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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 05 . 06 up
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〔1918年、ペトログラード〕

1月1日

 新年をレーミゾフ家で迎えた。レーミゾフ夫妻と自分だけ。ほかには誰もいない。外は凄まじい寒さ(ストゥージャ)。

レーミゾフと知り合ったのは1907年のこと。詳しくは(十)と(十三)の編訳者のエッセイ(三)「レーミゾフとプリーシヴィン」を。ついでにレーミゾフが亡命の地フランスで書いた回想記の中でプリーシヴィンについて語っている個所を拾ってみる。「プリーシヴィンはどんな不幸不運のどん底にあっても、決してロシアを捨てませんでした。ロシア一の作家です。今こうしてロシアから悲しみと怒りを抱く人間に向かって発せられた声が聞こえてくるというのは、なんと不思議なことでしょう――『神の世界がある、花と星々の神の世界が……(中略)そしてさらにそこには素朴と子どもらしさと信頼が、そうなんだ、そこには〈人間〉が生きているのです」(『身上書』67-70頁)

 家族のこと、とくにリョーヴァ〔長男〕のことを思うと苦しくなってくる。便りがないので、何がどうなっているのか、わからない。ひょっとしたら、彼らはもうこの世にはいないのではないか――ついそんなことまで考えてしまう。知る手立てがない――郵便物はなし、電報も料金だけ取られて終わりだ。

プリーシヴィンの家族は当時、故郷のフルシチョーヴォ村にいた。1917年の4月9日から、作家は村の自分のフートルに住んで働いていたが、同時に国会の臨時政府の代表であり、またペテルブルグの新聞に、短編、ルポなどを書き送っていた。リョーヴァ〔レフの愛称〕は長男、1906年生まれ。

 革命の時代(エポーハ)だが、人びとはまだ食べものの心配はしていないし、どうでもいい話もそんなにしない。〔われわれは〕目下、奈落の上でぶらぶら揺れていて、ガチョウだの砂糖だのの話をする。宙ぶらりんだが、なんとか持ちこたえている。

 マリヤ・ミハーイロヴナが言った。「今夜は星空ですわ。惑星間の輻射によって、また多くの熱が奪われます。ですから、あすはマロース、かなりきつい寒さになると思いますよ」

〔ラズドーリスカヤは未詳。気象に詳しい若い女性監視員らしい。後述の獄中記に含まれるものだが、敢えて重複を避けない〕

 きのう、電車でひとりの若い奥さん(ダーマ)が仮面舞踏会の広告を見つけると、怒って言った――見ていたわたしはそれがとても気に入った。
 「こんな時にろくでなしどもは何を考えているんでしょう、舞踏会だなんて。暇なもんだこと!」
 皮肉な調子で新年の挨拶を交し合うが、新年に当たって何を望んものかわからない。ともかく〈新たなる幸せを願って!〉と言うしかないか。

 〔以下の記述は、このあと起こった思いがけない事件〔逮捕〕のあとで書かれたもの・訳者〕

   獄中記*1

 〔日付なし〕わたしの獄卒ならぬ獄の花嫁は、気象に詳しいお嬢さん〔マリヤ・ミハーイロヴナ〕。格子越しにわたしが『いま星は出てるかな?』と訊くと、『きょうはいっぱい出てますよ。全天見えますが、夜の間に多くの熱が奪われるでしょうから、あすは相当なマロースです』
 獄中にあるわが編集部の12人のソロモン*2は、いつも記事を書いている時刻にハンモックから飛び降りて、記事を書くかわりに互いに、権力の基盤(フンダーメント)についての政治会議を始めた。昆虫学者、音楽家、ビザンチンの聖画像(イコン)の収集家、さまざまな役人=怠業者(サボタージュ)(銀行や省庁の)たちがその話に首を突っ込む。

*1レーミゾフ家で新年を迎えたあとに続くもの。それはエスエル右派の新聞「ヴォーリャ・ナローダ」〔この紙名は1917年までで、1918年1月に「ヴォーリャ・ストラヌィ(国の意志)」と変更〕の編集室での出来事と逮捕、入獄についての記述。プリーシヴィンは18年1月5日からこの新聞の文芸欄を担当する編集者になったばかり。その日、「ヴォーリャ・ストラヌィ〕の編集会議があった。以下は、1918年1月5日の「ヴォーリャ・ストラヌィ」紙編集部からの報道。「1月2日、〔紙に対し〕再び常軌を逸した圧力がかけられ、突然、編集室に赤衛隊がやって来た。隊を指揮していたのは、反革命とサボタージュを取締まる委員会〔正確には、反革命・サボタージュおよび投機取締非常委員会。1918年から22年まで存在したソヴェート政権の秘密警察。いわゆるチェカー〕のコミサール(ドルゥゴーフ)だ。捜査令状と容疑者の逮捕状を突きつけ、その場にいた市民を全員――責任編集者、憲法制定会議のメンバー(ア・ア・アルグノーフとペ・ア・ソローキン)、社の事務員、印刷工、雑報欄の統括者であるエス・デ・フリード、文芸欄の編集者である作家のミハイル・プリーシヴィン、それとその日たまたま編集室か事務所に立ち寄った人びとがひとり残らず拘束された。「容疑」の認められない従業員とまったくの部外者は別室に移されたが、「容疑」の認められた面々は尋問され調書を取られたのち、4~5人ずつ車でゴローホワヤ通り2丁目へ連行された」。また、そのときのプリーシヴィンについての証言も残っている――「〈容疑者〉の中に作家のエム・エム・プリーシヴィンがいました。『姓は?』と訊かれて、『作家のプリーシヴィンです』と答える。『えっ、なんて言った?』―『プリーシヴィンです、字が読めるなら、わたしの名前くらい知ってるでしょう』―『同志、あんたは「ヴォーリャ・ナローダ」に寄稿しているのか?』―『わたしはおたくたちの主人(スーダリ)であって同志(タワーリシチ)なんかじゃない。こんなひどい暴力を働く人間がわたしの同志であるわけがない』。興奮したエム・エム・プリ-シヴィンはしばらくコミサールや兵隊たちと言い合いになりました。なんとしても原稿の入った鞄を奪われたくなかったのです。鞄に入っていたのはレーミゾフやその他の作家の短編でした。コミサールが鞄を封印すると言いだします。ようやく落ち着きを取り戻したプリーシヴィンは――『ロシアに4年制の初等学校があったら、こんなひどい無作法は起こらなかったろうね。おたくたちは自分が何をしているのかわからないのです。読み書きできるようになったらわかるでしょう』。それでエム・エム・プリーシヴィンは連行されました。

*2一緒に逮捕された12人の人びとをプリーシヴィンは〈ソロモン〉と呼んでいる。たまたま何人もの知恵者〈ソロモン王〉が一堂に会したことからか?

 12人のソロモンたち――雑報記者、校正係、事務員、印刷工、それと編集室をたまたま訪れた人びと、新聞を買おうと立ち寄った人たちが、1月2日の午後3時にいきなり逮捕されてしまった。

 逮捕されたとき、編集部にいた3人の憲法制定会議員が言った――
 「われわれは憲法制定会議のメンバーだ」
 すると、わたしのことを誰かが――
 「この人は有名な作家だ!」
 それに答えてコミサールが――
 「そんなもの〔作家という特権的身分〕は25日〔1917年10月〕以来、認められていない」

 ゴローホワヤ通り2丁目に連れて行かれた。部屋の隅に銃を抱えた3人の少年〔兵〕を立たせ、それでこちらは、薄暗がりの壁椅子に互いに向き合ったまま、3時間ほど放って置かれた。それからひとりずつ訊問(と思われた)に呼び出される。べつに順番が決められているわけではないようだ。わたしは最後のほうだった。コートを引っかけ、護送兵に伴われて、長い廊下を歩く。廊下を曲がったあたりで、コミサールらしき男にとめられた。彼はわたしの名を書き込み、ポケットを裏返すようにと言った。何もないことを確かめると、先へ行くよう指示した。護衛のあとに続く。やがて最後の扉、裁きの場であった。驚いて、敷居の上で足が止まってしまった。目の前にいたのは、編集室の同僚たち――みんなこっちを見て笑っている。思わずこっちも笑う。わたしのあとから次の逮捕者が入ってきた。まるで目隠し鬼ごっこか、一方から一方へ繰り返し移される砂時計の砂のようである。

 腹が減って堪らないので、われわれの番をしている男に水とパンを要求した。
 「訊いてみる」そう言って番人はどこかへ消えた。戻ってくる――「これからあんたらを監獄に送る、そっちに行ったら、水とパンがもらえる」
 まもなく憲法制定会議のメンバーの2人が、ほかの者とは別に、ペトロパーヴロフスク要塞(監獄)へ、われわれ5人はトラックに乗せられて中継監獄へ。
 出発前、トラックの中で、われわれの護衛をするラトヴィア兵たちが、中継監獄のある場所をめぐって議論を始めた。そこがどこかもわからないのに、トラックは動きだす。あっちこっちで通行人に訊いてまわる――中継獄はどこかな?
 途中、われわれの仲間のひとりがラトヴィア兵たちと話をする、それも長々といつまでも。そのやりとりから、レーニン暗殺の企てがあり、われわれが現体制の転覆に関与していると疑われていることを知った。仲間とラトヴィア兵たちの長話の結びを彼らはこんなふうに表現した。
 「もしケーレンスキイが今も統制し続けていれば、おれたちはおそらく今ごろ地べたに転がっていただろう、でも奴はもういないし、同志よ、おれたちをこうしておまえたちを監獄に護送しようとしてるんだ!」
 「さあ、着いたぞ!」と、運転手。だが、ラトヴィア兵たちとの政治的会話は依然として続いていた。あと何分間か――牢だの、いま自分が置かれている立場だの、なにも頭になかった。門のところでは、婆さん〔ブレシコ=ブレコーフスカヤ〕のことで激論になった。
 「おれたちは――」と、彼らは言った。「昔のあの婆さんは尊敬してるんだ。しかし、生活は日進月歩、進化してる、きょう認めていることも、あしたはまた別のものになっているのさ」
 監獄の事務所で全員チェックを受け、房にぶち込まれた。中はインテリたちで満杯状態だ。拘留に退屈しまくっていたので、われわれ「ヴォーリャ・ナローダ」は大歓迎された。

 新年の2日、電車が走っていなかったので、わたしは迷っていた――「ヴォーリャ・ナローダ」の付録として文芸作品を載せるか、それともやめようか。いずれにせよ編集室には行かなくては! マロースは凄まじいもので、あれこれ考えている暇はなかった。とにかく駆けだした。時間は食ったが、なんとか到着。そこには銃を手にした兵隊がいた。2人の若いコミサールが誰を逮捕するかで(全員かこのうちの何人かで)激しく言い合っていた。彼らが受けた命令は、疑わしい者は残らずしょっぴけというものだった。
 「わたしは疑わしい人間じゃない!」熱くなって、憲法制定会議のメンバーのひとりが言う。
 わたしのことを誰かが言った――
 「この人は作家だよ!」
 すると、コミサールがそれに答えて――
 「25日以降、そんなことは認められていない」
 わたしは鞄を要求した。そこには詩人や作家の原稿がいっぱい詰まっている、それを渡すわけにはいかないんだと、わたしは言った。自分は憲法制定会議のメンバーでも、党員でもない、編集者でさえない。文学作品の詰まった鞄を守らずに、いったい何でわたしは自分の熱情(パーフォス)を表現したらいいんだね?」
 「駄目だ、渡さない!」
 結局、鞄はわたしの手元に置いていいということになったが、留金を封印すると言う。しかし封蠟がない。溶かした蠟を垂らしたので、鞄がえらく汚くなった。
 「同志!」と、蠟を垂らした兵士が何か言いした。わたしは遮る――
 「きみらの同志じゃないよ、わたしは。きみらは奴隷でわたしは主人だ」
 わたしとしてはこう言いたかったのである。自分に言わせれば、暴圧者(ナシーリニク)は奴隷であると。剣を手にする者は剣で亡びるのだ、と。
 「きみらは奴隷だが、わたしは主人だ!」
 それに対してコミサ-ルが答えた――
 「それでおまえさんが本物のブルジュイだってことがわかったよ!」
 鞄は取り上げられてしまった。
 そこには何かぞっとするものが――われわれは互いにわかり合えないという恐怖があった。

1月4日

 きょう食糧の独裁者〔房内での食糧管理・分配を仕切ったくらいの意味〕である国立銀行の会計官のピカールスキイが放免された。きょう、それで配給に少々支障が出た。学校関係の書類の引渡しに応じようとしないためにプスコーフ県の奥の方から連れてこられた村の学校教師――房内での彼のあだ名は〈教授(プロフェッサー)である。
 ボリシェヴィキたちが〈怠業者(サボタージュ)〉と名付けた、ペテルブルグの称号・官位を所持する7万人のインテリ組織、その最良の代表者たち。
 われわれの房の秩序(憲法)は大臣の同志であるボロダーエフによって採択され、今日まで保持されている。

 憲法制定会議での選挙を目撃した人の話。革命婆さんがこんなことを洩らしたと言う――
 「わたしは教会と神の味方ですが、死んだら犬ころみたいにマールスの原に埋められるでしょうね」

ペテルブルグで1917年3月23日に執り行われた、革命の犠牲者の葬儀のこと。社会的大事件。レーミゾフ『渦巻けるルーシ』、『バラ色の輝き』(1990・ソヴェルメンニク社刊)。

 用便桶(パラーシカ)の低い衝立の向こうにいる男が、衝立のそばで顔を洗っている男と話をしている。
 「わたしはいま41なんだが、まったくなあ、これじゃ学生時代と同じだよ」
 そばでお茶を飲んでいる憲法制定会議のメンバーのひとりがそれを聞いて――
 「わたしもそう思うよ。あのころとそっくり同じだ」
 「で、憶えてる、花のこと?」
 「それは学生時代のことじゃない。あれは国会解散の前夜にわれわれが逮捕されたときの話だよ。ああそうだ、やつらが国会に乱入したとき、チェルノーフはこう言ったんだ――『ここにいるのは国会議員である。国会は不可侵だ!』。でも、扉が閉められると、チェルノーフは窓から飛び降りたのさ」

 ウラヂーミル・ウラヂーミロヴィチ・ブーシは私講師で文献学者。ミハイル・イワーノヴィチ・ウスペーンスキイが訊いた――
 「どうですか? 慣れましたか?」
 「ええ、用心深くなりました」

 他人の思想。
 音楽家――閉じられた世界と動いている世界。音楽はわれわれの前に胎動する世界を開示する――より高い、高尚な世界を。
 「赤ん坊の世話をしながら、そこへ母親は自分の最良のものを捧げようとするのです」。そう言うのは区の農村小学校の視学官だ。
 昆虫学者も――
 「わたしは15年間、虫の生活を研究しています。たとえば、キバチ〔黄蜂〕はバッタやキリギリスに獲物に針を刺すと、それを生きたまま動けない状態にして置き、そこに卵を産みつけて、幼虫の餌にするのです。虫は意識していないが、そうするのです。つまり上からの指令を受けているのですね。世界というのはそのように上からの指示に従って動いているのではないでしょうか。そうした動きに逆らう力は内部から、すなわちエゴイズムから発するので破壊的なのです」

 編集室から監獄に移されたとき、われわれは囚人仲間たちの高揚した気分に迎えられた。彼らはボリシェヴィキの体制が崩壊しかけていると確信していたのだが、こちらは何も知らなかった……
 もたらされる情報。個々の重圧感から逃れんとして次第に盛り上がる房内の気分……
 赤十字社からわれわれのために運ばれてきた素晴らしいシチーとカツレツ(ひとり一個)。どんなに喜んだことか。そこで突然、牢名主(スターロスタ)が宣言した――カツレツがもう一個ずつ差し入れられた、と。嬉しさは頂点に達した。
 「もしそうなら、わたしはすぐに全部たいらげるぞ。そして娑婆に出たら、いやぁあそこはほんとに地獄だったと言ってやる!」 
 「でも、出られなかったら?」
 「そのときはそのときだ。ありがとうと礼を言って消えるさ」
 そのあともわれわれはしばらく話し込んだ――もともとロシアはありがとう(の礼)だけで生きているんだなどと。

 ほっとするニュース。あす(憲法制定会議の)すべての扉が開けられるだろう。が、選ばれた何人かの耳にはそっと囁かれた――事態は芳しくない、いずれ戦闘が始まるだろう。

 ウスペーンスキイは頭を抱えてしまった。ああ、おれは馬鹿だ馬鹿だ。何からかにまで騙されているのに、自分ではそれほど愚かでないと思っていたんだ(彼が言ってるのはロシアの民衆のことなのである)。

 С(エス)は物事をフランス人の目で見ていて(中国―ロシア)、強情なペシミストだ。

 国立銀行の食糧独裁者は静かな男。いつも笑みを浮かべて状況を見守っている。見た目には40歳だが、実際は60くらい。鉄格子に囚人が近づいて、パンを乞うている。Д(デー)はそれに気づかずにФ(エフ)がパンのかけらを持ってきて渡そうとするのを、Дが制した。
 「おれたちだってパンがないんだ」
 「おれは駄目だ、できない。いいんだ、おれはやるよ!」
 そう言って、パンを差し出した。Дは窓の方に行くと、ほんのちょっと独りだけになる。それから前のようににっこりして、Фに説明する――
 「それはいかん!」
 (外づら正義で中身ウソ、完全空っぽのエゴイスティックな奴―Ф)
 チェルノーフは何の関わりもない〔罪がない〕。確かに、いつも一緒だが。

1月5日

 憲法制定会議の日が自分の当番の日と重なった。
 きのうわが房に「ヂェーニ」紙の編集部一同が入ってきて、12人のソロモンが彼らとロシア国民の教養と宗教性について話した。誰もが〈信仰(念)ゆえに〉と言うのにはぞっとする。二つの党――一方は国民の良いところを見たいと思い、一方は国民の外国風を非難する。
 銃剣で指を切ったソロモン――これは達者なミーチングの演説家――が話を始めた。さながら馬上の騎士が〔颯爽と〕汚い厩舎を後にしたというところ。
 変人たち――雑報記者、論説委員。

 未来。インテリゲンツィヤが未来について語り続けて、いつまでも走り続ける子どもの玩具みたいに、とめられない。
 昆虫学者は早くから社会活動への準備をしていた。何より心の準備、慣らすこと――本人はもう死に対して自分を慣れさせているから大丈夫、大してジタバタしないだろうなどと言う。

 「自由だ! 解放されるぞ!」
 「誰が?」近くにいる男たちが訊く。
 「ヤーシチクだよ!」
 衝立の向こうにいた者たちには何も聞こえなかったらしく、用便桶の衝立の陰からひとり出てきて――
 「誰が解放だって?」
 「ヤーシチクだ」

 パンの牢名主がパンのことを言う――『あしたもパンが貰えるかなんて訊かんでくれ。誰にもわからんのだから。家族とも友人とも連絡はさっぱりだ。人間世界が運命が引き合わせた者たちを通してしか感じられないのは、なんとも寂しい』

 ふたつのタイプ――一人は死への準備、一人は逃亡。

 房ごとにイォルダーニ*1がある。赤毛〔の男〕は立ちもしない、十字架にも近づこうともしない。小さなスプーンをくわえたままで、みなが恭しく接吻したとき、一気にバラーンダ*2を呑み込んだ。

*1聖水所〔ヨルダン川〕の意。正教の教会祝日(1月6〔19〕)日)に行なわれる浄めの儀式。司祭が獄屋を回って囚人たちに聖水をそそぐ。

*2獄舎で出る薄い水っぽいスープ。

 教会から〈おおわが父よ(オーッチェ・ナーシ)!〉。いろんな声、大人の声も子どもの声も。突然、時間が短くなったように思われた――ちょうど誰かが砂糖のかけらであるわたしをカップに放り込み、スプーンでかき混ぜて、一気に呑んでしまったような。

 アヴラーモフ〔未詳〕とばったり。

 ギロチンで死ぬ覚悟の人間と偶然の死に備えている人間は、種の異なる生きものであると知るべし。

1月6日

 きのう、夜の12時ごろ。一部はまだチェスをし、一部は寝ていた。そこへ突然の高笑い。みな目を開ける。電気はついていた。寝ている者のことなどすっかり忘れて、われわれは大いに笑った。電気がついているのが嬉しかった。数分後、П(ペ)・М(エム)が入ってきて言う―憲法制定会議が始まった、チェルノーフが議長に選ばれたが、宮殿の権力は依然、ボリシェヴィキが握っている、と。

 12人のソロモンが未来について談論。ハンモックでは隣同士(役人たち)が話し込んでいる。
 「移行こそ重要だ――ボリシェヴィキからエスエルへ、そしてカデットへとね」
 「でも、わたしは、新しい大きな国家民主主義的な政党ができると思ってるんだ」
 「どうして国家の党が君主主義の党でないことがあるのでしょう?」
 役人たちとソロモンたちの空気はまったく異なる2つの世界――一方には腹をすかせた家族があり、もう一方は職業的無節操(売春業)である。

 チタ〔東シベリアの町〕出身の同郷人の出会い。1週間も隣り合って寝ていたが、知らなかった。同郷人だとわかってからは、二人はくっついて離れない。

 12人のソロモンは骨を齧る。齧られて骨はいよいよ白くなる。ずいぶん煮出されたうえでさらに齧り尽くされているのだ。インテリゲンツィヤは〔物事を〕ナロードのようには信じられないのである。

 われわれの房はネーフスキイ大通りに似てきた。革命以来、風に波立つ水面(みなも)のように、神経立った暮らしをしてきたあのネーフスキイ大通りだが、それでも電車の中から見ていると、新聞など読まずとも、じつにいろんなことがわかってくる。ここも同じである。だいいち孤独でない。ここには政治のニュースが、編集室かと思うほど入ってくる。しかも物知りのソロモンたちは骨を髄の髄まで齧っている。まさに国民公会(コンヴェント)……でも、秘密は――いったい誰がボリシェヴィキの背後で作戦の指揮を執っているのかだが、これがまったくわからない。

フランス第一共和制の最高立法機関(1792-95)。

 哲学者は死の準備をしている。かなり神経質になっている。(セリュークは忍耐強い男。まさにそこがフランス人のフランス人たるところ! たまたま新聞を買おうと編集所に立ち寄りそのまま牢にぶち込まれたのなら、たとえ彼が何かをしでかしても、やはりそうなる運命のフランス人なのである!)
 「フランス人がどうしたというのです? あそこにもフランス人はいますよ」そう言って、彼は、逮捕のさい銃剣を掴んで指を切ったポレントーフスキイを指さして、セリュークが言った。「彼は何かを極めましたか?」
 イクラを載せたオープンサンドが配られた。
 「何のためにこれを食わせるのだろう?」
 「まあいいじゃないの。おお美味い!」
 ハッハッハッ! まったくえらい食いものが出てきたもの! このあと何があるのだろう?
 でも今はこれがわれわれの暮らし。次に何が起こるかわからない……ひょっとしたら、これが最後の晩餐かも。

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