしい革命家なのだ』と。
どうなのだろう、これは衣装の仮縫い(寸法あわせ)のようなことなのではないのだろうか? 侮辱されたために、つまりわが国土の気候には珍しいくらい青々と茂ったエゾマツが無残なまでに伐り倒されたせいで、ついこんなふうに思い詰めてしまうのではないのだろうか?
いや、そうではないぞ――自分はまた点検を始める――突つき殺された鳥のイメージがすべてを贖(あがな)っている、青いエゾマツ(つまり自分)を哀れに思うのは、それが自分の財産だからではなく、野獣に殺された《青い鳥》*を可哀そうと思ってしまうからなのだ。
*ベルギーの詩人で劇作家のモーリス・メーテルリンク(1862-1949)の名作『青い鳥』(1908)。死に打ち克つ愛への信仰の象徴。
自分はわがナロードが農耕民族であるとは一度も思ったことがない。これはわが国の農業(技術)を知る者にとっては常識の、いわゆるスラヴ主義者たちの偉大なる誤解のひとつなのだ。世界中でわがロシアのナロードほど非農業的なナロードはないし、動物や道具や土地に対して、われわれみたいに野蛮な扱いをする民族はない。そうなのだ、こんなわずかな自分の土地ではとても真面目に農業を学ぶ時間も場所もなかったのである。農の文化(ツァーリの軍隊もまた然り!)はもっぱら地主たちによって維持され、花は彼らの領地の中だけで咲いていたのだ。すでに将校たちは追放されて軍隊はなく、荘園は破壊されて農業文化も存在しない。ナロードがみなあたかも農民であるかのような顔をして、本来の原始状態に回帰したのである。
誰か見なかったろうか――伐り倒された若い白樺の木々の、あの烈しく樹液を吸い上げる春の光景を? 倒れた幹からぼたぼたいのちが滴って、あたりはぐしょぐしょで、ぎらぎらと眩しいほどだ。それから次第に赤くなり、最後は真っ赤に染まる――血さながらに。偶々そばを通ると、つい今しがた頭部を落とされたばかりの生首たちの間を歩いていくような気さえしてくる。
今、自分のいる中部ロシアはひでりの春。冬麦の根はまだ本格的な春の慈雨の洗礼を受けていない。われわれの危惧は――不作に終わったらどうしよう?
去年も恐ろしい年だった。あのときは豊作も不作もすべては革命の結果次第だと思っていた。飢えが革命を押し潰す可能性があったからだ。今は飢餓に陥るチャンスは百倍も多い。ここ3年間、農民は再分割に期待をかけていて、畑にはもう1年以上も肥やしを入れていない。だが、最大の危機はそこにはない。領地全体が(パン工場まで)破壊され、土地も再分割(一人当たり4分の1デシャチーナ)されたから、たとえ豊作であっても各自の穀物割当がどのくらいになるのか、予想がつかないのだ。われわれの地方は1デシャチーナで12コプナ、4分の1デシャチーナなら3コペイカ、1コプナは計量枡(ます)で5杯、つまり焼いたパンで各自1日約2フントである。憶えておかなくてはならないのは、子どもたちが大人に負けないくらいパンを消費すること、パンの皮でも何でも、とにかくその日の分はしっかり確保するということ。それだけではない――家畜の餌だって必要だ。つまり生きるためにはそれだけ必要なのに、現在、ウクライナからもシベリアからも穀物は入手できないのである。シベリアは泥濘期だ。オリョール県の最良の郡を例にとれば、可能なのはせいぜい3つの郡だけ。しかも飢餓に瀕している郡にはどうしたってこちらから提供しなくてはならない。だからもし今年も不作なら、いったいどうなるかということだ。なのに、なぜいつまでも施肥しようとしないのか? 不作の可能性がとても高い――もしそんなことになったら?
*1909年にプリーシヴィンがカザフスタンを旅をしたときのオーチェルク「新天地」(8巻選集(1982-86)の第1巻に収録)を。
親しき友*1よ! 夏は田舎には来ないほうがいいかもしれません。こちらは都会より何倍もひどい状態ですから。しかし苦しみが大きければ大きいほど、苦悩するあなたの心は常に〈素晴らしいロシア〉を発見するにちがいありません。『あいつを吊るせ、十字架に架けろ!』とみなが叫んでも、ロシアがあなたを嚇かすことはない。わたしはあなたのためにそれ〔特別な恩寵〕の可能性を残しています。
ロシアはいつもこんなでしたね。ロシアがわが身に引き寄せたのは苦しみ悩む魂でした。思うのですが、革命の新しさは、古きものを掃き出しそれによって永遠なる往にし世から障壁を除去することです。あなたは教育ある理想主義者(イデアリスト)。生涯を無私の精神で人びとのために力を尽くした人です。あなたはここでは一掃され、『こいつを磔にしろ!』と烈しく迎えられるにちがいありません。わたしにはわかっています――あなたは〔敢えて〕ご自身の内に磔にされた神を見ず〔むしろ〕強盗としてこう呟くでしょう――『主よ、罪深いこのわたしに寛大であってください!*2と。そして必ずや『われ誠に汝に告ぐ、今日(けふ)なんじは我と偕(とも)にパラダイスに在るべし』*3――そういう声を耳になさるはずです。それを体験できるのはあなただけです。それに従おうとご決心なさるなら、どうか村へいらしてください。
*1手紙の下書き? 相手がおそらく従姉のドゥーニチカ。
*2ルカによる福音書第23章42節では、強盗の言葉は『イエスよ、御国に入り給ふとき、我を憶えたまへ』。
*3ルカによる福音書第23章43節。
枝垂(しだ)れる白樺。小さな青い葉と葉をくるくる巻いて、細く美しい耳飾り〔尾状花序〕を金色に染めるとき、春の白樺はえも言われない。
村の女(バーバ)がそれを伐ろうとしていた。小さな池で釣糸を垂れていた怠け者が女に言っている――
「おい、何やってんだよ。もっと下のほうから切りゃいいじゃねえか」
「〔屈むと〕腰が痛いんだよ」と女。
そう言って、下手くそに木を切り続ける。白樺は、ときどき意味もわからずむちゃくちゃに鞭打たれて血だらけになる雄羊のよう。
女は白樺を、別の百姓は頚木(くびき)用の柳の木を、そちらは根っこに近い方から切っているが、いずれにせよ若い林はもう林ですらなくなる。
すべてが伐採の対象になっているのである。
怠け者が言う――
「そんで、全部伐っちまったら、どうなるかね?」
「全部伐ってしまったら、あとは飢えと疫病にみんな絞め殺されるだろうね。なんと言っても、これは神なしの業だからね、天罰が下るだろう」
わたしが知っているのはその神々しさ、素晴らしさだ。男にしたって、森で鼠を捕り、腰にはいつだって斧をぶら下げているわけだし。しかし口を開けば、話はいつも土地の分割……。
とにもかくにも、誰もが予感している――何かそら恐ろしい誘惑〔試み〕(飢えか疫病か)が迫っていることを。そして頭の中で受難(ストラースチ)の絵を描いている――とはいえ、全滅のさい、それを描いた本人だけは何かの奇跡によって救われるという絵柄なのである。
今は誰もがそういうふうに生きている。『なに、おれは、おれだけは(と思っている)なんとかすり抜けてやる』。そうして斧を手に森へ急ぐ。木を叩きながら、自分で自分の棺材を、自分の十字架を作ろうとしていることに気がつかない。
彼らに言ってやった――
「若い白樺は残しておくんだね。せめて兄弟の墓に立てる小さい十字架ぐらい取っておけ」
彼らが答える――
「そんなことは坊主たちの仕事だよ」
「どんな坊主のことを言ってるんだ? 自分の十字架は自分で作るもんだろ」
古い木は腐れ朽ちてしまった――新しい木を用意しなくては。
*хозяйчики(ハジャイチキ)は蔑称。本来の意は小さな事業主。
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