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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 07 . 08 up
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(1918年4月3日の続き)

 ロシアの自然で自分が何より凄いと感じ、大事に思うのは、河川の氾濫だ。ロシアの民衆について言えば、それは何と言っても彼らの共同作業――たとえば草刈りの時期の、また戦争と革命の初めのころによく見られたあの高揚感! 今でもそれを思い出してまわりを見渡すと、涙が出て堪らなくなる。

 自分たちは今ペテルブルグで虜囚のような暮らしをしている。ここを出るのは収容所からの脱走と同じだ。

 おそらく作家としての自分の個性は外見(そとみ)にはかなり質素な小屋みたいに見えるだろうが、どっこいそんな小屋の内部は完全なひとつの世界。わがインテリゲンツィヤの非常に見苦しい兵舎(カザルマ)もまた然り。ところで兵卒としてそこで暮らした経験のない人間には想像もできないだろうが、それは完全なひとつの別世界なのである。
 わがインテリゲンツィヤの耕地散在(チェレスポローシツァ)は、すでに自分を独立農家(フートル)の経営に向かわせて〈ささやかなる財(ソービンカ)〉すら産ましめたのだが、でもわたしは、わがインテリゲンツィヤの兵舎式生活に隠れたある理想世界のことを未だにはっきりと憶えている。

歴史用語。耕地の分断ないし分散。すなわち共同体に属する農民の耕地が多数の地条に分かれて散在し、他の農民や領主直営地の地条と混在していること。

 農民たちを苦しめたのが耕地散在なら、インテリたちを苦しめたのは綱領と立場だった。

 革命の時代に作家や画家はいかなる暮らしを営むか?
 詩人が訪ねてきた。自分は彼の才能を非常に高く評価している。なぜかと言うと、彼には〈自分〉が、今ではほとんど見かけなくなてしまった人間としての誇り〔というか〕尊厳があったからだ。この詩人は自分に対して妥協と順応主義を許さない。お金のために詩を書くくらいなら新聞に雑報でも書くことを良しとしていた。彼はわたしから200ルーブリ借金していて、きょうはそのことでやってきたのである。真っ青な顔で、手には大きな包み。
 侘しいその話を聞くことになった。彼はわたしから借りた200ルーブリでスーツを注文していた。仕立屋への支払いを済ませたら、すぐにスーツを質に入れ、わたしに借金の一部を返すつもりだったが、なんと質屋が提示したのはたったの80ルーブリ。〔以下の文は抹消されている《そこでわたしの提案――じゃあ僕のスーツと外套を質入れして200ルーブリ借り出してがどうか?》〕。詩人は〈メンシェヴィキの女〉――親切な人のように思えたので――に相談した。女が教えてくれた苦境脱出法は2つで、1つは180ルーブリのスーツを買えばいうもの。だが、それは話にもならない。スーツは350ルーブリもしたからである! もう1つは仕事を得ること。赤衛隊の兵舎の清掃が日当20ルーブリだという。『あなたに働く気があるなら、こっちも200ルーブリをなんとかしますよ』。じゃあ頑張って兵舎の清掃をしようという気になった。どうせやるなら徹底的に。心ははやったが、赤衛隊の隊員というのがいずれも16歳までの、自分の息子ぐらいの少年兵であるとわかったら、もういけなかった! とてもじゃないと断わってしまった。そこでわれわれは完全に全に諦め、二人してわたしが持っているスーツを質屋に持っていった。

 詩人はそのあと、その女がメンシェヴィキではなくボリシェヴィキであることを知った〔ここは追記〕。女はついでのように言ったという――うまくいけばいいけど。でも何もしなけりゃ、あなた、サボタージュよ! NB.なんでこんな奴がいるのか……

 〔ノートの余白に〕――そいつの面を一発張ってやれなかった〔のは残念だ〕。

 吹雪が烈しく敵意に満ちてくればくるほど、南海の瑠璃色(ラズーリ)はいよいよその青さを増し、海岸の常緑樹の葉もいよいよきらきらしてくる。いやまったく、女(バーバ)どもが卑しくなればなるほど、愛される女(ジェーンシチナ)たちはいよいよ輝いてくる。

 ここにもうひとりの作家がいる。わが大地の滅亡を嘆ずるその哀歌(プラーチ)はロシア革命第一年の唯一の作品――これはおそらく文学的記念碑として永遠に残ることだろう。そんな作家が胃潰瘍を病んでこの冬一度も外に出られず、しかも口にしているのは8分の1フントの藁パンなのだ。

おそらくこれはレーミゾフの作品『ロシアの大地の滅亡の物語』(1918)。

 潰瘍を患った胃に8分の1フントの藁屑を流し込みながらものを書く。これはもうすでに立派な偉業(ポードヴィク)ではないか! しかもこの男、新聞社のボスたちが提示する前金さえも拒んでいる!
 飢餓を知らなかった人びと。
 権力側に立ち飢餓の恐怖をまったく感じてない人間がわがペトログラードにまだ大勢いると思うと、それだけで恐ろしくなってくる。怪物のような噂(レゲンダ)が通りをのし歩いているのだ――スモーリヌィの〔二語判読不能〕さながらに。
 しかし、ボリシェヴィキは〔一語判読不能〕自らを示威している。ペトログラードのこの共産主義のうわべだけの静寂は、酒に呑まれてそのまま沈み、ときどきチャンの底から死体で見つかったりするが、そんな酔っ払いどもの乱暴狼藉より恐ろしい。今はそれどころではない。ずっととひどい状況だ。

旧の3月24日だが、これが4月の何日に当たかは神のみぞ知る日

 確かに知人ではあるが、いったい何で暮らしを立てているのか、よくわからない。でも、その知人は自分にとって常に不思議この上なき非凡人。ひとたび革命の時期に経験したさまざまな奇跡や人間の変貌〔豹変〕の記憶が甦るや、必ずその身辺に驚くべきことが出来(しゅったい)する――ちょうど旅をしていて次から次と予期せぬ出来事が起こるみたいに。
 「わたしなんか――」と、よく言ったものだ。「いつも何事もなく、ほんとに傷ひとつ負わずに戻りましたよ。いやぁ嬉しい、ほんとに嬉しい。あらゆることを経験させてくれたわけですからね、創造主にはただ感謝あるのみです」
 そしていかにも愉快そうに笑うのである。
 「それで聖人みたいにへまをやらかしたってわけですよ。おのれの聖性を冷凍したブリキの櫃(ひつ)にどんどん溜め込んだので。いやいや、そういう頑丈なですな(なんと立派な櫃だろう! それだけでひと財産)、そう思えるようなやつがじっさいあるんです! でもそれを開けてみると、なんと中にはシミみたいなものがびっしり。いやぁ力が抜けてしまいましたよ。いやはやこれが聖人の正体なんだと。あまりのことに言葉もない――溜めたはずのものをみなシミが喰ってしまって、なぁんもないのですから!」
 「でも、どうしてあなたはそんなに明るいのでしょう?」
 「なぜだかわかりませんが、ただ自分この世にが生きてる――それだけでもうわたしは愉快なんです」

 彼が最後に口にした言葉はこんなだった――『わたしの名は忘れてくださいよ。わたしの名を口にしちゃいけません、真っ平です。そう肝に銘じておいてください』
 どういうことだろう!
 ところが、外に出たとたん、わたしは彼の名を忘れてしまった。思い出そうとしたが、思い出せない。つい自分を罵る――『えい、なんだ、この馬鹿!』。確かに彼はあらかじめ自分を忘れてくれ、つまり黙って自分の心にしまっておいてくれと頼んではいた。だからこっちも頑張って、忘れてしまった、本当に彼の名がわからない! でもその顔は憶えている。で、その顔だが、それとぴったり同じ顔がひょいとまたやってきたのだ――二つ並んだらどっちがどっちか見分けがつかないくらいのが。さらにもう一つ同じ顔が通り過ぎていった――若い、髭を剃った顔(それらはいずれもきれいに髭を剃っていた)。目は小さくて灰色――そんな目はいくらでもあるわけだが、いずれもなぜか秋の終わりのころの、病気に罹った、鉤のように曲がった胡瓜そっくりの、小さき人びと……。
 微妙な質問は彼がすぐさま退けた。
 「そうしろと言われたわけですか?」
 「百回もね!」
 「直接?」
 「いや、それは――」
 で、彼は命令(オールデル)の記された紙切れを取り出して、わたしに忠告をする――
 「これは使ったら〔読み終わったら〕焼き捨ててください。だってそうでしょう、わが権力があとどれだけ保(も)つかわかりませんから。知られたら銃殺ですよ」
 わたしは彼の名を思い出そうとするが、ついにできなかった。なぜかこんな言葉を繰り返すのみである。
 《不幸と勝利(べードゥイ・イ・パベードゥイ)、ベードゥイ・イ・パベードゥイ!》
 不幸(べダー)はロシアのこと、勝利(パベーダ)は外国のもの。わたしのもの〔情報〕はそれで全部。それはロシアの不幸(ベダー)……敗者(ベヂーチェリ)の顔と名が思い出せない。そんな顔などないのだが。かわりに勝利(パベーダ)という言葉を聞けば、すぐに勝利者(パベヂーチェリ)の顔が見えてくる――アポロン、〔プロメテウス〕、ぞくぞくと!
 もしこっちに勝利がめぐって来れば、どうなるか? どんな表現が飛び出すか? まずは教会の鐘が鳴り響くだろう。力強さではこの世に並ぶものなきその響き、それから未曾有の河川の氾濫だ! それを思い描くだけで目には涙、歓喜、歓喜、歓喜! なんという広さか、その空々漠々、なんというその広大無辺! だが、勝利が向こうだと、〔ああすぐにも〕出てくる名は、ヒンデンブルク、ウィルヘルムそのもろもろ。わが方の勝利(パベーダ)からは残ったのは不幸(ベダー)だけだが、それで敵側のパベーダからもっといいことが起こったかは、ちょっと疑わしい。ああしかし、奴らには勝利者たる人物がいる! ヒンデンブルク、ウィルヘルムと、じつに多い。
 真実と勝利。それは母と息子、嘘と勝利のような肉親たち。嘘はすべての悪徳と不幸の母であるとはよく言ったものである。
 真実(プラウダ)には無限の広がり、〔簡単には引き下がらぬ〕しつこさ、不易性、誠実さ、それと栄誉がある。勝って帰るか負けて帰るか〔成功するか失敗するか〕、いずれにしろ勝利者は真実(プラウダ)の息子である。嘘の母には、ふしだらで、狡い、男たらしの、それでいて年中びくびくしている娘っ子しか生まれない。

 コノプリャーンツエフには殻がない、あるのは純粋まじりけなしの核*である。では、ソフィヤ・パーヴロヴナとは何? ヨールカ祭りの、金紙をかぶせた、実のない胡桃だろうか。

親友コノプリャンツフについては(十六)の注を。核には睾丸の意味も。性的不能? ソフィヤ・パーヴロヴナはその妻。プリーシヴィンとコノプリャーンツェフの深い友情、両者の深刻な辛い試練は乗り越えられるのか。今の時点では奥歯にものが挟まった解説ではあるが……

 気持ち〔気分〕はどんな風より百万倍も軽く、動きもいい。それでもそれを櫃(ひつ)に閉じ込めている。結婚は愛情の櫃だ。そうして誰もが何十年も櫃に溢れるほどドブローを溜め込んできたのに、ある日突然、烈しくぶつかり、猛り狂って、二人はぜんぜん違う方角へ別れて行ってしまう。そうなると、共に暮らした10年20年など数える気ならない。なぜなら、愛の感情はどんな風よりも軽いものになって、ひとたび櫃にひびが入れば、その隙間からこっそり出ていってしまうから。いったいどこへ? 自由な世界、ほかの人間たちのもとへ――とりあえずすぐにも櫃に詰めむ奇跡を捏ね出すために。

ドブロー(добро)とは、善、福、家財、持ち物の意。ロシア人にとって最も大事なもの。処女作であるセーヴェル紀行『森と水と日の照る夜』に、また詩人アレクサンドル・ヤーシン(1913-68)の作品にしばしばドブローへの言及が見られる。

 不幸と勝利(ベードゥイ・イ・パベードウィ)。
 ユーリエフでのドイツ兵によるロシア人虐殺のあと、こんなことが言われた――
 『殺されたのは無実の人間たちなんだ!』
 するとドイツ兵が言う――
 『無実の人間は苦しまなくてはならない。無実の人間はそのために造られたのである。苦悩は無実の人間の報酬だから、銃殺されたその10名は何千という市民の命を救うことになる』

 娘たち。
 オリガは看護婦――将校とできてしまって、すでに妊娠している。あるパーティーで誰かが彼女を婚約者と呼んだが、男は声に出して――『オリガ・イワーノヴナ、ここで僕はあなたのフィアンセみたいに言われたけど、ほんとに僕はあなたにプロポーズしましたっけ?』その後、堕胎のため入院しているき、思いがけず男から玉麦〔大麦を真珠状の細かい丸い玉に精製したもので、主にスープに用いる〕が送られてくる。彼女はそれを受け取った。それから男は電話で『玉麦、もっと要るかい?』と訊いてきた。彼女はそれをまた受け取ったが、結局それまでだった。男は姿を消してしまった。今ではオリガは男たちから金を借りまくり、男たちはみな彼女に首ったけである。男どもはひとり残らず自分に夢中なんだ――そう彼女自身も思っている。

 チェクマリョーワにはいつでもフィアンセがいるが、結婚する気などまったくない。あるドイツ人が彼女を追いかけ回したが、彼女の生活ぶりを実見して、きっぱりと諦めた。母親と弟とひとつ部屋に住んでいて、そのだらしなさ汚らしさに腰を抜かしたのだ! なんという汚らしさ、ゴミの山だ! テーブルの上にはギターと小型の火屋なし石油コンロ、新聞紙、ミシン、婦人服の飾り胸当てが、整理ダンスの上にはサモワール、洗濯ばさみがついたままのロープ(ロープには、何か干されている)、置き棚に本と革バンド、ジャケット、コーヒー沸かし、饐えた臭いの胡瓜の入った小皿。寝室は衝立の陰だが、そこに何があるかは想像の限りである! 彼らは口を拭わない。あるときドイツ人の彼氏がやってきて、言った――『自分はここにはもう来ない』。そのあとその男を通りで見かけた。べつにこの町を去ったわけではないのだ。
 いっぽう、女は彼氏が戻ってくるのを待っている。いちど誰かに言われたことがある――彼はきっと来るまで乗りつけて島々〔ペテルブルグの〕をドライヴに連れってってくれるよ、と。でもそれは嘘だった。みなの笑いものになっただけ。
 リーザはソーニャにぞっこんで、こんなメモを書いて渡した――『ソーニャ、おれはじつは男なんだ』
 アンファ(フィフィ)は単に几帳面なだけの小娘。

 初春の夜、海の夕焼け。わたしは電車でニコラーエフスキイ橋を渡ってワシーリエフスキイ島に行くところ、道みち考えている――本当はなんと言ったらいいのか、要するに頭の思考ではなく半ば夢心地で何かをぼおっと思い浮かべている……と、凄まじい音がして、何かが爆発したようだ――それで遠くにあるさまざまな教会もろとも一つのしまが吹き飛んだ。いっときそれはこう言われた――あれはドイツ軍の襲撃だ、と。もっともこれはドイツ軍の到着を待っていた者たちが触れ回ったこと。『赤いしゃっ面〔赤衛隊〕がペトログラードの爆破を企てたのさ』――そんなことを言う連中もいた。じっさい爆発したのは事実である。でも夕焼けはぴくりともしなかったが、町は潰えた。橋の一つも電車ごと落ちた。残ったのは黒い廃墟の上を照らす夕焼けだけ。わたしはなんとか無事だった。何ともなかったのはわたしと夕焼けの空。廃墟と廃墟の間を歩きながら、そのときわたしは苦しかった――いつもほどではなかったが、自分としては惨めも惨め、まるで目の前にヴェールが掛かって光がまったく見れないように、心がなにも、いやさっぱり、ぜんぜん反応しなかったのである。
 橋を渡っていたとき、一瞬、絵のように何かがちらつき、渡り切ったとたん、ネヴァも、赤い空も掻き消えた。そこでわたしも自分の夢幻を現実(うつつ)に転じた。すると、消えたはずの風景がまたぞろ姿を現わした。高層のビル群も、あまたある記念碑も、街路樹も、元に戻った。なんだこれは? おいペトログラードよ、大丈夫か、これがわたしの心の故郷か、ロシアなのか? 春になると際なき果てまで、北へも南へもいろんな世界を求めて自分が歩き回った、これがあのロシアなのか? 氷の世界には終わりがなく、南にも東にも行き着く果てのなかった、これがあのロシアなのか? そんな無限の自由の感覚がみな今、廃墟の中に横たわったままなのだ! いっぽう、わが愛すべき人びと(とはいえ、自分はそんな連中から逃げようとしてきたのだが)はどうかと言えば、突然、なんと歓びに沸き立った(ように思われた)。どこへ消えようが、どこに姿を隠そうが、いつもいつでも彼らが頭から離れなかった。だが今や、彼らは彼ら、わたしはわたしだ。彼らはまったく自分にとって必要ないし、死人も同然である。以前、悲哀や物思いに沈んでいたとき、自分は心の中でしきりに彼らに助けを呼ぼうとした。なぜなら、彼らナロードの心の奥には力強い善なる霊が生きていて、その深さはわが大地の広大無限に匹敵すると思っていたから。そしてそれに期待をかけていた――なに、その時が着たら、その広大無辺に見合ったロシアの深さがあらわになるのだと。ところが姿を現わしたのは、水を抜かれた池のごときもの――水面(みなも)に映るはずのものが水と一緒に消えてしまったのである。泥土、石、岩、そして春先の赤い空焼けも。自分には心の上に黒いヴェールが被せられていた! わが同胞(はらから)よ、おお愛すべき人びとよ、なんと哀れな姿をしているのだ! 戦争も始めのころは負傷者たちをあんなに可哀そうと思っていたのに、だんだんそんな感情も働かなくなり、そのうち丸太かなんぞのように平気で彼らを跨ぐようになって、今では祖国の廃墟に佇む人びとを、聖者たちを平気で跨いでいこうとしている。
 このおとなしいナロードに戦争が教えたのは、人間を跨いでいけということだった。そして自らの銃弾に斃れたヒトの屍を跨いだように今、誰もが肉親を縁者を聖者を跨いでいる。(嗾(けしか)けだ。犬でも嗾けるみたいに――さあ、かかれ、敵はあいつだ!)

 おまえはどこへ向かっている? 残酷な奴よ、どうしてそんなことができるのだ? 自分もどこへむかっているのか、わからない。どうして歩けるのか、自分で自分に驚いている。
 歩きながら、不意に――『なんて素晴らしいのだろう!』などと口走ることもある。そんな瞬間がやってくると、これまた『おまえは勝手に行け、おれに構わずに。おれは生きてるし、もっと生きたい、これから先も生きるんだ。おまえたちのものはな瞞着だ。世界中が瞞着だらけで崩壊してしまったが、おれは生きてるし、おまえの責任など取りやしないぞ。これはおまえたちの現実だが、おれのは幻影(ぷりーずらく)だ。だからおれは幻影のように生きていく』。呻き声を発している人間を跨いでいくのは、戦時下ならよくあること。誰も手を差し伸べず、ただ自分は生きている、生きているうちは前へ進むし、体を横にできたら……ああ、自由でのびのびしたあの時代はとてもよかった。どの家でも〔キリスト様のおかげで〕好きなだけパンが与えられ、満腹すると――『ところでこのあと自分はどうなるのだろう、キリスト教徒である自分の最後はどうなるのかな?』とそんなことをぼんやり思ったこともある。しかし今では、臨終のとき何が起こるかなんてはっきりしている。むかし思っていたことがそのまま起こるんだ、何も変わらない。共苦も慈悲もそれがすべてだが、ただしそれについてあれこれ思いめぐらすことはない、自分の生の時をそれに費やすことはないし、また値しない。

 ツァーリには忠実な召使たちがいた。彼らはツァーリが何をしているのか知らなかった(つまり、ツァーリの仕事を理解する必要があるとは考えなかった)。ツァーリのために生きる――御意のまま。だが、だが、突然、誰もがツァーリとなり神となったのである!

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