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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 06 . 05 up
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 知人たちに小さな棕櫚をプレゼントしたくなって大きな花屋に寄ってみたが、店内はからっぽ(花はベルギーからの輸入もの)、棕櫚は全部で3本しかなく、大きいほうが60ルーブリ、小さいほうは4ルーブリ。不満を漏らすと、店主が言った――『こんなご時勢には砂糖のほうが喜ばれるでしょうが、あなたは棕櫚をお買いなさるのですな』。なるほどもっともだと思い、以後ペテルブルグへは砂糖の塊を持っていった。まこと砂糖は知人たちの間で絶賛(フロール)を博した。それにしても、あんなにでかい塊を自分はどこで手に入れたのか、それこそ奇蹟中の奇蹟!

 市電〔路面電車〕に、頭にスカーフを巻いた制服姿の女車掌が現われた。鉄道にも肩章を付けた女性が。最近、女性の活動分野が広がりつつある。

 またしてもラスプーチン! 国会を解散させたのは彼であるとの噂。国王〔ニコライ二世〕はすでにクリヴォシェイン*1に組閣(社会活動家から成る内閣)を委ねようとしたが、突然それを変更し、ゴレムィキン*2を首班指名した。ラスプーチンがストップをかけたらしい。懸念されるのは、今では本営に陣取った彼がドイツに買収されているのではないか、ツァーリを動かして単独講和に持っていこうとしているのではないか、ということだ。ペテルブルグに1週間いた。ペテルブルグ人の暮らしを思うと、ぞっとする。たった1週間なのに、ひと月年を食ってしまったような……

*1アレクサンドル・クリヴォシェイン(1857-1921)は帝政ロシアの政治家。1906~08年に貴族銀行と農民銀行を管理する財務官僚、06年から国会議員。08~15年、土地整理と農業行政のトップとして〈ストルィピン改革〉を主導。1920年、〈ロシアの南政府〉首班、のち亡命。

*2イワン・ゴレムィキン(1839-1917)は帝政ロシアの政治家。保守派。1895~99年に内相、1906年に首相、第一国会を解散させてストルィピンと交替。1914~16年、ラスプーチンらの宮廷派に推されて再び首相に。

 ラズームニクと会う。顔を見なかったのはたった1週間、なのに話すことが山ほどあった。この1週間でどれほどの水が流れ去った〔多くの時間が過ぎた、の慣用表現〕ことだろう! なんだかゼンマイが壊れて時計の針が猛スピードで回ったようである。旧いものにしがみつく習慣がなくなったら、はたして今の人間はどんな生き方をすることだろう!

 どうもペレムィシルからこの方、夜にはテーブル回し、昼日中は鳩に餌をやってるらしい……解放〔更迭〕されて嬉しくなったのだという。そうだろうか? 国民にとって彼はまあ、イワン・ツァレーヴィチ〔イワン王子〕であるわけで!

ニコライ・ニコラーエヴィチ大公のこと。スピリチュアリズム(降霊(神)術)のtable turning(何人かがテーブルに手を載せると、テーブルが自然に動き出して一方に傾いたり宙に浮いたりする。心霊の力によるとされる現象)。このころ宮廷や上流社会で流行した。ちなみに、宮廷にラスプーチンを誘い込むことになったのが、皇后アレクサンドラの無二の親友だったモンテネグロ大公妃姉妹で、ニコライ大公の弟のピョートル・ニコラーエヴィチはその姉のほう(ミリツァ)と結婚し、ニコライ大公自身も妹のスタナに夢中になった。魔女と魔術師の国、モンテネグロ(黒山)からやって来た黒髪の「黒い女たち」は早くから、孤独で精神不安定な「内部のドイツ人」=皇后を、その暗く謎めいた神秘主義の虜にした。

 平穏
 左翼はカデットに憤慨している。これがミリュコーフの見越した平穏だというのだ。戦時下にある政府はどっちみち権力を譲るはず、したがって何の心配もない……

パーヴェル・ミリュコーフ(1859-1943)は帝政ロシアの政治家・歴史家。モスクワ大学でロシア史を講じていたが、学生運動に係わって罷免され亡命した。1905年に帰国すると政治活動を開始し、立憲民主党(カデット)を創立した。「談話(レーチ)」紙を編集。第三第四国会の議員を務め、リベラル派を率いる。17年の二月革命で臨時政府の外相に。しかし親英仏政策と戦争継続を確約した〈ミリュコーフ覚書〉で辞職を余儀なくされ、パリへ亡命。かの地で反ソ活動を続けた。学位論文「ピョートル大帝の改革」(1892)、労作「ロシア文化史概説」3巻(1896~1903)。

 プガチョーフのグリニョーフ*1
 ゴーリキイは自分の〈エネラールたち*2〉のミリュコーフについての報告を聞きながら、『下らん連中だ!』とせせら笑い、それからまたミリュコーフ自身を『あの愚か者め!』と罵った。坐ったままずっと彼らの話に耳を傾けている。そしてつい興奮してエネラールィ(諸君!)が〈ググェネラールィ!〉になったりする。

*1プーシキンの中篇小説『大尉の娘』(1836)の主人公。軍務に就くためにオレンブールグへ赴く途中、奇しくも、やがて天下の大謀反人となるエメリヤン・プガチョーフと出逢う。

*2ゲネラールィ(генералы generals)=将官たち、ここでは要するに取巻き連。べつにイタリア訛り(ゴーリキイは長いことイタリアで暮らした)というのではない。

 彼のまわりはイタリアから運ばれた旧式の武器、購入した絵画、書籍、家具類で溢れていた。さながら宮殿に座すプガチョーフといった感じである。それが彼の所謂〈ヨーロッパ主義〉への敬意、畏敬の念なのだ。
 傍目にも、そこにはどこか滑稽でナイーヴなプガチョーフ流が漂っているのがわかる。そんなゴーリキイと茸狩りにでも出かければ、その足どり、でかい図体、その思慮ぶかげに街道を――たいてい街道が右も左も針葉樹林だ――眺める目つき、さらには、混じりけなしのニジニ=ノーヴゴロド訛りのオーカニエ*でもって語られる、たとえばこんな喋りが聞かれるはずである――『今にあれが、あの針葉樹が、すっぽりと氷に覆われるんだよ、そしてときどき風が鳴る……そりゃもう凄い(チュヂェースノ)の一語に尽きる!』。

オーカニエ(оканье)――アクセントのないоを[a]ではなく[o]と発音することを言う。ロシア語の方言は北方方言と南方方言にほぼ大別される。その境界は西から東へプスコーフ、トヴェーリ、モスクワを経て、ヴォルガに沿って南下する。標準ロシア語および南方方言では、たとえば、無アクセント音節のоは、はっきりした[a]か曖昧な[ə]だが、北方のウラヂーミル地方では[o]とはっきり発音される。

 スキマ僧を求めて国中をさ迷い歩き、自殺を図り、村々になんとか「文化」を根付かせようと商店の売り子なんかと脳漿を搾り合ったりして、そのことでどれだけ多くの〈自分のロシア〉を我慢し耐えて耐えて耐え抜いたか、そんな自分の人生を語りだすうちに、そこからじつに自然に〈ヨーロッパ主義〉への跪拝、というか畏敬の念が湧き出てくるのである。わたしは今、われわれの会話の糸を手繰ろうと試みている……

ここはもちろん若きゴーリキイの遍歴時代(自殺未遂も含めて)の話である。スキマとは古いギリシア語で修道院の苦行的戒律のこと。発音はスヒーマ。スキマ僧と呼ばれるのは、ギリシア正教において厳しい苦行戒律に服する修道士で最高段階に達した僧。

 説明のつかぬもの――
 つまり生命の重んじられない中国(キタイ)シチナ*1、東方――説明つかず納得いかぬものの例を挙げれば、殺された人間のうなじに打ち込まれた釘であり、われわれのよく知る多くの言葉――「何の理由もなく」、「堂々巡り」、「不可解」、「出口なし」、「摩訶不思議」、「ドストエーフシチナ」なのだ。そんな説明のつかぬものからの脱出口が『イタリアだ!』となってしまう(リャザノーフスキイ*2の場合は、それがイタリアでなくヘラス〔ギリシア〕なわけで)。生命の価値もまあ概してそんなところだ。

*1~シチナという語尾を持つ言葉はこれまで何度も出てきている。たとえば、カラマーゾフシチナ、オブローモフシチナ、フリストーフシチナ、フルィストーフシチナその他いろいろ。語尾にシチナを付して「~主義」、「~的傾向」などのニュアンスを表わす。土地柄、気風を言うときにも用いられる(スモレンスク地方ならスモレンシチナ、ここではキタイシチナ=中国的〈訳のわからなさ〉、謎の国、ちんぷんかんぷん)。ドストエーフシチナはもちろんドストエーフスキイ流の心理分析や、その作品の登場人物たちに見られる精神の不安定・動揺また心理的葛藤を言い表わそうとするときに使われる。

*2イワン・リャザノーフスキイ(1869-1927)は著名なロシア史関係の古文書収集家で考古学者。プリーシヴィンと長らく親交があり、手紙もやりとりもあった。

 神への反抗(ボゴボールストヴォ)ではなく、単に神(ボーフ)殺し、つまりレフコブィトフみたいに〈人間の臍を神から切り離し〉てしまったのだ。

богоборчествоではなくбогоборствоと記されている。

 あるスターレツが穴(ヤーマ)の中からマクシム〔ゴーリキイ〕に問うた――これまでどう歩いてきたのか、と。それから自分の兄弟が今どうしているか訊いてくる。それでこんなことまで口にした。じつにその自分の兄弟が自分をヤーマに陥れたのだ、と。ヤーマとは何ぞや? それは不幸、神でもあり人間に対する悪意でもある。説明のつかぬことはまさにそこから生じている。そこからの人類への(歓びへの、生命への、ヨーロッパへの)脱出。

スターレツとはふつう老修道士、隠者、長老、老師などと訳される。目下渦中の人物、悪名高いあのグリゴーリイ・ラスプーチンでさえ一部の人びとから〈スターレツ〉と呼ばれている。ヤーマはもともと〈地下牢〉を意味した言葉で、穴、窪み、盆地、獄(獄舎)、売春宿、魔窟(クプリーンの傑作も『ヤーマ』)。「人を呪わば穴二つ」の穴。

 わたしの結論
 「プロメテウスの闘いはキリストによって終わる」
 プガチョーフが答える――
 「そのとおり。それを認めているのがドイツ哲学だ。たいしたもんさ。機知に富んだ連中だ、たいしたもんだよ……」
 ゴーリキイは、自分は戦ったのではなく、ただ〈殺した〉のだということを証明しようとして、自分の人生から例を引き始める。わたしは何も反論できない。なぜなら、それは〈ドイツ的理論〉であって、これはいのちであり事実であるから。そしてその新しい事実に(生は諸事実の斬新さにある)新しい現実的な、死んだ事実ではない現実的な事実を付け加えなくてはならない。これら生きている人びとにとってメレシコーフスキイ一派がなぜ憎むべき対象であるのか。一方は生きており、一方は理論(理屈)を打ち建てている。前者が生命を産むのに対し、後者は歌をうたい(教会合唱隊)、讃美する人たちである。一方はつねに土壇場にあり、苦しみつつも継続を望んでいるかのようであり、また一方はあらゆるものへの回答が、あたかも飛沫のごとく、散っておしまいになる。
 「〔彼らは決して〕『わからない!』とは言えないんだ」――これがゴーリキイのメレシコーフスキイ弾劾の要諦である。

 ゴーリキイのような人たちは、すでに人口に膾炙した周知の事実を発見しようとする――いまさらのように。彼らは何を発見しようかと考えているのだが、しかしそれはすでに創造されてあるものを見つけ出し、その自分の〈掘り出しもの〉を衆目に触れさすにすぎないのだ。

 ゴーリキイのルカーはおそらく、慰め手たるキリストの伝道者だ。ルカーを描くことでゴーリキイは個我〔人格、リーチノスチ〕に対する自身の疑念を――彼〔ルカー〕は何によって強いのか、欺瞞によってか、という自分自身の疑念を表明しているのである。

ルカーはマクシム・ゴーリキイの戯曲『どん底』に登場する年寄りの巡礼。彼はおそらく「慰め手たるキリストの伝道者」である。「わしにゃ、どうでも同じだよ! わしは相手が騙りでも尊敬する。わしに言わせりゃ、どんな蚤だって、蚤は蚤だ……〔神様だって〕信じれば、おるし、信じなければ、おらんのさ……おると信じたら、それはおる」

 ゴーリキイはわたしにこんなことを言った――スキマ僧は誰にもわかる言葉で平凡な事柄について語る。〔たとえば〕商人某だが、たとえ僧のもとを去っても、彼は僧の言ったことをよく憶えていて、何でもないあたりまえのことを悟るのである――つまり自分はそれほど馬鹿でもないのに、なぜかあの人〔スキマ僧〕にはできて、われわれにはできない、どうしてなんだ、と。

 石の真実(камень-правда)。原っぱの真ん中にテーブルみたいに大きな石が横たわっている。その石は誰の役にも立たない。みんなこの石を目にしているが、それをどうやって動かしどこへ据えたらいいのか、誰にもわからない。よたよた歩きの酔っ払いなら石にぶつかって口汚く罵ったりするだろうが、酒を飲んでない人間は石をよけて通る。みんなはその石にうんざりしていた――誰にも動かせないから。というわけで真実(プラウダ)もそういうものなのである。
 多くの人間は、個人的に自分の町の破壊を受け止め、耐えて、貧弱な丸太なんかにしがみついて流れ、漂い、飢え、あたりを見回しながら、後ろ足で(蛙みたいに)ぴょんと跳び、小さな鼻づらをあっち向けこっち向けして、あっちの町こっちの土地の破壊のさまを眺めてきた。住む家を失くした100万人もの逃避行も、毒ガスも、装甲車も、爆弾を投下する有翼モーターも――これらはみな新しく登場した。人間はこれまで生を深さにおいて〔垂直的に〕味わってきたが、今やそれを広さにおいて〔幅で〕体験している。

窒息性ガスを人類史上初めて使用したのはドイツ軍だったが、若き伝令兵アドルフ・ヒトラーの一時的な失明はイギリス軍からの毒ガス攻撃によるもの。有翼モーターとは空の花形である爆撃機のこと。若きゲーリングは第一次大戦の〈撃墜王〉だった。

 村で。砂糖。砂糖の払底が本物の革命を起こす。住民にとってヴォトカの禁止がどんなに嬉しいか、砂糖の不足がどんなにつらいか。敵国人としてのドイツ人への知識・理解度は増大したが、増大ついでに〈内部のドイツ人〉というところまで行ってしまい、挙句に〈すべては軍隊のため〉という決まり文句がこれまでの意義を失って、軍隊自体が隊列ひとつ満足に組めない2級民兵になり下がってしまったようである。

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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