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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 06 . 29 up
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ペテルブルグの春

 太陽――火の鳥、そしてそのあとすぐに北方の光と店頭に並ぶニースの花(ミモザ)の記述が続いて、いよいよ春の到来となる。鳥たちの渡り。街からケナガイタチが移動を始めた。都会と羨望――生活の充実。これができない。羨ましげに自動車を眺める。車に乗ってる連中は空っぽで、宮殿も河岸通りもただもう退屈。退屈でふさぎ込んでいるけれど、それでもやっぱり素晴らしいもの、本当に無くてはならぬものはある……(水族館)。都市と環境。沼沢地―オーフタ地区。やくざな林、キャベツ畑。住人はせむし女とその花婿。ヴェーロチカの母、ヒロイン、野ウサギ。

ペテルブルグ市外のオーフタと呼ばれる地域は、ボリシャーヤ(大)とマーラヤ(小)の二つの地区から成る。1906年にプリーシヴィンが移り住んだのは、比較的貧しい人たちの住むマーラヤ・オーフタ。ここで本格的に文学活動が開始された。両地区の当時の人口は約2万9500人。上記の断片は、失われた初期の短編(『霧の中の小屋』)の登場人物とその背景と思われる。初期作品の特徴をひとことで言えば〈ドストエーフスキイとの対話〉である。自分を含めたペテルブルグ界隈の『虐げられし人びと』を描こうとした。1909年から1911年にかけての日記に――「『地下生活者の手記』を読む。〈骨身にこたえる何か大きなもの〉。それは消えてもまたぞろ現われるが、でも、それが何なのか言うことができない。自分のテーマ(〈わたしは小さな人間だ〉)からすると、レストランのあのシーン〔『地下生活者の手記』の印象深いあのシーン!〕は、なんと自分に身近であることか?」。ついでに言えば、レーミゾフとの親交にも互いのドストエーフスキイ体験が大きく働いている。レーミゾフの述懐――「わたしはドストエーフスキイに魂の奥の奥底まで苦しめられた」。地下室の男はレーミゾフそのもの(?)だ。

 現代における最大悪、文化の最大の悪は、馬鹿と破廉恥が大手を振って歩いていること、そしてそういう手合いにかぎって自分を天才かなんぞのように思っている……いやまったく手がつけられない。以前はおとなしい羊で、ただもう神に祈るばかりだったのだが……賢い人間はそう簡単に祈りはしなかった。
 身分の高い人物の前で、自分が恥ずかしくて落ち着かなくなるのは、やはり本物の紳士ではない証拠。恰好だけ取り繕っているのだ。 
 《真の仕事》に呼び寄せられると、ヒトは目覚め始めた自分(個我)を抑えたいと思う。それで他人の赤ん坊を引き取って養育に一生を捧げようと思ったりする。為したいのは英雄的な献身、なのに、なぜかいつも何かに〈身をゆだねる〉ようなことになってしまう。滅私奉公。引き取るのではなく、身をゆだねてしまうのだ。
 それは、わが心の女性的な、さほどに女性的な側面が顔を覗かせる瞬間である。女性の手記を読んでも、たいして目新しいものには出食わさない。本来の男性的なものとはまったく別の、〈内なる女性)を感ずる瞬間……

 どんな運動でもそうだが、婦人運動は個人的かつ社会的な運動である……

 堕胎の不可罰に関して刑法学者たちが下した注目すべき大会決議。国家の現行原則を認めず、個人の絶対的自由とそれへのまったき信頼が認められる理想的な社会が存在するなら、決議には賛同できる。この観点に立てば、売春の今後の成り行きも慶賀すべきものとなるだろう。なんといっても、売春婦やヒモやであふれ返っているネーフスキイ大通りというのは、立派な建物の内に秘め隠された悪の鏡なのである。ブルジョア家庭の密かな悪徳、隠された不和があまりに多すぎて、それらが一斉に光を求めて大通りに這いずり出てきたのだ。どういうことか――誰もが今の自分の家庭を捨てても、つまりそれ以外の場所でも生活できるようになったために、悪徳を家庭や結婚によってカムフラージュする必要がなくなった、ということである。この観点に立てば、環境が悪化すればするほど良くなるし、堕胎の不可罰にも賛同できる。

 わたしは捨て子。わたしはレールモントフ(このテーマを発展させること)。「さあ、小枝よ、教えておくれ」

ミハイル・レールモントフの詩「パレスチナの枝」としか、わからない。

 社会主義者と国家主義者を溶接するのは可能だが、社会主義者と宗教家の改鋳は無理である。

 革命――それは夢想の恨みを晴らすこと。

 この自分の右手を、わたしは、筋肉、骨、それと何かよくわからないもの、名状し難いものによって感じている。でも、子どものころ、わたしはその右手で十字を切った。右方には天使たちがいたから、そっちに唾を吐いてはいけない、おしっこも駄目(三語判読不能)、右で天使が泣き、左で道化が踊っている。右に唾を吐いたら天使は泣きだし、道化は笑いだす。だからわたしはまだ、自分の右手が何であり左手が何であるか(一語判読不能)わかっているが、ドイツ語の学校に通っているリョーヴシカ[長男レフ]の右腕に赤いものが巻いてあるので、それは何だねと訊いたら――「包帯です」
 きのうやあすを自分は知っている、と思っている。本当だろうか? 確かに「きのう」は往ってしまった。でも、「あす」は最後の審判の日で、空が真っ赤に燃えだすかもしれないではないか。

 汚れなき美(ミロのヴィーナスのごとき無性の美)は、芸術家によって獲得される。

 春。日の出とともに目覚めさせるてくれるのはシャンパン色の朝の光だ。その光に酔い痴れ、気狂いじみた歓喜に浸って、わたしは苦しさから逃れようとする。そして急いで街へ飛び出す。さあ何でも手に入れてやる、何もかもひったくってやるぞと、ひたすら焦りまくるが、じつはこの焦りこそ曲者、自滅への道なのだ。やがて力尽き、へとへとになり、ただもう打ちひしがれて……。夜が青い。雪も青い、空も青い。いっこうに沈もうとせぬ青い光に愛撫された窓に目をやれば、すでに灯がともされていて、いまだ温もらぬ夜の、霧と湿気から守ってくれるのは、ほら、あの人家の明かりだけである。

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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