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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 07 . 16 up
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4月8日

 心のひん曲がった金持ちの男がある若い娘のために幸福の舞台装置をでっち上げる。不幸な人間がいかに邪悪で嫉み深いものであるかを見せてやろうと思ったのである。

 ソーニャの考え。

親友アレンサンドル・コノプリャーンツェフの妻、ソフィヤ・パーヴロヴナ(1883-?)。

 トロイツァ〔三位一体、聖三者〕について――父にして長、子はその相続者にして代理人。聖霊とは父と子の奴隷にして伝書鳩、内なる世界と永遠の世界の表現者として最高の意味において奴隷である。  3人寄るところに1人の奴隷。メレシコーフスキイにはフィローソフォフ、レーミゾフにはミキトーフ、われら3人にはイワン・ワシーリエヴィチ。彼は反抗する奴隷だが、反抗する奴隷の道、つまりその最終的な救いは伝書鳩(物語のテーマ)に身を変ずること。

イワン・セルゲーエヴィチ・ソコロフ=ミキトーフ(1892-1975)は作家、船乗り。旧スモレンスク県の出身。早くからレーミゾフに師事した。詳しくは拙著『森のロシア 野のロシア』の第八章「ソコロフ=ミキトーフ――旅するマガン」を。

 きのうはひどかった。送別の席〔プリーシヴィンの帰郷のための〕で食中毒。危うく死ぬところだった。おそらく原因はマリヤ・ミハーイロヴナのお手製の緑色したバターである。
 悲劇(ドラマ)でもある――マリヤ・ミハーイロヴナはより高度な恋愛世界をめざそうとして、作家や画家たちのあとを追いかける。本当のところは、少々歪んだ俗物根性(メシチャンストヴォ)なのだが、彼女は自分を芸術の門外漢と思っているところもあって、どんな奉仕も買って出ようとする。詩人には金の融通を、画家にはパンを、作家にはバターを〔これが食中毒の因〕。金が無くなり、パンもバターも底を突くと、詩人も画家も作家も全員が彼女を見捨ててしまう。

 きのうオリガに言った――
 「あなたに宣言するが、僕が愛しているのはコーザチカだけだよ。ほかにはいない。彼女唯ひとりです」
 するとオリガが――
 「じゃ結婚はいつなさるの?」
 これは女房の母親(チョーシチャ)の論理。ただしオリガは本当の母ではなく〈消え入りそうな義母〉(もしくは空飛ぶソーセージ形の係留気球)であるから、小さな孔でもあけたら、忽ちシューッとしぼんでしまう。

 コザーの好きなところは、食いついたら容易に離さない、そのしつこさ。しっかりしてると言えば言えるが、いちど食いついたら離さない犬のようなところ。すがりつき、顔色が変わり、そして決して放さない。複雑な内なる闘争の結びとしての、いわばシニシズム(ほとんどシニシズム)。その根底には悲哀のトスカと(大胆に)衝動に身を任す覚悟がある。

4月18日

 フルシチョーヴォ。
 モスクワ、4月14日――4月13日、ペトログラードを発つ。
 トルストイ主義者の女性がボリシェヴィキたちとやり合っている。
 「おたくたちの綱領は素晴らしい! ただし強制はいけません。人殺しじゃないですか! 人殺しをどうして、何をもって正当化できるのです? わたしたちトルストイヤンはそのために肉も食べないんですよ」
 「肉を食べちゃいけません! 人を殺してはなりません!」
 彼女は相手の話を聴いていない。自分の言いたいことだけを考えている。そしていきなり――
 「ああ、それはもしかすると戦争のせいかも? 戦争があんたたちに人を殺すことを教えたのね、あんたたちは駄目になった、亡んだ人たちなんだ……」
 「おっかさん、あんたは幸せだよ。戦ったことがないからね。わしら、ほんとに殺したくてやってると思ってるのかい? もしあんたが同じことを……でも、そんな経験はしなかった……なんで経験したこともない人間がそんなこと言えるんだい?」
 「あたしは戦争なんか経験したくないよ。でも戦争がどんなものか知っている、戦争は嫌だ、あたしはあんたたちにあんたたちの魂を見せてやりたいんだよ」
 「魂? そんなもの、どこにあるんだね?」
 「どこにあるかだって? あんた自身の中にあるんじゃないか、あんたの中に、ね」
 「魂なんてどこにもない。そりゃ良心だ。魂より良心と言ったほうがいい」
 「良心は魂の中にあるのよ」
 「いや違うね、良心は単に良心だ。良心に目があることは知っているが、魂なんてものは知りゃしない」
 「神様のことよ」
 「その〈神様〉を何かほかの言葉で言っちゃいけないのかな?」
 男は重々しげに、ちょっと勿体つけて――思慮深く、あたりは柔らかだが、でも頑固な、何かに憑(とりつ)かれているような喋り方になっていく。
 「もしブルジョアと坊主をまとめて焼き殺せるなら、わしはぜひとも自分のこの手でそうしたい」
 「まあ何ということを!」
 「なあ、おっかさん、〈神様〉を何かほかの言葉で言い替えちゃだめかね? ついでに〈あの世〉ってやつも廃止する。どうかね、わしは賛成だよ。問題はあの世じゃない、この世だ。いいかい、あんたの言う魂だが、そいつはいったいどこにあるんだね? わしはそいつがどこにあるか知らん、知っているのは良心だ。良心には目があるが、魂には……いや坊主どもには――ああ何を言ってんだろう、おれは!? 坊主なんかどうでもいいんだ」
 トルストイヤンは必死で男を丸め込もうとする。
 「おたくたちの綱領は素晴らしい。でも、何のために人を殺すの?」
 「おっかさんよ、いずれそういうことは過ぎてしまう――人殺しなんかしなくなるさ。今わしらが人を殺してるのはそのためなんだ、そういうことをしなくなるためなんだ」
 「今あんたたちは家に帰るとこだね? 戦争はまだ終わってないよ。 なのにあんたたちは……」
 「一時待機だよ、〔戦争がまた〕始まるまでのね」
 男は薬缶を取りに走ったが、すぐに赤ん坊でも抱っこするようにそれを抱えて戻ってきた。手には菜食主義者用のチーズ。この男、何ごとにも一所懸命になるようだ。柔和な恐ろしい男。

 傷痍軍人。
 「それが終わったら、わしらは殺しをやめる――そして幸せになる」
 「ああそうか、それでおたくらはどこまでもどこまでも突っ走るんだ」
 思い出した――わたしはその男〔傷痍軍人〕にヤロスラーフで遇っている。彼はそれを幸せと確信しているのだ。
 「ひとこと言わせてもらうが、わしはね、べつに命なんか惜しくないんだ」
 「しかしあんたはあの世を否定しながら未来の話をしている。それはあんたたちの未来でもある。あの世はあるんです」
 男は頷く。そうだ、それは確かにあの世だが、でもそれもほかの言葉に置き換える必要がある。

ヤロスラーフはリヴォーフの近郊、サン川沿いの町。1914年10月18日の日記(三十四)に出てくる。

 〔記述が前後している〕
 こんな質問をしてみた――
 「どうかな、わがナロードは正気を取り戻すだろうか?」
 アルチョーム〔フルシチョーヴォの村人、前出?〕が答える――
 「いんや、ナロードは何もかも見ちまったからなあ。だから何も信じなくなった――絶望に陥ってるんだ。あんなポグロームを見ちまったんだ。希望も期待もないのさ」

 地獄から地獄へ。ペトログラードからエレーツ〔故郷〕へ向かう車中で出会ったロシア人たち――何かに取り憑かれたようなボリシェヴィキや狂信者やバルト艦隊の〔近衛の〕乗組員から、家畜輸送車の屋根の上に陣取った担ぎ屋たちまで、いずれもその表情は暗く重く、絶望的なまでに打ちひしがれていた。地獄から誰もが悩み苦しみ呻いている更なる地獄へ。

 発車の3時間前に貨物列車〔家畜輸送用〕の汚い床と壁板の隅っこに座席を確保。運が好かった――ともかく坐れたのだから。遅れて着いたら立つしかない。ぎゅうぎゅう詰めだ。そのうち天井板が運び込まれて、それが自分の頭すれすれの高さに据えつけられた。そこによじ登る者、腰かける者――低い天井にこっちの頭が押し潰されそうだ。みんな胡坐をかいている。腕を組んだままで、少しも動かせない。天井板がみしみし言い、はじめはその隙間から頭の上にヒマワリの種が落ちてきたが、それがやがて唾になりゴミになった。まったくの闇、外になどとても出られない。そのうちあちこちから臭い汚いものがぽたぽた落ちてきだした。足が痺れてきた。頭を何かですっぽり包んだ。何が落ちてこようと、唾を吐かれようと、ただひたすら闇の中で思っている――『まあこれが〈人間(ナロード)の為せる業さ!』

このときの帰郷を描いたものに小品「チーズ」がある。初出は「東方の空焼け」紙(チフリス・1924)。

 2日目の夜、ちらりと〈この世〉が覗けた。

 早春の夕焼け。列車がカーヴにさしかかったので、車輌全体が視界に入る。屋根の上に坐っているグループが何組か、みな手に袋を抱えている。
 なんとか自分のパンを手に入れようと頑張っている者もいるが、ほとんどは隙あらば他人のパンを奪ってやろうと目を光らせている。ふつふつと沸き立ってくる赤衛兵たちへの憎悪。どの駅でも戦闘が起きそうな気配。
 こんな会話――
 「あの野郎、こっちへやってくるぞ。小銃を構えて……ああ手榴弾も持ってる」
 「奪えやしねえさ……そんな勇気はねぇ……ほれ見ろ、ありゃあ略奪に遭った軍用れっさ(、、、)でねえか!」
 軍用列車はついていた(略奪されなかったようだ)。
 エレーツの駅頭で乗客が振り分けられた。包囲されたが、そのあとそれぞれ散る。
 いよいよ故郷〔フルシチョーヴォ〕だ。恐ろしい光景……打ち壊された地主屋敷、荒れ果てた領地、それと大きく口を開けたオヴラーグ。この先どうなるのかと、他人(ひと)の袖や裾を掴んで離さない呆けたような人びと。頭がおかしくなっているのだ。
 奈落へジャンプ。ああ、紛れもなくこれは奈落へのひとっ跳びだ! 落ちるとわかっていながら、同時にどっかでそれに素直に従う信者の群れ。
 〔うちの〕地所が見えてきた……そっちへ歩いていく。〔土地の〕分割をやっているところである。〔以下はプリーシヴィンの見ている前での他人同士の会話?〕
 「ここは誰の土地だい?」
 「ボーゴフのだよ!」
 「おめえはどっちの味方だ?」
 喧嘩が始まる。
 「土地は土地だが、いったい誰の土地だい?」
 「ボーゴフのだって言ったろ!」
 「だから、おめえは誰の味方だって訊いてんだよ!」

 姿見が見える。〔その男は〕家には入らず、中庭に立っている。
 「以前はあの鏡にゃ奥方様が映ってたんだが、今じゃ雌馬が映ってるよ」

 リュボーフィ・アレクサーンドロヴナがわたしに向かって――
 「こうなったのはあんたのせいよ! どうしてみんなをこんな目に遭わすの? それで、あんたの屋敷は無事なの?」
 「畑は自分で耕しましたが、穫れたものは残らず持っていかれましたよ。あいつ〔プリーシヴィン〕は教育を受けた人間だからという理由で」

プリーシヴィン家の隣家の女地主。彼女にこんなことを言われるのは、プリーシヴィンの前科(マルクス主義の活動で逮捕、入獄、長期にわたって警察の監視下にあったこと)を誰もが知っているからである。

 正義について話すことはできない。なぜなら、すべては原則どおり(プリンツィピアーリナ)に進行しているから。

 播種。
 「耕作についてはどう思ってる?」
 「布告を待ってる」
 「執行委員会がああしろこうしろと言ってくる。家屋やその他もろもろ。文書が来るんだよ、家具を接収するとか」

 2日目の夕方、さんざん嫌がらせをされ、唾をひっかけられて、ボロボロになっていた。旧ボージェニカ〔土地の名〕に明かりが見えた。なんと哀れな土地、まるで荒蕪地、オヴラーグだ! 無残な住居も馬糞の山のよう!

 日が沈む。線路がカーヴを描くところで車輌全体が視界に入る。沈む夕日をバックに手荷物を抱えた男たちのシルエット。
 そのとき思った――
 『船が沈もうとしているのだ。自分は丸太のようなものにしがみつき、それに馬乗りになった。助かった! すると乾パンの入った袋が流れてきた。しめた! 次の日、知らぬ間に岸に打ち上げられていた。おお、なんて自分は運が好いんだろう! 自分は沈んだ船や乗組員のことなど考えない。そんな暇がない、とにかく自分は助かったんだ――世界は自分のものだ!』

 そこにいたのは、列車の屋根の上の担ぎ屋たちとそっくりの人間たちで、必死に丸太にしがみついて、どこかの岸に漂着しようとしていた。彼らは貪欲だった。獣のように残忍で、いちど爪にかけたら決して離さない。いまだ知られざる未来にあっても、また彼らは、掘り返された蟻塚を引きずってきて、それを国家と呼ばせようとするにちがいない。

 わが独立農家(フートル)は19デシャチーナの小さなものだが、クローヴァーの種を蒔いているから、誰が見てもほかの土地とは違っていた――ちょうど教育を受けた将校と寄せ集めの農民軍ほどの違いがあった。明らかに前者はブルジョアのそれで、古臭い三圃式農法の大衆(マス)ではない。

昔から広く行なわれていた農法。村落の全農地を3つに区分し、1つに冬穀(小麦・ライ麦)を、1つに夏穀(大麦・燕麦)を、残りの1つを休耕地として放牧し、年々この割当を交替させていく経営。農業技師でもあるプリーシヴィンは、土壌中の窒素量を増やすためにクローヴァーを育てることをよく奨励した。土壌改良と四圃式農法。

 皇帝の軍隊が壊滅したから、次は農業の解体である。わがフートルも将校どものように消滅しなくてはならない。そういう流れであることを、今ではわたしにもわかっている。
 ピラミッドのような形をした、誰が植えたか誰も憶えていない、百年以上もわが家を見守ってきたあのトーポリが伐り倒されていた。クリヌーシキン〔地主〕は堪えられずに領地を見捨てた。彼の屋敷に百姓たちが押し入り、略奪を始めた。ありとあらゆるものを外に引きずり出し、家の壁という壁、土台も煉瓦ごと掻っ攫っていった。1週間後、屋敷跡にはゴミしかなかった。ほかには何も。更地……
 今ではほとんどの地主が町〔エレーツ〕に住んでいる。

4月22日

 百姓たちは自分からもすべてを奪った――畑も、牧場も、庭園も。自宅は今、獄屋も同然だ。夜は必ず窓を厚板で覆っている。ごろつきどもの銃撃から身を守るため。まる3日、非常に落ち込んだ。自然はあんなに春の光に満ち溢れているのに、自分には春はなかった。光さえ暗く映った。青々とした草(あんな混じり気なしの野原)が目に入らなかったのだ。小鳥の歌(あんなに小さいころから好きだった囀り)も耳に入らなかった。日記にはこんなことしか書けない――『わがいのちの唯ひとつの星が光を失い、わが小牛を百姓たちは原則どおり(プリンツィピアーリナ)に屠った』。
 昨夜あたりから少し落ち着いてくる。真夜中に目を覚まし、考えた――『太陽も星も春の草花も本当に自分が好きだったのは、自分の土地を太陽と星が照らし、自分の庭で草花を育ててくれたという、ただそれだけが理由だったのか?』。朝、わたしの心に日が昇った。鎧戸を開け放つ。わが太陽(ハート)が天の太陽(ハート)とひとつになるのを感じて、嬉しくなった。気が晴れてきた。たっぷりとお茶を飲んでから、鉄のシャベルを手に他人の庭で林檎の木の苗を探し始めた。

чистое полеは広野原の美称。

4月23日

 わたしが好きなのは、オオバコの葉が青みを増し、雪解け道が美しくなる時季(とき)。今、そんな青葉を眺め(しかしすぐにもよその牛に踏まれてもみくちゃにされる)、木々が花をつけるのを待ち(じきに斧の下に横たわる)、無邪気な鳥たち囀りを聞き(やがて巣は壊される)、絶え間なく土地が分割分配されていくのを目の当たりにする(あすは奴隷の身)――これはどうにも堪え難い春だ!
 わたしは彼ら〔農民たち〕一人ひとりに話しかける――
 「ドイツ軍が近づいてるんだよ!」
 すると一人ひとりが答える――
 「そりゃ、ありがてえ!」
 あるいはまた――
 「じゃあいよいよ片がつくってわけだな」
 村の寄合いでもわたしは同じことを言ったのだが、獣たちが牙をむいて襲いかかってきた。
 「なんの、そいつはゲルマン〔ドイツ〕人じゃねえ、この国のあのケーレンスキイみてえな、教育ある奴らのこったよ!」
 そしてそのあと浴びせられたのは、この1年の間に語形変化を起こして(それでなくてもいい加減)かび臭くなった言葉ことば言葉、聞くに堪えない悪罵である。泥雪の下から出てきた死んだ犬猫の皮が靴先で道路脇に蹴り出されるように、どうせまた消えてしまう汚い言葉であるにちがいないのだが、とにかくそれらはどれも聞くに堪えないものだった。
 どんないいことも一人ひとりは信用せず、全員力を併せて何かを守っている――いったい何を? つまらぬことを。そしてそのエネルギーは、革命の力などではなく、ナロードが協働で収穫したり敵を撃退したりするときの、あの力なのである。事業の代わりに掠奪が――しかしひとたびその力が発揮されるや、それこそが本来の事業であると言い出し、掠奪を擁護し、それを神聖なるプラウダと見なす必要が出てくるのである。
 ほんの子どものころから自分は村の人間を(男も女も)みんな知っている。彼らは自分の目にはロシアのナロードそのもの――悪人、善人、怠け者、頭の悪い人、凄いインテリというふうに映っていた。わたしは決して自分と彼らを分け隔てしなかったし、いちども彼らを他の階層の人たちと区別したことがない。ほかの誰よりも自分の近くにいた人たちだ、だからこそ彼らの話をするのだ。

 このロシアのナロードの何がいちばん自分を引き止めるのか――それはみなの不同意によって仕切られた人びとの沈黙である。きのう、イワン・ミートリチはわたしに向かって圧制者(チラーン)反対の非常に賢明な熱弁をふるったのだったが、きょうの寄合いではひとことも発言しない。訊かれると、こんな言いわけをする――
 「そんなことをみんなのいる前で、なんで?」
 なぜできないのだろう?
 そうは言っても、わが国には無名の犠牲などあり得ない、まるきり存在しないのだから仕方がない。われわれはいつだってずいぶん辛い囚われの身だということだ。

4月25日

 ユローヂヴイのスチェパーヌシカがうちのフートルのまわりをうろつき、なぜかわたしを選んで、聖パンを差し出すと、こう言えと言う――『もし自分〔プリーシヴィンのこと〕がこのままここに留まれば、何もかも奪われてしまうだろう』と。

 イプセンのように全世界のための暴動扇動者にもなれるし、町人たちに交じって暮らすことだってできる。だからごく親しい近所の連中でさえ、自分らの中に偉大な暴動扇動者が暮らしていたとは少しも気づかない。反対に、そんな隣人たちを相手に乱暴狼藉――たとえば強盗を働き、人を殺し、不法な賠償金を課して、世界の偉大な小市民にもなれる。それこそロシア革命の現在そのものだ。

ヘンリク・イプセン(1828-1906)はノルウェイの劇作家で近代劇の確立者。はじめはロマン主義的な作風だったが、やがて自然主義的な一連の家庭劇・社会劇を発表。『人形の家』(1879)は婦人解放の思想とともに全世界に影響を与えた。しかし『民衆の敵』(1882)では真理と正義のために孤高の戦いを続ける自由思想家であり、大衆運動とは結びつかず、『野鴨』(1884)に至っては、凡庸な人間生活を幸福にするのはありのままの生活ではなくむしろ虚偽や幻影であるという人間の皮肉を展開する。

 ひでり。春の〔雨〕に洗われなかった冬麦〔秋まき作物〕。
 冬麦は秋のうちにしっかりと根付いたが、肝腎の春がひでり続きで、いまだに春雨の洗礼を受けていない。こんなひでりは恐ろしい飢餓に見舞われた〔18〕91年を思い出させる。
 ここ3年、畑に肥料を入れていない。分割は一時的なもの――そう思って今年も施肥していないのかも。

 隣人たちは亡んでいく。ライ麦が掻き出されている。隠匿。死に物狂いの収奪。シーニイは登記を済ました。うまく折り合いをつけたのだ。いずれここの管理者になるのだろう――農業大臣も村の巡査も大して変わらないのだから。

 「追いはぎどもが掠奪したら……」
 「したら、じゃない。歴(れっき)とした追いはぎだよ」
 「どうしてきみらはそう唯々諾々と従うのだ?」
 「権力がおまえさんにあるなら、わしらはみなおまえさんに従うさ」

 木々はまるで突つき殺された鳥たちのように横たわっている。そこに大きな枝も小さな枝も毟られた羽のように散乱している。
 わが社会のいのちの華は個人的創意の人たちによって咲いたものである。しかし今やそれは(さらなる憎しみを込めて)ブルジョア根性と見なされている。

 平均的人間〔平凡人〕にとっては好いことだ。好いことにどの村もそっくり元のまま残っているのだから。

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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