》成文社 / バックナンバー
プリーシヴィンの日記 太田正一
2010 . 05 . 19 up
(五)写真はクリックで拡大されます
日記が意欲的に、多少とも規則正しく付けられようになるのは、この年(1914年)の年明けからである。それは、これまで試みなかった「長編」の着想を得たことと関係があった。プリーシヴィンにとって「日記」は何よりまず「創作ノート」なのだ。
長編『カシチェーイの鎖』(1923〜54)は自伝的色合いの濃い、ドイツふうの一種の教養小説(Bildungsroman)――長い時間をかけた、文字どおり畢生の、しかし未完の大作である。日記には、気宇壮大な〈自分史〉をものしようとする意気込みのごときものが感じられる。そのためのメモや下書きが徐々に混じってくる。8月には人類未曾有の大戦が始まり、ほどなくして愛する母がこの世を去った。葬式を済ますと、今度は作家自身が慌ただしく戦地に赴く――「ロシア通報」の報道員として、9月、10月、翌年もまた2月、3月と。1914年の出来事は、どれもこれも、生涯のテーマを掘り下げるに必要かつ十分な契機となった。
さて、さらなる日記の理解を援けるために、ひとまずここで踵を返して、その前半生、すなわち作家が呱々の声を上げた1873年から日記の現在時(1914年)までを、自前の略年譜で辿り直すことにする。ちなみに「 」の部分は、1918年9月24日の日記にプリーシヴィン自ら記した「自伝的メモ」、また自伝的長編『カシチェーイの鎖』のためのノートの一部でもある。それらから適宜、筆者(太田)が抽き出した。
プリーシヴィン略年譜(前半期)
1873年――1月23日(新暦2月4日)―オリョール県エレーツ郡フルシチョーヴォ村で出生。生家は手広く卸商を営んでいた。父ミハイル・ドミートリエヴィチ(18…〜1880), 母マリヤ・イワーノヴナ(1842〜1914)の(一女四男の)三男。長女リーヂヤ(1866〜1918)、長男アレクサンドル(1868〜1911)、次男ニコライ(1869〜1919)四男セルゲイ(1875〜1917)。乳母エヴドキーヤ・アンドリアーノヴナ。ついでながら、母方のイグナートフ家――イワン・イワーノヴィチ(最年長)、グリゴーリイ・イワーノヴィチ、イリヤー・イワーノヴィチ――は旧教徒(староверы)である。
「わたしは1873年1月23日に、エレーツ郡ソロヴィヨーフスカヤ郷フルシチョーヴォ村で生まれた。父は馬と花と狩猟が好きだった。わたしが数えで8歳のときに中風(アルコールが因)で亡くなった。父の死後、人手に渡った土地(父の賭博によるもの)を、母が〈銀行相手に奮闘して〉取り戻した。母はとても壮健で、いつも野良にいた。彼女のあだ名は《侯爵夫人》」
「父からは神経質(過敏)を、母からは心の健康を受け継いでいる」
プリーシヴィンПришвин という姓から、ドイツ人はわたしをドイツ人だと、ユダヤ人はユダヤ人だと思うらしい。ロシア人もロシア人の姓とは考えないようだ。こんな会話をよく耳にする――「プリ―シヴィンはユダヤ人なのだろう?」。生まれ故郷であるエレーツの住人なら、わたしの先祖がプリーシヴァпришва(織機の部品)を商っていたこと、それが呼び名に、のちに苗字になったことを知っている。エレーツのプリーシヴィン家は代々続いた商人だ。古くからのエレーツ人とは、たぶん、どっかで血がつながっている」
1882年――村の小学校を終える。
「中学への入学準備は〈復習教師たち〉と村の小学校の先生パーヴェル・ワシーリエヴィチによってなされた」
1883年――エレーツ市の男子中学(古典高等中学いわゆるギムナージヤ)に入学。
「次兄のニコライと同じ寄宿舎で生活。教師たちがわたしに何を要求しているのか、さっぱりわからなかった。勉強も素行も1点(最低点)で、母を悲しませるのが辛かった」
「従姉のドゥーニチカ(あるいはドゥーニェチカ*)は人を愛すること(ネクラーソフから)を教え、もう一人の従姉マーシャは高遠にして超俗的なるもの(レールモントフから)を示してくれた」
*幼少期の彼に最も強い影響を与えたといわれるドゥーニェチカ(エウドキーヤ・イグナートワ・1852〜1936)はソルボンヌ出の才媛で、熱烈な人民主義者(ナロードニキ)。農村の子どもたちの教育に生涯を捧げた。プリーシヴィンはマルクス主義者としてドゥーニェチカを超えようとしたようだ。マーシャは1908年に死去。
1884年――落第、留年。〈黄金のアジア、あるいはアメリカ〉へ仲間とともにボートで逃亡を図り、失敗。理想の国「〈アメリカ〉がないという絶望」について(1918年の日記)。
「友だちのチェルトーフ、チールマン、ゴロフェーエフとソスナー川をボートでアメリカへの逃亡を決行した。地理の教師ローザノフ(のちの作家ワシーリイ・ワシーリエヴィチ・ローザノフ)が、こんな忘れられない言葉で極力かばってくれた――『これは単なる愚行ではない。この少年の(つまりわたしの)魂のきわめて高度な生の兆候を示すものである』。しかし、わたしは、〈アメリカ〉が存在しないことに絶望していた」
1885年――2年生に。
「校長のザークスは厳しく公正な人物で、その影響力は大きかった。彼はわたしから目を離さなかった。それでわたしも勉強し、なんとか進級できた」
1886年――3年生に。
「またも怠け癖。ザークスがわたしを見放す」
1887年――落第し原級に留められて、弟のセルゲイと同学年に。
1888年――4年生。教師ローザノフへの不遜な行為のため放校処分を受ける。
「『地理で僕に2点をつけたら、何をするかわからないぞ』。ローザノフはそのころ(精神的に)参っており、当局に『自分を取るかこの生徒を取るか?』と詰め寄ったという。それでわたしは退学させられた。まるで死刑宣告のようだった」。〈アメリカ〉への逃亡と退学処分―自分の将来の多くを決定した、少年時代の二大事件」だったと記す(1918年の日記)。なお、批評家のワヂム・コージノフによれば、少年ミハイルが教師に放った暴言は「殺すぞ!」に近いもので、軽くみるべきではない(「プリーシヴィンの本、しかし自然についてではなく革命について」)と。
1889年――シベリアの伯父イワン・イワーノヴィチ・イグナートフのもとへ。
「母方の〈シベリアの伯父さん〉が引き取ってくれた。伯父さんは西シベリアで船舶会社を興し成功した。それで、わたしは大金持ちの甥っ子になった」
「チュメニの実科中学で勉強、可もなく不可もなし。上級生たちとよく付き合い、多くの著作(英国の歴史家バックルや同哲学者・社会学者のスペンサーなど)に触れた。校長のスロフツォーフは自然科学者でニヒリスト、唯物論者。賢人として名の知れた人物だった」
1892年――チュメニの実科中学(6年生)からクラスノウフィームスクの工業学校の農業科へ。
1893年――1月にエラーブガの実科学校へ編入学(7年生として)。秋、リガ(ラトヴィアの首都。当時ラトヴィアはロシア帝国領)の総合技術高校へ。専攻は化学と農学。〈賢者の石〉を求めて、学部を転々とする(93〜95)。
1894年――野外実習でカフカースのゴリ〔スターリンの故郷〕の葡萄園へ。葡萄に寄生する害虫(ブドウアブラムシ)駆除のため、化学科の学生たちが動員されたのだ。このころマルクス主義者たちと交わる。(しかし、本人はこのカフカース行きを「1896年の夏」と誌している)。このころからマルクス主義者たちと交わる。
1895〜96年――マルクス主義者のサークル〈プロレタリアの指導者の学校〉で活動。のちに、皮肉まじりに『自分は19世紀のコムソモーレツだった』と。ドイツの社会主義者アウグスト・ベーベルの『婦人論』を翻訳。
1897年――革命活動で逮捕され、ミタウの監獄(リガの南西エルガヴァにあった)の独房へ。
「わたしの人生の転機は、〈アメリカ〉と〈退学〉と〈マルクシズム〉であ
る」
1898〜1900年――故郷エレーツへ追放。警察の監視下に置かれる。
「マルクス主義者であり続けた」
text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk
》成文社 / バックナンバー