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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 04 . 08 up
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9月21日

 ポケットにはした金があれば、それで外国語〔で話すの〕を習うのはいいことだ。でも、〔ポケットに〕何もないなら、ロシア語を話すべきである。
 民主的会議における合同(コアリッション)は国家目的である統一への同意と志向のしるしだったが、同根同質の政府が意味したものは、要するに暴動(ブント)――革命ではなく、まさしく暴動なのである。
 世界に向かって全面講和=戦争反対を声高に唱えるというのは、スキタイ国の浮浪者たちにとって、なんと大きな誘惑であることだろう。わが国には昔、手作りの田舎のブント――スチェンカ・ラージンの乱というのがあり、たしかにそれは部落規模の動乱(スムータ)だった。でも、こちらは世界都市たるペテルブルグが世界に発信した世界規模のブントなのだ! 一介の野蛮な暴動者(ブンターリ)は、ブントの名において、ペルシャの姫君(か公爵令嬢か)と別れて彼女をヴォルガに投げ込んだが、それでもその男にまつわる多くの歌や伝説がつくられている! 
 おまけに、あろうことか、髭づらの協同組合員や自治体役員どもは、祖国愛を撒き餌に世界の暴動者(ブンターリ)を釣って、自分らとのコアリッションをものしようと画策している! 

民謡「ステンカ・ラージンの歌」の日本語の歌詞にも、そのものずばり歌われている。

 巨大なマス、ことに土地と自由と地上における神の王国を約束(あからさまな騙し!)された農民たちだが、気がついたときには、すでにそんなブントに引きずり込まれていたのだ。そして今、ようやく状況を掴み始めた彼らは、この民主的会議で〔そのブントを〕半分に引き裂いたのである。
 何もかもがそのブントがつくった篩(ふるい)と組織によって維持されていた。なんせ手口があくど過ぎた。選挙人たちは〔処罰を恐れて逃げようしても〕逃げられない仕組みになっていた。一度引きずりこまれたら、もう娑婆には戻れなかった。それでコルニーロフの進攻も功を奏しなかったのだ。
 このロシアのブントには、本質的に社会民主党と共通するものは何もなく、ただ外見と建設システムが似ていただけだった。要するに、個人(リーチノスチ)のきわめて重大な低下縮小なのである。
 ペテルブルグでさんざん聞かされたブントについての、これが正確な決まり文句――「不幸な偶然〔ついてなかったの〕は戦時下にパンが足りなかったってことさ」

10月10日

 今はどこでも、革命のことを〈失敗した事業〉だと言っており、これを革命と思う人間はひとりもいない。
 「1週間もあったかな――」と人びとは言う。「それとも埋葬される前の1週間がそれ〔革命〕だったのかもしれんが、そのあとはぜんぜん革命なんてもんじゃなかったね」
 ドイツがエーゼリ島〔エストニアのサーレマー島の旧称〕に軍隊を上陸させた。そのことでボリシェヴィキに責め立てられているが、彼らはあれはブルジョアジーが悪いと言い張った。『命令第一号は軍隊を動揺させた』と攻めれば、「あれ〔命令第一号〕こそ軍隊に一定式をもたらしたのだと反論されて、それでお仕舞い(土地委員会についても同じ答えしか返って来ない)。怒りに駆られて、祖国はもう駄目だ、滅亡だと喚き立てると、相手も一緒になって喚き始める。こっちが武器を取ったら、あっちも武器を取るだろう。かくて市民戦争〔内戦〕は始まるのである。

 電車の中。平民の女が立派ななりをしたどこかの奥さんに近づき、彼女のヴェールに手を触れる。すると奥さんが――
 「まあ、こういう人たちはこんなふうに自由を理解してるのだわ」

 土地委員会の意義についてあれやこれや――しかし、どうでもいい議論ばかり。なぜかと言えば、もはや土地委員会の段でなく政府すら無くなってしまったような状況だから。われわれは自分たちでちゃんとやってきたし、互いに、一対一で、額をつき合わせてうまくやってきた。〔どこでおかしくなったのか?〕
 森林が国有財産となると誰もが木を盗み始めた。家畜が若木の森に放たれたときには、さすがにわれわれも嘆いたものだ。苦情を呈したら、返ってきた答えが――『森番を置かねえのが悪(わり)い。なんで今さら文句を言うんだい!』

10月12日

 最後にロマンは〈破滅〉に向かう(ロシアは亡ぶ、今われわれも亡びようとしている)。
 ペトログラードの疎開――それは掘り崩された蟻塚。
 たとえ距離はあるにせよロゴスの活動とつながる何かがそこにあるなら、われわれを取巻く混乱にも大きな意味はあるだろう。してまた、これまで溜め込んだ過去の観点(アンドレイ・ベールィの分裂)からすべてを査定評価すれば、完全なたわごとであることに疑問の余地はない。

詩人のベールィは第一次大戦中、スイスで人智学哲学の殿堂の建設に参加した。ドイツの哲学者ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の哲学――超感覚的な力によってのみ把握される超物質的実在の存在を説き、〈直感の世界観〉を主張する――に熱を上げたベールィは、現にロシアで起こっていることをそのオカルト的観点から評価するようになる。晩年、彼はマルクシストを自称したが、神秘主義と弁証法的唯物論を融合させたその独特のマルクス主義はなかり奇妙なものだった。

 オカルティズムとツィンメルワルト主義に共通するものについて考察しなくてはならない。インターナショナルへの道は〈物理的なそれ〉(たとえば大地に根ざした創造)、オカルト的な道は〈直接的な交わり〉(ただし方法は随意的な)、第三の道は簡略化された道(ツィンメルワルト、マルクシズム)である。この第三の道は特異な性格を有している。それは、指導者たちをたちをまったく理解しない少数勢力を釣り込む(たとえばらばらラでも、とにかく数が多ければいい)という点だ。もう一つ挙げれば、その厚かましさ。おれがおれがとしゃしゃり出るところ。野心、野望。ゴーリキイはその歩くpretension〔前出〕。

参考資料(3)の1915年9月5日。スイスのツィンメルワルトで開かれた国際社会主義者会議での結論――民族自立に基づく〔併合と賠償金なしの〕平和のための戦争を開始すること。帝国主義戦争の内乱への転化を主張した。

 土地所有者の悲劇と土地に愛着する芸術家の悲劇。動くはずのないものがぐらぐらしだす――地震だ(揺れるのは耕す大地。どうするか? 揺れないところへ自分を異動させるしかない)。(新たな逃亡者たち――芸術本が流布しているのは地上を逃げまわっても無駄(不可能)だとわかってきたから)。学校の先生の説明は――мир(ミール、世界と平和の両義がある)はアルファベットの10番目のи、あるいはiは宇宙としての世界全体を指している。иのмирにはさまざまな解釈があり、そのうち第一のもの〔解釈〕は静寂と平穏で、併合・賠償金なしの講和、市民戦争のスローガンとしての平和、だ。12日のエスエルの会議で、主婦のクスコ-ワ(ロシア人)が演説した。誰もが平和を欲している、みんな祖国を守りたいと思っている。しかし誰も講和の締結の仕方を知らない。防衛主義者はブルジョアジーと民主主義の利害の共通性を認めている。インターナショナリストはそれを認めるが、奉じているのは古典的民主主義である。軍隊が逃亡すれば一方はそれをコルニーロフのせいだと言い、一方はツィンメルワルトが悪いと言う。

мирとмiр。iは旧字でいずれも〈イ〉の音字。正字法改革(1917)以前、〈и〉はアルファベットの8番目の文字だったが、改革後は10番目の文字に。10番目の文字だった〈i〉は廃止された。

 コルニーロフシチナの定義――軍司令官の個人的権威の上に築かれた軍の組織。組織上のツィンメルワルト・グループの定義は、民主主義の諸機関の権威の上に築かれたものと言うことができるだろう。
 敗北主義者と防衛主義者――これは罵言〔戦場の言葉〕、じっさい誰しもドイツから国を守りたいのだ。
 クスコーワの主張は正しい――わが国民はさんざん苦しんできているので、独自に行動することを許された人間はわが身を犠牲に供することができず、したがって強制が必要である。教会で人びとが内なる敵から逃れようと祈るのは正しい。

10月14日

 カプリ島の王冠。前線から手紙が届いた。書いてよこしたのは軍人である。彼らの塹壕にドイツ軍〔の塹壕〕から羽のついた爆弾が飛んできた。爆弾のしっぽに「同志(タワーリシチ)」という新聞の束が括りつけられていた(彼はなんともけったいな代物だとわざわざ書き添えている)。たしかに新聞の内容は事実と違うしロシアの生活の真実をめちゃくちゃに歪め、要するにドイツのいいように捏造されている。「兵士たち(ソルダートゥィ)」紙のフェリエトンにはロシアの国民的作家であるマクシム・ゴーリキイの署名が。
 ドイツ軍の塹壕から飛んできたものに自分の署名が――それがどうしてマクシム・ゴーリキイの罪なのか? 
 П.А.В.〔手紙の主〕はゴーリキイに疑いを持った。それでわたしに送ってきたのである。
 「あなたも芸術家だから、教えてくれませんか――もし誰かがあなたを騙しても、それでもあなたは芸術家でいられますか? なぜそうなるのでしょう? 一方、もしわたし、芸術家でないわたしが騙されたら、わたしはただの愚か者ということなのでしょうか? わたしが言いたいのは、マクシム・ゴーリキイは「ノーヴァヤ・ジーズニ」の騙(かた)りどもの影響下にあるが、あくまで彼は芸術家だ――ただそれだけで彼が正当化されているということなんです。なぜそんなことが彼を正当化する理由になるのでしょうか?
 わたしはその騙りたちに問い質しました――おたくらは自分をどう思っているのか、ボリシェヴィキなのか、と」
 「われわれはみなボリシェヴィキだ」と彼らは言ってきました。
 「じゃあ、おたくらは「労働者の道(ラボーチャヤ・プーチ)」のボリシェヴィキとどこが違うのですか?」
 「あっちはみないいかげんな仕事をしているが、われわれは文化的なボリシェヴィキなのです」

日刊合法紙「労働者の道」はロシア社会民主労働党中央委員会の機関紙。「プラウダ」紙に代わって1917年9月16日から10月8日まで発行された。

 最悪最低下劣無法の唾棄すべきロシアの暮らしから抜け出したマクシム・ゴーリキイは、カプリ島のイタリアに惚れ込むや、そこに自分の理想的なヨーロッパをひねり出した。彼にいま「あなたは自分の祖国を愛していますか」などと訊いても詮ないこと。では、おとぎ話の『金の魚』に出てくる老女王なら、青い海のそばの自分のあばら家についてなんと言うだろう? 殻を破って出てきた小鳥なら、燕が鶏糞を固めてつくった巣の中の殻についてなんと言うだろう? それとも、ボートの下で夜を過ごす人間にこう訊いてみようか? いつになったらスプリングの入ったマットレスで眠るんだね、と。いま百姓は、以前の1日15コペイカの日雇いについてどう言うか? 老王女のあばら家。割れた殻をつけた貧弱な巣。ボートの下は湿って寒いし、百姓はまた15コペイカの手間賃で元の作男に戻るだろうか?
 賤しめと屈辱からの物的(マテリアル)な脱出法のない、またあり得ない〈虐げられし人びと〉に対して、ドストエーフスキイはこんな慰めを言う――「耐えよ、コンスタンチノープルはわれわれのものになる、きっとそうなる!」*1。それで、より良き暮らしへの出口のない〈貧しき人びと〉は、苦しみ悩みながらも自分の祖国を愛したのだ。もし出口が見つからなければ、いったい今は何のために耐えるのか苦しむのか? こうした人びとにゴーリキイはイタリアに向かって窓を穿とうとしている。ホドゥィンカの原*2の群集のように、虐げられ辱しめられた人びとが〈イタリア〉に向かって突進し、互いに死ぬほど押し合いへし合いを繰り返して、それで強奪、火事、掴み合いが起こる――新しい長靴が欲しいだけの者もいれば、結婚したいと思う者もいる、いろんな人間がいるのだ。それで彼らは誰もがボリシェヴィキを名乗っているのである。
 「ではいったい何者だ、そんなことを考え出したホドゥィンカの指導者たちというのは? あんたたちはボリシェヴィキか?」
 「われわれは――」彼らは答える。「文化的ボリシェヴィキだ」
 「では、文化的ボリシェヴィキとして、あんたたちは、これら非文化的な人びとの犯罪や「万事休す」を運命づけられた人びとにドストエーフスキイが与えた〈ツァリグラード〉*3の慰めなんかも、すべて受け容れるのか?」
 すると、全員それを否定して、こう言った――
 「われわれは書いている――それには常に反対だと」
 だが、唯一、いちばん誠実で思慮深そうな男が答える――
 「〔われわれは〕受け容れます!」
 「潔く自沈した将校たち〔未詳〕も受け容れる?」
 「ええ、受け容れます!」
 ゴーリキイはそういうふうには言わない。彼はすでに避(よ)けて通られている、彼の王国はすでにわきを抜けていった。もっとも、イタリアの王冠は彼を慰めるもの〔土地〕として放っておかれたが。
 一方、貧しい人は、ゴーリキイのために泣いて、なぜまたこの芸術家、つまり最高の存在である人をこうまで欺きこうまで愚か者扱いするのか、どうにも理解できないのだ。
 さまざまな王冠、すなわちギリシア、エジプト、アトランティスを担ぐ人たちは次つぎゴーリキイを見捨てていく。長靴を求めて走った人びとも今は遠いところにいるし、戴冠した者たちは怯えてしまった。もういいかげん自分に聞いて思い出してもいいころだ――イタリアの王冠が手に入ったわけを。
 おお、それはすぐに、ただちに手に入ったのではない――長靴を手に入れるのとはわけが違うのだ。
 汚れきった外套を着た、能ある乞食詩人が、金持ちの社会民主主義者のところへやって来て、晩飯を食う。主人も然るべく敬意を払いつつ、彼をそのあばら家まで見送る。
 「未来は間違いなくわれわれのものだよ!」と主人が言う。
 「おそらく今ではない、かもね」と詩人。
 「そんなことは問題じゃない、わたしが言ってるのは本当の未来、つまり現在〔われわれが生きている〕現在なんだ」
 「おお、そうだ!」
 「その未来のために、きっとわれわれは苦しむだろう。なぜきみはわれわれと一緒じゃないのか?」
 「わからない。なぜかあんたたちと一緒ではない。わたしには信仰がない。わたしはたぶん進歩的思想を持たない人間なんだ」
 「でも、どうしてきみ〔詩人〕は自分のまわりで何が起こっているのかわからないのだろう? だってこれはキリスト教の始まりの繰り返しじゃないかね。きみは参加していないんだ〔関心がないんだ〕」
 そのとき急に、貧しい詩人が烈しく怒りだした。そして外套のはしっこの綻びを引きちぎりながら、頭に浮かんだだけの――星々の歌、森のおとぎ話、ヴォヂャノイの〔唄〕、それと大地の唄のひと節を、残らず一気にぶちまけたのである。
 「わたしはどれだけ苦しんだか。なのにあんたたちは長靴でこのわたしを釣ろうとしている」
 「われわれだって苦しむ覚悟はしているさ。きみはわれわれを何と思っているのか?」
 「もしあんたたちがキリスト教の話を持ち出すなら、わたしはあんたたちをアンチキリストだと見なす」

*1ドストエーフスキイの『作家の日記』の1876年6月の「第二章の(四)、歴史のユートピア的解釈」からの引用と思われるが、本文はこうである――「ロシア人はそれこそひとり残らず(中略)何よりもまずスラヴ民族自体の完全な人格的自由とその精神の更生のためにスラヴ民族の復興を望んでいるのではないだろうか? 事実そのとおりで、間違いはないはずである。したがって、このことだけから言っても、前述の「空想」はたとえ一部なりとも正しいことがわかるだろう? そこで当然のことながら、この目的のためにもコンスタンチノープルは――晩かれ早かれ、われわれのものでなければならない」

*21898年5月、モスクワ郊外のホドゥインカの原(現レニングラード大通りの出発点)で起こった悲劇的事件。ニコライ二世戴冠の祝賀式で配られる記念品めあてに詰めかけた群衆がもみ合い将棋倒しになって、三千人以上の死傷者を出した。

*3ロシアは17世紀までコンスタンチノープルをツァリグラード〔皇帝の町〕と呼んだ。

 ある晩、レストランでゴーリキイとシャリャーピンの会の集まりがあった。わたしはそのとき初めて、劇場ではないところでシャリャーピンを見た。彼はその日、嫌なことあって精神的に参っており、何の飾りも、カラーすら付けずに、酒盃の上にどっかと腰を下ろした白い塊り(グルィバ)だった。そこにはゴーリキイとシャリャーピンのほかに10人ほどわたしの知らない男たちと婦人(ダーマ)が〔1人〕いた。つまらない会話だった。と、不意にシャリャーピンが、まるで夢の中にでもいるように、口を開いた――
 「こんな芸人稼業をやってなきゃ、今ごろカザン〔故郷〕で鳩を追っかけてんだがなぁ……」
 そう言って、鳩の話を始めた。するとゴーリキイが彼に何やら耳打ちして、あることを思い出させた。そうして2時間ぐらいレストランで鳩の話をしてからシャリャーピンの家で、(夜明けまで)カザンと坊主と商人と神のことを喋り散らした――それぞれ結論めいたこともなしに。そのかわり愛情たっぷり、とても陽気に。
 ゴーリキイはあとでわたしにシャリャーピンの印象を訊いてきた。わたしは、なんだかわれわれの神――ひょっとすると〔野の神〕か森の神を、つまり本物のロシアの神を見たようだと答えた。それを聞いて、ゴーリキイは涙ぐんだ。そして言った――
 「彼はまだ本調子じゃないんだ。そのうちきっとあなたには本当のシャリャーピンを披露しよう!」
 そうしてその夜、わたしは、ゴーリキイにとってシャリャーピンが偉大なロシアの芸術家、希望であり慰めであるというだけでなく、祖国(ローヂナ)そのもの、祖国のからだ、肉体を持つ神、目で見ることのできる神だということを知ったのである。ナロードニキには百姓(ムジーク)が、スラヴ主義者には教会が、メレシコーフスキイにはプーシキンがローヂナなのだが、ゴーリキイにはシャリャーピンには人神シャリャーピンが、あの白い巨きな塊りが、スキタイ国のステップの無限の地下の金の鉱層こそが、ローヂナなのだ。
 ついでにそのとき、彼に、あなたには祖国はあるのか、ローヂナを愛しているかと訊けばよかったけれど。自分なら、それは、激越に、病的なほどに、おそらくサディスティックなまでに〔愛してる〕と答えたにちがいない。
 政治は恐ろしい。それはアダム・スミスがピン〔留金〕の製造工場での分業について述べていることと同断だ。ピンの頭だけを作る人間はそのピンの背後に消えていく。政治では人間は生命なき一部あるいは部品の陰姿を消す。国民的作家であるゴーリキイも、そうして政治のピンの頭のむこうに消えてしまった――完全に、何の痕跡も残さず、個別に〔私的に〕反目し合う勢力同士の奈落の底に沈んでしまった。そして今や、「ゴーリキイには祖国はない」―「祖国の裏切り者」などと盛んに言われている。

アダム・スミスは自著の『国富論』(1776)で、ピンの製造工場を例に専門化(分業)の新たな導入によって労働の生産性が飛躍的に伸びたことを示した。

 カザークの評議会(ソヴェート)にサーヴィンコフが姿を見せた。それは、新しい、どこかぞくぞくするような出来事だ。サーヴィンコフをわたしは、専門学校の女生徒(クルシーストカ)がシャリャーピンを見つめるような目で見たいと思っていた。それで、新聞の編集者たちとつまらない政治の話をしながらロビーを行ったり来たりした。しかし誰かが編集者のうちの一人に近づいて来て、挨拶をし、何か話を始めたので、自分はそれには加わらずに、ただその男の灰色のスーツの裾に目をやって、自分のことを考えていた。男が去り、人群れに消えたとき、編集者が言った――
 「で、どうでした、サーヴィンコフは?」
 そういうわけで、灰色のスーツの裾しか憶えていない。すぐ探しに行ったが、もう遅かった。彼の姿はどこにもなかった。ロビーにも、ホールにも、受付にも、読書室にもいったいどこへ? 結局、彼には会えずじまいだった。

 ツァーリの肱掛椅子に坐ったアフクセーンチエフは堂々としているが、どこかひとをいらつかせるところがある――常に変わらぬ二等皇族ふうの光輝清澄のゆえか。後ろにレーピンの絵が掛かっているが、もしそこにツァーリが立っていれば、人びとはアフクセーンチエフを通して皇帝自身を見たかもしれない。
 きょうビュッフェでお茶を飲んでるところへその彼(共にドイツで学んだ)がやって来て、わたしの横にちょこんと坐った。とても国家的問題を論ずる気分ではない。その苦しげな顔、疲れきった、絶望的なまでに退屈な〔人〕。
 「わたしは思うのだが――」とアフクセーンチエフが言った。「民主主義の事業は潰えたね。もうまったく駄目だね」
 なぜか彼の言葉には、民主主義が残念とも恐ろしいとも感じられない。
 「なんとかなるかも……まとまるかも。とにかく忍耐だよ」
 「いや、そんなことないさ。問題は食糧なんだ」彼はひとつ欠伸をし、顎鬚をちょっと掻く。わたしは訊いた――
 「チェレーシチェンコの演説は何時からかな?」ちらっと時計を見る。
 「すぐだよ」
 ミハイル・イワーノヴィチ〔チェレーシチェンコ〕を見た。話し方は立派なものだ。礼儀正しく、品がいい。でもやっぱり大臣臭い――ケーレンスキイ、アフクセーンチエフ、チェレーシチェンコ、マースロフ、みな同じ。生粋インテリゲントのつるつる。ケーレンスキイだけ他に抜きん出ているように見えるが、それは達成でも高さでもない、爆発だ。爆発するインテリゲント。

 ロビーでセミョーン・マースロフ〔同郷人〕と会う。出世のお祝いを言う。セミョーンはナロードニクもナロードニク、聖なる人民主義インテリゲンツィヤだ。いっけん神学生のようだが、目は家ウサギ、ひとを信じやすい。思い出すのは、自分のアパートで彼に会ったとき、イワン・リャザノーフスキイ〔(六十)〕が言ったひとこと――『ナンもないが、未来は彼らのものだ、ああいう家ウサギたちの、ね!』。これはおとなしい修道士であり、人類教(ウスペーンスキイに由来する)の苦行者(アスケット)だ。彼はわたしを自分の報告に招んでくれた。それがどんな報告だったかをわたしは知っている。買戻し金無しとか有りとか、馬1頭持ちは2頭持ちはと、生涯そういうことに取り組んできたのだが、それでもやはり土地も土地問題も彼からは遠く――〔うちの〕雇い人のパーヴェルから大学が遠いように、あまりに遠くて、とうてい把握も理解も及ばなかった。

 保守〔反動〕の人、Д.В.フィローソフォフ〔(三十七)〕はサーヴィンコフの新しい新聞「時間(チャース)」に加わると言って、わたしを慌てさせた。

メレシコーフスキイとギッピウスが、エスエルの戦闘団(テロ・グループ)のリーダーであるサーヴィンコフと共に組織した反ボリシェヴィキの新聞。詩人のブロークがこれに加わることを拒否したことは周知の事実。プリーシヴィンの日記にはメレシコーフスキイに宛てた手紙の草稿が見つかっている。彼も「チャース」への参加を断わった。(百五)に訳出。

 サーヴィンコフはコルニーロフシチナと称されるものの主唱者の一人だ。コルニーロフ、サーヴィンコフ、X.、Y.〔未詳〕。これはナポレオンではなく、あちこちで民主主義の篩に大穴をあけようとした独立自由の一群である。文学畑の古く頑固な独立自由のアリストクラート――メレシコーフスキイやギッピウスがこの新聞に参加したのは偶然ではない。それは見えざる都〔キーテジ〕の故地を通してソボールノスチを求める革命家=個人主義者だ。むろんのっけから彼らには旧世界の蝿たちがまつわりつくだろう。

総体主義。西欧の個人主義に対して、全人類の連帯・同胞愛を主張するスラヴ派の思想。個人主義に対立する正教的公同性(соборность)。

 非常に面白い新聞になるのは間違いない。なんせサーヴィンコフを脅かすのはスキャンダルだけだし、哀れなドミートリイ・セルゲーエヴィチ〔メレシコーフスキイ〕がどこへ連れて行かれるか――知っているのは悪魔だけだから。
 民主主義の篩のひとつである〈人民の意志(ヴォーリャ・ナローダ)〉――自分は今、ちょっとした誤解からその場にいるのだが――は、ロシアの民主主義への純粋素朴な信仰を奉じている。これは最もナイーヴな、〈悪魔主義〉の連中とはぜんぜん無縁の機関である。この人たちにとってサーヴィンコフは一番の敵。なぜなら彼は協議会(ソヴェート)反対の立場であるのに、〈人民の意志〉はすべてにわたって協議会や委員会と結びついているからだ。

右派エスエルの新聞。編集者は二月革命後にケーレンスキイの秘書になったП.ソローキン。

 アンドレイ・ベールィがラズームニクの家に泊まる。
 トロツキイは歯医者。

トロツキイの名、初出。歯医者? トロツキイ――本名レフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシテイン(1879-1940)。ウクライナ生まれのユダヤ人革命家。活動舞台はほぼ国外だった。ロシア社会民主労働党の分裂(ボリシェヴィキとメンシェヴィキ)以来、両派の中間派を指導していたが、二月革命直後にアメリカを発って5月にロシアに戻った。十月革命直前にボリシェヴィキへ参入(第6回党大会)。7月4日、ネーフスキイ大通りのデモ隊に軍隊が発砲し、『プラウダ』編集部などのボリシェヴィキの拠点が攻撃を受けたため、ボリシェヴィキ党は戦略転換を余儀なくされる。逮捕命令の出ていたレーニンは地下へ潜ったが(8月9日、フィンランドへ逃亡)、カーメネフ、トロツキイら党指導者たちは逮捕された。

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