2012 . 03 . 20 up
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わたしの母は、自分の巣を出てザドーンスク*1あるいはオープチナ僧院へ向かうたびに、別人のようになった。わがナロードもそうで、旅に出る――それだけで人間が変わってしまうのである*2。今はわれわれインテリゲントも民衆の心とその一部を受け継いで、その広さその寛大さでもって異邦人たちに感動と衝撃を与えている。われわれは今、文学、芸術、地下政治の各分野から一介の旅人(巡礼)としてこの民族貪婪のもつれ合いの世界に足を踏み入れたのだ。そしてまさにそこで世界平和の道を説き伝えようとしている。
*1エレーツ市の南東に位置する町。有名なザドーンスク聖母修道院がある。
*2変わる(преображается)――ここではキリストの変容(マタイ伝17章2節、ルカ伝9章28〜36節)と同じ言葉。十二大祭の一つである変容祭(主の顕栄祭)はまもなくやって来る(旧8月6日)。
わが生活にまったく欠けているもの――平凡な喜び。
半未開の状態にある。書斎にヒヨコたちが侵入し、テラスには馬の首輪を置いている。自分は脱穀場で眠り、届けられた新聞はすぐその場で読んでしまう。
所有について。所有とは人間を縛りつける杭(くい)だ。それも、自分を思うほどにこの世のことすべてに心くばりができるようになるまで責め続ける杭である。なぜなら、それが所有制の遺訓であるから。おのれを愛するがごとく物質世界を愛せよ。モノについてのこの戒めはブルジョア世界にも社会主義世界にも同様に伝承されている。
去年伐採した森のうち全部で8デシャチーナがオヴラーグで地域全体を侵食から守っている。窪地の多い疎林であるにもかかわらず、その価値は私的であると同時に社会的である。先祖は百年の間ここに森番を置いてきた。どこにでもあるようなそんなオヴラーグがちゃんとした収入をもたらしていたのだ。そんな土地を村委員会がこの春、これは国家の所有物と言ってきたわけだが、今ではそこに積んであった薪の山まで運び出された。薪が無くなると、今度は村の女たちが草を取りに入って、草だけでなく若木まで刈り取ってしまった。そのあと馬の群れまで放ったから、いよいよ若木も若草もめちゃくちゃになった。わたしはひと夏、闘った。村の寄合いでも頭を下げ、年配者たちにも頼んで回ったが、どうにもならなかった。さんざん踏み荒らされて、もう手の施しようがない。
若芽を守りながらいつも言い聞かせてきた――もうこれは自分のものではないけれど、自分はみんなのものとして守っていくのだ、と。でも、そんな話を誰がまともに聞くだろう。私的所有の感情を味わったことのない〔そういう教育なり生活環境を知らない〕人間には、社会的共同所有がいかなるものかがわからないからである。
個人としてはわかっている。でも、持ち主が40人もいる土地には手を出せん――『そりゃ駄目だ』とはっきり言う。
そして口裏を合わせたように――『このままじゃ駄目だな、権力みたいなもんが必要だ』などと言う。権力を認めているのだ。
「同志諸君! 権力はわれわれ自らのうちにあるのです」
「てことは――」と、みなが言う。「わしらにゃ無いってことだな」
村が自らを管理できないのは確かだ。なぜなら、村ではみんなが身内だし、権力は余所者(よそもの)と思っているからである。たとえば、この村ではキャベツと胡瓜がまったく手に入らない。隣家の子どもたちや子牛が踏み荒らして、まともに収穫できないのだ。畑を踏み荒らした者には罰金を科したらどうかと提案してみたが、通らなかった。
「そんなことすりゃ――」と彼らは言う。「刃傷沙汰だぞ」
村は狭い。身内同士ですべてを分配し直したので、〈権力は血縁者を愛さない〉、〈権力には親戚がいない〉と誰もが思っている。
だからメシコーフのような男が代表に選ばれたのだ。知性のかけらもない元刑事犯は住む家どころか杭の一本も持たないが、ただ依怙贔屓をせず公正(プラウダ)を第一に考えるということで選ばれたらしい。でもまあそのプラウダの正体だってはなはだ曖昧なのである。いったい彼は何によって生きているのか? ただの浮世離れした空想家ではないのか? 考えてみれば、権力だってずいぶんこの世離れしている。
不幸不運の因は、われわれの革命が(その根底において)世界で最もブルジョア的なものであることに在る。所有者の革命ではなく所有者になりたいと願う者たちの革命なのである。それら未来の所有者たちは社会主義の公式(決まり文句)を連呼して現在の所有者たちをやっつけ過ぎたから、やっつけられた側は地下の穴倉に隠れてしまって、今ではまったく回復不能の状態で、ただひたすら神の国に視線を走らせるばかりである。
初めのうちはそれでも土地所有者を不愉快にさせただけだが、そのうち国家(ネイション)の団結をと呼びかけ始めた。やっつけられた側はそれを拒絶した――社会主義者などよりドイツ人のほうがよっぽどマシなので。
どの新聞も書いているのは、嘘と皮相なことばかり……
いま社会生活自体が戦線離脱の様相を呈している。みんなが逃げる、免れようとしている。一方、政府は必死で団結を呼びかけている。前線では逃亡者を機関銃で引きとめているが、こちら〔銃後〕も似たようなもの。避けられない。逃亡は暴力的手段でを阻止しなければ……必要なのは残酷な独裁制だなど言い出している。そうなることをむしろ心待ちにしているようだ。ある変わり者は――『言わせてもらうが、おれは清廉潔白な人間だから、みんなの幸せのためには自己犠牲だって厭わない、銃殺されたってかまわない。母なるルーシってのは、いいか、むしろ自分の身体が八つ裂きにされるのを(淫らなまでの悦びをもって)待ってるくらいなんだ、そうなんだ』
わたしは町から戻る途中で靴を脱ぐと、馬に鞭をあてながら歩きだした。前の坂をゆっくりゆっくり登っていく百姓がいた。その荷馬車の横を兵隊たちが歩いている。そのつまらない馬鹿げたやりとり――
「製粉所んとこのオーストリア人〔捕虜〕はなんで取り上げられちまったんかな?」
「粉屋は自分でやってけるんだ。いつも『わしみたいに働いてみろ!』なんて抜かしてたからな。そんで庭先をぶらぶら歩き回っとるのさ。なんせてめえの庭だ。がっぽり儲けてぶらぶらしてんだ!」
「儲けたか、ふうん、ところでおめえは何を儲けた?」
「おれがどうしたって? なんでそんなこと訊くんだよ?」
「どうせライ麦は没収(と)られちまうから、そうなる前にサマゴンにしちまおうと思ってんだよ。みんなそうなんだ」
「おれは家がねえから……自分で建てなくちゃ……」
「以前は干草広場にゃ荷車がいっぱい停まってた(ありゃあ凄いもんだった!)が、今じゃどうだい、街道で女たちを見かけりゃ必ずジャガイモをふんだくってる。あんなんじゃどうしったって無事に広場まではたどり着けねえ」
脱走兵たちのやりとり――
「なんで戦うかって? 誰を守るって? おめたちをか? おめたちゃいってえナニモンだい? なんでおれがおめたちを守るってよ?」
もぐり屋〔すぐにいなくなる〕の兵隊たちのやりとり――
「ところでニコールカがいなくなっちまったよ。おい、みんな、ここはよくねえ、あっちじゃ8時に起きたが、登録〔雇いの?〕なしだ。でも今はいいぞ、気持ちがいい、なんてったって自由だからな!」
労働者たちに対する不満の声――8時間労働制とか、親愛なる同志たちは何もしない、とか。
「パンをやらなきゃいいんだ! けちけちしなきゃ駄目さ!」
侮(あなど)られ辱められたルーシは自分の放蕩息子を思いきり殴りつける機会(とき)を待っている。
文学と芸術と芸術によく似たこの社会主義――それらはどれも公然と、あるいは密かに自分の父親に向かって『ニェット!』と言って、迷える息子を遠くへはるか遠くへ送り出そうとする。
メシチャン〔小市民ふう〕なテーマ。柵近くに見事な梨の木が立っている。枝もたわわに実をつけたが、樹冠が大きく隣の敷地に垂れていたので、美味しい実はほとんどそちらへぼたぼた落ちた。
乾いてる。村の方から打穀の鈍い音が聞こえてくる。乾燥がひどいので種蒔きは中止。種蒔きが終わったら、すぐにもピーチェル〔ペテルブルグ〕に潜入だ。水面下でこれからどうなるかを確かめる。自分のテーマをひっさげて生き抜くか、それともここに根を下ろすか?
近ごろはどうも雇い主のとこで暮らしているといった感じ。なんとかひと月生き延びた。でも、あとひと月はどうかな、生きられるかな? そんなことを思ったりする。現在の国家は、物質(モノ)の私的所有の原理とそれを売って子孫に引き継ぐ権利の上に築かれている。モノを所有する者たちからその原理と権利を奪うことは、すなわち彼らだけでなく、彼らの父たち母たち祖父たちをも辱しめることを意味する。その原理と権利を引き継ぐ力は、魂の――そう、誰もが思わず跪いてしまう魂の、汚れなき処女の泉を本源とするものでなくてはならない。そうであるなら、決してその力は強制や暴力になることはない。だがもし強制や暴力に転ずれば、様相は一変する。いったい誰が今それを強いているのか?
長老(スターレツ)が姿を見せる(やれ首輪だ、やれまぐわだ!と)。村の長老はみなに経営の何たるかを教える――何事にも大胆に取り組めと。それが民の民たる者の第一義だが、次の一義は明らかに革命的泥棒的フーリガンへの一歩である(『おいパーヴェル、あやのつらに一発かませ!』)。 帰ってきたボリシェヴィクのフェーヂカが話している――今これが禁じられてる、やっちゃまずいんだ、ぜんぜん別のレコードが回りだしたんだよ。
立派な愛すべき人間〔スターレツ〕と泥棒一味のあの反抗精神についてはとことん考えてみる必要がある。
農民が穀物の値上がりを望んでいるというのは嘘だ。多くの農民は自分で穀物を買っているし、概して値上げには反対である。町の物価を上げるべきじゃない、自分らだって穀物の値を下げたいと思っている。どこへ向かっているのか、まだわからない。
レーミゾフは結局、自分の殻を破れない。ひょっとしてひょっとすると、ロシアは破滅に向かっているのではないか? ああした新しい機関――土地委員会、食糧管理局、村委員会、どれもこれも明らかに馬鹿げている。しかし人間はその間にぜんぜん違う生きものになってしまった。ほんとに馬鹿げた、訳のわからない行動をとっているが、心理学的には市民(グラジダニーン)だったことは疑いないのである。額をぶつけ合ったが、それでわかった。村がボリシェヴィキから得たのは、農民たちがナンセンスを通して真実(プラウダ)を知ったこと……
革命的破壊と混乱がなかったら、この夏にも戦争は勝利に終わったはずだ――誰しもそう思っていた。専売(独占権)はおそらく農民たちには認められない。そうなれば、争う余地なき絶対的権力が樹立されないかぎり、神のみぞ知る〔われわれには想像もつかないような〕ことが起きてしまうだろう。
まわりでみなが草を刈り、運び、脱穀し、種を蒔いているときは、夢見るどころではないしそんな暇もない。労働を実感(文字どおり体感!)するからだ。にもかかわらず、それほどはっきりとそれほどリアルな(夏には3倍もリアルな)厳しい労働をこなす彼らが、土地と自由と世界平和について毒ある夢を見、頭が変になって、今また何でもないような顔をして汗を流しているけれど、これがまた大祭がめぐってくると、朝からサマゴンをかっ喰らって、忌まわしい村の通りは酔っ払いで溢れて、地主の旦那のいたころとは比較にならないほど始末が悪い。聞こえてくるのは『百姓が悪い!』だ――なぜなら、薪も収穫物も出さないから。だが百姓たちだって町の人間と同じで、人さまざまである。確かにそうだが、その構成員はいずれ同じマス同じプロトプラズマであって、自らの教師たちの碌でもない悪習を踏襲し実行しているにすぎない。
手で種を蒔いたり畑を耕していたのだが、ちょうどそのころ庭の林檎と梨とスモモが盗まれていた。亡くなった母が大事に育てた大枝がへし折られた。まるごと倒された木もあった。仕事を中断してそっちへ行き、後片付けをし、もう一度畑に戻ってみると、はたしてキビ畑には村の子牛が、クローヴァー畑には馬の群れが。どうしようもない! あまりの仕打ちに、種を蒔きながら何も考えられなかった。自分の仕事はこれでいいのか、ともかくできるだけ早く切り上げてどっかへ逃げたほうがいい。*ゼムリャーとヴォーリャ――〈土地と自由〉はロシア語ではいずれも女性名詞、だから娘たち。1870年代に活動したナロードニキの革命結社。前出。
ボリシェヴィクでありエスエルでありエスデックであるチーホノフがわたしに手紙をよした――〈ブルジョア〉という単語を括弧でくくって。おそらくそれは、指導者たちも全員がじ考えだということだ。現代の求神主義のインテリたちとイコンの関係のようなもの、つまり不信と不誠実さを表わしているのである。一方、普通の人たちは、そこには何かある、庶民とはかけ離れたこの世で最も有害な人種=ブルジョアがいると盲目的に信じているのだ。われらが農民たちは自分たちがよく耳にし口にもする言葉〈満州(マンジュリヤ)〉*に倣ってその有害人種を〈ブルジュリヤ〉と呼んでいる。
*日露戦争(1904-05)以来のこと。日本とロシアが満州・朝鮮の制覇を争ってから、まだ12年しか経っていない。
*モスクワ会議――モスクワで臨時政府がロシアの全反革命勢力を合同する目的で 開いた会議。1917年8月12日から15日まで。
だが、困ったことに、革命は最後までからっぽの国庫(カズナ)に凭れかかって八方塞がり。つまり、とどのつまりがどん詰まり。
エレーツ市議会選挙。知人たちの名簿。リスト№1。候補者をではなく名簿を選ぶというので、А・А・ペトローフは大いに戸惑う。フリーシマン氏はチョールノエ大村の教会の前に赤い更紗を張ったベンチを据え、そこに〈公約〉を書き出した――№1リストは人民に自由とパンと燃料を供給するので、ぜひ№1リストに投票せよを、と。するとひとりの老婆が(デマゴーグ〔民衆煽動家〕のフリーシマンを指さして)言った――最後に現われるのは必ずこいつみたいな魅力たっぷりの偽預言者、ゴグとマゴグ*1だぞ。こいつらは嘘八百を並べ、何でもかんでも約束する。悪魔みたいに、石ころをパンに変えよと言っって主を誘惑するぞ、でもな、キリスト様は――『人はパンのみにて生きるにあらず』*2とお答えになったんじゃ』*1ヨハネの黙示録20章7節に、「この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする……」。専制君主、恐怖の支配者。聖書・回教伝説中の王ゴグおよび国民マゴグの名から。
*2マタイによる福音書4章4節。
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