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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 05 . 26 up
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 ようやく警察の監視から解放されると、プリーシヴィンは出国の許可を申請した。高等中学の退学者や不穏分子の烙印を押された者は〈狼鑑札〉――好ましからざる経歴が記された身分証――の所持者となって、大学への進学も官や教職への就職も許されなかったからである。略年譜のつづき――

1900年――
国外へ。ベルリン、イエナ、ライプツィヒ。最終的にライプツィヒ大学哲学部農学科へ。勉学に励む。

「わたしのマルクシズムは次第に融けていく……農学士になるための勉強をしている。わたしはただ祖国にとって有用な人間になりたいのだ」

1902年――
大学を卒業。パリで、ロシアからの留学生ワルワーラ・ペトローヴナ・イズマルコーワと出会う。

 「〈気狂いじみた年〉。ライプツィヒでの学業を終えた春、わたしはパリ見物に出かけた。(その人と)逢瀬を四度重ねたあと、人生についての意見の相違から、訣別。場所はリュクサンブール公園だった。この出来事が今日まで(1918年現在)のわたしの行動のすべてを決定づけている」

傷心の帰国。フルシチョーヴォへ、ペテルブルグへ、モスクワへ。ボゴローヂツク独立農場(トゥーラ県のボーブリンスキイ伯爵家の所領)で農業技師として働く。ペテルブルグからまたフルシチョーヴォへ。

1903年――
モスクワ県クリン郡のゼームストヴォ(地方自治体)に就職する。ここで若い既婚の農婦エフロシーニヤ・パーヴロヴナ・スモガリョーワ(旧姓バドゥイキナ)と出会う。彼女の連れ子(ヤーコフ、愛称ヤーシャ)ともども同棲。

1904年――
日露戦争勃発。ペトローフ農業大学のプリャニーシニコフ教授の植物実験所で働く。エフロシーニヤが最初の子を懐妊。意を決し、独りペテルブルグへ(ワシーリエフスキイ島14条)。高官フィリーピエフの秘書となる。叶わなかったデート(相手はカーリ)。エフロシーニヤがセリョージャ(第一子)を抱き、ヤーシャの手を引いて上京。居をレスノーイに移す。最初の短編「霧の中の小さな家」(未発表)。

アンナ・イワーノヴナ・カーリ(Каль)はライプツィヒ留学時代の友人。彼女の家で、初恋の人ワルワーラと出逢った。

1905年――
春、ルーガ(ノーヴゴロド市の西)の実験場ザポーリエで農業技師を、また「実験農業」誌で編集の仕事をする。農業関係の最初の本『畑と菜園の馬鈴薯』を出版。続いて『ザリガニの繁殖』、『畑地と牧草地施肥』

「交響詩ファツェーリヤ」(『森のしずく』所収)の冒頭、がたくり馬車で旧ヴォロコラーム郡へ向かう二人の農業技師――うち一人は失恋男のプリーシヴィン自身だ。彼らの仕事は牧草播種の普及活動である。

 「『畑と菜園の馬鈴薯』をどんな気持ちで書いたか、誰にもわかるまい。バザールで女がやるみたいに、一行いくらで掛け合ったのだ」

1905年(同年)――
実験場を解雇(喧嘩の末)。このころから日記を付け始める。新聞記者に転身し、「ロシア通報」「談話」「ロシアの朝」「ヂェーニ」その他に記事を書く。これが十月革命のころまで続いた。

2004年にペテルブルグで出た『花と十字架』は、この当時、ペテルブルグの各紙に掲載された〈1906〜26年までの作品および評論集〉。これまで彼の著作集や全集に収録されなかったもので、詩人ブロークとの論争など、二〇世紀初頭の首都の空気を知るうえでも非常に貴重な資料である。

1906年――
ペテルブルグ(マーラヤ・オーフタ地区〔貧民街〕)。降誕祭にセリョージャ死去(生年は1903年もしくは04年)。男児レフの誕生。民俗学者ニコライ・オンチュコーフを知る。民話と民俗学の資料を求めて、セーヴェル(北ロシア)のオローネツ県へ旅立つ。文学上の処女作は、短編「サショーク」(「ロドニーク」誌)。セーヴェル民俗紀行『ヒト怖じしない鳥たちの国』**)を翌年、ペテルブルグで出版。

のちにジャーナリスト。写真家でもあった。愛称リョーヴァ。ペンネームをアルパートフ=プリーシヴィンとした。アルパートフは、のちの父の自伝的長編『カシチェーイの鎖』の主人公の名である。1957年に死去。「父の思い出(ИРЛИ))」(未刊)を遺した。

**邦題『森と水と日の照る夜』・成文社刊。邦訳副題は「セーヴェル民俗紀行」。

1907年――
オーフタ地区。カレリアとノルウェイへの旅。冬、「魔法の丸パンを追っかけて」(邦訳『巡礼ロシア』所収)を翌年、ペテルブルグで出版。作家アレクセイ・レーミゾフを知る。

1908年――
春をフルシチョーヴォで過ごし、ケールジェネツの森(ニジェゴロド県)スヴェートロエ湖への旅。夏、スモレンスク県のシェルシェネヴォ村で、冬はペテルブルグで「見えざる城市のほとりで」(邦訳『巡礼ロシア』の「キーテジ――湖底の鐘の音」)を執筆、「ルースカヤ・ムィスリ」誌に分載する。ブローク、アレクセイ・トルストイ、ギッピウス、メレシコーフスキイ、フィローソフォフ、イワノフ=ラズームニクらと交遊。ぺテルブルグの〈宗教・哲学会〉へ入会。そこでワシーリイ・ローザノフと出会う。宗教セクト〈世紀の初め〉とその指導者レフコブィトフと知り合う。

1909年――
鞭身派(フルィスト)との関係が深まり、彼らを〈宗教・哲学会〉の会議へ招請。春、フルシチョーヴォで、夏をペテルブルグとイルトゥイシのステップで過ごす。汽車の中で詩人のヴォローシンと邂逅。奥イルトゥイシのステップでの成果が「黒いアラブ人」(「ルースカヤ・ムィスリ」誌・1910)。オーチェルク「アダムとイヴ」――移民のたちの運命を描く―― を刊行。男児ピョートルの誕生。ローザノフから「あの退学」について説明がなされる。ローザノフとの〈ロマン〉の終焉。

畜産技師。父の数多くの旅に同行――33年、ソロフキと白海運河へ、38年にはヴォルガへ(『裸の春』)。ザゴールスク近郊のザヴィードフ軍事狩猟者生産場で働いた。1987年に死去。未完の遺稿は現在、国立オリョール文学記念館に保管されている。愛称ペーチャ。

1910年――
著書『森と水と日の照る夜』により帝国地理学協会の正会員に選ばれる。春をフルシチョーヴォで、夏をブリャンスクの森で過ごす。ブルィニ(カルーガの南西)で火事に遭う。借家は燃えたが、家族は無事だった。べリョーフ(トゥーラ県)、ペテルブルグ(ゾロトノーシスカヤ通り)。親友イワノフ=ラズームニクの論文「偉大なる牧神」はプリーシヴィンの作品論である。短編「クルトヤールの獣」、「鳥の墓」その他を書き進める。

この事件については、短編「わたしのノート」(『プリーシヴィンの森の手帖』所収)および妻エフロシーニヤ・パーヴロヴナの「ミハイル・ミハーイロヴィチとの生活」(『森のしずく』所収)に詳しい。

1911年――
長兄アレクサンドルの死。マクシム・ゴーリキイと文通、会う。ジャブィニ, スモレンスク県の各地、ヴォルガ河畔のコストロマー、ノーヴゴロド県下の村々(ラプチェヴォ、ムシャーガ、ペソチキ)では妻も一緒の生活(15年まで)。ノーヴゴロドの森で狩りをし、たまにペテルブルグ(ロープシンスカヤ通り)へ。作品「イワン・オスリャニチェク」。

1912年――
ラプチェヴォ村。短編「ニーコン・スタロコレーンヌィ」を文芸誌「野ばら」に。ノーヴゴロドのフォルチフィカントフ神父の小屋。メイエルシャと知り合う。ペテルブルグのロープシンスカヤ通りへ。1912〜14年に3巻著作集を「ズナーニエ」社から刊行。

メイエルシャは、哲学者で宗教思想家のアレクサンドル・メイエル(1875-1939)の妻。「チェーホフの〈可愛い女〉にそっくりだ」と日記にある。夫は〈宗教・哲学会〉の会員。

1913年――
メイエルシャとペソチキ村へ。文集『ザヴォローシカ』(モスクワ書籍出版社)では、革命前の最も病的な根本問題である土地と数百万の農民たちの運命について語る。それをブローク、ゴーリキイが絶賛。クリミヤ半島へ旅立つ。

1914年――
教育家のレーベヂェフとペソチキ村へ。オーチェルク「アストラル」。8月、第一次世界大戦が勃発。母の死。遺産(土地)の分与があった。このころから規則正しく「日記」を付け始める。「ロシア通報」紙の戦地特派員として、9月と10月を前線で過ごす。「ロシア通報」紙の共同経営者の一人、イリヤ・ニコラーエヴィチ・イグナートフはプリーシヴィンの母方の従兄。レーミゾフの回想によれば、この従兄は報道記事を送るにあたって、とにかく結論をはっきりさせるよううるさく言ったが、プリーシヴィンは「チェーホフみたいに」、つまり結論なしに書きたいとしばしば漏らしていた。 


 日記を再開することにしよう。日付はないが、1914年1月23日と2月8日の間に書かれたと思われる以下の記述から――

 感情には二つの極がある――明と暗だ。〈心の安らぎとバランスの時〉というのは、まわりのすべてが明瞭であり、とりわけ〈その時〉を、なぜか永久に留めおくことができるような気がするものである……そう、宗教的人間の〈その時〉は祈りによって強化されるのだ。そしておそらく、宗教はそれを保持するために必要不可欠なものとなる。要するに、純粋に動物的な充ち足りた歓びというのではないが、同時におのれの官能を喜ばしく感ずる状態なのである。エクスタシーの烈しい魂の歓喜はないけれど、一切のものがバランスと調和のうちに、穏やかな光を放っている。  もう一つの〈時〉は、それとは対照的で、ナイフでぐさりとやるように、なぜか不意にやってくる。跳ばなくてはならない断崖の下、暗黒の淵を覗いて、否も応もなく落ちてゆく感じと言っていいだろう。なにやら償いきれない(どうにも仕方のない)罪――それを犯したのがこの自分なのか、それともずっと以前に誰かが自分に代わって犯したのか、ともかく否応ない破滅の感じというのに似ている。こうした〈時〉のあとに、ときには鈍麻と完全な無気力に陥らせるうつ状態(トスカ)がやってくる……それは、いかなる法則も無きがごとくに、まったく不意にやってくる。

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