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プリーシヴィンの日記        太田正一

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8月15日

 もしあなたが誠実な人間で、自国民に対し善なるもの(ドブロー)を望み、〔そして〕そのとき社会主義かトルストイ主義の思想を抱いていたなら、農村を活動の場にしたあなたは次第にブルジョア的美徳を説く人になっていくにちがいない。それも当然で、ついこのあいだまで自分のものだった森が、今は〈国有財産〉になり、名前まで変えられて、私的所有者という幻想〈結局それは幻想にすぎない)が消えてしまったわけだから。だが、私有であれ国有であれ保存保護(オフラーナ)の気持ちは変わらない。没収されるまでは所有者としての欲求(アペチット)ばかりだったのが、今ではそのアペチットに社会性が接木(つぎき)されて、勝手に伐採地に入り込む家畜や人間どもを追い出すたびに、こんな言葉を口にするのである――『こら、これは国有財産だぞ、盗むんじゃない!』

 菜園家のイワン・マトヴェーエヴィチは静かな控えめな男。〔そんな男があるとき、〕獣じみた顔をし、歯ぎしりしながら顎まで震わせて、こう言った――『襤褸を着たガキがうちの菜園からちょうど四つん這いになって逃げるとこだった。あいつらの扱い方は簡単だ。隠れていて、いきなり飛びかかる。すると呆気にとられて、動けなくなる。さあこ奴をどうするか……わけはない。どうですか、あなたならどうされますかな? もし犯人が百姓なら罰金を取る、いや畑を荒らされるたびに罰金を取るというのは、どうかな? これはまずい。高くつくかもな。ではどうするか? ひとつ、もっといいやり方をあなたに教えてあげましょう。それは、蕎麦畑を荒らしている馬を捕まえたら、そいつを50露里くらい離れたよその森に引っぱっていって木に繋ぎ、尻尾のまわりの毛を刈ってやるんです。そこまでされたら二度と勝手な真似はしなくなります……犯人が女であっても同じですが、でも女の場合には〈奇跡〉が必要なんです。女は迷信深いから、深夜なら白いものに着替えて、まあ明るいうちも日に一度は見回るようにする……』

 辛抱強くいつまでも〔待つ〕。必ず変化が現われる、か。
 「しかし、そんなに時間がかかっては……」
 「そんなにはかからないかも。いつまでもそんなことばかりやってられませんからね」

 キールが突然、わたしの味方になった。
 「町で聞いたんだが、М.М.〔プリーシヴィンのこと〕という人は大変な人格者だってね。今あっちこっちで壊されている記念碑、たとえばプーシキン像だが、あんなのをここ〔この村〕にも……わしらはもしかしたら彼のために建てるかも、な。でも、そんなこと、自分からは何も言えんこんだがね……」

 自分は――自身の所有に帰するかつての貴族の建造物の犠牲者だ。

 相続人。イワン・イワーノヴィチ〔母の長兄、イワン・イグナートフ〕が死んだら、相続人たちは株の分配を始めた。マリア・イワーノヴナ〔母〕が亡くなると、今度は土地の分配を始めた。同じように、古いロシアが死ぬと、あらゆる相続人たち(百姓と労働者)が土地の分配と資本の略奪に狂奔した。ロシアは遺言を書かずに急死したのだ。

 一騎打ち。われわれ一人ひとりの生は、メシチャンストヴォ〔小市民根性〕との一騎打ちであり臨時休戦との一騎打ちであり、ときに妥協における継続的平和との一騎打ちである――『勝ったり負けたり』…… ラズームニクが文集「スキタイ人」で説いているのは、要するにメシチャンストヴォからは逃げるということ。「あばよ」とひと言、現在から永久(とわ)に逃げ出す、孤独な、しかし素早い人間の遁走である。ともかく走れ、より遠くへもっともっと遠くへ。いずれ逃げおおせたら、誰もがこう言うだろう――『結局、ラズームニク・ワシーリエヴィチの判断は正しかった』と。

1917年3月3日の記述と注を。

 あらゆる所有は創造的精神のメシチャンストヴォとの闘いの一定着モメントである。ここに一本の林檎の木がある。とにかく古い大きな木で、幹の下のほうが光っている。あちこち小さな傷がついているのは、村の悪童どもが林檎の実を盗ろうとしてよじ登り、そのとき枝を何本か折ったということである。その木を植えたのは母だ。わたしは収穫物をひとりのメシチャン〔町人〕に譲り、自分はただその木がそこにあるというだけで満足していた。

 歩いてきた道を振り返り、大きな声で――『ダヴィデの息子をホサナ

〈ホサナ〉はヘブライ語の祈りの言葉。「褒め称えよ、救いたまえ」の意。ダヴィデは紀元前1011〜972年ごろのイスラエル王国の建設者(旧約)。南のユダと北方のイスラエルを統合して全イスラエルの王となり、イェルサレムを首都に定めて〈神の箱〉を安置した。息子のソロモン(在位・前971~932年ごろ)は父ダヴィデの不義密通の子。母はダヴィデの家臣ウリヤの妻バト・シェバ。「ロシアの息子たちをホサナ!」ほどの意味か?

 百姓たちが何やかや文句をつけてくる。そのたびにしんそこぞっとする。『干草を雨ざらしにしちまったな、(草もだ!)』――これは蒸れて干草が駄目になったと言いたいのだ。こんな、無邪気と言うか図々しい申し出も――
 「あそこの土地、ちょっくらみんなに分けてくれるといいんだけんど、どうかな?」
 「みんなに分けるほど広くない!」
 「いや、まだまだある!」
 すると、そこで喚き出すのが女たち――
 「打穀場にあれだけ麦があるのに、こっちはもう3日もナンモ食べてないんだ。この種(1デシャチーナ分の種だ)、貰っちゃうよ。そのかわりクローヴァーには手をつけんから」
 また、消防ホースが腐ったから、森から木を伐ってきたいなどと言ってくる。まったくなんというアペチットだ! 木材ならうちの中庭にまだあるからそれを使えばいいと言うと、いかにもがっくりきた様子。確かにホースは腐っていたが。

この当時、消防用のホースは木製だった。

 浮浪者(ボシャーク)を描いたゴーリキイの中篇には、その疑問の余地なきポエジーとはまったく異質の何か――ポエジーとはぜんぜん縁のない凝塊(かたまり)のようなもの(たとえば浮浪者本人)が存在する。そして誰もが口にするのが物語のポエジーではなくその凝塊のほうなのである。不必要な存在の周囲で起こるそんな雑音に偽りの栄誉を与えてしまう。

『エメリヤン・ピリャイ』(1893)、『チェルカッシュ』(1895)、『ゼニアオイ』(1897)その他。フィローソフォフは論文『マテリアリズムの崩壊』(1907)で――「ボシャークは単に社会的なタイプというだけでなく無意識的アナーキストたちの全人類的なタイプであって、それがゴーリキイ作品では「純粋に外面的に(だが)社会主義とひとつなって」、「相容れない二つの思想――唯物的社会主義と非理性的アナーキズムとの半意識的機械的結合」がなされている、と。

 現在インターナショナリズムの思想にべっとり撫で固められたのが、その凝塊でありその雑音である。ために思想は埋没してしまった。

 キビと蕎麦とクローヴァーの種を蒔いた自分の畑――そこから隣の金持ち〔スタホーヴィチ〕の領地に通ずる細い道が、もう目も当てられないほど踏み固められてしまった(自分のフートルは村とその領地の間にある)。
 以前はその小道(何本かある)は真夜中にしか行き来しかなかったが、今では昼夜お構いなしだ。こちらが見ている前を堂々と他人の財産を引きずっていく。そして自分は泥棒たちに何も言えない。言ったところで、こう言い返されてお仕舞いだ――『あんたは地主の側だ、あんたのフートルだってやられるぞ』
 チェルノーフの政治は官僚体制の典型例だ。ただ以前は県知事を通して行なわれていたが、今は何でもかでも土地委員会である。労働者大衆に政治的団結と同時に、新しい社会的国家的所有制(国有財産)の思想を植えつける必要があったからである。
 もしそれら大衆が自らの組織立った能力と才能の精神世界に没入できるなら、国家にはそんなまともな人間などただの一人も残らないことだろう。

8月17日

 すでに秋。秋まき穀物の最後の種(ひと掬い)が最後のデシャチーナに蒔かれた。編み細工の播種籠をまた机の下に戻してから(屑籠の代用)、改めて自問する――春まき穀物の種の最初のひと掬いから秋まき穀物の最後のひと掬いまでの農業ノルマ、すなわちこれまでの農業の体験は自分に何をもたらしたか。
 わが隣人、菜園家のイワン・ミートリチは池の向こうで胡瓜の種を蒔くが、自分が何を経験したかは自問しない。彼の仕事ははっきりしている――胡瓜を育て、今それをいい値で人に売るのである。彼は自分の労働ノルマに忠実だが、わたしは脱穀された穀物と自分との間にすでにいかなる関係も見ていないばかりか、堪らない肥料(そういうものもある)と地上に芽を出す驚くべき植物との間にさえ、しばらくはどんな関係も見ないのである。未知の国への旅を続けながら、わたしは、生のあのひとかけら、否そのいのちのすべてを、向こう岸にいる懐かしい友らに語りたいとせつに願う。なぜなら、自分の旅を物語るのがわたしの天職だから。

『巡礼ロシア』(1908)の「著者まえがき」の最後にこうある――「わたしはこの本を、少年のころ、自分たちが行こうとしたあの、名もなく領土もない国に捧げたいと思います。あのとき、子どもじみた夢をともに分かち合った3人の友にも捧げたいと思います」

 あのわれらが青い春はどれほどの悲しみと苦しみをもたらしたろう? 憶えているだろうか? その青い春をあなたも持ったのだろうか? あれがいつのことだったか、憶えていますか? 短時ふたりは逢瀬を重ねて、それきり別れてしまったのだけれど〔ワルワーラの夢〕。

 それとそっくりのことが1917年の春に起こったのだ。ペテルブルグでのいろんな出来事がその目撃者となった。まだどこかの屋根に銃弾が当たってぱらぱら落ちてくるが、もうそれで不快になることはない。そして朝、目を覚ますのだ――幼いころの村の朝、試験が終わった翌日の朝のような、なんとも嬉しい晴ればれした気分で。子どもになった自分。鳥たちは歌い、庭に花が咲き、さあ好きなことをしなさい、世界は限りなく広く美しいのだよ。そこにはあらゆる可能性がある。おもてに出れば――なんといっても、そこはパリ! 群衆は生きいきして、じつに変化に富んでいる。そこで自分は逢う……

未詳。17年の春にワルワーラと出会った事実はない……

 (何が農民に必要か? 土地がもう少しあればいい、それと学ぶこと。満足できるほどに)

8月18日

 革命が金欠の浅瀬に乗り上げて、有産階級への怨恨・敵意、ただそれだけに取り憑かれてしまった。

 百姓たちは大きな子ども(ただ満足さえすればいい)と同じ。それを忘れぬこと。

    報告

 わが観察の場――オリョール県エレーツ郡ソロヴィヨーフスカヤ郷。ここには32デシャチーナの自分の独立農家(フートル)があり、うち19デシャチーナが耕作され、残りは森と庭園である。隣家はスタホーヴィチ家で、その領地は耕地の少ない村々から成っていて、住人は代々領地の賃金労働者だったが、最近では大半が地主の土地を(多くは協同組合という形で)借りている。概してここは現代における農民闘争の研究対象としてきわめて特異な地区である。
 4月9日に自分は国会の臨時委員会の代表としてこの地に赴いた。地方自治体(ゼームストヴォ)の社会生活全般に参加するつもりだったので、自身のフートルの経営は妻と年契約の労働者に任せた。当時、国会も国民の全面的な賛同を得ていた。初めは自分に対する村人たちの信頼が厚く、エレーツ市民も尊敬をもって遇してくれた。村ではまず臨時委員会から託されたことを遂行する一方で、農民たちには――わが国には二重権力は存在しない、臨時政府と労働者と農民代表ソヴェートは互いに完全合意し、たとえ何が起ころうと〈一枚岩〉であることを証明しようとした。
 そして誰もが心からそれに賛意を評したものだった。まだ郷委員会も村委員会も存在しなかったころ、密造酒(サマゴン)の量がやや多くなったことを除けば、村人たちの暮らしはほとんど昔のままだった。郷委員会のコミサールはサマゴン撲滅のために頑張っていた。町では〈とくに支障を来たさない程度の〉大変動*1(そう当時は思われた)が起こっていた(今でははっきりしている)が、本質的にはまだ大変動と呼ぶようなものではなく、地方では――警察(ポリツィヤ)が民警(ミリツィヤ)になった*2ぐらいで、それ以上のことは何もなかったのである。

*1大変動(ペレヴォロート)は激変、クーデタ、革命、地殻の大変動、でもある。

*2二月革命後、臨時政府は帝政ロシアの警察(ポリツィヤ)と憲兵隊を廃止し、新たに地方自治体に服属する民警(ミリツィヤ)を設けた。同時期、武装した労働者の自治組織としての労働者民警も生まれた。

 現在明らかなのは政府の失敗だ――大変動の初期段階で地方機関に関わる法律を整備し速やかに選挙を実施しなければならなかったのだ。

8月19日

 問題は労働ではなく労働環境だ。わたしが置かれた環境は恐ろしいもので、自身、働きながら敵と闘っているのである。きのう一日かけて蕎麦を刈った。夜になって新聞が届く――モスクワでの国の会議を報じている。読み始めたが、クローヴァーのことが気になり、見に行った。そして畑に入り込んだ馬たちを追い出すのに朝までかかった。朝、馬の持ち主たちとやり合った。
 こちらを締め出す決議をしたわけではないが、わたしは彼らとは違う。彼らはわたしを締め出そうとする、だから自分は闘うのだ。それでわれわれの未来は絶え間ない闘争であり、新たな権利と経営の確立のための戦争なのである。

 「だがもし国家救済のため、必要とあらばわれわれは、自分の心を殺してでもこれを救うだろう」(第1回国家会議におけるケーレンスキイの演説)。

8月20日

 Дети-присыпуши(ロシアの子どもたちと迷える子どもたち――檻に入る子、悪魔のもとに送られる子)

ヂェーチ・プリスィプシは民話に出てくる子どもたち。寝ている間に自分の母親たちに絞め殺され、悪魔〔不浄の力〕の支配下に置かれてしまう。

 サマゴン。村で1瓶4ルーブリ。町では10ルーブリ。1プードの麦粉から5瓶。でも豚を飼っていれば、餌は残飯で済むから、これは利益を生む。

 闘い。村の経営はわれわれのような環境下にあっては闘争に継ぐ闘争。で、今やそれが自然の状態だ。スタホーヴィチ家の管理人はもっぱら委員会への出席を仕事にし、行き当たりばったりの気紛れな会のやり方を村の経営環境の調査に利用している。

 労働ノルマとはそもそも何か? 煎じ詰めれば、労働がいかなる環境下にあるかということ。われわれの労働は未開時代のそれである。日中働いて、深夜に番をする。女房は食いもののまわりであくせく立ち働き、1分毎におもてへ駆け出す――梨の木が揺すられてないか〔実を落とされてないか〕確かめるために。労働ノルマとは自分の小さな畑におけるハッピーライフ。そんなことに鉄製品も大鎌も機械もない時代に言われていることなのだ。
 労働は人びとを親密にするが、所有は人びとを裂く。和合としての労働、他人の労働が一瞬にして身内肉親のそれになり、共にライ麦畑1デシャチーナに汗を流すと、彼らは親しき仲となる。

 普通の名を知れぬ人間が市民(グラジダニーン)になるというのではなく(そんなことはあり得ない!)、ただちょっと自分を市民と感じて自分の意見を述べ、自分をいちだん高く評価しただけである。また何ひとつ理解せず、じっと坐って他人の話に耳を傾けながらしきりに何かを待っている――そんなこともままあるが、しかしそれが突然、突っかかって(何かを悟ったのだ!)――全村民の財産目録をアルファベット順に記載するだと! そんなこと出来やせんなどと言い出す。そしてアルファベットにゃわしゃあ反対だと喚きちらす。そのあと自分の村で、土地委員会や食糧管理局やアブラム・イワーノヴィチやミハイル・イワーノヴィチに対して暴言を浴びせるのだが、それは『社会革命党の思いつきなんて知るかよ、アルファベット順に記載するだと! じゃあやってみろい。わしゃあ戸一戸順に回ってやる。でもな、一文字一文字追っかけて回るってのは、そりゃねえよ。輔祭は立派な人だが、このおっさんもアルファベット順にと抜かしやがる。そんな奴らはみな箒〔竃の小箒〕で掃き出してやるこった!』

 経営は闘いだ――自然との、略奪者どもとの、愚かな連中との、家畜との。そしてすぐにどうしようもなくなる。平和の木は闘争の中で大きくなり、たいていの場合、その木の下で憩うのはそれを育てた人間でない。赤の他人が腰を下ろすのだ。闘いと苦痛の中で平和の木は伸びてゆく。そのようにどの民族も自分の平和の木を育てている。そうしてその木はみんなにとっての平和となるのだが、しかしそれを彼らは闘いの中で育むのである。

 一瞬にして起こる奇跡。そこでアピスのうちに永遠の闘いの形象(すがた)を描く必要がある。動物の長い生長期間、それに奇跡を対置する。

 黒い再分割の結論。早朝、霧と露の降りたわたしの家のスゲの生えた池の端に、ひとり、村の老人が坐っている。請願人で御齢(おんとし)93歳のニキータ・ワシーリエヴィチである。馬の手綱を手に持っている。馬は腹まで水に浸かってスゲの葉を噛み切っている。
 「どうしたかね、ニキータ?」わたしは声をかける。「あんたはこれまでずっと百姓のために土地を探して、今ようやくそれを達したわけだ。土地は分配し終わったが、あんたはこんなふうにじっと坐って、馬にスゲの葉を食わせている」
 「いやあ、わしらが何を受け取ったって? なあにこうして昼も夜も生きてるだけだよ。いずれそのうちここを後にする。どうしたって去らぬわけにはいかんからな。ここにはもうわしのおる場所はないんだよ」

 見えているのは、どこまでも続く広い農民たちの秋の畑だ。一人当たりは幾らでもない細い帯から成る畑、収穫の済んだ麦の刈り跡の少しぼやけた悲しげな畑。ミヤマガラスが群れている。牛たちがうろうろしている。まだ盗まれていない干草の山(コピョーシカ)、小さな畝――こっちはいいかげんな刈り方をされてクシャクシャ頭の畝である。さては雨雲か、と見れば、たしかに日は隠れて、小雨がぱらぱら落ちてくる。と思うと、ぱっと明るくなる。どうやら重病人でも寝ているらしい。病人はふと我に返るが、また心乱されて、薄物で顔を覆ってしまう。風は畑を烈しく渡る――革命〈時代〉さながらに。こんなふうに黒い雄牛を見るのは妙なことだ。ああほら、恐怖の〈時代〉がどこかに向かってひた走る。が、それは、黒い雄牛は動かず、たえず食べるだけで〈時代〉には目をやろうとしない。一緒の牛たちも休まず草を食(は)んでいる。この灰色がかった大地は、微動だにせず、永久(とことわ)に無関心だ。
 額に小さな星を戴くアピスのごときその黒い雄牛がやっと頭をもたげて、地平線上の黒い点を見た。雌牛たちも一斉に顔を上げて〔そっちを見た〕。そして馬も羊もみなそっちに目をやっている。畑の上を黒い点が動く。
 帽子をかぶり眼鏡をかけた自転車の男。畑を横切り小道を行く。眼鏡に小雨の滴が撥ねている。風が帽子のつばで地平線を覆い隠す。何も見えない。見えるのは自分のまわりだけ。つばが上を向くと、あたりが少し見えてくる。畑と牛たち。男は家畜に興味がない。ぜんぜん不要。ただ、黒い雄牛が狂ったように駆け出したとたん、頭の中でエジプトと聖なるアピスがぐるぐる回りだした。風上に向かって進むのはなかなかきつい。男はへとへとになった。眼鏡の男は喘ぐ。牛の群れまで行き着けるかどうか。はなはだ心もとないが、かわりに頭の中がエジプトでいっぱいになってきた。男は考える――エジプト人はあんなに長い間アピスを求めていた、アピスの誕生をあれだけ待っていたのだ、なのにどうしてあれはこんなところをうろついているのか? 誰もあれを求めない、尊敬も示さない。あれはそこらを歩き回って、ただ待っている。何を? エジプトは消え、アピスは残っている。
 駅に通ずる小道が群れのいる方へカーヴして、牛たちがどんどん寄ってくる。眼鏡の男のまわりに集まると、男をじろじろ。アピスもこっちへ近づいてくる。
 『そうだ、こいつはアピスだ』と、眼鏡の男は思う。『本物のアピスだ、間違いなくアピスだ。エジプト人は死んでしまったが、しかしアピスはまだ歩き回っている。そうだそうだ、確かにあいつだ。でも一般にはそうと認められていない。だから僕は、と男は考える――『風と戦うのはやめて、この群れと車輪〔自転車〕を捨てて、聖なるアピス神に敬意を表しよう……そうだ、そうしよう……』
 それから男は――〔帽子をかぶり〕眼鏡をかけジャケツを着た男は、頭の中で自転車を降りた。そして農民たちも聖なるアピスとしての雄牛に神の〔一語判読不能〕敬意を表した。
 彼は生き、数々の奇跡を行なったが、(最新式の車輪だったにもかかわらず)風に向かって漕ぐことは足が許さなかった。

8月24日

 ピーチェルへ行くつもりだったが、〔コルニーロフ軍*1の〕壊滅を告げる電報を見て中止した。ラズームニクに電報を送る――『あなたのところへ行こうと思う。都合悪ければこちらへおいでください』。きょうモスクワ行きを試みよう。一日、ニコライ・ロストーフツェフ〔国会議員、故郷での隣人〕のとこにいた。ケーレンスキイとロベスピエール。ケーレンスキイは〈婆さん*2を連れた〉インテリゲント。全知識人に対する裁判では被告人の代表だ。知識人のすべての罪が歴代最後の者に被せられた……知識人全部の〈最後の審判〉だ。

*1ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロフ(1870-1918)は軍人、陸軍大将。第一次大戦で師団長に。オーストリア軍の捕虜となるが脱走。二月革命後、ペトログラード軍管区司令官、ついで軍最高司令官となり、臨時政府にクーデタを企てて失敗、逮捕される。10月革命後、南ロシアへ逃亡し、義勇軍(白軍)を結成、赤軍と抗戦したが、エカチェリノダール戦死。

*2革命婆さんのブレシコ=ブレシコーフスカヤ?

 聖人が祈願する、まあ彼はじっさい聖人なわけだが、でもその祈りの力を享受しているのは悪魔たちではないのか?
 あれは何だ? 夢想家の悲劇か、サタンの誘惑か? コストロマーの百姓が民衆の施し3万ルーブリをそっくり溜め込んだ。この男は義人(プラーヴェドニク)と見なされていたのだ。民衆は彼がさらに高いところへ上ることを欲した。彼は〔高い〕鐘楼に登り、そこから落ちて手と足を骨折した。
 聖者はよく祈ったが、神は彼を験(ため)そうとサタンに〔その身を〕委ねた――その驕りを試練にかけるために。

8月28日

 月曜日。24日、エレーツを発って、26日、ピーチェル着。
 地方はパニックに陥っている。破滅の運命にある市、恐怖の町。物凄い込み合い、ごった返し。身内を救いに行くのか、仕事を終わらせようというのか。ぎゅうぎゅう詰めだ、家庭争議。誰かが押せば誰かが毒づく。謝れば大事には至らない。茶代を強請(ねだ)るくらいのものだ。誰もがかこつける。
 「もうすぐ落ちるのか?」と誰かが訊いている。わたしは隣の男に――
 「ロシア語もずいぶん変になったね。あれは〔汽車を〕降りると言わずに、〔つるりと〕落ちるなんて言ってる」
 「同志よ、どうか民主主義を批判するのはやめてくれませんか!」
 「批判なしではどうにもならんでしょうが……」
 赤帽たちは歩きながら、物を預かり、しきりに自分のナンバーを怒鳴る。鉄道大会の代表とアカーキイ・アカーキエヴィチ〔ゴーゴリの『外套』の主人公の名〕。その代表がやっとのことで車室(クペー)にたどり着く。
 バラービンスカヤ・ホテル。オープンサンド3つとお茶1杯で6ルーブリ! ペトロフ=ヴォートキン〔画家、友人〕のとこに〔一語判読不能〕。羽目をはずした兵士たちがアコーデオンを手に、若い娘たちが歌う。
 イワノフ=ラズ-ムニクの家。
 公衆便所の〔使用〕禁止。兵隊。将校たちが兵士たちを怖がっている。

9月1日と2日にかけての深夜

 スモーリヌィにひと晩。電車が動くまで。歴史的会議。

伝統ある貴族の子女のための教育機関(女子学習院)だったが、二月革命以降、半ば開放された公的施設として(会議その他)使用されていた。ボリシェヴィキが政権を奪取する10月に学院は完全廃止され、ここがボリシェヴィキのペトログラード・ソヴェートおよびペトログラード軍事革命委員会の本部になった。7月24日に発足した第二次連立政府(首相ケーレンスキイ、農相チェルノーフ)の第一の基本任務は「外敵と闘争し、あらゆる無政府的・反革命的企図から新国家秩序を守るために全力をふりしぼること」だったが、問題解決への展望はすでになく、残されたのは力の論理だけであった。首都進撃をめざしていたコルニーロフの叛乱軍が前進を阻まれたのが8月28日、コルニーロフ自身は9月1日に逮捕された。プリーシヴィンがスモーリヌィにいた日の前日(8月31日)に、ボリシェヴィキの提案によって、ペトログラード・ソヴェートが〈革命的プロレタリアートと農民の代表から成る政権〉、つまりボリシェヴィキ中心の政権を要求する決議を採択していたのだが、この時点でプリーシヴィンはまだその情報に接していない。

 ボリシェヴィキは破滅を運命づけられている。彼らは仲良く〔共に〕死に時を求めて、それを待ちながら、日常的に無法を繰り返している。
 「同志のみなさん、死ぬのではなく生きていくのです!」メンシェヴィキが反駁する。
 彼らの指導者たちはクロンシタットの水兵からやっとのことで逃げてきたらしい。彼らは一刻も早くとにかく早く演説をぶちたくて仕方がない。ボリシェヴィキ=クロンシタット水兵と自然・生命・カザーク――これらが両極端。南ではカレーヂンとカザークが決起し、北ではボリシェヴィキが。カザークによる南北分断の脅威が迫っている。

アレクセイ・マクシーモヴィチ・カレーヂン(1861-1918)は軍人、騎兵大将。第一次大戦に兵団長。ロシア革命でドン・カザーク軍団長(アタマン)に選ばれ、ドンの独立を提唱し、コルニーロフらと南ロシアに〈三頭政府〉を樹立、義勇軍による反ソ軍事行動をとるも失敗、自殺した。

 チェルノーフは小者。それは、気取った話し方、微笑、冗漫で詭計の多い無内容な演説からもわかる。農村(ヂェレーヴニャ)という言葉を彼はフランス語のアクセントで発音し、自分を「百姓出の大臣」と称している。心の奥はからっぽだ。何も無い。もっとも、現在の「百姓出の大臣たち」の大半――こんな連中を今は村が郷に郷が郡に郡が首都に送り出しているのだ――がそうなのだが。そうした農村からの使者たちは刑事犯の農民たちによって選ばれる。なぜなら、農民たちは苦しんだから、不幸だから、である。彼らには経営基盤がない。暇な自由人〔ボリシェヴィキ〕はいかなる個人的損失もなしに農民の側に立てる。彼らは必要欠くべからざる政治のいろはを手っ取り早く習得し、へんちくりんな異国の単語をまき散らす――いずれもチェルノーフと五十歩百歩。「百姓出の大臣たち」と村の代表たちは、心理学的には、じっと坐りっぱなしの今の百姓たちの対極にある。

 立派なユダヤ人のリベル――つねに窮地に追い込まれる問題に首を突っ込むこれらユダヤ人は、ロシア人などよりずっと素晴らしい立派な人びと、ユダヤの真の華である。

 アフクセーンチエフ*1のなんという変身! これはロシアのジョレス*2……いや、そうではない、ストルィピンだ。外見にもどこか共通したところがある。表情こそ乏しいが、その真っ正直さ、その確かな雄弁術。

*1ニコライ・ドミートリエヴィチ・アフクセーンチエフ(1878-1943)は政治家。1907〜08年にエスエル党中央委員、「労働旗」紙編集員。1917年、農民代表全ソヴェート執行委議長および予備議会議長、臨時革命政府内務大臣。市民戦争ではソヴェート政権と闘い、1919年に亡命。

*2ジャン・ジョレス(1859-1914)はフランスの社会主義者。フランス社会主義の父称される。議会主義による合法的改良主義を主張する。1904年「ユマニテ」を創刊。反戦平和を唱え、軍事予算に反対し、ドイツ社会民主党との提携に努めた。第一次大戦直前、国粋主義者に暗殺された。

 マリア・スピリドーノワはエスエルやインターナショナリストらしくない。痩せて小柄で、ヴェーラ・フィーグネルのよう。あけっぴろげな顔はじつに魅力がある。今のロシアの良き詳細(ポドローブノスチ)を見る感じ。ただ少々干上がり気味だが。彼女のインターナショナリズムと鼻眼鏡と黄ばんだ顔は、秋の木の葉が落ちた黒い裸の枝といったところか。

マリア・アレクサーンドロヴナ・スピリドーノワ(1884-1941)は女性革命家、左派エスエル党指導者。タムボーフ県の貴族の娘。1905年、エスエル党に入党、06年、県下の農民運動鎮圧者ルジェノーフスキイ将軍に致命傷を負わせる。シベリア(アカトゥイ)へ終身徒刑。17年、二月革命で首都に戻り、エスエル左派の中心人物に。ブレスと講和に反対を表明、18年4月以後、農民問題その他でボリシェヴィキの政策を革命を裏切るものとして強く反対した。7月のモスクワでの〈エスエル叛乱〉後、逮捕されるも大赦。20年代初めから監獄と流刑の繰り返しで完全に政治活動の自由を奪われた。オリョール近郊で〈銃殺〉(ロシアのどの事典もすべて〈銃殺〉と記載)。

 世界平和の決議がなされた今、ソヴェートの会議〔レーニンらの〕と海軍兵学校の会議の間にどんな違いがあるというのか! もちろんそれで社会主義の雑魚たちは一網打尽になったが、しかしその網には誰も気づかなかった。なぜか? かなり深いところで事が行なわれた〔深いところに網が仕掛けられた〕からである。今その網はたぐり寄せられて池のヘリへ。もうすぐ岸に揚げられる。そして余計なオタマジャクシと蛙は池に戻される。

 誰の家に行っても、コルニーロフ支持の声。どうもこれは、民主主義が強くなったら合同(コアリーツィヤ)があるとボグダーノフが言ったせいらしい。現在、カデットを拒否しているので、たしかに民主主義はかなり弱い。

アレクサンドル・ボグダーノフ(本名はマリノーフスキイ)(1873-1928)は革命運動に関わった政治・経済学者、哲学者。本職は医師。モスクワ大在学中、学生運動で逮捕され、1904年にスイスへ亡命。ボリシェヴィキに属し、09年、反党グループ(フペリョート)を結成し、除名。著書『経験的一元論』でマッハ主義とマルクス主義の結合を企て、レーニンに修正主義と批判された。08年からプロレトクリトのイデオローグ。晩年、輸血研究所所長となり、自ら生体実験の犠牲となった。

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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