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プリーシヴィンの日記 太田正一
2012 . 05 . 20 up
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1月14日
停止状態。たぶん、もうすぐ出されるにちがいない。頭は外の世界でいっぱいだ。娑婆こそ本物の拘束と飢餓の世界なのに。あらゆることを想定しておく必要がある――ここに留まるか、みんなのところへ帰るか。
1月15日
コミサールがやって来た。
「何か申請することはないか?」
みながコミサールに詰め寄る。
「こっちは訊問も審理もなく、ただ入れられているんだ?」
「それだけかね!」と、コミサール。「金を払って出ることを誰も勧めなかったのかね?」
「いや、そういうことは言われてない」
コミサールは行ってしまう。
神智学者が〈化身〉について話し、ミハイル・イワーノヴィチが質問する。
「それで、その〈化身〉をどう立証してみせるのかね?」
〈あ、それは自分もわかりません、わたしなんかまだほんの駆け出しですから」
生贄がその快感(сладость)を失ったのは、裁判が行なわれないからである。
裁きと正義のイデア。社会性を創出したのはこの二つのイデアのみ。
いま獄中にあるのは、〔それでも〕やっぱり自由になりたいという思い、そればかり。
毎日同じ生活が続いて、時間はリズムと節度を失くした。
電灯がつくのを今か今かと待ちながら、こうして壁椅子の一方にじっと坐っているのは、おのが生に思いを致し、闇の中に自分の星を見つけたいと思うからだ。明かりがついたら、闇の底に沈んでしまった生のカオスを見究めようと思うからだ。
司法機関に勤めている役人が寄ってきて、わたしに訊く――
「あなたは狩猟をやられますね?」
そう言って自分の犬の話を始めた。なんでも、嗅覚のすぐれた犬を飼っていたらしい。しかし犬を森に連れていったら、何もせずすぐに家に戻ってしまった――こういうのはどうですか、矯正できますか?
「そんな犬を飼っていたと言われましたね。ということは今はいないのでしょう? ならどうしてまた、それを知りたいと思うのです?」
「わたしはこういう問題に興味があるんですよ、原則的に」
役人は諦めない、こちらはがっくりきているのだが、そこはしかし慇懃に丁寧に、笑いながら答えてやる*。
*猟人でもあるプリーシヴィンの真骨頂は『ロシアの自然誌』の「夏」。夏は禁猟期なので、もっぱら猟犬の訓練に当てられる。「ヴェールヌイ」、「ヤーリク」、「ケート」は彼の愛すべき犬たちの名。いずれもエッセイの傑作である。
突然、明かりがついた! みなが叫び、喚く。嬉しくて我を忘れる。沈黙の時の到来。だがそこへБ(ベー)が新聞を持ってやって来た。声に出して読む。議論が始まる。ラーダ*が倒れるの報。来るべき単独講和。連合国への戦争。
1月16日
朝。明かりが消えた。真っ暗闇の中で急にミーチングが燃え上がる。根本的なミス――フランスがロシアの轍を踏み始めた、と。露仏を比較検討する。
明かりがついても、みな黙々と何かをしている。額が強いのは誰か*――狭い党内で土地問題ばかり議論しているエスエル。
*諺に言う「額で壁は破れない」とは、権力に抵抗するのは無駄なことの意。
闘争はインテリゲンツィヤとナロードの間で進行している。
自分のために話をするП(ペー)は、そうしながらも相手を理解したいと思っている。しかし彼にはけっしてロシア人がわからない。
誰に罪があるか――指導者たちか大衆か、イデアとマテリアという議論。役人たちは指導者と対立し、インテリは大衆(大衆は教育がない、彼らには祖国も名誉もないと思っている)と対立する。
政治家と刑事犯のあいだにも中間層――投機家〔闇屋〕たち。
われわれの房に投機家たちがやって来た(ニコライ式の兵隊外套、ひねり上げた口髭。生気あり、機知縦横)。
ソロモンたち、神智学者、エスエル(労働者)、三等文官が大会(スリョート)(ミーチング)を開催。
大会中にニコライ・ニコラーエヴィチ・イワーンチェンコがそっと小声で提案した――
「テーブルを石鹸を使って洗いましょうよ!?」
「忘れんことだ」と将軍。「勝利のあとボリシェヴィキを遊ばせておく手はないよ」
神智学者が言う――
「金星の指導者たちがインド洋の未知の島々に着きました」
神智学の照明が当てられて明らかになったのは、人びとを土地の分割へ誘(いざな)うエスエルの過ちである。
土地は分割の対象であり同盟(手を繋ぐ)の対象だ。
予審判事が将軍に言った――『あなたが何をしたか、わたしは知らない。教えてほしいのは、あなた自身の罪の意識、何に罪ありと感じているかということです』。まあそんなふうに背後に絞首台も見えるような慇懃さで訊くわけだが、何と言っても恐ろしいのは、自分自身を誰にも説明できないことだった。ものごとを理解するために必要な装置、教育ある人たちが有するはずのデリケートな装置がすべて停止してしまったのだ。
1月17日
自分にまったく関係ない、左右からの政治論議の下で生きていくことに次第に慣れてくる。部屋でネズミが何かを齧っていたときも、そんな感じで生きかつ書いていたわけだが、今は貧しきソロモンたちが齧る骨の音を聞きながら生きている。
散歩しているとき〔われわれは〕、どこかで鋸を引くような音を聞きとがめて、顔を上げた。4階の樋(とい)のあたりで、男(刑事犯)鉄格子を切ろうとしていた。兵士たちもそれに気づいて、銃口を向けた……
われわれは当然、刑事囚の味方である。なぜか? 男は殺人犯だが、われわれは彼の味方で、彼がうまく脱走できればいいと思っていた。電灯も同じで、明かりがついたら、それがいつまでもついていてくれればいいと思う。炎上するローマの町に見惚れているネロも同じだろう。燃え上がるロシアに釘づけになっている人間がおそらくいるはずだ。
それをいかにして立証するか?
「立証は個人的な経験で」と、神智学者。「わたしの妻には透視能力があるので、よく、起こる前に〈化現〉について話してくれました」
きのう、3人の主要人物――神智学者のアリベルト・ワシーリエヴィチ・イゼンベールク、大臣のニコライ・ニコラーエヴィチ・ポクローフスキイ、オブーホフ工場の労働者でエスエルのフィーゲリが釈放された。
房で珍事が持ち上がった。修道女のプロスクリャコーワの宛名が因(もと)で2つの房に鶏肉が届いたのだ。誰かが彼女の名宛に「毎日のカツレツ」と書いたためである*。
*食糧事情の非常に悪いこの時期にも女子修道院からの差し入れがあったと推測される。
神智学者を紹介する場合、「彼にとって監獄は存在しない」というふうに書く必要がある。
われわれは人質なのだ。もしレーニンが殺されたら、すぐにもわれわれは殺されるだろう。
ピョートル・アファナーシエヴィチ・ロフヴィーツキイが特別法廷へ。全員が彼と抱き合い、別れを告げた。
「あっちでもしっかり弁明してください。おお主よ、彼を救ってください! le roi est mort, vive le roil!(フランス語で「王は死せり、王様万歳!」)。
ロフヴィーツキイの後を継いだのはゲーンリフ・イワーノヴィチ・ゲイゼ。
網。
誰がどんなふうに釈放されるか――セールギエフ・ポサードの修道士は連日ポクローフスキイに大きな切抜きの聖餅*を運んできては農民たちを唆した(つまり説教だが)おかげで、農民たちの抗議が始まり、ついにポクローフスキイは無事出獄だ。
神智学者の保証人になったのは彼の下で働いていた者たちだし、エスエルの保証人は仲間の労働者たち、雑報記者たちの保証人は肉親縁者。中には屈辱を承知で命乞いをし、ありもしない自分の罪を告白した者もいたにちがいない……
ヒドラが餌にするのは大量の鶏肉(反革命家たち)*。自分はヒドラではないか? ヒドラはどこにいる?
*ヒドラ(ヒュドラ)はヘラスレスに退治された九頭の怪蛇。退治し難いものの意で、〈反革命のヒドラ〉などという言い方をする。
反革命のヒドラが網にかかって、アキ大尉が捕まった。でも彼は大尉などではなく、そのギリシア人ふうの苗字(カピタナキ)が災いしたのである。なんせ疑わしき者はすべて逮捕せよと命じられていたので。
網にかかっていちばん怖いのは、そのときヒトは魚になってしまい、逮捕する側も、相手の口から発せられる音が何を意味するのかさっぱりわからないことだ。逮捕する者たちにギリシア人の姓をどう説明したらいいのか――たとえば、わたしがその作品によって世間に認められている作家であって、革命や反革命のヒドラとは似ても似つかぬものだということを、どう説明したらいいのだろう。
房は釣舟――じっと坐って、ひたすら〔大きな〕獲物がかかるのを待つところ。
午後3時、廊下で声がする――『釈放だ、釈放だ!』。房の誰かが訊いている――『誰が釈放されるんだ?』――『プリーシヴィン、ミハイル・ミハーイロヴィチだよ!』――『しかし、ここの房には雌鶏しかいないがなぁ!』。そこでわたしが口を出す――『いやいや、自由と雌鶏を取り換えるわけにはいかんよ!』
1月18日
〔釈放後、〕自室で。あれこれ考える――今ロシアは誰に住みよいかとか、さまざまな人間その他もろもろを考え合わせて――いいや、やっぱりどこも住みにくい。監獄に入れられて、つくづくどこも住みにくい(碌でもない)と思っていたが、出されてすぐにわかったのは、あそこはよかった、今ロシアでいちばん住みよいのは監獄だ――ジャーナリストや役人、労働者、つまり反革命家や怠業者(サボタージニキ)がぶち込まれている監獄こそ最高だということだった。
1月20日
1月2日に逮捕され17日に釈放*。釈放後のまる3日間、たっぷりと自由を満喫した。そしてようやく仕事に取りかかろうとしている。
*1月18日の「ノーヴァヤ・ジーズニ〕紙にプリーシヴィン釈放さるの記事――「対反革命・サボタージュ闘争委員会に、ここ数日、大きな混乱が生じている。1月2日に「ヴォーリャ・ナローダ」の編集所で作家のプリーシヴィンが逮捕された。彼の運命に関わったのは、С(エス)・ムスチスラーフスキイ氏。司法機関のコミサールであるシテインベルクによって釈放命令書に署名(身元引受人はムスチスラーフスキイ氏)されたものの、無数にあるコミッションはどこも、また代表委員本人もプリーシヴィンがどこに収監されたのか知らない有様。中継監獄で見つかるまでにまる10日。1月15日にシテインベルクが中継監獄を訪れて、所在を確認した。1月17日、ようやく自由の身となった」
2日後(1月20日)、プリーシヴィンはオーチェルク『アキ大尉』の中で、自身の釈放について述べている。
「だんだん釈放の法則がわかってきた。労働者の釈放には労働者たちからの、役人には役人たちからの、教師には教師たちからの、親族には親族のからの要請があったが、しかしわたしには首都に親戚縁者がおらず、作家たちは(わが国には作家の組織がなく)共同事業となるとまるで魚みたいに唖者である」
「捕獲者は疲れを知らない。魚を獲っては放し獲っては放しとそればかりだが、わたしは網に入ったままだった。だから死に物狂いでペンを執った。不幸なアキ大尉と運命を分かち合っているうちに、次第にわかってきた――アキ大尉は反革命のヒドラであったのだ。そして突然、わたしは釈放された」
「「ノーヴァヤ・ジーズニ」の記事(『プリーシヴィンの釈放』)で友人のムスチスラーフスキイが逮捕後の何日か奔走してくれたこと、シテインベルクがその10日後に中継監獄でわたしを見つけ解放してくれたことを知った。今はもちろんすべて信じていいのだろうが、しかしそれにしても奇妙なのは、忙しいはずの法務大臣がその貴重な時間をアキ大尉の捜査に費やしたことである。そんなことは、3つしかない監獄の責任者たちに電話したらたった3分で済むことなのに。何かおかしい。どうもこれには――アキ大尉とヒドラの物語には、あの伝説的なゴーゴリふうの「コペイキン大尉」〔ゴーゴリの『死せる魂』の中で語られる郵便局長のでたらめ話。主人公であるチーチコフこそあのナポレオン戦争で片手片足を失くした傷痍軍人のコペイキン大尉なのだ……〕の物語に転ずる何かがあるようだ」
逮捕。1918年1月2日、電車は走らず、迷っていた。「ヴォーリャ・ナローダ」の付録を出さなくてはならない。さあ編集部まで歩いていくか、それともやめにしようか。こんな時勢に何が文学付録だ! じっさいマロースは凄まじかった。でも迷っている暇はない。自分はかなりの早足でワシーリエフスキイ島から〔編集所のある〕バセーイナヤ通りまで走った。編集所には兵士たちがいた。2人の若い少尉補は、仲の悪い夫婦みたいに、誰を逮捕すべきかでもめていた。対反革命・サボタージュ闘争特別査問委員会の命令が『疑わしき者はすべて逮捕せよ』だったからである。憲法制定会議のメンバーであるグコーフスキイは自分を〈疑わしき者〉とは考えず、コミサールたちと激しくやり合っていた。自分については誰かが――『この人は作家だ、文学で功績があります』。するとコミサールのひとりが――『そんなことは10月25日以降、大して意味がないよ』。
わたしは鞄を返すよう要求した。抗議したおかげで鞄は戻ったが、封印をすると言われた。封蠟が見つからず、代わりに鞄の留金にステアリンを垂らされた。
「済まんね、同志!」
鞄を汚されて、わたしはカッとなった。
「わたしはきみたちの同志じゃないぞ! きみたちは奴隷だ、暴漢にすぎない。いいかね、わたしを殺したって、わたしはずっときみたちの主人なんだ」
それに対して兵士たちはこう応じた――
「それでわかったよ、おまえさんが本物のブルジュイだってことがね!」
結局、詩と短編小説が入った鞄は没収されてしまった。
車でゴローホワヤ通り2番地へ。そこはサンクト・ペテルブルグの直轄市庁舎で、われわれの護送にあたったのは、武装した3人の少年兵。部屋の壁には赤いファイルに入ったかなりの量の〈事件〉が置いてあった。帝国政府が遣り残した一件書類である。適当に引き抜いたファイルには、ある有名な編集者の手紙があったので読んでみた。こんな書き出し――『閣下、わたくしが閣下のもとに参ったとき、閣下はその寛大なお計らいによってわたくしに希望と励ましをお与えくださいました』。そして「談話(レーチ)」について小さなを密告を敢行したあとで、なんとこの編集者は罰金1000ルーブリの撤回を求めていた! これと比べると、今はすべてが簡略化されている! 編集員、記者、発送係、事務員(編集所の全スタッフ)が一網打尽にされて、護送するのは武装した3人の少年兵――それでおしまいだ。
3時間ほど坐らされたあと、われわれは一人ずつどこかへ連れられていった。わたしはおしまいのほうだった。狭い曲がりくねった廊下を歩かされ、ある角まで来たところで、役人がわたしを停め、ポケットを裏返すよう指示した。わたしの名を記し、それからさらに先へ進めと言った。扉が見えた。ああそこで訊問があり、それが済んだら無罪放免だなと勝手に想像した。だが、薄暗い部屋に足を踏み入れた瞬間、どっと大きな笑い声! わたしを笑っているのが不運の同僚たち不幸の仲間たちであるとはすぐにはわからなかった。数分後には――逮捕された人間の愚かしいほどの茫然自失、哀れなまでの途方の暮れ方を見て、わたしも一緒に笑っていた。これまでのセレモニーはすべて予定済みだったのである。そしてわれわれは〔これまでどおり〕別室でさらに1時間も時間もただ坐らされた。ついに我慢できなくなって、見張りの人間に、水とパンをくれと言った。番兵はどこかへ消えたが、しばらくして戻ってくると――
「今からおまえたちを監獄に護送する。水とパンはそっちで貰え」
数人のラトヴィア兵がトラックの暗い荷台で言い争っている。通行人に中継監獄はどこかと訊いている。それがなかなかわからない。誰かがラトヴィア兵に尋ねる――
「同志よ、教えてくれ。いったいわれわれの容疑は何なんだね?」
「そりゃあ自分がいちばんわかっているだろう」と同志たち。
そして正直にも、レーニン暗殺の計画があったので、おまえらを人質に取ったんだと喋ってくれた。
革命の本質をめぐる長い議論が終わったところで、兵士のひとりが自分の最終的かつ反論の余地なき結論を口にした。
「もし今もケーレンスキイの統治下なら、自分などはとっくに粉砕されて土の中だ。でも、どうだ、自分はぴんぴんして、これこのとおりおまえさんたちを護送してるんだ」
革命婆さんの話を持ち出したのは哲学者である。
「われわれは婆さんをその過去ゆえに尊敬していますが、〈生は進化なり〉で、すべて日進月歩。きょうはこうでもあすにはぜんぜん違ったものになります」
何度か中継監獄の所在を訊いて回ったあとで、ようやく衛門前にトラックは停まった。運転手が――
「着いたよ、さあ降りてくれ、同志たち!」
房の扉は頑丈な鉄格子で、その奥はまったくの獣の檻。檻の中を歩き回っているのは、怠業者と決めつけられた考古学者、音楽家、弁護士、農村小学校教諭、神智学者、それと昆虫学者である。そんな境遇にわれわれはみな流れ込み、混ざり合い、分かち合いして、ひとつになった。その空気たるや娑婆の暮らしとは似ても似つかない。外の人間は不自由な自由を味わって憲法制定会議(ウチレヂールカ)を信じないが、反対に、檻の中では『ボリシェヴィキは余命いくばくもない』などと噂している。
ありとあらゆる意見が飛び出す。音楽家は言う――
「二つの世界があります。一つは閉じ込められた世界、もう一つは動きある世界。音楽がわれわれに開放するのは動きある世界です。それはわれわれを超えています。ですから、われわれの生の意味というのは没頭没入、つまりその動きある世界に身を委ねることなのです」
農村小学校の視学官は言う――
「赤子の世話をする母親は自分の持てる最良のものをそれ〔子育て〕に捧げます。が、もう一つの世界では自分のことしか考えません。母親の世界は創造であるのに、巷は破壊そのもの。破壊そのものであるボリシェヴィキはまさに現世を生きておるわけです」
そのあとを受けて昆虫学者は語る――
「わたしは15年間、虫の生活を研究してきました。ひとつ例をあげましょう――キバチは捕らえたバッタの神経中枢に針を刺して動けないようにしてから、獲物の体に卵を産みつけ、孵化した幼虫の生餌にします」
昆虫学者はその譬えでもって、非理性的存在であるキバチの非常に賢い行動世界をわれわれに示そうとしたのだが、わがジャーナリストたちはそれをまた違ったふうに理解した。バッタ――それは間違いなく麻痺させられたジャーナリストであり、キバチはボリシェヴィキ。人質であるわれわれは、時至ればバッタみたいに駆逐されるのだ、と。
夜、神父がやって来て、一同を安堵させるようなことを宣った――
「あす、すべての扉が開け放たれますぞ」
房には知恵者のソロモンが12人。2紙の編集スタッフ全員――雑報記者、通信員、編集事務員、印刷工だ。わが社〔ヴォーリャ・ナローダ〕の編集者は、いつもなら社説を書いている時刻なのだが、ひょいとハンモックから飛び降りるや、早くも政治談義。そこへ他のソロモンたちが合流し、たちまち数時間にも及ぶ大論争に発展する。その物凄さは飢えた人間たちが同じ骨をガリガリ齧る一幅の絵といったところか。
ソロモンと喫煙者からわれわれを守っているのは、コムーナ〔獄舎〕の規約だ。夜の11時にハンモックが吊るされ、電灯がひとつ消え、もうひとつには覆いがかけられて、会話は止む。もちろんタバコも吸えなくなる。わたしの居場所は便桶の近くなので、なかなか寝つけない。眠れなくて苦しくなると、タバコを吸いに扉の鉄格子の近くへ移動。吸っていると、年配の看守が小声で話しかけてくる――『ロシアの国民は今、イスラエルの民のようだ。エジプトを脱しはしたが、無事パレスチナに着けるのはわしらの子孫だけだ。わしらはパレスチナを見ることができないんだ』
窓から見えるのは、焚火の赤い炎に照らされた番小屋の壁で、その向こうには府主教の庭と暗い木々。見張りの兵士が相棒に訊いている――『もうすぐ夜が明けるかな?』
朝6時。選ばれた班長(牢名主と呼んでいる)はまさに秩序の人。食糧省の役人で、完全な禿頭の持ち主だが、窓の近くで独り、ミューラー式の体操を始める。その体操にはさまざまなやり方と順序があるようで、とにかくそれをひと通り終えると、服を着て、囚人たちを起こしにかかる。
「さあ諸君、反革命家よ、サボタージュの人よ、起きたまえ!」
食糧省の独裁者が起き、国立銀行の会計官が起き、房の当番が起こされる。看守が運んできたパンを独裁者と当番が薄く切り分け、それをオープンサンドにし、同時に茶を沸かす。
ようやく夜が明ける。壁はまだ暗く、窓の外に焚火の赤い炎がほの見える。壁は暗くても、空は驚くほど明るい。コクマルガラスの大群が青みがかった空の彼方へ飛んでいく。素晴らしき鳥、愛すべき懐かしい鳥たち。
そのあまりの数の多さにはソロモンまでが歓声を上げる――
「おお、おお、略奪ガラスが飛び立ったぞ!」
ソロモンたちからはとても逃れられない。朝、新聞をソロモンのひとりが読み上げ、それを聞きながら、他のソロモンたちがさまざま解説を加える。読み終わると、当然のように論争だ。一斉に骨を(肉などかけらもついてない骨を)ガリガリ齧りだすのである。彼らは意見を述べ合うが、それは彼らが何でも調べなければ気が済まない人たちだからであるにすぎない。けっして理解はできないのだ。
1月23日
誕生日。1873~1918。45歳。
わたしが8歳のときのこと。母はどこかへ出かけて留守だった。台所から出てきた乳母がこう言った――『ツァーリが殺された! おお、今にきっと、斧を手にした百姓たちが主人を襲うことになるよ』。雇い人のパーヴェルが泊まりにやって来た。母が留守をするときは、雇い人の誰かが屋敷に寝泊りするのだ。パーヴェルは中でもいちばんおとなしい人間だったから、斧を手にした百姓たちの中に彼もいるというのは、とても想像できないことだった。
あのころ、そんな百姓たちがやって来ることはなかったが、今はそうでない。現に襲ってきているのだ。それにパーヴェルはまだ存命中で、今もずっとうちで働いている。自分の記憶にあるあの乳母の叫び――それが革命の始まりだったと、今にして思う*。
*アレクサンドル二世が人民の意志団に殺害された事件(1881)。乳母の名はエウドキーヤ・アンドリアーノワ。プリ-シヴィン家の子どもたちにおとぎ話を聞かせたり古い民謡を歌って聞かせたりしたことが「日記」にも記されている。ロシア文学にしばしば登場するタイプの〈ニャーニャ〉であったようだ。
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