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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 12 . 18 up
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3月4日

 アパートや街の食堂で知り合った人たちがなぜかもう知人ではなくなり、また元の他人のようによそよそしく、自分の皿に首を突っ込むようにして食事をしている。隣り合った人に何かものを言うときでも、ほとんどみなポケットに手を突っ込んだままである。
 まさにマスローフスキイが仄めかしたような「醜悪の事態」である。ツァーリはニコライ・ニコラーエヴィチ〔大公〕に最高統帥権を譲り渡した。
 「お祈りするしかありませんわね」そう女が言うと、すかさず――
 「誰のために祈るんだい。府主教*1は逮捕され、ツァーリは放棄した。ツァーリ候補者も拒絶*2したんだよ。荷馬車の御者のために祈ろうってのかい?」
 「じゃ、民衆(ナロード)のためにというのは?」
 「いいや、まだ坊主どもはナロードのために祈る気分にやなってないさ」

*1正教会で総主教(パトリアルフ)に次ぐ地位で「禁妻帯」。1917年3月1日に逮捕されのは、ペトログラードおよびラードガのピチリーム府主教(オークノフ)。逮捕の理由は、皇帝とその弟の退位宣言後に宗務省(シノード)が採択した法令に与しなかったこと、また教会儀式である長寿安泰の祈り(многолетие)のさいに「神のご加護ある帝国ロシアと敬神の念厚き臨時政府よ」と唱えたため、とされている。

*2結果として最期のツァーリとなったニコライ二世は弟のミハイルに皇帝の座を譲ったが、ミハイルは国民の敵意を感じてそれを拒否。1917年3月3日(新暦3月16日)をもってロシアの帝政は終わりを迎えた。

 職場に戻る。それにしても、平和な仕事に従事するのはなんと困難なことだろう。どんなに疲れどんなに苦労したか、今になってやっとわかった。革命が嬉しくてコーザチカが飛び回っている。役所で投票をしたら、お嬢さんたちは全員共和国支持、神学校出の登録係だけが君主制支持である。クーリエのワーシカでさえ『もちろん共和国ですよ!』と言った。同志ミニーストル〔首相も《同志》と親しげに呼ばれる〕が召集をかけた。上司に対する気まずさや遠慮が完全解消だ――自分でもあまり隔てを感じなくなっている。
 さまざまな徴候から、社会全体が社会民主党員(エスデック)への反感をつのらせているのがわかる。第一は防衛問題――兵士にプリャーニク〔スパイス入りの糖蜜菓子〕を大盤振る舞いし、自覚的な兵士には手形を乱発している。自分みたいな文化的個人主義者たちの苛立ちも、元はと言えば、言論の自由や「警察分署(ウチャーストク)」その他が原因なのである。

コーザチカはソフィア・ワシーリエヴナ・エフィーモワの愛称。プリーシヴィンがワシーリエフスキイ島に借りていた家の隣人。

 自分がよく口にした未来のフォーラムは正しかったようだ。もしドイツ軍が攻撃してきたら、新しい政府はしっかりするし、和平をちらつかせたら(きっとそうに違いない))――そうなったら〔ロシアは〕内乱だ。
 ライフルを持ち歩くのは学生たちにとってそう退屈なことではない(やる気でいるのだ)。
 リッチフは銃で自裁することもなく、赦されて、自国に戻った――まことに不当なことだ。

アクサンドル・アレクサーンドロヴィチ(1868-1930)は1916-17年の農業大臣。

 「ヂェーニ」の編集者は肩をすぼめてみせる――紙の主要なマテリアルが政府の批評なのである。さてどうしたらいいのだろう?
 『その日、あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたちに答えてはくださらない』

サムエル記上第8章18節。

 しかし、その人(、、、)は答えてくれたみたいだ。この革命はロシアの民衆(ナロード)に許されるだろう。そこには論議も、〈予め考え抜かれた目論見の犯罪〉も存在しなかった。明日がどうなるか誰が何をするのか、誰も知らなかった。連隊はペテルブルグを制圧しようとしていたが、そのずっと手前で武器を捨て、蜂起(暴動)と連帯した。『朕はどうすればいいのだ?』と国王が訊く。『退位なされることです』そこで彼は退位した。
 どっちつかずだが、同時に同意している――戦争の準備は必要だ、でも戦争はもうない、戦争は終わる。いかにして? わからない。たぶんドイツは攻めて来ないだろう。しかし全面戦争のフロントは突破された。

共和制か君主制か? 自問に自答すれば――完全無権利のツァーリの下での州〔革命前の辺境の行政区画〕を連合すること、すなわち連邦制(フェヂェラーツィヤ)である。

3月5日

 単なる解放でなく赦されたという感じ。以前は必死で横丁に折れようとばかりしていたネーフスキイ大通りの群衆が、今では横丁に折れながらも大通りを見捨てるのが辛いと思うようになってきている。わたしも、ヴォドヴォードフ(一生、憲法制定会議が頭から離れなかった、あの耳の遠い男)が愛おしくなったほどだ。猿のようにソファーに胡坐を掻きながら、弁士の演説に耳をそばだてている。もうすっかり涸れ切ってしまって――まあインテリの外皮をまとっているだけで、ただただ苛立っていた。いやもうずっとイライラのしっぱなしだったのだが、近ごろはよくにこにこしている。というのも、共同王国(オープシェエ・ツァールストヴォ)に受け入れられたからである。
 鐘――初めて聞く鐘の音、日曜日。新しい新聞を買おうと長蛇の列である。出ると同時に、いっぱい買い漁って、それを柳の枝か花束みたいに抱えて家路を急ぐ人たちの姿があっちでもこっちでも見られた。
 「潰れた」「腫れもの」……そんな言葉がよく使われた。ひょっとして、あっち(前線)や〔国会〕ではいまだに破産(クラフ)を恐れているかもしれないが、しかしこっち(銃後)は大勝利の宴の真っ最中なのである。
 「同志(タワーリシチ)、ちょっとどいてくれませんかい」と御者が言えば――
 将校も御者に向かって――「同志! リチェィヌイ大通りまでやってくれ」
 でっかい造花〔紙製の花〕がよく売れていて、兵士たちはそんなのを胸だの腹だのにくっつけている。

 商業航海課の書記であるЛ(エリ)ナコニッゼ公爵〔ナカシッゼとも〕は仕事に没頭し、嬉々として書類を作成している。どんな仕事を与えられても、きっとこうなのだ。飢餓の脅威を前にしての恐怖もすでに消えかけているようである。家主のかみさんがわたしに大きなパンを持ってきてくれた。

 大群衆がひとりの軍人のあとを追う。その雰囲気や危うし。『逮捕するぞ!』という声。だが、街頭の弁士の演説を聞いて、その男はこんなことを口にする――『見てろ、社会主義はおまえたちに多くの災いをもたらすぞ』。すべてを声に出しては言えるわけではない(これが表現の自由か?)*1。ボロダーエフスキイが国歌をつくった*2。わたしは気に入らなかったので、勝手に自分で「おおツァーリを」のところをつくり替え、無意識にそれを口ずさんだ――誰にも聞こえないように。だが、すぐにやめる。誰かがそれを聞いているような気がして……本当に誰かがその歌詞を聞いたらどうなることだろう?

*1革命の最初のころから、プリーシヴィンは〔革命の〕基本的スローガンの現実性に疑いを抱いている。

*2ここで言及されているのは、ジャーナリストのボロダーエフスキイが勝手に「国歌」と称した詩「ロシアの民衆に捧げる歌」のこと。

 夜、なぜかいつまで経っても、М〔マスローフスキイのことか、未詳〕が姿を見せない。ズナーメンスカヤ通りのあたりで撃たれて死んでしまったのではないか? そんなことになったら、とても喜べない。犠牲者の数が多い そんなに多いのは戦争そのものが革命のようであるからで、戦争の犠牲者は革命の犠牲者なのだ。戦争がなければ革命もなかったろう……
 些細なことが全体を変えてしまう可能性。もしツァーリが大本営に出向かなかったら、彼らと対話がなされていたら、どうだったろう?
 4月末までに、コルネイ・イワーノヴィチ・チュコーフスキイに、「ニーワ」(ゴーゴリ通り22)に原稿を送ること。猿類庁〔猿類大自由院のこと〕のレーミゾフについて(300行)。

文学・芸術・科学を満載したイラスト入りの人気週刊誌。ペテルブルグで1870-1918年まで出た。出版社主はマールクス。定期購読者には1894年から1916年まで毎月、有名作家の作品集(メーリニコフ=ぺチェールスキイやマーミン=シビリャークなど)が付録として届けられた。チュコーフスキイは1917年からそれら雑誌の付録(『子どもたちのために』)の編集者だった。プリーシヴィンが書く予定だった300行の原稿については不明。

 ライフルを手にした学生たちが大臣室で寝泊りしていた。
 自分の日々の暮らしの問題あれこれ。省を捨てて新聞の仕事に没頭するかどうするか。26日までの2週間をなんとか持たせるか。
 閣僚がめまぐるしく替わったロマーノフの治世もいよいよ最後というところで、レーミゾフとわたしはそれぞれ独立した形の、二つの〈庁〉を新設した。彼は友人知人で固めた猿類庁を、自分は「戦時」課の事務員として勤めた商工省に野ウサギ庁を。
 わざわざクーリエがやって来て、こんなことを言った――「ツァーリの代理人というのが新しい大臣を連れてくるそうですよ」――「代理人って誰だい?」――「ロヂャーンコです」

3月6日と7日

 一日書くのをサボったら、もう何も思い出せない

プリーシヴィンには前日書き散らしたメモや記憶に残ったものを翌朝早くから清書する習慣があった。

 革命の日からこっち自分のものは何も、まだ一語も発表していないが、何も口にしなかったのはかえって喜ばしいことだ。まるで自分の目の前に途方もなく大きな処女地が、未耕の野が、広がっている。今この3月、畑を耕す多くの人びとに倣って自分も、仕事に取りかかる前に自分の犂(すき)を点検し、それからゆっくりゆっくり、野を一望するために丘に登っていくところだ。
 過去は沼地の広い低地のように見える。そうして、うんうん言いながら自分は場所を――自分自身とすべてを一望できる小高い場所を探している。

3月11日

 日々つのる不安。グチコーフはドイツ軍がペトログラードに進攻中だと書いているが、労働者・兵士代表の「イズヴェスチヤ」には〈春の最初のツバメ〉の記事が載っている。ベルリンに近いあるところ(発信人はドイツ社会民主党員たち)から最初の挨拶〈ウラー、同志たちよ!〉が届いたという。一方の政府は〈戦争をやめろ!〉、ベルリンでは革命が始まっていると叫び、もう一方の政府は戦争を呼びかけている――敵どもがわれらの首都を脅(おびや)かし、至るところでスパイが蠢いていると声を張り上げる。

 連日ありとあらゆる種類の選挙と組織。表面的には目覚めの悦びに沸き立つ光景だが、なに中身は不安と恐慌と気の抜けた仕事である。仕事になんかなっていない。大きなところはまま動いているが、小さなところ(細部に至って)は停止の状態だ。そこをどうチェックするか。もちろんそこには連綿と、一本の鎖のようなものが通っていたわけだが。新大臣のコノヴァーロフがわれわれに向かって演説し、そのあとクーリエ相手に同じ演説をぶったらしい。どうしてまたクーリエたちに? 高位高官たちの下劣さとヂェメニーが口にした言葉――〈さあ手を握れ!〉。「連帯」の急ぎ過ぎだ。小柄な事務員がひょいとベンチに飛び乗って、公務員の連帯について語りだした。すべての官吏の同意なしには異動・更迭・転任はできない、そのためには省に勤める小役人はすべからく国家の利益に従わなくてはならない云々。

 野ウサギ庁は解散になり、全員ニンゲンに戻った。

 あるお嬢さんの曰く――『革命が何をもたらしたかなんて、あたし、どうでもいいわ』。もう一人のお嬢さんは――『いいえ、何もかも素敵だわ。あたしは反対しません。でも、労働者と平等だというのは嫌ね』。

 居住者名簿〔同じ建物に住む人たちの〕による選挙を含めて、とにかくいろんな選挙があって、要するに一にも二にも選挙なのだ。みんなあっちでもこっちでも勝手に選んでいる。
 依然として政府は社会民主党員に囚われているが、暮らしは破綻していて、社会民主主義精神(エスデーチェストヴォ)の腫物は全オルガニズム(全身)に散ってしまって、いずれ消失するにちがいない。
 3月7日に路面電車が運転を再開、万事オーケイである。ユダヤ人の銀行家たちは喜んだり泣いたりしている――彼らは一般のユダヤ人のようには笑うことができずに泣いている。社会主義者が勝利するかも、そんことを考えたら、どうして喜べるだろう?
 以前は電車に乗ってて誰かに癇癪を起こしたりしたものだが、今は誰もが我慢している――咎め立てする相手がいないからだ。
 すべてはドイツ人の出方ひとつなのだ。もし万が一にも彼らのほうで革命が起これば、こっちの革命的民主主義者のソヴェート〔1905年以来のペテルブルグやモスクワの労働者ソヴェートのこと、のちのボリシェヴィキのソヴェート政権ではない〕は社会〔主義?〕的プログラムに則った路線を走るだろうし、〔ドイツが〕思い切った攻撃に出てきたら、ソヴェートの失墜と軍事的独裁は避けられない。

 巨大な国家の権力――それを手にした、派閥的分派的体制の、ろくすっぽ教育も受けていない連中の、そんな精神状態(プシヒカ)のちっちゃなかたまりばかりを見ていると、なんとも悲劇的としか言いようがない。最近また内なるドイツ人が姿を現わした。平凡な常識人(オクーリチ)には社会民主党員たちの行動がまったく理解できないので、彼らを裏切り者呼ばわりするしかなく、頭から彼らをゲルマンのスパイと決めつけている。
 自分はベルリンの革命など信じないが、権力を握った者たちに敵意は――彼らと共に戦を始めながら他のグループに与するといった敵意は感じていない。彼らの真実はしかし実現するだろう――今ではなく、無理に(強制的に)ではないが。

初期の日記にすでに、「革命」のイデアや活動家やその組織のセクト主義についてしばしば言及されている。「レフコブィトフ〔宗教的セクトの指導者、前出〕のセクトの話を聞いていると、それがマルクス主義の隠されたミスティックな表現とまったく同じで……約束の地だの、いつもの国家に代わる来るべき国家などなど」(初期の日記の「求神主義」の中のフルィストに関するメモから)。

3月13日

 銀行で、初めて元気な老人に出会う。田舎から出てきたのだ。
 「共和国ですか、それとも君主国?」
 「そりゃもう共和国にきまっとる。駄目なら替えることができるからな」
 「じゃ、皇帝(ポマザーンニク)〔塗油により聖別された者〕はどうなります?」
 「聖書には、ポマザーンニクはミハイルからミハイルまでと記されておる――最後もミハイル*1、それでお仕舞いだ。そういうわけで今、別の時代が到来したんじゃ。人間は人間に寄り添わなくてはいかん。ひょっとして、突然、神を認めるようなことがあるかもしれんからな。でももう忘れてしまっとるんじゃよ」(「湖底の鐘の音」*2から)

*1どういう聖書かわからないが、ロマーノフ王朝最初の皇帝はミハイル・アレクセーエヴィチ(在位1645-1676)、ミハイル・アレクサーンドロヴィチ(1918年没、貴賎相婚)はニコライ二世の弟、帝位に就くことを拒否した。

*2邦題『巡礼ロシア――その聖なる異端のふところへ』はプリーシヴィンの奥ヴォルガ地方(伝説の地キーテジ)への民俗と宗教の不思議な旅。

 保護色。ロシア中どこへ行っても同じ赤い保護色。だが、アンガラ川〔バイカル湖に発しエニセイ川に注ぐ全長1799キロの川、その地域〕のあたりではまだ何も知らていないが。

 燃上したリトワ監獄(クリューコフ運河の向こうの)の廃墟にぶっちぎれたケーブルが転がっていて、電線の端がまるで大蜘蛛が脚を広げたようである。それが邪魔をして歩道の往き来がままならない。通行人は感電を恐れて迂回しているが、もう電流は流れてないので心配ない。

ペテルブルグの7つの塔を持つこの監獄は1787年に建てられ、19世紀末から主に政治犯を収容するようになった。二月革命のときに火事で焼失。

 「ツァーリの権力とそっくりじゃね」と、一緒に歩いていた老商人〔銀行で出会った男〕が言う。「ナロードの電線はもうぶっちぎれてしまったから、電流なんか流れておらん。ツァーリは力を失ったんじゃ」
 「何もかも断ち切られたのだろうか?」
 「何もかもだ、これからは共和国だからね。わしは国民みんなに代わって言っとるのさ。単純な人間はツァーリにつくなんて誰も言いやせん。なんとなれば、〔責任者が〕交替できるのは共和国だけだからな」

 わたしはそのとき、自分の旅の記録に出てくるのあるエピソード〔『巡礼ロシア』の「暗い夜」〕を思い出した。深夜、ヴァルナヴァの町の教会は人で溢れている。聖ヴァルナヴァを祝う朝のミサ〔早課〕をまっているのだ。そのとき、髭だらけの老婆(、、)が不思議なことを口走った――
 『天も地も――いいかな兄弟たち、傍らを通り過ぎるが、わしの言葉はただ通り過ぎることはないぞ。最後の時になって、いいかな兄弟たちよ、偽りの預言者はツァーリを抱くぞ……それが奴の最期じゃぞ』
 『誰の最期だって?』みんなが老婆に訊く。
 『ツァーリのだよ。主は奴を象の鼻(ホーボト)で打ち殺すんじゃ。そんで、そのとき、最初のツァーリのミハイルが甦ってな、小さな手を天に向けて、こう言うんじゃよ――「無作法な者たちとは統治できぬ」とな』。

じつはホーボト(象の鼻)ではなくフヴォスト(尻尾)だとプリーシヴィンに真面目に訂正してくれる信者がいたりする。

 「ツァーリの権力そっくりじゃね。ずたずたになりゃ力は無い。権力についてはわしもあれこれ思いめぐらしているんだよ。むかし自分は貧しかったが、心は何ものにも囚われずに自由だった。なんとなれば、自分が自分のツァーリだったからさ。『おまえさんはいい人だし才能もある。だが、わざわざその才能に土をかぶせて埋めている。おまけに厭な仕事ができないときている。力が無いのはそのせいだ。したがっておまえさんには何も任せられない』とまあ、そんなことを言われたよ。わしはその言葉に唆されて、厭な仕事をそいつに任せた。男はわしの秘書になった。その秘書を通して、わしにどんどんお金が降ってくるようになった。わしは呑気に暮らしておったが、秘書のほうは凄まじい頑張りようで……まもなくわしは彼なしでは何ひとつできないようになってしまったのさ。いっぽう彼はフロックなど着込み、何軒もの自宅を所有するようになった。彼のツァーリであるわしが奴隷になってしまったんだよ。逆転したんだな。もう彼がツァーリなんだ。わしの秘書の頭には王冠が載っているのに、自分はどんどん痩せ細っていくばかり。でもな、ケーブルがぶっちぎれてからは、またわしがツァーリになったってわけさ」
 「まあな、ツァーリの権力なんて所詮そんなものだ」
 一緒に歩いていた商人はまたおんなじことを繰り返した。

3月14日

 Р(エル)С(エス)Д(デー)〔ロシア社会民主党〕ソヴェートで、世界の労働者たちへのアピールを作成(ぼろを着た男の口髭、それと商人たち)。幹部会が開かれて、チヘイッゼ(皇帝、まさに塗油によって聖別された男だ!)とスチェクローフ*1。1時間をフランス革命の講義に割き、他の者たちにはたった5分ずつ。その人品骨柄その言葉の貧困たるや。どうしてこうも無能な人間たちが上座に坐るのか? いや人間じゃないぞ、こいつらは革命権力の握り屋だ。彼らの背後にはピョートルと〈ラ・マルセイエーズ〉*2

*1ニコライ・セミョーノヴィチ・チヘイッゼ(1863-1924)はメンシェヴィキの国会議員。ペトログラード労働者・兵士代表ソヴェート創出のイニシャチヴをとった政治活動家のひとり。スチェクローフ(ユーリイ・ミハーイロヴィチ、本名はナハムキス・オフセイ・モイセーエヴィチはペトログラード・ソヴェート執行委員で「イズヴェスチヤ」の編集員(1873-1941)。

*2プリーシヴィンはそもそもの初めから革命をロシア史と世界史の文脈の中で考えている。

 ピョートル〔大帝の青銅の騎士像〕の足下にたむろする人びとの中に、鈍そうな顔の兵士がひとり――あんなのがほんとに最初に銃声を轟かした(という神話の)兵士なのかな? 
 ああそうか、だから連隊を率いているのが、あんな哀れな連中ではなく、ピョートルその人のように見えるのだな。
 兵士たちの真面目くさった賢そうな顔。彼らは何の話をしているか? 『神へ近づけるのは祈りではない、真実と実行なのです』―『何をもって変えるべきか、まずは生産、生産しなければなりません。諸君! ああ、失礼しました。謝ります――〈諸君〉はもう古い、もう無いのです。〔改めて〕同志たちよ!』―『このことについては各村々で説明する必要がある――なんといっても整然と〔農民たちが〕穀物を売りに出せるようにするためであって……』。靴職人、仕立て屋、なめし皮工の代表。ヒステリックなボゼンコフ大佐(イズマーイロフ連隊の司令官)が何か喋り始めた――棍棒からようやく解放された市民よ、と。「プラウダ」紙について――あらゆる新聞がさまざまな道を通ってこの大新聞(「プラウダ」)に集約されるのだと。スチェクローフを指さしながら、兵士たちに向かって大佐が言う――『われわれが今、耳を傾けなくてはならないのは、じつにこの方である!』。するとスチェクローフは人びと(ナロード)を指(さ)して――『いやわたしじゃないよ、大佐。われわれが傾聴すべきはこの人たちなんだよ!』。
 声明の朗読と審議。アピールは〈共和国のデモクラシー〉また〈彼らは47年間鍛えてきた、われわれは今それをアピールする!〉
 大多数は防衛を支持している、ロシアが提起するのは併合なし賠償金なしの和平である。ウィルヘルムを打倒せよ。退出のさいに若い娘が兵士たちに言う――「戦争を終わらせられるのは女性よ!」。通りで御者が兵士に訊いている――「で、どうだったい?」―「決議したよ」―「何を決議したって?」―「専制主義者をすべて打倒する、まずはウィルヘルムからだ」―「そりゃ結構!」―「安全のため自由のためにはそれが一番さ」

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