2012 . 03 . 26 up
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菜園家のイワン・マトヴェーエヴィチは静かな控えめな男。〔そんな男があるとき、〕獣じみた顔をし、歯ぎしりしながら顎まで震わせて、こう言った――『襤褸を着たガキがうちの菜園からちょうど四つん這いになって逃げるとこだった。あいつらの扱い方は簡単だ。隠れていて、いきなり飛びかかる。すると呆気にとられて、動けなくなる。さあこ奴をどうするか……わけはない。どうですか、あなたならどうされますかな? もし犯人が百姓なら罰金を取る、いや畑を荒らされるたびに罰金を取るというのは、どうかな? これはまずい。高くつくかもな。ではどうするか? ひとつ、もっといいやり方をあなたに教えてあげましょう。それは、蕎麦畑を荒らしている馬を捕まえたら、そいつを50露里くらい離れたよその森に引っぱっていって木に繋ぎ、尻尾のまわりの毛を刈ってやるんです。そこまでされたら二度と勝手な真似はしなくなります……犯人が女であっても同じですが、でも女の場合には〈奇跡〉が必要なんです。女は迷信深いから、深夜なら白いものに着替えて、まあ明るいうちも日に一度は見回るようにする……』
辛抱強くいつまでも〔待つ〕。必ず変化が現われる、か。
キールが突然、わたしの味方になった。
「町で聞いたんだが、М.М.〔プリーシヴィンのこと〕という人は大変な人格者だってね。今あっちこっちで壊されている記念碑、たとえばプーシキン像だが、あんなのをここ〔この村〕にも……わしらはもしかしたら彼のために建てるかも、な。でも、そんなこと、自分からは何も言えんこんだがね……」
相続人。イワン・イワーノヴィチ〔母の長兄、イワン・イグナートフ〕が死んだら、相続人たちは株の分配を始めた。マリア・イワーノヴナ〔母〕が亡くなると、今度は土地の分配を始めた。同じように、古いロシアが死ぬと、あらゆる相続人たち(百姓と労働者)が土地の分配と資本の略奪に狂奔した。ロシアは遺言を書かずに急死したのだ。
一騎打ち。われわれ一人ひとりの生は、メシチャンストヴォ〔小市民根性〕との一騎打ちであり臨時休戦との一騎打ちであり、ときに妥協における継続的平和との一騎打ちである――『勝ったり負けたり』…… ラズームニクが文集「スキタイ人」*で説いているのは、要するにメシチャンストヴォからは逃げるということ。「あばよ」とひと言、現在から永久(とわ)に逃げ出す、孤独な、しかし素早い人間の遁走である。ともかく走れ、より遠くへもっともっと遠くへ。いずれ逃げおおせたら、誰もがこう言うだろう――『結局、ラズームニク・ワシーリエヴィチの判断は正しかった』と。*1917年3月3日の記述と注を。
歩いてきた道を振り返り、大きな声で――『ダヴィデの息子をホサナ*』
*〈ホサナ〉はヘブライ語の祈りの言葉。「褒め称えよ、救いたまえ」の意。ダヴィデは紀元前1011〜972年ごろのイスラエル王国の建設者(旧約)。南のユダと北方のイスラエルを統合して全イスラエルの王となり、イェルサレムを首都に定めて〈神の箱〉を安置した。息子のソロモン(在位・前971~932年ごろ)は父ダヴィデの不義密通の子。母はダヴィデの家臣ウリヤの妻バト・シェバ。「ロシアの息子たちをホサナ!」ほどの意味か?
*この当時、消防用のホースは木製だった。
*『エメリヤン・ピリャイ』(1893)、『チェルカッシュ』(1895)、『ゼニアオイ』(1897)その他。フィローソフォフは論文『マテリアリズムの崩壊』(1907)で――「ボシャークは単に社会的なタイプというだけでなく無意識的アナーキストたちの全人類的なタイプであって、それがゴーリキイ作品では「純粋に外面的に(だが)社会主義とひとつなって」、「相容れない二つの思想――唯物的社会主義と非理性的アナーキズムとの半意識的機械的結合」がなされている、と。
キビと蕎麦とクローヴァーの種を蒔いた自分の畑――そこから隣の金持ち〔スタホーヴィチ〕の領地に通ずる細い道が、もう目も当てられないほど踏み固められてしまった(自分のフートルは村とその領地の間にある)。
以前はその小道(何本かある)は真夜中にしか行き来しかなかったが、今では昼夜お構いなしだ。こちらが見ている前を堂々と他人の財産を引きずっていく。そして自分は泥棒たちに何も言えない。言ったところで、こう言い返されてお仕舞いだ――『あんたは地主の側だ、あんたのフートルだってやられるぞ』
チェルノーフの政治は官僚体制の典型例だ。ただ以前は県知事を通して行なわれていたが、今は何でもかでも土地委員会である。労働者大衆に政治的団結と同時に、新しい社会的国家的所有制(国有財産)の思想を植えつける必要があったからである。
もしそれら大衆が自らの組織立った能力と才能の精神世界に没入できるなら、国家にはそんなまともな人間などただの一人も残らないことだろう。
*『巡礼ロシア』(1908)の「著者まえがき」の最後にこうある――「わたしはこの本を、少年のころ、自分たちが行こうとしたあの、名もなく領土もない国に捧げたいと思います。あのとき、子どもじみた夢をともに分かち合った3人の友にも捧げたいと思います」
それとそっくりのこと*が1917年の春に起こったのだ。ペテルブルグでのいろんな出来事がその目撃者となった。まだどこかの屋根に銃弾が当たってぱらぱら落ちてくるが、もうそれで不快になることはない。そして朝、目を覚ますのだ――幼いころの村の朝、試験が終わった翌日の朝のような、なんとも嬉しい晴ればれした気分で。子どもになった自分。鳥たちは歌い、庭に花が咲き、さあ好きなことをしなさい、世界は限りなく広く美しいのだよ。そこにはあらゆる可能性がある。おもてに出れば――なんといっても、そこはパリ! 群衆は生きいきして、じつに変化に富んでいる。そこで自分は逢う……
*未詳。17年の春にワルワーラと出会った事実はない……
百姓たちは大きな子ども(ただ満足さえすればいい)と同じ。それを忘れぬこと。
報告
*1大変動(ペレヴォロート)は激変、クーデタ、革命、地殻の大変動、でもある。
*2二月革命後、臨時政府は帝政ロシアの警察(ポリツィヤ)と憲兵隊を廃止し、新たに地方自治体に服属する民警(ミリツィヤ)を設けた。同時期、武装した労働者の自治組織としての労働者民警も生まれた。
「だがもし国家救済のため、必要とあらばわれわれは、自分の心を殺してでもこれを救うだろう」(第1回国家会議におけるケーレンスキイの演説)。
*ヂェーチ・プリスィプシは民話に出てくる子どもたち。寝ている間に自分の母親たちに絞め殺され、悪魔〔不浄の力〕の支配下に置かれてしまう。
闘い。村の経営はわれわれのような環境下にあっては闘争に継ぐ闘争。で、今やそれが自然の状態だ。スタホーヴィチ家の管理人はもっぱら委員会への出席を仕事にし、行き当たりばったりの気紛れな会のやり方を村の経営環境の調査に利用している。
労働ノルマとはそもそも何か? 煎じ詰めれば、労働がいかなる環境下にあるかということ。われわれの労働は未開時代のそれである。日中働いて、深夜に番をする。女房は食いもののまわりであくせく立ち働き、1分毎におもてへ駆け出す――梨の木が揺すられてないか〔実を落とされてないか〕確かめるために。労働ノルマとは自分の小さな畑におけるハッピーライフ。そんなことに鉄製品も大鎌も機械もない時代に言われていることなのだ。普通の名を知れぬ人間が市民(グラジダニーン)になるというのではなく(そんなことはあり得ない!)、ただちょっと自分を市民と感じて自分の意見を述べ、自分をいちだん高く評価しただけである。また何ひとつ理解せず、じっと坐って他人の話に耳を傾けながらしきりに何かを待っている――そんなこともままあるが、しかしそれが突然、突っかかって(何かを悟ったのだ!)――全村民の財産目録をアルファベット順に記載するだと! そんなこと出来やせんなどと言い出す。そしてアルファベットにゃわしゃあ反対だと喚きちらす。そのあと自分の村で、土地委員会や食糧管理局やアブラム・イワーノヴィチやミハイル・イワーノヴィチに対して暴言を浴びせるのだが、それは『社会革命党の思いつきなんて知るかよ、アルファベット順に記載するだと! じゃあやってみろい。わしゃあ戸一戸順に回ってやる。でもな、一文字一文字追っかけて回るってのは、そりゃねえよ。輔祭は立派な人だが、このおっさんもアルファベット順にと抜かしやがる。そんな奴らはみな箒〔竃の小箒〕で掃き出してやるこった!』
経営は闘いだ――自然との、略奪者どもとの、愚かな連中との、家畜との。そしてすぐにどうしようもなくなる。平和の木は闘争の中で大きくなり、たいていの場合、その木の下で憩うのはそれを育てた人間でない。赤の他人が腰を下ろすのだ。闘いと苦痛の中で平和の木は伸びてゆく。そのようにどの民族も自分の平和の木を育てている。そうしてその木はみんなにとっての平和となるのだが、しかしそれを彼らは闘いの中で育むのである。一瞬にして起こる奇跡。そこでアピスのうちに永遠の闘いの形象(すがた)を描く必要がある。動物の長い生長期間、それに奇跡を対置する。
黒い再分割の結論。早朝、霧と露の降りたわたしの家のスゲの生えた池の端に、ひとり、村の老人が坐っている。請願人で御齢(おんとし)93歳のニキータ・ワシーリエヴィチである。馬の手綱を手に持っている。馬は腹まで水に浸かってスゲの葉を噛み切っている。
見えているのは、どこまでも続く広い農民たちの秋の畑だ。一人当たりは幾らでもない細い帯から成る畑、収穫の済んだ麦の刈り跡の少しぼやけた悲しげな畑。ミヤマガラスが群れている。牛たちがうろうろしている。まだ盗まれていない干草の山(コピョーシカ)、小さな畝――こっちはいいかげんな刈り方をされてクシャクシャ頭の畝である。さては雨雲か、と見れば、たしかに日は隠れて、小雨がぱらぱら落ちてくる。と思うと、ぱっと明るくなる。どうやら重病人でも寝ているらしい。病人はふと我に返るが、また心乱されて、薄物で顔を覆ってしまう。風は畑を烈しく渡る――革命〈時代〉さながらに。こんなふうに黒い雄牛を見るのは妙なことだ。ああほら、恐怖の〈時代〉がどこかに向かってひた走る。が、それは、黒い雄牛は動かず、たえず食べるだけで〈時代〉には目をやろうとしない。一緒の牛たちも休まず草を食(は)んでいる。この灰色がかった大地は、微動だにせず、永久(とことわ)に無関心だ。
額に小さな星を戴くアピスのごときその黒い雄牛がやっと頭をもたげて、地平線上の黒い点を見た。雌牛たちも一斉に顔を上げて〔そっちを見た〕。そして馬も羊もみなそっちに目をやっている。畑の上を黒い点が動く。
帽子をかぶり眼鏡をかけた自転車の男。畑を横切り小道を行く。眼鏡に小雨の滴が撥ねている。風が帽子のつばで地平線を覆い隠す。何も見えない。見えるのは自分のまわりだけ。つばが上を向くと、あたりが少し見えてくる。畑と牛たち。男は家畜に興味がない。ぜんぜん不要。ただ、黒い雄牛が狂ったように駆け出したとたん、頭の中でエジプトと聖なるアピスがぐるぐる回りだした。風上に向かって進むのはなかなかきつい。男はへとへとになった。眼鏡の男は喘ぐ。牛の群れまで行き着けるかどうか。はなはだ心もとないが、かわりに頭の中がエジプトでいっぱいになってきた。男は考える――エジプト人はあんなに長い間アピスを求めていた、アピスの誕生をあれだけ待っていたのだ、なのにどうしてあれはこんなところをうろついているのか? 誰もあれを求めない、尊敬も示さない。あれはそこらを歩き回って、ただ待っている。何を? エジプトは消え、アピスは残っている。
駅に通ずる小道が群れのいる方へカーヴして、牛たちがどんどん寄ってくる。眼鏡の男のまわりに集まると、男をじろじろ。アピスもこっちへ近づいてくる。
『そうだ、こいつはアピスだ』と、眼鏡の男は思う。『本物のアピスだ、間違いなくアピスだ。エジプト人は死んでしまったが、しかしアピスはまだ歩き回っている。そうだそうだ、確かにあいつだ。でも一般にはそうと認められていない。だから僕は、と男は考える――『風と戦うのはやめて、この群れと車輪〔自転車〕を捨てて、聖なるアピス神に敬意を表しよう……そうだ、そうしよう……』
それから男は――〔帽子をかぶり〕眼鏡をかけジャケツを着た男は、頭の中で自転車を降りた。そして農民たちも聖なるアピスとしての雄牛に神の〔一語判読不能〕敬意を表した。
彼は生き、数々の奇跡を行なったが、(最新式の車輪だったにもかかわらず)風に向かって漕ぐことは足が許さなかった。
*1ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフ(1870-1918)は軍人、陸軍大将。第一次大戦で師団長に。オーストリア軍の捕虜となるが脱走。二月革命後、ペトログラード軍管区司令官、ついで軍最高司令官となり、臨時政府にクーデタを企てて失敗、逮捕される。10月革命後、南ロシアへ逃亡し、義勇軍(白軍)を結成、赤軍と抗戦したが、エカチェリノダール戦死。
*2革命婆さんのブレシコ=ブレシコーフスカヤ?
*伝統ある貴族の子女のための教育機関(女子学習院)だったが、二月革命以降、半ば開放された公的施設として(会議その他)使用されていた。ボリシェヴィキが政権を奪取する10月に学院は完全廃止され、ここがボリシェヴィキのペトログラード・ソヴェートおよびペトログラード軍事革命委員会の本部になった。7月24日に発足した第二次連立政府(首相ケーレンスキイ、農相チェルノーフ)の第一の基本任務は「外敵と闘争し、あらゆる無政府的・反革命的企図から新国家秩序を守るために全力をふりしぼること」だったが、問題解決への展望はすでになく、残されたのは力の論理だけであった。首都進撃をめざしていたコルニーロフの叛乱軍が前進を阻まれたのが8月28日、コルニーロフ自身は9月1日に逮捕された。プリーシヴィンがスモーリヌィにいた日の前日(8月31日)に、ボリシェヴィキの提案によって、ペトログラード・ソヴェートが〈革命的プロレタリアートと農民の代表から成る政権〉、つまりボリシェヴィキ中心の政権を要求する決議を採択していたのだが、この時点でプリーシヴィンはまだその情報に接していない。
*アレクセイ・マクシーモヴィチ・カレーヂン(1861-1918)は軍人、騎兵大将。第一次大戦に兵団長。ロシア革命でドン・カザーク軍団長(アタマン)に選ばれ、ドンの独立を提唱し、コルニーロフらと南ロシアに〈三頭政府〉を樹立、義勇軍による反ソ軍事行動をとるも失敗、自殺した。
立派なユダヤ人のリベル――つねに窮地に追い込まれる問題に首を突っ込むこれらユダヤ人は、ロシア人などよりずっと素晴らしい立派な人びと、ユダヤの真の華である。
アフクセーンチエフ*1のなんという変身! これはロシアのジョレス*2……いや、そうではない、ストルィピンだ。外見にもどこか共通したところがある。表情こそ乏しいが、その真っ正直さ、その確かな雄弁術。*1ニコライ・ドミートリエヴィチ・アフクセーンチエフ(1878-1943)は政治家。1907〜08年にエスエル党中央委員、「労働旗」紙編集員。1917年、農民代表全ソヴェート執行委議長および予備議会議長、臨時革命政府内務大臣。市民戦争ではソヴェート政権と闘い、1919年に亡命。
*2ジャン・ジョレス(1859-1914)はフランスの社会主義者。フランス社会主義の父称される。議会主義による合法的改良主義を主張する。1904年「ユマニテ」を創刊。反戦平和を唱え、軍事予算に反対し、ドイツ社会民主党との提携に努めた。第一次大戦直前、国粋主義者に暗殺された。
*マリア・アレクサーンドロヴナ・スピリドーノワ(1884-1941)は女性革命家、左派エスエル党指導者。タムボーフ県の貴族の娘。1905年、エスエル党に入党、06年、県下の農民運動鎮圧者ルジェノーフスキイ将軍に致命傷を負わせる。シベリア(アカトゥイ)へ終身徒刑。17年、二月革命で首都に戻り、エスエル左派の中心人物に。ブレスと講和に反対を表明、18年4月以後、農民問題その他でボリシェヴィキの政策を革命を裏切るものとして強く反対した。7月のモスクワでの〈エスエル叛乱〉後、逮捕されるも大赦。20年代初めから監獄と流刑の繰り返しで完全に政治活動の自由を奪われた。オリョール近郊で〈銃殺〉(ロシアのどの事典もすべて〈銃殺〉と記載)。
誰の家に行っても、コルニーロフ支持の声。どうもこれは、民主主義が強くなったら合同(コアリーツィヤ)があるとボグダーノフ*が言ったせいらしい。現在、カデットを拒否しているので、たしかに民主主義はかなり弱い。
*アレクサンドル・ボグダーノフ(本名はマリノーフスキイ)(1873-1928)は革命運動に関わった政治・経済学者、哲学者。本職は医師。モスクワ大在学中、学生運動で逮捕され、1904年にスイスへ亡命。ボリシェヴィキに属し、09年、反党グループ(フペリョート)を結成し、除名。著書『経験的一元論』でマッハ主義とマルクス主義の結合を企て、レーニンに修正主義と批判された。08年からプロレトクリトのイデオローグ。晩年、輸血研究所所長となり、自ら生体実験の犠牲となった。
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