2010 . 04 . 27 up
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一家は1911年から15年までをノーヴゴロド県下の村々で暮らし、時おりペテルブルグや故郷のエレーツ(母親の領地のあるフルシチョーヴォ村)へ出かけたりした。転々とはしたが、それでも比較的長く滞在した村が、日記の最初(1914年1月1日)に描かれているペソチキである。なぜかこの村が気に入った。村や村人たちの描き方ひとつを見ても、新しい土地にすんなり「ポエティックにとけこんでゆく」プリーシヴィン一流の生活術がよく読み取れて、ペソチキ村そのものがひとつの文化空間ないし固有の風土文物(レアリア)を成しているように感じられる。
この村落が持つ歴史と宗教と自然のレアリアについて、作家はすでに1911年の日記にこう記していた――
「ノーヴゴロドの古戦場だったシェローニ川(イーリメニ湖に注ぐ)の高い岸の上に、ペソチキという小さな村がある。近くには昔からの保護林があって、その中に苔むした古い礼拝堂が遺されている。礼拝堂はまるで樹のよう。冬、雪が降って樹々を純白に染めると、礼拝堂も真っ白だ。春になり、雪が解け、暖かい雨に幹の苔が青く色づきだせば、礼拝堂もやはり青々としてくる。礼拝堂の屋根には小さな黒っぽい十字架が立っていて、その周囲の松の木はどれも、蝋燭みたいに真っすぐで、じつに清楚である。見ていると、それらの松が遠い昔、ここへ祈りに集まり、だんだん土地に慣れ親しんで、ついにそのまま蝋燭のように立ってしまった、とそんなふうにさえ思えてくる」
「松は蝋燭(сосна-свеча)」は、「木々は清らかで真っすぐな蝋燭のよう」というだけの比喩ではない。この作家の発した言葉は、小暗い世界を照らす松明(たいまつ)のように、村人たちの相貌や生きた暮らしを明々と照らし出す。
郵便配達夫になったとき――つまり他の階層の人間と衝突したとき、突然ニコライは変身した。それで今、彼の親戚たちは元の牧童仲間の誰かに「……ところで、あの阿呆、まだおまえさんのとこにおるんかね?」などと訊かれると、ひどく腹を立てるのである。
ポシャワ(疫病)が流行っている。わたしも罹ってしまった。
ノーヴゴロド近郊の、知る人もない小さな村とそこに住む人びとを、作家はこんなふうにノートに記していった。ちょうど八年前の1906年に、プリーシヴィンは、事実上の処女作である民俗探訪の記録『森と水と日の照る夜』(邦題)(原題は、『ヒト怖じしない鳥たちの国』В краю непуганых птиц)をペテルブルグで出版した。三十路を過ぎた男がさまざまな紆余曲折を経てようやく達した一境地だった。遅まきながらも、そこには、確かなスタイルの芽が認められた。それは、生活設計上のスタイルというより、むしろ文体である。付き合いのあった詩人のアレクサンドル・ブローク(1880-1921)の眼は、すでにそれを鋭く看破している。二冊目の著書である『コロボーク』(邦題は『魔法の丸パンを追っかけて』(1908))*について、ブロークはプリーシヴィンにこう語った――「『コロボーク』は、もちろん詩作品(ポエージヤ)ですけど、でも、さらに何かありますね……それだけでない、どこか学問的なところがあります」、またその独創性については、書評で、欠点やその他もろもろを指摘する一方で、次のように書いた―「ミハイル・プリーシヴィンはロシア語の達人だ。われわれの〈見せかけ〉だけの、とくに都市文学によってすっかり忘れられてしまった、混じりけなしの民衆語(俗語)の多くが、この人の中では生きているのだ。のみならず、彼には、自分の使っている辞書が概して生命力に満ちみちていること、その泉も涸れるどころか、今もってこんこんと豊かに湧き出ていることを示すことができるのである。とはいえ、ミハイル・プリーシヴィンは文学の形式を、言葉ほど自在に駆使してはいない。おかげで、あれほど真剣で瞑想的で独創性に富むその著作も、読むのにひと苦労する。これは、読むことよりむしろ研究することを要求する豊富な原料なのだ。つまり芸術家も民俗学者も、分離派やセクト主義の研究家たちも、多くを汲み取ることのできる大いなる泉なのである」。
さすがにブロークの指摘は鋭い。プリーシヴィンがずっと求め続けていたのは、やはりスタイルであり、それは容易に獲得できるものではなかった。その脈打つ言葉の力の根源はやはり民衆(ナロード)の中にあるので、首都の第一級のインテリゲンツィアである詩人がプリーシヴィンの立脚点に興味を示したのは、当然と言えば当然だった。この作家の著作や日記に頻出する《ベレンヂェーイの泉(または井戸)》という言葉は、おそらく、ブロークの言う〈民衆の叡知の汲み上げ口〉のことであるにちがいない。そのスタイルには、強烈な個性の持ち主である批評家のワシーリイ・ローザノフが強く深くかかわってくるのだが……
日付のない、おそらくこの時分のものと思われる、ペテルブルグへ出かけたときのメモも記しておこう――
もうそろそろペテルブルグと思われるころ、作家は荷物を手にデッキに立っている。そこへ若い女性が出てくる。大きな薔薇を飾った帽子、手には向日葵の種。痩せた顔は聖母そっくりだが、冬だというのになぜか毛皮帽に紙製の薔薇の花、それと一握りの向日葵の種というのが、いかにも変である。「どちらから来られましたの?」――女のほうから訊いてきた。じつに愛らしくじつにざっくばらんだ。「メドヴェーヂです」と、作家。「わたくしもメドヴェーヂからですの、向こうではお見受けしませんでしたけど……不思議ですわね。それで、どちらまで?」「ペテルブルグです」「わたくしはヘリシンクフォルス〔ヘルシンキ〕へ参ります」。季節はずれの薔薇と向日葵の種、しかも若い娘がヘルシンキへ? いったい何しに行くのだろう? 「夫が士官なものですから」「えっ、結婚なさってるのですか!? それはそれは」「ふたり子どもがおります」「おふたりも? あんまりお若いので、てっきり中学生かなと……」「ただ夢中で、ほんとに何も考えずに嫁いじゃいました」「で……何事もなく?」「ええ、まあ……」「結婚されて何年ですか?」「6年になります」「ほう、6年ですか!」「なんとかやっています」「後悔なさっていますか?」「その反対ですわ」。
作家は相手の女性の最後のひとことにえらく感激し、そう語った彼女自身も嬉しがっている。やがて列車が停まり、作家は紙の薔薇を頭にのっけた奥さん(ダーマ)を辻馬車のところまで案内し、乗せてやる。「それで、わたしたちはまるで誰よりも近しい知人同士のような別れ方をした」のだった。
日記をめくっていると、こんな行きずりの女性のスケッチにときどき出くわす。そしてなぜか、そこだけ日付が落ちている。『ロシアの自然誌』(原題は『自然の暦』)や『ファツェーリヤ』で、ときに静かな感動をもって語られる無名の女性についてのエピソードは、たいていこうした日記の断片が核になっている*。永遠の女性――ワルワーラ・イズマルコーワ。その面影を、こうした行きずりの女性のちょっとしたしぐさや言葉遣いに見出したと思われる。
記述は一転して――
冬のペテルブルグを沈めるかと思うような大波が、ネヴァの氷上を疾駆する。凄まじい暴風雨だ。そいつに取っ捕まってしまったわたしは今、独りノーヴゴロド(県)の松林のそばの小屋に臥せっている。熱がある。このちょっと前、腸チフスで一家が全滅しかかったこの小屋に偶(たま)々やって来たのだが、熱が出始めたとき、ふと一家のことを思い出して、『ああチフスだ!』と観念した。すぐに頭に浮かんだのは、早く荷物をまとめてペテルブルグへ戻らなくては、ということだった。しかし、荷物の数やら馬の手配やら、でこぼこ道を突っ走る橇のことやらを考えただけで吐き気がし、悪寒がますますひどくなった。そのとき、暴風雨が松林を襲い始めた。まるで大しけの海上のよう。そう、まさにあの音、あの恐怖、あの凄まじさである。
text - 太田正一 //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk