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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 04 . 27 up
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 ミハイル・プリーシヴィンは放浪の人。
 ひとところに居を定めなかったので、おおむね家族もそうならざるを得なかった。一家は四人――妻であるエフロシーニヤ・パーヴロヴナ、レフ[愛称リョーヴァ]とピョートル[愛称ペーチャ]の二人の息子。エフロシーニヤ・パーヴロヴナは混じりっけなしの農民の娘(スモレンスク県ドロゴブーシ郡スレドヴォ村出身、旧姓はバドゥイキナ)で、柔順な、辛抱強い〈大地の人〉とも言うべき女性である。彼女は、男の赤子(ヤーシャ)を抱いて、暴力をふるう夫(農民)から逃げたものの、路頭に迷い、偶(たま)々、独身だったプリーシヴィンに雇われ(賄い婦として)、やがて同棲。正式な結婚は十月革命後だった。自分の子のように可愛がって育てた継子のヤーシャは、のちに国内戦で戦死する。二人のあいだの第一子(男児)は夭逝した。ちなみにエフロシーニヤ・パーヴロヴナの実母は、村で魔法使い(コルドゥーニヤ)と呼ばれる、善き力を持った呪術師だった。

 エフロシーニヤ・パーヴロヴナ(1883-1953)については、長男レフ〔リョーヴァ〕の嫁による聞き書き「ミハイル・ミハーイロヴィチとの生活」(『森のしずく』所収)に詳しい。二人の戸籍上の結婚が晩かった理由の一つに、身分違いの結婚を母(マリヤ・イワーノヴナ)が許さなかったということがある。

 一家は1911年から15年までをノーヴゴロド県下の村々で暮らし、時おりペテルブルグや故郷のエレーツ(母親の領地のあるフルシチョーヴォ村)へ出かけたりした。転々とはしたが、それでも比較的長く滞在した村が、日記の最初(1914年1月1日)に描かれているペソチキである。なぜかこの村が気に入った。村や村人たちの描き方ひとつを見ても、新しい土地にすんなり「ポエティックにとけこんでゆく」プリーシヴィン一流の生活術がよく読み取れて、ペソチキ村そのものがひとつの文化空間ないし固有の風土文物(レアリア)を成しているように感じられる。

 この村落が持つ歴史と宗教と自然のレアリアについて、作家はすでに1911年の日記にこう記していた――

 「ノーヴゴロドの古戦場だったシェローニ川(イーリメニ湖に注ぐ)の高い岸の上に、ペソチキという小さな村がある。近くには昔からの保護林があって、その中に苔むした古い礼拝堂が遺されている。礼拝堂はまるで樹のよう。冬、雪が降って樹々を純白に染めると、礼拝堂も真っ白だ。春になり、雪が解け、暖かい雨に幹の苔が青く色づきだせば、礼拝堂もやはり青々としてくる。礼拝堂の屋根には小さな黒っぽい十字架が立っていて、その周囲の松の木はどれも、蝋燭みたいに真っすぐで、じつに清楚である。見ていると、それらの松が遠い昔、ここへ祈りに集まり、だんだん土地に慣れ親しんで、ついにそのまま蝋燭のように立ってしまった、とそんなふうにさえ思えてくる」

 「松は蝋燭(сосна-свеча)」は、「木々は清らかで真っすぐな蝋燭のよう」というだけの比喩ではない。この作家の発した言葉は、小暗い世界を照らす松明(たいまつ)のように、村人たちの相貌や生きた暮らしを明々と照らし出す。

 

1914年1月12日

 ペソチキには未婚の女が多い。それもオールドミスを運命づけられている美しい娘たちだ。彼女たちを見ていて、つくづく思う――社会的変化が人間を不具にし、その犠牲者たちは〈移り変わる時代〉のはざまに取り残されていくのだ、と。学業(講習会や専門学校)その他の方法もあるのに、時代の流れを見ようとしない父親たちは、娘たちをそういうところにはやらない。もう一つの出口は身を持ち崩す(春をひさぐ)ことだが、しかし娘たちは娼婦ではなく、生まれついての女房であり母親だ。農家に嫁ぐしかないのだから。それは「運命ではない」。そこには「運命などない」、人間は自由ではないということだ。

 

1月13日

 村をいろいろ見て歩く。郵便配達夫のニコライは、以前は牧童で、今は配達夫。大変な出世である。牧童というのは村では阿呆扱いだ。いったい誰が郵便配達夫なぞになるだろう? もちろん阿呆だけ。(中略)

 郵便配達夫になったとき――つまり他の階層の人間と衝突したとき、突然ニコライは変身した。それで今、彼の親戚たちは元の牧童仲間の誰かに「……ところで、あの阿呆、まだおまえさんのとこにおるんかね?」などと訊かれると、ひどく腹を立てるのである。

 ポシャワ(疫病)が流行っている。わたしも罹ってしまった。

 ノーヴゴロド近郊の、知る人もない小さな村とそこに住む人びとを、作家はこんなふうにノートに記していった。ちょうど八年前の1906年に、プリーシヴィンは、事実上の処女作である民俗探訪の記録『森と水と日の照る夜』(邦題)(原題は、『ヒト怖じしない鳥たちの国』В краю непуганых птиц)をペテルブルグで出版した。三十路を過ぎた男がさまざまな紆余曲折を経てようやく達した一境地だった。遅まきながらも、そこには、確かなスタイルの芽が認められた。それは、生活設計上のスタイルというより、むしろ文体である。付き合いのあった詩人のアレクサンドル・ブローク(1880-1921)の眼は、すでにそれを鋭く看破している。二冊目の著書である『コロボーク』(邦題は『魔法の丸パンを追っかけて』(1908))について、ブロークはプリーシヴィンにこう語った――「『コロボーク』は、もちろん詩作品(ポエージヤ)ですけど、でも、さらに何かありますね……それだけでない、どこか学問的なところがあります」、またその独創性については、書評で、欠点やその他もろもろを指摘する一方で、次のように書いた―「ミハイル・プリーシヴィンはロシア語の達人だ。われわれの〈見せかけ〉だけの、とくに都市文学によってすっかり忘れられてしまった、混じりけなしの民衆語(俗語)の多くが、この人の中では生きているのだ。のみならず、彼には、自分の使っている辞書が概して生命力に満ちみちていること、その泉も涸れるどころか、今もってこんこんと豊かに湧き出ていることを示すことができるのである。とはいえ、ミハイル・プリーシヴィンは文学の形式を、言葉ほど自在に駆使してはいない。おかげで、あれほど真剣で瞑想的で独創性に富むその著作も、読むのにひと苦労する。これは、読むことよりむしろ研究することを要求する豊富な原料なのだ。つまり芸術家も民俗学者も、分離派やセクト主義の研究家たちも、多くを汲み取ることのできる大いなる泉なのである」。

 第一部の『ソロフキ詣で』のこと。不思議な丸パン(コロボーク)を追いかけて、作家はどんどん北の海(白海)の岸辺まで行ってしまう。セーヴェル(北ロシア)からソロフキ修道院までの巡礼の道の、白夜の幻想と厳しい現実が織り成す徒歩旅行の記録である。なお、この第二部は、奥ヴォルガへの紀行『キーテジ――湖底の鐘の音』(原題は「見えざる城市(まち)のほとりで」)。異教徒(非キリスト教徒)の襲来を忌避して、湖底に沈んだという伝説の〈信仰の城市〉を見届ける旅だった。

 さすがにブロークの指摘は鋭い。プリーシヴィンがずっと求め続けていたのは、やはりスタイルであり、それは容易に獲得できるものではなかった。その脈打つ言葉の力の根源はやはり民衆(ナロード)の中にあるので、首都の第一級のインテリゲンツィアである詩人がプリーシヴィンの立脚点に興味を示したのは、当然と言えば当然だった。この作家の著作や日記に頻出する《ベレンヂェーイの泉(または井戸)》という言葉は、おそらく、ブロークの言う〈民衆の叡知の汲み上げ口〉のことであるにちがいない。そのスタイルには、強烈な個性の持ち主である批評家のワシーリイ・ローザノフが強く深くかかわってくるのだが……  

 日付のない、おそらくこの時分のものと思われる、ペテルブルグへ出かけたときのメモも記しておこう――

 もうそろそろペテルブルグと思われるころ、作家は荷物を手にデッキに立っている。そこへ若い女性が出てくる。大きな薔薇を飾った帽子、手には向日葵の種。痩せた顔は聖母そっくりだが、冬だというのになぜか毛皮帽に紙製の薔薇の花、それと一握りの向日葵の種というのが、いかにも変である。「どちらから来られましたの?」――女のほうから訊いてきた。じつに愛らしくじつにざっくばらんだ。「メドヴェーヂです」と、作家。「わたくしもメドヴェーヂからですの、向こうではお見受けしませんでしたけど……不思議ですわね。それで、どちらまで?」「ペテルブルグです」「わたくしはヘリシンクフォルス〔ヘルシンキ〕へ参ります」。季節はずれの薔薇と向日葵の種、しかも若い娘がヘルシンキへ? いったい何しに行くのだろう? 「夫が士官なものですから」「えっ、結婚なさってるのですか!? それはそれは」「ふたり子どもがおります」「おふたりも? あんまりお若いので、てっきり中学生かなと……」「ただ夢中で、ほんとに何も考えずに嫁いじゃいました」「で……何事もなく?」「ええ、まあ……」「結婚されて何年ですか?」「6年になります」「ほう、6年ですか!」「なんとかやっています」「後悔なさっていますか?」「その反対ですわ」。

 作家は相手の女性の最後のひとことにえらく感激し、そう語った彼女自身も嬉しがっている。やがて列車が停まり、作家は紙の薔薇を頭にのっけた奥さん(ダーマ)を辻馬車のところまで案内し、乗せてやる。「それで、わたしたちはまるで誰よりも近しい知人同士のような別れ方をした」のだった。

 日記をめくっていると、こんな行きずりの女性のスケッチにときどき出くわす。そしてなぜか、そこだけ日付が落ちている。『ロシアの自然誌』(原題は『自然の暦』)や『ファツェーリヤ』で、ときに静かな感動をもって語られる無名の女性についてのエピソードは、たいていこうした日記の断片が核になっている。永遠の女性――ワルワーラ・イズマルコーワ。その面影を、こうした行きずりの女性のちょっとしたしぐさや言葉遣いに見出したと思われる。

「白樺の娘」(『ロシアの自然誌』)、「青い羽毛」「ファツェーリヤの娘」(『交響詩ファツェーリヤ』)など。

 記述は一転して――

 冬のペテルブルグを沈めるかと思うような大波が、ネヴァの氷上を疾駆する。凄まじい暴風雨だ。そいつに取っ捕まってしまったわたしは今、独りノーヴゴロド(県)の松林のそばの小屋に臥せっている。熱がある。このちょっと前、腸チフスで一家が全滅しかかったこの小屋に偶(たま)々やって来たのだが、熱が出始めたとき、ふと一家のことを思い出して、『ああチフスだ!』と観念した。すぐに頭に浮かんだのは、早く荷物をまとめてペテルブルグへ戻らなくては、ということだった。しかし、荷物の数やら馬の手配やら、でこぼこ道を突っ走る橇のことやらを考えただけで吐き気がし、悪寒がますますひどくなった。そのとき、暴風雨が松林を襲い始めた。まるで大しけの海上のよう。そう、まさにあの音、あの恐怖、あの凄まじさである。

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