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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 07 . 06 up
(六十四)写真はクリックで拡大されます

 悪臭を放つ泥まみれの敵の死体のそばで日を送るのに比べたら、前線で敵の顔を見たって、もうそんなに怖くはないにちがいない。
 敵のイメージをゲオールギイ・ポベドノーセツの像を使って描くのには、それなりの理由(わけ)があるのだ。人類の敵〔ドラコーン〕の頭部は小さいながらも、なかなか面白く表現されている。炎を吐き、目はぎらぎら。その小さな頭は、とぐろ巻く巨大な体の上にのっかっている。悪の霊的側面は小さく、物的側面は異常なくらい巨きい。
 火を吐く大きな口に槍を突き刺すべく運命づけられた人間は幸せであり、巨大な、悪臭を放つ、捩れた、汚らしい死体のそばに居続けなくてはならない人間は悲哀そのものである。

常勝者ゲオールギイの意。ギリシャ名ゲオルギウスはカッパドキアに生まれ、303年のローマのディオクレティアヌス帝の時代に処刑され、大殉教者として崇拝されるようになる。初めは槍を手にした立像だったが、7~9世紀に龍(ドラコーン)退治の奇跡譚と結びつき、聖ゲオルギウスの象徴となる。モスクワの町を建てたユーリイ・ドルゴルーキイ公の洗礼名がゲオールギイであることから、以来〈聖ゲオールギイの龍退治〉の画像がモスクワ市の紋章に。ポベーダ(勝利)+ノーセツ(もたらす者)。

 村で店を開き、やがて町へ移って商人となる農民。そうした農民がひと財産をこさえるか否かは、いつの場合も、悪の上役(ナチャーリニク)にかかっている。そいつが儲けのすべてを巻き上げるか殺してしまうかするからだ。ナロードニキ系の作家たちによってその種のテーマの小説はいっぱい書かれている。今ではそうした作り話(レゲンダ)がどう創られていったか、われわれにはわかっている。ナロードにおける個人的なイニシャチヴ、個人的な作品は共同の財産と見なされるが、ものを売り買いする人間〔商人〕は、それを私的所有物に変えるので悪と見なされている。そのあと個人的非所有の意識としての物惜しみ(しみったれ)があり、さらに共同の自由へと導く自由の拡大が来る。われわれは個人主義と物惜しみの時代にいるのだ。これに目をつぶるべきではない。そしてこのあと、社会的経験の進展に伴って、必然としての、いや自然の力としての個人主義はいずれにせよ社会の役に立つ。わが国では、その力は社会活動の〔自然な〕欲求を割り振る行政機関が運用することになる。

 拍子木だ! ああまた鳴った! あれはどこでだったろう? そうだそうだ、思い出したぞ――わが人生の黎明期に、ふるさとの町の通りで、それが誰だったかは記憶にさだかでないが、ただひどく疲れた顔をした人と出会って、自分の幼いころの話をしたことがあったのだ。そしてそのとき、いま鳴ったと同じ拍子木の音を聞いたのである。それがずいぶん昔のことで、まるであれから1000年も過ぎたような気がした。そして今またあの音が1000年を経てふるさとの通りに戻って来たように思われたのだった。その音には昔とそっくり同じ響きがあった。拍子木の音に誘われて、わたしはふらりと月の光に照らされたおもて通りに出てみた。夜の底の、まったく人気の絶えた通りの、多く影をつくっている池のそばを、ちょうど夜警がひとり過ぎていくところだった。わたしはそこで石に蹴つまずいた。そして1000年前にも同じその石に足をとられたなと思った。体のバランスが崩れかけ、勢い余って鋳鉄製の小さい柱の方へすっ跳んだが、なんとか持ちこたえた。そうだ、たしかちょうどこの辺に、コーリャ・クリヴォロートフ〔幼馴染か旧友か〕が住んでいたのだ……

 〔新聞社の〕小さなデスク。夜のぴったり8時に、わたしは市会(ドゥーマ)に着き、記者席に腰を下ろした。ホールの壁にかかっているのは商人たちの肖像画ばかりだ。いずれもこの町の活動家で、とっくの昔に死んだ人たちだった。ぼちぼちみんな集まりますよ、と守衛が言う。10時近くになっても、まだ定員に足りない。11時になればみな帰ってしまうだろう。そうなったら議会は延期である。
 かつての活動家たちの肖像のことは自分もよく知っているはずだった。しかし戦時下である今、それらはわたしのイメージの中で、どっか妙なふうに変化を遂げてしまったらしい。しょっちゅう会っては他人の噂やニュースを交換していた友の顔。そんな仲間の顔を3日も見ないでいれば、3日が3年にも感じられたりするだろう。中断を伴う非常に速い時間のテンポに慣れてしまっているので、しみじみ壁の肖像たちを眺めていると、1000年ぶりに自分の古巣に帰ってきた気がして仕方がない。昔の商人たちが、今では〈時〉の轡(くつわ)を握って坐っているのだ。そうして、ずっと轡を離さず、深々と腰を下ろして、わたしを――彼らの轡を勝手に吐き出して広い世界に飛び出していった(とそう自分では思っていた)彼らの子孫のひとりであるわたしを、嘲笑っているように思えたのである。
 彼らはいずれも名を馳せたエレーツの商人だが、数から言えば、大して多くはなかったが、その子孫たちが互いに親戚同士になった。そして自分自身もその類縁だ。1000年後にも自分はまたこの親類縁者たちのところに戻って来そうな気がする。父祖たちがこっちを見て、薄笑いを浮かべ、何も言わずに、ただしっかりと〈時〉の轡を握っている――そんな図である。と、そこへ、ひとりの自治会議員――壁の肖像画にじつによく似た男がホールに入って来て、わたしのそばに腰を下ろした。
 「いやあ、お久しぶりですな! どういう風の吹き回しで? 長くご滞在ですか?」
 「ええ、しばらく」
 相手は驚いた顔でわたしを見ている。まるでこちらが永遠の彼方からやって来た人間、いや墜ちたメテオールが立ち上がって話を始めた、とでもいうように。
 「ご予定は?」
 「父や祖父たちの暮らしぶりをじっくり見てみようと思ってます」
 「ええ、ええ、暮らしてましたよ」自治会議員は肖像を眺めまわす。「爺様たちは正しい、良心に恥じない暮らしをしていました。でも今は戦争です。国が危機的状況にあります……それに、どこを向いても、こそ泥、いかさま、ペテン師だらけで。昔も戦(いくさ)はありました、金持ちもいましたし、昔も〔戦で〕儲ける人間はいましたが、でも今は……」
 彼は自分でわたしに、戦争(ここには書くのも腹立たしい仕事)で金を稼いだひとりの男の話をし、しばらくその男を罵ったが、急に――
 「ああご免なさい、こんなこと話すとは自分でも思ってませんでした」
 「どうかされました?」
 「だってその人は、あんたのご親戚じゃありませんか……」
 「わたしの親戚だって?」
 「ああまったくなんてことだ、ミハイル・ペトローヴィチ〔プリーシヴィンの父称はミハイル・ミハーイロヴィチ〕、どうぞ、ご覧なさい……」そう言って、彼は一枚の旧い肖像を指さした。「あの方はあなたの曽祖父に当たる方で、あなたのお祖母様はご親戚もご親戚、もうその……」いささか興奮気味に話を続けた。「ごくごく近いご親戚ですよ。それにしてもあなた、そんなに近いご親戚なのに、どうしてご存知ないのでしょう。いやこれは失礼しました。ああどうかご容赦ください……」
 自治会議員たちが徐々に集まってきた。10時の時点で定数に2名不足。どうしても必要なので議員の自宅に電話をかけ、守衛を迎えにやる。生きている現役の肖像たちは緑のテーブルに就いた。わたしの帰郷が話題になる……取り囲まれてしまった。  「こちらに来られた目的は?」
 「ええ、今回の目的はミーニンを探し出すことでして」

クジマー(コジマー)・ミーニン(ザハーリエフ=スホルーキン)は、抗ポーランド解放運動の指導者でロシアの国民的英雄(16世紀末-1616)。ニジニ=ノーヴゴロドで肉屋をやっていたが、動乱時代(スムータ)時代(1604~13)に推されて総代(スターロスタ)となる。1611年、大主教ゲルモゲーンの教書にこたえて義勇軍を起こし、軍司令官にポジャールスキイ公を招く。軍資金を調達し、戦いの末ポーランド軍占領下の首都モスクワを解放。のち貴族となり、元老の列にも加えられるが、まもなく病死。モスクワの赤の広場にミーニンとポジャールスキイを記念する銅像がある。

 エレーツ。モスクワ公国の辺境の町。ソスナー川の向こうからタタールシチナ*1が始まる。バツ*2はソスナー川まで来て引き返した。アルガマーチャ山に聖母の伝説*3

*1タタールシチナとは元来、タタール支配下の時代=タタールのくびき(1243~1480年のキプチャク汗国によるロシア支配)ないしその習俗、その当時ロシアの諸公が納めた年貢を指す言葉だが、ここではタタールの直接支配下にある土地の意。

*2バツ(抜都)はチンギス汗の孫で、キプチャク汗国の建国者(1208~55)。在位1227~55。1236年、総司令官としてヴォルガ河畔を経略。のちモスクワとキーエフを攻略してロシア地方を支配し、ポーランド、ドイツ、さらにハンガリーに侵攻。サライを都にしてウラル川西方よりヴォルガ流域を支配した。

*3〈ウラヂーミルの聖母のイコン〉のこと。伝承によれば、この有名なイコンは、1131年にコンスタンディヌーポリ総主教からキーエフ大公ユーリイ・ドルゴルーキイに贈られ、やがて1155年にウラヂーミルに移されて、ウスペーンスキイ大聖堂に納められた。1395年、中央アジアの覇者チムール(タメルラーン)の軍がモスクワ大公国に迫ったとき、ワシーリイ一世がウラヂーミルからこのイコンを借り受け(8月26日にモスクワに運ばれた――それを記念したのがキリスト迎接祭・旧暦2月2日)るや、早くもその翌日にチムール軍は引き揚げていたという。チムールの陣地はそのとき、エレーツ近郊のブィストラヤ・ソスナー(急流ソスナー川)の河口に近いアルガマーチャにあった。前夜に見た彼の夢――聳え立つ高い山、そこへ天女が、剣を手にした天使たちを従えて現われ、彼に向かって『ロシアの国境を侵すな』と命じたのである。この年、チムールはキプチャク汗国を粉砕している。ウラヂーミルの聖母にまつわる伝説はいろいろあって、1451年と1480年にも、タタールのたち軍からモスクワを守ったとという言い伝えがある。現在はトレチヤコーフ美術館に所蔵されている。

10月30日

 トルストイの日記のモチーフは〈手記〉に似ていて、その手記はモチーフとは少しも似ておらず、書簡的モチーフである。自分の祈りを記すのであれば、他人も繰り返し称えられる詩のようなものでなくてはならないし、それでは可笑しくもなんともない。他人がトルストイの手記を祈りの言葉として使うなら、これはもうどうしようもなく滑稽なことだ。

 そう、精神的あるいは肉体的な弱さはわれわれの蔑視と嫌悪の、また平均的人間の暮らしの俗悪さ加減の源なのだ。強者はそこを素通りして行く。

11月1日

 去年の今夜、こんな晩秋の、ぞっとするような天気の日に、母は死んだのだ。あれからわれわれは円満に、彼女の遺志どおりに遺産を分け合った。自分は故郷の町に戻り、学生時代に住んでいた(もっとも、学校からは退学を余儀なくされたけれど)同じエレーツのアパートに移り住んだ。

 追善供養(トリーズナ)。11月1日、供養のためフルシチョーヴォへ。6日の金曜日に戻った。

 教会。堂内の掃除が行き届いていない。司祭や読経者や聖歌隊の人たちの口から手提げ香炉(カヂーロ)の煙のように白い息が吐き出される。至聖所から叫ぶような声――『われらが同盟軍〔英仏の〕に〔栄えあれ〕!』が聞こえてくる。そうだ、戦争なんだ! だから司祭は栄えある軍隊にも祈りを捧げている。司祭の言葉は人びとのうちに答えを見出そうとしているようだ。それらの言葉とともに人びとは十字を切り、跪(ひざまず)く。そうしてほんの一瞬、これまでずっと人びと自身にも鎖されていた魂が、民衆の意志(ナロードナヤ・ヴォーリャ)が、まさに今この場に立ち会っている――そんな気がした。

 教育ある者もそうでない者も、老いも若きも、今は誰もが話している。気候に変化が出てきたかのようである。ロシアの11月と言えば、以前なら冬の季節、でも今はまだ秋――冬に深く突っ込んだ、じめじめした、霧に包まれた秋だ。風が吹き荒れて、連日、方向が変わるかと思うと、大気は乾燥してきて、気がつけば、すでに恵みのマロースが始まって、そうして再び何もかもが――天気も体調もほとんど同時に崩れてしまう。早いうちからランプに火が灯り、こんな夜長に木々のざわめきを聞いていると、どこか自然界では、われら人間らしきもののための闘いが行なわれているように思えてならないのである。それは、とても恐ろしく苦しい、暗い戦いだ。ときどき静寂が戻るようなら、暗い空に小さな星がキラリと光るかも。今もしそんな星が現われたら、自分は春が来るのだと思って、生きているのがどんなに嬉しくなることだろう。人びとはしばし息を継いだ――すると、またしても新たな烈しい突風が巻き起こって、胸腔いっぱいに暗い呵責を吹き込むのである。

 権力のために創造された特別な人種――狡猾の、才能の、瞞着の、理性(ラーズム)の、いずれの道によっても同じことだが――そういう者たちをヒトは〈賢い人〉と称し、権力を持つことのできない者を〈愚かな人〉と呼んでいる。昔話の世界では、馬鹿が最後にツァーリの権力を手に入れる。これは権力への敬意を示すというよりは、むしろ権力の作り替え方を教えているのである。お百姓たちはどんな愉快な気持ちで、その権力を、交替なしの常任のスタルシナー〔スターロスタに同じ。前記柱のミーニンのような〈総代〉あるいは村長、長老〕に委ねることだろう。また、そういう権力者が見つかってどんなに満足したことだろう*1。昔はそうだったのだ。でも今、このナロードからは、スタルシナーが個々人のうちに権力(組織の)への欲求を目覚めさせること、呼び起こすことが求められている。もともとナロードにそんな欲求はない。わが国では、権力欲は官僚たち(役人)の階級的枠内にしか存在しない。だから、民衆にまじって暮らしていると、たまにこんな奇妙な可笑しな文句に出会ったりするのである――『トレーポフ氏に幸福が微笑んだ*2』。いったい何のこと? どこがお笑いなのか? 生涯一度も交通行政にかかわったことのない人間が突然、交通大臣の地位と権力を手にした不思議さを皮肉っているのだ。

*1プリーシヴィン自身、スタルシナーの存在を〈百姓王〉という言い方でたびたび語っている。『森と水と日の照る夜』のマヌーイロの昔語り(「すなどり」)。拙著『森のロシア 野のロシア』第二章「プリーシヴィン――ベレンヂェーイ王の朝」その他。

*2アレクサンドル・トレーポフ(1862-1928)。1915~16年に交通大臣、16年の11月~12月には閣僚会議議長に、しかし18年に亡命。悪名高い実兄のドミートリイ・トレーポフは、革命弾圧のための超反動的な独裁権を与えられて黒百人組にポグロームを唆したペテルブルグ県知事であり、彼らの父であるフョードル・トレーポフは、政治犯に対する残酷な仕打ちで悪名を馳せたペテルブルグ特別市市長。1878年に女性革命家のヴェーラ・ザスーリチに銃撃されている。

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