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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 06 . 15 up
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1914年2月8日

 ロシアのナロード〔民また人びとまた青人草〕のことは、わたしもよく知っている。女房を殴るのは亭主でない、悲哀、大酒、困窮、それと無知なのだ。ある夏の日、村の子どもたちが息せき切って駆けてきて、こんなことを言った――『あっちの原っぱの白樺の木に女が登ってるって。血だらけだってさ、牧童がそう言ってたよ』。立会人を引き連れて、村長自ら現場へ向かう。そして牧童に――
 「この木に血まみれの女が登ってたって、本当か?」
 「はあ、たしかに。でも、女じゃねえす、マダムなんで」
 彼の言う〈マダム〉とは自由婚をした女のこと。近ごろはよくそんな言い方をする。

 わたしは〈ぺテルブルグの婦人問題〉の公開討論会へ出かけようとしていた。外套を掛けるハンガーになぜか箒が立てかけてあったので、アーンヌシカに訊いた――これは何だね、何のためにこんなのがうちにあるんだね? すると、こんな答えが返ってきた。ああそれは、うちの亭主(屋敷番のイワン)がここにきたとき、忘れていったんです。
 それでわたしは、ほんの冗談のつもりで、こう言った――「ひょっとしたら、この箒は(一語判読不能)イワンがおまえの教育に使ってるやつかもしれんなあ」
 「いいえ、そんなことしませんよ、うちのひとは!」
 「それでも、ひょいとそんなことを思いつくかも」
 「いいえ、教育なんかしませんとも。殴られるなと思ったら、あたしはもう姿を消してますから」
 「逃げて、いったいどこへ行くんだね?」
 「洗濯女になるんです! きょう日は、そんな、ヒトを殴る権利なんて誰にもないんです」
 婦人問題の討論会に行こうとしていたこちらの関心は、当然ながら(一語判読不能)の権利に向けられている。
 「アーンヌシカ――」わたしは真顔になっていた。「じゃあ、子連れの場合はどうなる?」
 「簡単ですよ。女の子なら父親に、息子ならあたしに。今どきはそんなこと、簡単なんです!」
 「でも、夫が男の子がいいと言ったら、どうするんだね?」
 「とんでもないわ、そんなこと! 今じゃ法律はすっきりしたもんです。男の子は女親に、女の子は男親に、ってね。それでおしまい! それで解決なんです」
 階段を下りて行こうとすると、アーンヌシカが戸口までついてきて、まるで興奮した雌鶏みたいに、またぞろ同じことを繰り返した――
 「息子はこっちに娘はあっちに、ですからね!」
 そこでわたしは思った――亭主が呑んだくれたら、彼女はまず間違いなくあの箒で亭主を打ちすえるにちがいない、と。

 そんな印象を抱きながら、わたしは討論会に参加したのだが、見れば、すでに壇上では、堂々たる大女が口角泡を飛ばしているではないか! ぶんぶん振り回すその太い二の腕。吐き出す罵言の一語一語に込められているのは、殊更なる憎悪と、とくべつ強調された意味・ニュアンスであるようだ。
 「世の男どもよ!」
 会場を埋め尽くした女たち。割れんばかりの拍手。まるで箒で武装した怒れるアーンヌシカたちが、憎むべきイワンをぶっ叩くために集まったかと思うばかり。どうもなんだか、そのイワンが男どもの代表として槍玉に挙げられている凄まじい家庭劇、といった感じである。
 人垣を押し分けて、わたしは会の主催者(女性)の方へ行く。彼女は落胆しまくっていた。まわりの人間もみなやはりがっくりきていて、同じことを何度も繰り返している――「来るかしら、あの人? やっぱり来ないわよね?」
 「あの人とは?」
 「あの人よ。あなた、Nを知らないの? Nはね、頭のいい婦人運動の反対者。彼が来なくちゃ、どうにもならないわ」
 電話をかける。通じない。大至急使いを走らせる。しかし、だめだ。彼は来ない。ああ、どうしよう!
 だが、会場は拍手の渦。大女の激白が続いている。
 「これは、いいですか、男どもの勝手な一方的な政治ですよ! 男どもが抱いている宿年の偏見なのです!」
 ところで、わたしがやってきたのも、その有名な反対者が今日ここで話をするというのを耳にしたからなのだ。なぜなら、自分も、現代の婦人運動にあまり共鳴(一語判読不能)していないからである。
 「せめてあなただけでも、何か話してくださいよ!」女たちが、かなり陰気な顔をした青年に声をかける。
 「僕が婦人運動に反対ですって?」若い男はびっくりしている。「ペテルブルグのいちばん目立つところに(二語判読不能)賢明な統治者たるエカチェリーナ女帝が立っておられるというのに、どうしてこの僕が婦人運動の反対者でいられるでしょう!」
 反対者なんて! 男たちはいずれ劣らぬ人物だ。シンガリョーフや(二語判読不能)――これらはみな雄弁な女性擁護者だ。
 「たしかにそうですけど」と、ひとりの女性が反論する。「そういう人は誰も発言しません。きっと自分の考え(官僚主義)を論理的につなげる能力に欠けているんでしょうね。それで、その人たちは(一語判読不能)」
 若い男は頭を絞って語り始める――
 「この問題では、人類共通のものを楯に取っておられますが、僕などにはそれはただの空念仏にすぎません。存在するのは、М(男)とЖ(女)の生物学的仇敵だけです」
 口笛、ブーイングの嵐。なんとも言いようがない。もう誰にも話させない気である。しばらくして、ようやく嵐がおさまる。
 「反対者の意見を最後まで聴きなさい」
 「僕は反対者なんかじゃありませんよ」と、若い男。「反対者じゃない、擁護者です。ただし、男女同権ではなく、男女の自立を擁護する立場です。Жは、Мとはまったく似るところのない新しい文化を創造しなければなりません。僕はただ革命に、婦人参政権論者に反対なだけです」
 「でも、わたしたちだって革命や自立ということを(一語判読不能)。もう女性は一人前ですから……」
 入れ替わり立ち替わり(一語判読不能)が意見を述べる。反対者が一人もいないって!
 いいや、反対者はごまんといるのである! きょう会場に来ている男たちの胸中に、とりわけ女たち自身の〈男ども〉への対抗意識の、その秘められた心の隅に、じつに多くの反対者が巣食っているのだ。でも、女性の権利を、正当な内容の(一語判読不能)を敢えて愚弄するような、容赦のない反対者は存在しない。捜しているのだが、見つからない。

 個人主義とは殊更の弱さであること。

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