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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 09 . 18 up
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3月30日

 朝寒(あさざむ)の到来を誰もが心配していた。そこへ突然、吹雪を伴って冬が――風とマロースの冬が、再来襲。3日目、北風が東に進路を変え、4日目には西風が吹いて和らいだが、地面の氷はまだ融けない。クローヴァーの種をなんとか蒔いた。朝、畑の雪の上の種は撒かれた散弾のよう。正午にすっかり雪は消えて、地表がクローヴァーの黒い粒々でいっぱいになった。

 春の行程。2月には雪解け陽気(オーチェぺリ)なしに、しばらく明るいマロースの日々が続き、冬を通してオーチェぺリはなく、雨も雪も降らず、特に厳しいマロースもなかった(クリスマス前の2週間ほどを別にして)。2月はそんなマロースの日々が続いて、わが家は完全に埋まってしまった。吹雪は烈しかった。吹雪の猛攻を受けてまるで処置なしだとでもいうように、2月の半ば過ぎから本格的な冬の包囲が始まったのだった。正午には、夜間に凍ってすでにきらきらしていた氷柱(つらら)がどさどさ音を立てて落ちた。3月12日か13日か、橇で出かけた翌日にその包囲も解かれたようで、これまでになく烈しい春の一斉攻撃となった。稲妻が音もなく光り、ありとあらゆる鳥が飛来し、上流では水が走りだした。雪の下からは針のように鋭い草の葉が頭をもたげ、窓下のイラクサが伸びた。聖母受胎告知祭(ブラゴヴェーシチェニエ)〔旧3月25日〕は終日、暖かかった。日陰で摂氏12度まで上昇し、橇道が完全に途絶えた。みんなの頭にあるのは燕麦の播種のことばかり。すると25日の夜に突然、北風が吹き始め、深夜になって氷点下の寒さ、降雪。朝は雪でマイナス6度と異常な寒風――橇道が再開し、聖母受胎告知祭には一日中、橇が使えた。東風に変わって、29日には西風。30日に南東の風、31日の深夜は嵐と雨……これが自然というもの。旅をするにはもってこいだ。

4月23日

 こんな会話――
 「ウィルヘルムはじつに賢い! 何のためにわれわれは戦ってるんだね? おまえさんたちの土地が欲しくてか? なんだ、そんなもの! われわれは地上にツァーリをひとり立てるために戦ってるんだよ」
 「どこの、誰のツァーリだ?」
 「みんなのツァーリはひとりだけいればいいのさ」
 「まったく偉い奴だよ、ウィルヘルムは!」
 「噂じゃ、商人(あきんど)の出らしいが、本当かい?」

4月24日

 「ウィルヘルムが何を欲しがってるかって? 奴が何かを奪うために戦ってるだって? そんなんじゃない、そんな男じゃないよ、あれは。ウィルヘルムは世界にツァーリはひとりでいい、それを実現しようとしてるんで、ほかに理由なんかありゃしない!」
 「まったく偉い奴だ!」
 「そうさ、なんてったっていちばん賢い!」
 「ところで、奴は商人の出らしいが、本当かね?」
 「商人が皇帝になったって?」
 「そうか。ツァーリってのは、むこうじゃ皇太子や貴族の中から選ばれるわけじゃなくて、商人階級が掴み合いの喧嘩をやったあとで生まれるんだ、そうだろう?」
 「なんせ偉い奴だ!」
 「つまりはドイツ人なのさ、ドイツ人なんだ」
 「ところで、また訊くんだが、ドイツ人は猿にも機関銃を持たせてるってことだが、そりゃ本当の話か?」
 大工たちは朝食時、いつものようにいかにものんびりした馬鹿話をしていたのだが、そのとき突然聞こえてきたのが、耳を劈(つんざ)くような歓喜の雄叫びだった――
 「締結! 講和条約締結!」
 それが何のことか、わたしは知っていた。きのう、うちの子どもたちが柳の笛をめぐって喧嘩を始め、一日中ふくれっつらをしていたので、仲直りさせようと、わたしが彼らにあしたまで講和条約を締結するよう申し渡したのである。すると息子たちが――『よおし、じゃあ講和だ、講和条約締結だ!』。講和と聞いて、何も知らない大工たち――顎鬚を生やした大きな子どもたちは本当に講和が成ったと思い込んだのである。その喜び方はちょっと度が過ぎた。あんまり思いがけないものだったので、馬の金具の納入日が急遽5月15日に延期になった。そんなもの作ってる場合じゃないというのだろうか。ここらには〔金具職人は〕せいぜい5、6人しかいないのに。とにもかくにも万歳! 講和は成ったのである!
 あとでみなして笑ったのだが、それでも、こうした人びとにとって平和が意味するものをたった数秒で知り得たことは驚きだった。

 自分たちの領地のオークの林を売りに出す。主婦(かみさん)〔エフロシーニヤ・パーヴロヴナ〕はときどき、商売人たちを花婿みたいに遇している。

 「ルーシ〔ロシア〕は誰に住みよいか、どんな階級の人間にか? どの階級も秀でている。お金持ちはお金を持っている」

4月26日

 客間で議論。お百姓は金持ちになったか貧乏になったか。基本的な間違いは次のようなことだろう――結論を下したがる人間は、イワン、ピョートル、ミハイルといったクリスチャンネームの男たちを寄せ集め、それがある程度の数に達したら、あとはクリスチャンネームはもうどうでもよくて、その中から平均的な百姓をひとり抽出し俎上に載せる――ルーシ人とは誰なのか――抽象的人物が金持ちになった困窮者になったという議論がそもそもおかしいのである。見知らぬ村に行き着いて、農家に一夜の宿をと切り出したとき、自分をなんとか売り込みその人たちと親しい関係になろうとして、わたしはどれほど努力をしなくてはならないか。だが、それが役人なら――余所からやって来た役人なら、抽象的で平均的な百姓とも面倒な売り込みも手続きもなしでじつにあっさりと親しい関係になれるのである。一般社会(世間)と国家ではそもそも生き方が違う。社会に対する国家権力もまさにそうした平均値を通して生ずるのだ。平均値にある者たちが数を減らされ、そうして生贄に供されるのである。そのため、洗礼のさいイオアン〔イワンまたヨハネ〕と名付けられた人間は、決して自分のうちにロシア帝国の創始者〔イワン三世(大帝)〕の存在を認めることはないし、帝国の創始者も決しておのれのうちにイオアンなる庶民を見出すことはない。

セーヴェル地方やソロフキへのまた奥ヴォルガでの経験(『巡礼ロシア』)が念頭にあるにちがいない。

4月27日

 5月は4月に始まった。チェリョームハ〔エゾノウワミズザクラ〕の花が咲き、キビを蒔き、ジャガイモの植え付けをした。すべて4月中に済んでしまったのに、誰もが5月のことのように思っていた。

 ドイツ人たちがすべてを犠牲に供してなお止まない、いわゆる〈集団化(コレクチーフ)〉――われわれがそれを恐ろしいと思うのは、その全人類的な――彼らには自分たちのコレクチーフこそ第一なのだろうけれど――そのわりには平凡でありきたりな彼らのやり方が、われわれにとっては〈はなはだ異質で無縁な憎むべき恐ろしいもの〉なのである。その暴力的で強制的で理性に適った〈われ〉から〈われら〉への切換え(移動)には、じつに恐ろしいものがある。気にいらないのは、彼らのその「意図性」のトーンなのだ。

「意図性なるもの(сознательность)の出どころはドイツでありドイツ人なのだ。彼らにこそわれらがインテリゲンツィヤの流れの源がある」(七十)。

 本当の意図性とは、あくまで自分という個によって発見された、〈私的なもの〉からみんなに共通なものへの、自分のフートルからみんなのフートルへの移行(切換え)なのである。

 ロシアの民衆(ナロード)の特徴が、今ではプレテーンズィヤになっている。読み書きもままならない人間がプレテンズィヤを露わにしだしたということだ。

претензия、英語でpretension。要求、(自己)主張、(厚かましい)野望、(能力そっちのけの)志望。

 もしその人に可能性と確かな目があれば、外国人捕虜たちの観察は兵舎でよりロシア人の暮らし(ブィト)の中で験したほうがいい。それがこれまでにない真に新しいやり方だ。数十万に及ぶこれら戦時捕虜たちは、公然の支配者たるヴァリャーグ族には程遠い奴隷状態のままルーシへの十字軍遠征を行なっているのである。

『原初年代記』に出てくる伝説的な一族。スカンジナヴィアのバイキング(またノルマン人)で、古代ルーシ統一の原動力となったとされている。王子リューリクのノーヴゴロド、オレーグのキーエフ。

 われわれの悔しさや愛着にはまったく無関心な、しかしそれでもこちらと同じ体験をしている彼らの目に今、全ルーシ――ポーランドからウラヂヴォストークまで――はどう映っているのだろうか、語るとすれば彼らは何を語るだろうか?
 以下は記憶に鮮やかな自分の個人的な印象――この冬のこと、わたしは2人の地主とあるところへ出かけた。2人のうち1人はこの土地の地主で、自分の領地で暮らしている。もう1人は町で商店を経営し、自分の領地にはときどきしかやって来ない。御者台にはオーストリア人のアフトーナス(こちらではロシアふうにアファナーシイと呼ばれている)が坐っている。わたしはそのアファナーシイに幾つか質問をぶっつけてみた――今きみはどんな状態(立場)にあるかなどなど。捕虜というよくわからないその心の襞になんとか触れようとしたのである。質問しているとき、地主たちの間で、軍事捕虜の労働をめぐって言い合いが始まった。で、これがまるで噛み合わない。土地の地主いわく、ロシア人労働者は外国人と比べればまったくの役立たずである、自分は外国人のおかげで無事に収穫が済んだくらいだ云々。逆に不在地主の方は口をきわめて外国人の捕虜たちを罵った。なかなか厳しいもので、最初からこちらの理解力を超えていた。経営についての両者の違いがわかってきたのは、もうちょっと経ってからである。土地の地主は独自に捕虜を選んで、自ら彼らの仕事を管理した。全員よく働いた(うち2人だけなぜかいつも遅れたのだそうだが)。訊けば、てきぱきと仕事をこなすのはいずれも祖国で同じ仕事――庭師だったり床屋だったり――をしていた者たちであるという。それで庭師には庭園の仕事を任せたところ、翌年、その庭園には花や野菜や果物が「ちょっとないくらい」実った。床屋をどうしようか、迷った末に、馬の世話をさせてみたら、それはそれで非常に立派にこなしたという。
 不在地主の方はそれとはぜんぜん違うやり方だった。彼はオーストリア人を電話ひとつで呼び寄せた――内訳はチェコ人が15人ほど、カフェシャンタンの楽士もいたし教会合唱隊(カペラ)の歌い手もいた。それをぜんぶ電話で。そんな混ぜ物から何が出来上がったかは想像に任せるしかない! そういうわけで地主たちのいちばんの関心事である軍事捕虜の質というのは、わたしに言わせれば、単に主人側の質の問題にすぎないのである。
 捕虜たちの食べるものについては、一方的にこちらのやり方で押し通すのはまずいという噂が立った。知り合いの多くは、それが理由で捕虜の受け入れを避けようとしたし、じっさい外国人を召使部屋に押し込んだり家畜小屋の隣の藁に寝かしたりするのは、なんだか恥ずかしかったのである――もっとも、ロシア人だってそれと似たようなところで寝起きしていたから、べつに不自由とは思わなかったが、いや外国人は違うはず、きっと奴らは烈しく非を鳴らすだろう。その結果生じたまことに厭な例がこれだった――ここから15露里ほど離れた村に住むコローボチカという女地主のところに、オーストリア兵の労働者がいた。村人がそれぞれ自分の家に捕虜たちを住まわせ、その家の主たちとほとんど一緒の食事をさせていたのに、ロシア人の雇い人〔労働者〕たちにはなぜか召使の部屋で寝起きさせ、腐った臭いのする羊肉に穀草の茎を混ぜたものを食わせていた……ともかく変なのは、外国人と自国人に対する待遇の違い――この大きな格差、食餌と住まいのこのコントラスト……

いかにもこれは『死せる魂』(ゴーゴリ)に登場する女地主(コローボチカ)のアルージョンである。

 こんなことではどうにもならないが、地主連には(今では自分にさえ)馬や牛がいるし、機械も土地もあるから、なんとかしなくては。
 昔から冬の間、地主の土地は他人に貸し出されていた。賃借料の相場は1デシャチーナに付きおおよそ5ルーブリだった。ところが今はなんと55ルーブリ!
 黒い仕事〔きつい汚れ仕事〕が信じられないほど割高になった。年々歳々、労賃が地代に食い込んでくる。それが良いのか悪いのか?
 わが家の農地も幾つかの村とその住人――農業という意味で言えば、ほとんど乞食同然の人びと――に取り囲まれている。彼らの農地は一戸あたり半デシャチーナで、もちろん、それでは食べていけない。必然的に地主から土地を借りることになる。しかし地主はお金では土地を貸さず――一部は貸すが、一部は労働で支払わせる。耕作させるのだ。それで、去年はそれが1デシャチーナ25ルーブリだった。賃借料17ルーブリ、残りの8ルーブリを地主の土地1デシャチーナ耕すこと(播種から収穫まで)で支払わなくてはならなくなった。

 物価のこの異常な伸び率には、何か頭上に重くのしかかるような、運命的(破滅的)なものがある。

 ある籠(はたご)で、男たちが壁に張ってあった地図のようなものを指差して――『おい、いってえロシアはどこにあんだい、教えちゃくんねえか!』

 普請の真っ最中。正しくは新築ではなくて旧屋を新しい場所へ移築している。大工たちはいずれも不合格品。ひとりは膝にこぶし大の瘤をこしらえているし、ひとりは瘰癧の持ち主、もうひとりは首が曲がっている。戦争のおかげで役立たず(ニェゴードヌィ)になってしまった連中だ。
 ひとの金。
 「おれたちゃ役立たず(ニェガヂャイ)よ!」と彼らは言う。その〈役立たず〉が毎月、自分の手間賃を上げてきて、今では、秋のころの倍の金額を受け取っている。うちとは契約なので、途中で請負を拒否されたらとそれが心配の種。賃上げを要求されれば契約内容の変更を申し出るつもりだ。
 そういうわけで、これを異常な現象と見る人からは、なにもこんなとき〔戦時下〕に家など建てたりしなくても、と同情されたり残念がられたりしている。
 「釘は幾らした?」
 「1フントで40コペイカもしたよ!」
 ひと月前、釘は30コペイカ、そのひと月前には20コペイカ。同情や憐憫の数は増したが、1ヵ月後、〈役立たずたち〉に賃上げ要求を撤回させる要因にはならなかった。彼らには彼らなりの論拠があるのだ――土地があって、今それを耕すには1サージェンに付き50コペイカの費用を要する、ということは、耕すだけで1デシャチーナに付き30ルーブリかかるのである。

 ……捕虜を使ってなんとかこの異常な状態を……戦争の話をしだすと、彼〔むろんプリーシヴィン自身のこと〕はすぐにボスニア・ヘルツェゴヴィナ(捕虜である男の祖国)について質問を始めてしまうのである。そんなふうにして2ヵ月が過ぎた……
 ある日、わたしはその捕虜と会話を交わした。彼は立派なドイツ語を話し、さらに2ヵ国語できた。彼はわれわれが言うところの〈教養人〉である。Volksschule(国民学校)で6年学び、そのほかに鉄道関係の勉強もしていた。
 「きみは仕事じゃそんなに苦労せずにやってこれたのかい?」
 「そんなことありません」彼は答えた。「仕事と言っても汚い不便なことばかりでした。せめて一度でいいからベッドで眠れたら、どんなによかったでしょう」
 彼〔プリーシヴィン〕には、こんな彼らの暮らしがそら恐ろしいものに思えてくる。彼らに能力があるとわかった以上、なんとかそれを活かせないものだろうか。だが、いくらこちらがそう思っても、雇い主から親戚同然の扱いを受けている当の本人に――『何があっても自分の主人を見捨てるようなことはできません』と言われたら、それで終わりである。

5月1日

 5月1日、朝から雲が烈しく飛ぶ。雨か晴れか。みんなに屋根のペンキ塗りと木の皮剥ぎ〔〔壁や天井の漆喰の下地にする木舞(こまい)〕を指示しておかなくては。昼食後、仕事が思いのほか進捗していることがわかる。急に冷え込んできた。夕方近く、寒さが本格的になってきたので、用心のために胡瓜を藁で覆う。深夜、月が出ているのに、あっという間に氷点下だ。朝、雲ひとつない空。鳥たちの大合唱とともに日が昇り、一瞬にして照らし出された庭の白さ。

 コンスタンチンが言う――「ミハイル・ミハーイロヴィチ、あっしはこう思うんです――戦争は強奪だ、ツァーリは強奪者だって、ね」
 「でも、きみはそいつに服従してるじゃないか?」
 「ま、そうですが、でも、自分なんかに何ができますか?」
 「行くなということさ。戦争は認めない、だから行かない、とね」
 「それじゃ銃殺されちまう」
 「そのときは、撃てと言うのさ」
 「何のために自分は惨めな死に方をしなきゃならないんです? そんならいっそ前線で殺されたほうがましだ。『おれを撃ってくれ!』なんて言ったら、それこそ惨めじゃねえですか」

5月4日

 暖炉(ペチカ)職人が大工に言った――
 「なあおい、定期市でおめえ、子豚を買うんだろう? だったらついでに、おれにも一匹頼むよ。いくらするんだ?」
 「25ルーブリ」
 「一匹でか?」
 そのとき、地下の室の奥から、土掘り人夫の声が聞こえてきた。
 「おい、エルマーニェツ、この間抜け、おめえ、いくら稼いだ?! 25ルーブリもすんだぞ、子豚は!」
 「25ルーブリがなんだ!」と、ペチカ職人(町から来た)が言う。「わしら町の人間には難しいが、でも、おめえなら、たらふく餌やってたっぷり肥らせたら、200ルーブリで売れるでねえかよ」
 「あのなぁドンツク、きょうび、どこの百姓が300ルーブリもする豚を食うってんだよ。おめえらの豚はどいつも町で売られてんだぞ」
 言い合いが始まる。町方の人間は、値の張る豚など口に入らないことを証明しようとするし、農民は農民でこれも同じことを証明しようと頑張る。また土方が地下の室から顔を出して――
 「結局、豚は誰のものになるんだ? おい、エルマーニェツ、このドンツク野郎……おめえ、いくら稼いだんだ、えっ?!」
 大工は、豚を買うかやめるか迷っている――誰かが耳元で『25ルーブリで買っちまえ、ひと月経ったら50ルーブリになるじゃねえか』。するとまた誰かが『もう少し待て。ひょっとすると、じき講和締結ってことになるかもしれんから』などと囁いている。
 「そりゃあいつの日だい? 噂じゃ、奴ら、締結なんてしねえってよ」
 「何事にも終わりはある!」
 価格は尻上がり。時を数えつつ値を数えつつ、いや増す不安の速度。時間と価格――死のメカニズム、生命(いのち)。
 大工が腰を下ろしている。なかなか決心がつかない。時間には見積りが要る。われわれはどうやら今、アメリカにでもいるようだ。時間の種類がまったく違う。あまりに速すぎる。価格の高騰と不安、速い生活テンポを前にして恐怖に駆られている。なんとか後れを取らぬようにしなければ。
 家を建てようと思ったのが秋。資材の値上がりを見越して、冬のうちに、鉄板、煉瓦、石灰、セメント、薄板、ペンキ、釘等々を購入していた。さまざまな請負業者に依頼し、彼らから正確な見積りを取ってもらった上で、契約を交わした。春になり、すべて順調に事が運んだので、それなりに自信を持っていたのだが、いろいろおかしなことが生じてきた。連日モノが値上がる戦時下に家を建てるというのが、そもそも間違いだったのか、ともかく「時」がわが家の契約内容をあらかたぶっ潰してくれた。秋ごろの日当で今現在働こうと思う者はいない。こちらも泣きつく相手がいない。しかし働き手はみなひとの良い連中ばかりだったから、なんとかそこは助かった。助かったと思っていたら、また新たな不運に見舞われた。屋根葺き職人が購入した鉄板〔屋根用ブリキ〕だけでは足りないことが判明。不足分だけで、秋に買った鉄板全部の値段と今ではほぼ同じなのだ。それだけかと思っていたら、大工も釘でしくじっていた。秋に15コペイカで買ったものが今は40コペイカ、薄板も同じようなことになっていた。ペチカ職人はこの一帯では名人と呼ばれるくらいの人だったが、煉瓦でこれもやはり大失敗。こんな最悪の時期に家など建てようとするからだと、同情とも呆れたともとれる顔でいろんな人間が「お悔やみ」を言いにやって来た。
 「まだ足らないね!」そう言ったのはペチカ職人の姉に当たる人。
 今になって『煉瓦が1000個足りん』――そんなことを言われても、どうしようもない。
 「ドミートリイ・イワーノヴィチ、なんでまたそんな計算違いを? どのくらい必要か、わからなかったのかね?」
 「それがわからんかったですよ」ペチカ職人は答える――「知ってのとおり、ペチカってものは、ひとつひとつが違うように出来てるからね」
 「でも、前もって図面を引いてちゃんと計算してたら、よかったんだよ!」
 「いや、その見積りができんのです!」
 しばらく言い合う。わたしは鉛筆を手に紙に図を書いて見せる。そうすれば、いくらなんでもペチカ職人は追い詰められて、徐々に自分の非を認めるようになるだろう。
 「違うよ、ドミートリイ・イワーノヴィチ、そりゃ間違っている!」
 だが、相手も勇を鼓して――
 「おたくの言うような冷たい心で働くってのは、わしの性に合わん」
 「ほう、冷たい心の熱いペチカときたか!」
 「そうですよ、心が冷たきゃ熱いペチカは出来んからね、もうこの仕事はやめにしましょうや」
 「そりゃないよ。おたくを馘になんかしない。だって資材が不足してると言ってるのはおたくじゃないですか?」
 そして二人の話は戦争に移っていく――資材不足のそもそもの原因が戦争であるなら、こうした腹立たしさも恥ずかしさも、つまるところは戦争なのである、と。

 否も応もなく物価は上昇(ラスチョート)! 戦争が一切を諦めさせる。戦争が――とはいえ、草も冬麦も春蒔き穀物もどんどん生長(ラスチョート)し、庭には花が、大気にはぬくもりと水分が、大地には力が甦ってきつつある。おお、なんという幸せ! 否でも応でも自然界はものみなすべて成長(ラスチョート)しているのである!

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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