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プリーシヴィンの日記 太田正一
2012 . 05 . 27 up
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1月26日
振り返っても自分の姿がよく見えない――まるで荒れ狂う波に弄ばれる木っぱのよう。まわりもみな同様である。ブレストの講和条約を進める一方で、早くもその周囲は内戦状態だ。ウクライナを救おうとして祖国を溺れさす者もいれば、国の目覚めを当て込んで乾パンとモンパシエ〔フルーツドロップ〕の買い溜めに走る者もいる。おのれの心に耳を澄ますこと、来るべき裁きの庭〔最後の審判〕での自分の応答をチェックすること――どれもみな恐ろしい。あらゆるものが意味を持ち始めたが、概して言葉の内なる秘密の力は失われてしまった。残されているのは、わが祖国のいっそう素朴にして汚れなき衣服(リーザ)だけである。最後のときに自分はそれを着しよう。すれば、『もの言わぬ者はここを通り抜けよ!』と裁き手も慈悲を垂れるにちがいない(そう自分は信じている)。そのときわたしの着衣の裾はライ麦・小麦の畑のように広がり、恵福の時が(天啓さながらに)水のおもてに舞い降りることだろう。そうして水も畑(ニーワ)も葉広と針葉の鬱蒼とした静かな森となる。さあ趣くままに行くがよい! 街道沿いの小道を歩むもよし、ライ麦・小麦の畑をよぎるもよし、暖かい海の小石だらけの浜を、あるいは冷たい海の松の林を抜けて固い砂の上を行くもよし。ああ、わたしなら、夜空の星の下を駱駝に揺られて砂漠を越えていく。真昼には木々の下、きれいな石の上で息を継ぎ、朝早くには小川に下りて顔を洗い、夕べには盛土(ザワーリンカ)に腰を下ろして真紅に染まるのだ。
裕福な母はずいぶん年老いた。ひょっとすると、ただそんな振りをしただけかもしれないが、ともかく今にも死にそうな様子である。息子たちを集めて、こう言った――
「きょうかあすにも、わたしは死ぬよ。だから子どもたちよ、わたしの財産はすべておまえたちに遺す、遺言など書かない、ただわたしだけを愛しておくれ。そして遺産を分けたら、互いに愛することをやめて、烈しく喧嘩をなさい。そうすれば、仲が良くないという証しができるから」
パラモン、フィリモン、エフセイ、エリセイ、それと末っ子のアレクセイ。5人の兄弟は声を上げて泣き出した。
「泣くんじゃありません、子どもたち!」母親が言う。「死ぬべき時がやって来たのです。時を逸してはなりません。さあ、遺産を受け取りなさい。わたしはただひと目……おまえたちが〔遺産を〕分けるところを見ておきたい」
子どもたちは感謝の言葉を述べ、お辞儀をし、今にも死にそうな母にキスをして部屋から出ると、財産の分配に取りかかった。
パラモンの仕事は大工、フィリモンは靴屋、エフセイは皮なめし工、エリセイは〔金具の〕仕上げ工、アレクセイは……
パラモンは言う―「おれは大工がいやだ」、フィリモンも「おれは靴屋なんて嫌いだ」、エフセイも「皮なめしなんて……」、エリセイも仕上げ工の仕事が好きでなく、アレクセイも自分の仕事(指物師)を嫌っている。
兄弟たちは言い合いを始め、とうとう取っ組み合いの喧嘩になったが、母親のことは、もうとっくに死んだ人のように、すっかり忘れてしまった。
言い合いはいつまでも止まず、しまいには自分たちの名前(洗礼名)にまで行ってしまう。
パラモンが言う―「おれはパラモンなんて呼ばれたくねぇ、カシヤーンがいい。これは高貴な名でそんじょそこらにある名じゃねえし、しかもやって来るの4年に一度しだけ」
フィリモンが言う―「カシヤーンになりたいのはこのおれだ!」。エフセイも同じことを言う。5人そろって自分こそカシヤーンだ、カシヤーンと呼ばれたいと喚き始める。
話が洗礼名にまで行ったとき、母親は床から起き出して、言った――
「もうよしなさい、子どもたち、これじゃわたしはまだ死ねないよ」
1月30日
チャン(чан)*。今はすべてが明らかになった――人間の個〔личность、人格また個性〕のためにボリシェヴィキに対抗することはできない、と。チャンは沸き立っているし、最後までたぎり続けるだろう。でき得る最大のことは、そのチャンのふちに近づいて考えること――「もし自分がこのチャンに飛び込めばどうなるか?」
*チャン、フルィスト、フルィストーフストヴォについては(十五)(十六)(十七)の日記と注を。
ブローク――彼にとってこの常態〔チャンのふちに立つこと〕は革命のずっと前から始まっていた。
〔しかし〕チャンに飛び込むというのはまったく別の話だ。
いま自分は考えている(書かれたもの*を理解したかぎりにおいてだが)――ブロークは飛び込む準備をしているのか、それとももう飛び込んでしまったのか。
*ブロークの記事『インテリゲンツィヤと革命』(「労働旗」紙・1918年1月19日付)のこと。それに対するプリーシヴィンの反論(「〈見世物小屋〉のボリシェヴィク」(アレクサンドル・ブロークへの返信)は、18年2月16日付の「ヴォーリャ・ストラヌィ」紙に掲載された。ブロークとプリーシヴィンの論争については、次回(百十二)に特別の注を設けて詳述する。
フルィストの烈しい自然力(スチヒーヤ)であるチャンに詩人たちの中の求神主義者(ボゴイスカーチェリ)が接近し、そこへぐいぐい引っぱられていった時代があった。
あるとき、わが国インテリゲンツィヤの求神主義〔また(創神)主義=第一次ロシア革命(1905-07)の失敗ののち、新たな革命的機運の中でキリスト教の再生をめざした哲学思想家たちの立場。ベルジャーエフ、メレシコーフスキイ、経済学者でありながら神秘主義哲学に転じたセルゲイ・ブルガーコフなど〕の10年間、われわれはフルィストーフストヴォから分かれた「世紀の初め」というセクトに並々ならぬ関心を寄せたのだった*。
*「世紀に初め」は、1909年3月にレフコブィトフがペテルブルグに創設したセクト。フルィスト・オープシチナの指導者だったアレクセイ・シチェチーニンを引きずり下ろしてつくった。
よく憶えているが、あるとき、チャンのひとりがわれわれに向かって、こんなことを言った――
「わしらの生は沸騰するチャンだ。わしらはこのチャンの中で煮えている。わしらには個々別々ということ〔個として切り離されたもの〕がないし、誰がどんなルバシカを持っているか、わしらは知らない。きょうはわしのだが、あすは誰かのものになる。さあ、わしらのチャンへ飛び込んで、わしらと一緒に死になさい。わしらはあんたがたをみな甦らせる。あんたがたは復活して人びとの指導者となるんだよ」
それに誰かが反論した――
「いったいどう飛び込むんです? 飛び込んだら、わたしの個はどうなるのでしょう?」
そのセクトと親しくしていた自分は、創造的で活力に満ちたインテリたちを彼らの言うチャンのふちまで連れていった。そして何度か今と同じ反論を耳にした――
「それで、個はどうなってしまうのですか?」
応答はなかった。個が融けてぐつぐ煮えた塊り(マス)と化し、〈(ここ一字抹消)になった、すなわちヨーロッパ人の我(ヤー)が我々(ムィ)となり、東方のものも我々(ムィ)となったチャンからは、いかなる応答もあり得なかった。
無人格なもの(безличное)、言葉を発しないものに姿を変える必要があるのだ。あとで一気に全員が無人格で口の利けない(聖なる家畜として)起つためには変身しなくてはならないのだ。
このセクトの当時のキリスト=王は、セクトの有名な煽動者にしてペテン師、酔漢、とんでもない放蕩者だった*。チャンにいたセクトの誰もが自分を彼の奴隷と称し、彼らのキリスト=王が煽動者でペテン師で放蕩者で酔っ払いであることをよく知っていた。彼らはわかっていたのだ――酔っ払ったキリスト=王がおのれの肉欲を満たすために電話で彼らの女房たちを呼び出していたことを。
*アレクセイ・シチェチーニンのこと。フルィストィ(あるいはフリストヴェールィ)は、聖霊と直接交わること、また彼らのいわゆる義人のセクタント=〈キリスト〉と〈聖母〉が神の化身であること、を信じている。
して彼らにとってもその重荷は甘美なものだった。なぜなら自ら生贄となりトコトン苦しみ悶えることを願っていたからである。
そんなふうにしてわがロシアの民衆はみなその生贄をうっとりとささげ奉って、自分たちの王がいかなる人間かを問うことはなかった。大事なのは王の資質ではなく生贄の生贄たる甘美な陶酔にこそあった。
わたしは幸福な観察者だった。わたしの目の前でセクト「世紀の初め」のキリスト=王は自分の奴隷たちによって斃された。ある日(それは日曜日のこと)、彼らは贖罪が為されなかったと感じた、そして新生のために甦って、王のもとにやって来ると、王を追い出した*。
*シチェチーニンのセクトは〈チェムレーク〉と呼ばれていた。その名の由来はシチェチーニンが説教を始めたスタヴローポリ県のチェムレーク川である。
わたしの話はただのおとぎ話ではない。ニコラエーフスキイ鉄道のファルフォーロヴイ・ザヴォード駅近くのある持ち家は今なお完全なコムーナで、共同保育所と食堂を備えている。そこでは以前から厳しい規律の下に共同生活が営まれており、彼らは全員、かつて自分たちのキリスト=王であったアレクセイ規制・シチェチーニンの、今は自由になった奴隷たちである。
ときに世界は一滴の水にもその全姿を映す。フルィストのではなく本物〔ロシア全体〕のツァーリ〔ロマーノフの皇帝〕が打ち倒されたとき、ロシアの民衆は十分それに堪えながら、ああこれはアカシアの莢(さや)が夏に割れて冬に種が落ちるように、わがツァーリも落ちたのだ――そう思おうとしたが、シチェチーニンもそのセクトに運命の夏が到来すると、やはり種が落ちるように地に堕ちたのだった。
しかし、わたしは判断を誤ったようだ。民衆はトコトンまで苦しんではおらず、専制者が倒される最後の時もまだ到来していない――まだチャンはたぎっている。
分裂――さまざまな王国へ。〔王への〕服従。さんざん自分の奴隷を苦しめた多くの小さな王たち。王にはそれぞれ生贄がいた。クリューエフ*――アンドレイ・ベールィ。
*ニコライ・アレクセーエヴィチ・クリューエフ(1887-1937)は詩人。古儀式派の家庭に生まれた。ロシア中を遍歴し、分離派セクトの運動に参加。シンボリストたちと交わり、詩におけるいわゆる〈新農民派〉の流れ(エセーニンも属した)の中心人物である。『松の連鐘』、『うたことば』、『百姓小屋と原っぱ』など。粛清(ラーゲリで死亡)されたが、のちに名誉回復。ちなみに、プリーシヴィンの2度目の妻でこの日記の最初の編者であるワレーリヤ・ドミートリエヴナはクリューエフをよく知っていた。クリューエフとベールィの出会いは文集『スキタイ人』(編者イワノフ=ラズームニク)編集の折のこと。この出会いはベールィにとって幾つかの理論的イデア出現への刺激となった。ベールィは論文『王の権標とアーロン(詩の言葉について)』(1917)で、言葉と思想が詩的言語という形で一つになることの必要性を強調している。
むしろ今は、あの時代に――そう、ブロークが『わたしはあなたたちとどう接したらいいのだろう?』と言いながら、沸騰するチャンの方に近づいていったあの求神主義の時代によく似ている。
ブロークの問いに対し、返ってきたのは――
『さあ、チャンに飛び込みなさい!』のこのひと声。
そんな小さなチャンには飛び込まずに、彼はたぶん今もまだ大きなチャンのふちに立っているのだ。
そりゃあもちろん、飛び込みやしない(われわれはそう思っている)。
大きなチャンはヨーロッパ人に向かって、挑むように――
『おのれの個なぞ忘れて、われらロシアのチャンに飛び込め、参ったと言え!』
ヨーロッパ人〔ロシアの知識人〕はおのれを忘れはしないし、飛び込みもしない。なんとなれば、彼の我(ヤー)は本当のキリストから離れ、われらの我(ヤー)はラスプーチンから離れていこうとしているから、われわれには今、狂気のチャンで沸き立つ自分の聖なる我々(ムィ)があるからだ。だが、われわれには我(ヤー)はない。それは新生の中であらゆるものが一つに結合するとき、ヨーロッパからやって来るのだ。
こんな時代には数々のオカルト的神秘(秘儀)と触れ合う神智学者であることはいいことだ。それら秘儀のためのシンテス(アンドレイ・ベールィ)*。
*神智学はロシアの神秘家エレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァーツカヤ(マダム・ブラヴァーツキイ)(1831-1891)の宗教的神秘主義の教義。人間にはもともと神秘的霊智があるので、それによって直に神を見るのだと説く。接神術。有能な霊媒として名を挙げ、秘教遍歴の末、1875年にH.S.オルコットとともにニューヨークで神智学協会を立ち上げ、旺盛な宣伝活動を行なった。主著『ベールを脱いだイシス』、『シークレット・ドクトリン』。その壮大な教説は現代オカルティズムにいまだに大きな影響力をふるい続けている。ロシア帝国主義の立役者セルゲイ・ヴィッテはその親族。アンドレイ・ベールィはドイツの哲学者ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の神智学(超感覚的な力によってのみ把握される超物質的実在の存在を説き、〈直感の世界観〉を主張した)に多くを学んでいる。
肩章に十字架を付けた人間が至るところに現われて、言う――
「同志たちよ、個人的利害を忘れよう!」
今プロレタリアートは踊っている――いつも銃後の町で軍人たちが飲んで陽気に踊っているように。
2月18日〔この月14日よりグレゴリー暦(西暦)を導入。以後、日付は西暦〕
ѣ(ヤッチ)という字母*1が幼い自分に及ぼした作用は、母が祈りに行っていた教会の恐ろしげな黒いイコン*2と同じものだった。
6年生になってようやくそのイコンが木の板であることがわかって、すぐさますべてを――キリストも聖職者も、はねつけた*2。
*1ヤッチは旧正書法で用いられた字母(ѣ)の名称。もともと独自の音を示したが、のちにе〔イェ〕と同じ音になったために、革命前の学童は両者の書き分けに悩まされた。
*2幼子の記憶にある、黒く煤けて顔の輪郭もはっきりしない聖者のイコン(黒い板)は「ただもうおっかないもの」で、「いつでもじっとこっちを睨みつけていた」。プリーシヴィンが「黒い板」を持ち出すのは、宗教的伝統の危機や人と神の関係の破綻について語るときだ(『巡礼ロシア』その他)。
もしもっとずっと小さいころにѣが廃止されていたら、おそらく自分はロシア語の正書法*をすべて拒否していたにちがいない。自分がうまいことやらずに済んだことに少年〔息子のリョーヴァ〕が捕まってしまった。息子には3年も正書法を教えたが、なかなかうまくならなかった。息子は視力が弱く、書いているとだんだん頭が下がってくる。下がってくると鼻の方に血が降りてきて、ぼおっとしてくる。でも父親は、短い期間だったが、なんとか正しい書き方を習得させようと努力した。去年の秋、息子は地方の中学校(ギムナージヤ)に入学し、こちらは村をあとにした。書いてよこす手紙を見ると、彼がすべてを退けたこと、ѣへの尊敬の念とともにあらゆる文字と句読点への敬愛の念も脱落してしまったことがわかった*。
*十月革命までにロシア語の正書法の改革は2度あった(1912年と1917年)。1918年10月10日の人民委員会議(ソヴナルコーム)の布告によって新正書法が導入された。
わたしは冗談で言ってやった――『おまえの手紙を読むと、おまえは完全にロシア語の正書法を破壊しようと思っているのがわかるよ。いま学校で誰に教わっているのか、どういう学校で、何党に属しているのか、書いてよこしなさい*』
それに対して息子が返事をよこした――『僕のパパへ。僕は何も破壊したくない。素行は5〔合格〕です。あれ〔正書法〕は勝手に毀れたのです。所属している党は普通の、パパと同じ、専門の革命家(エスエル)の党です』。
きのう、貴重なドイツの雑誌を手にして驚いた。現在も10年前と完全に同じ体裁、おなじやり方で出されていて、しかも値段も元のままだ! ということは、ドイツ人たちにとって戦争も飢えも表面的なもので、中身は変わらずそのまま保持されているのだ。彼らの子どもたちは勉強し、作家やジャーナリストや学者や教育家は倦まず弛まず働いているということである。ѣがこうなって〔ボリシェヴィキによるѣの廃止〕しまえば、当然、結果は……われ国では誰も何もしない――ブルジョアジーは通りをきれいに掃除し、学生は新聞を売り、農民は寝転がり、労働者の一部は前線に一部は銃後にいる。つまり実際のところ、われわれは世界の完全空疎なつまらぬ場所にいるのである。そして伝導ベルトのないはずみ車のごときわれわれは、息子が正しく書いてきたように、今やまことに政治的キメラ、本物の専門の革命家なのである。
2月19日
ネーフスキイ大通りの電車内。例によって坐っている者たちはしんねりむっつり不機嫌そうに黙りこくっているし、立っている者たちは、〔混んでいるので〕なんとかして坐ろうとあたりに目を走らせている。と不意に、舌がほぐれたように誰かが喋りだした。みなが一斉に議論し始める。窓の外を見ると、通りのあちこちに人が集まって、互いに言い合っている。これはつまり、きょうは何かが転換する日、歴史的な日だということではないか。新聞はどうにもならない、消えたっていっこうに構わない。どうして人の話に耳を傾けないのか。
きょう聞いたのは、もうすぐドイツがやって来る*、たぶん2週間もすれば――そんな話ばかり。
「何を言ってんだ? 最後の日にはダンスをしたいって? 3日もぶっ続けでか?」
「そうだよ、3日間ぶっ続けでな!」
〈最後の日々〉というのはドイツ兵がやって来るまでのあいだということである。
だが、別の場所では――
「逃げる仕度はできたんだが、奴らはどんどん近づいてくる。だから逃げてもしょうがない、ここで待つことに決めたんだ」
ポーピク〔未詳〕は何も隠さず、喜んで自分のほうから喋ってしまう――
「なに、春が来るまでには終わるのさ」
すると、すぐに言い返される――
「もちろんそうなってもらわなくちゃ。下手すりゃ畑に種が蒔けなくなる。いま種を選り分けてる最中だからな」
おずおずと少し気弱な反論が入る。
「どうだろう、ドイツの奴ら、種まで取り上げるだろうか?」
返ってくるのは自信たっぷりな答えだ。
「そりゃ奪えるものなら何でも奪うだろう。でも大丈夫、わしらは自分で稼いでやってくさ」
*連合国側の無視のうちに1917年12月9日からブレスト=リトーフスクで始まったソヴェート政府(全権代表トロツキイ)とドイツの講和交渉は、ドイツ側が無併合・無賠償の講和という原則を認めないことを明らかにするに及んで、行き詰まった。18年1月8日、首都の党幹部会議では革命戦争論が多数を占めたが、11日の中央委員会ではトロツキイの立場(交渉の引き延ばし)が勝利した。あくまで強気のドイツは2月18日から攻勢に出る。21日にはミンスク、24日にはプスコーフが陥落し、ドイツ軍はペトログラードへ軍を進めた。19日夜の中央委員会でトロツキイが意見を変えたため、講和即時締結が決定、3月3日に講和条約に調印した。その見返りにボリシェヴィキ政権は、ポーランド、ウクライナ、リトアニア、フィンランド、バルト諸県を放棄して、第一次大戦から撤退した。
思わず口に出る狂気の怒り。湿った地下室の戸が開いたという感じ。
いかにも共和国ソヴェートの日々といった空気である。見てろ、今に何か起こるぞ。が、その〈何か〉が誰にもわからない。それは戦争と革命の時代にしか起こり得ないもの。秩序の名において地下室から起きて出てくる〔得体の知れぬもの〕……ヤッチなる文字のために。
2月20日
革命年の総計――何を考え、何を口にし、何を書いたか? 誰と会い、誰を愛し、誰に憎しみを抱いたか? ロシアの不幸不運、誰にいちばん罪があるのか?
動乱(スムータ)が起きたころ、まず頭に閃いたのは、ロシアを粘土の脚をした巨人(ギガント)と理解していたビスマルクのこと。脚を叩けば、ぶっ倒れてばらばらになる。どういうことか? ウィルヘルムのメガ弾ははたしてギガントに命中したのだろうか、あるいはこれは本物の革命か?
去年の3月に書いた最初のものは、王を要求するサムエル*の民の言い伝え(その再話)だった。民は(サムエルが言うように)預言者たち〔旧約では主〕に支配されることを望んでいない、彼らは王を欲しているのだ。
*旧約聖書サムエル記上(第8章1~22節)。「主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。……今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい』」。
……では、誰が悪いのか、責任を取るべきは誰なのか? そうわたしは訊いた。みなが答える――
「ユダヤ人だ」
ベルンシタイン*から始めて次々とユダヤ人の名が挙がる。
*エドゥアルト・ベルンシタイン(1850-1932)はドイツの社会民主主義者。
われわれの最大の不幸は何であるのか?
もちろん人びとが聖なるものと崇めるものを辱しめることである。〔弾丸で〕ウスペーンスキイ寺院に穴があいても*、それは大した問題じゃない。まずいのは、ウスペーンスキイに砲身を向けるその精神その神経だ。一度それをやってしまうと、〔人間の〕個の抹殺など平気になってしまうからである。
*1917年10月、クレムリン内での戦闘でウスペーンスキイ寺院中央円屋根の南側の壁に穴があいたことは、当時の新聞も報じている。
じゃ、いったい誰が悪いのか?
悪いのはユダヤ人だ!
ユダヤ人たちが照準を移したため砲弾が正教寺院に当たったのだと言う。
それは嘘だ。ユダヤ人はけっして聖物を辱しめない。なぜなら彼らは文化的な人間だから。聖物を辱しめることができるのは野蛮人しかいない。いいや正教徒であるわれわれロシア人にこそ……要するに罪があるのはわれわれ自身なのだ。
わたしは文化を、わが国ばかりではなく人間すべての結びつき(関係)と理解している。ユダヤ人がどんな悪を為しても、それにそれほどの力はない。なぜなら彼らは世界全体と繋がっているから。われわれものを書く人間はよくよくそれを承知している。わたしが本か絵をかけば、まずいちばんにその価値がわかるのは誰だろう? ユダヤ人! 自分の儲けでわたしの本を出版し絵を買い取ってくれるのは、いずれにせよユダヤ人なのだ。ユダヤ人は人と人とを結びつけ文化事業に手を貸している。
いいや、ユダヤ人ではない。悪いのはわれわれだ。われわれ一人ひとりに、つまりわれわれ自身に責任があるのだ。
そもそも外敵たるドイツ人を非難することから始まったのである。そのあとそのドイツ人は内なる敵となって、矛先はツァーリに向けられ、ついでボリシェヴィキに、ユダヤ人に向けられた。そして最後にそれが自分自身に向けられて戦争は終わるだろう。悪いのは我(ヤー)なのだ。
で、わたしは必ずそうなることを知っている。
いちばん恐ろしいのは単独講和――これもデマゴギーだ。この自殺行為もソヴェート権力を支えるすべてのものと同様に人気がある。
シベリア人=地方分離主義協会は3月から若者向けの雑誌を発行する予定。
この雑誌の課題は、自由の国としてのシベリアを若者に知ってもらい、雄大な自然と相俟って自らの士気をも高揚させること、そしてそれぞれの民族共同体内に鎖された自由(ヴォーリノスチ)を守備する〔その歩哨に立つ〕こと、にある。
「シベリアの守備」誌*は3月から毎月発行。雑誌の課題に関心を持つさまざまな作家や詩人の手を借りて、М.М.プリーシヴィン〔自分〕が編集を担当する。
2月22日
因循姑息の精神。きのう兵士が乳母車に赤ん坊を乗せていた――まあ、取り立てて言うことでもないが。しかし、見ていると、誰かが――
「おめえ、なんだって乳母車を引いてんだよ、このブルジュイ野郎!」
「ちがう」と兵士は言う。「おれはブルジュイじゃない!」
「じゃ何なんだ、おめえは?」
「ブルジュイなんかじゃない!」
そう言って泣きだした。
喫茶店で。ひとりの男が鉛筆でドイツ軍の攻撃予想図を描いている。
「奴らはこっちへ向かってんだ!」
確かにそのとおり。一昼夜で250露里踏破だって? どうしてそんな距離を? もちろん乗り物でやって来るのだ。
「軍楽隊まで引き連れてな!」誰かが叫ぶように言う。
もちろんデマカセである。ドイツ兵なんかいなかったし、いるはずもない。誰かがいい加減なことくを言ったのだ。
通りでオーストリア軍の将校が言った――
「あと2週間もすれば」
そう言ってから、ロシア人たちの方を見て――
「あなたたちは喜んでいる場合か?」
今朝、С-Вが駆け込んできた。貴族の姓を持つ将校で、とても品がいい。
「今からコミサリアート*に指導員の登録をしに行くのですが、ドイツ人たちにどう対応すればいいのでしょう? わたしは敗北主義者ではないのです」
苛立っている。病人のようだ。
「ほっときなさい」と、わたし。「あなたは家屋敷を召し上げられた。いずれ自宅の家賃も払わされるでしょう。肩章も地位も勲章も取り上げて、それでもまだ足りないんだろうか?」
彼は動揺が隠せない。
「どうやって生活していけばいいのか?」
「鼠になることです」と、わたし。「鼠のように生きていくんです。本当ですよ、今ここには見かけ倒しのまがいものしかない。誰も祖国を守ろうとしません。国はとっくに滅びてしまったのです」
まったく。いい大人に説いてやろうとしたのだ。彼は帰ってしまった。たぶん部屋で鼠のようにじっとしていることだろう。
2時間ほどして彼と会った。こんなことを言った――
「わたしは堪えられませんでした。コミサリアートに行ったのですが、大変な行列でした。事務所は空っぽで、片付けられています。『忙しいから、あとにしてくれ。別のもっと便利なとこへ引っ越すんだよ』そう言われました。あなたがおっしゃったのは正しかった。わたしは鼠のように生きていくつもりです」
*ソヴェート権力下のコミサール機関。委員部また司令部。人民委員部と軍事委員部があった(1917~46)。帝政ロシアのこの軍人は目下、ソヴェートの指導員の仕事を得ようと必死である。
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