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プリーシヴィンの日記        太田正一

2011 . 04 . 10 up
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亡き母への手紙(続き)

 あなたにもっと自分のことを話したい――本当に自分は支えなしでは生きていけない。とても困難なのです。自分はなんだか他の作家を前にするとびくついているようで、何かに寄りかからなくては倒れしまうのでは、と思ったりします。でも、彼らが以前に書いたものをよくよく検証してみると、自分が間違っていることがわかるのです。彼らもやはりイリュージョン(霊感)を頼りにし、〔似たような〕支えなしの状態を味わっているのです。傍(はた)から見れば、自分も民衆や大地や自然その他を頼りにしているように見えるかもしれません。支えなしに生きるのは苦しいけれど、よくよく考えれば、支えの探求そのものが人間の最大の弱点のように思えてきます。何かに頼りたいという気持ちは弱さに由来します。そしてたえず感じているのは自分がとても弱い人間だということです。結局、支えとなるのは、親しい人たちとのひょいと交わされる、心こもった会話なのですね。、それでそうした心のやりとりが何によって得られるかといえば、個人的な温良さからなのです。力があたかも弱さにあるかのように。そこでわれわれの〔遺産の〕分配の問題なのですが、それを自分は今この方法で解決しました。どんなことになっても、喧嘩にはなりません。コーリャ〔次兄〕にすべてを委任するつもりです。


 弱いが負けない! 倒れつつもドゥープ(オーク)の枝はたわんでいる(あっちとこっちへ――碌でもない方向といい方向に)。
 秘密の病がわたしの喜びを咬んでいるが、それについては誰にも話せない。その病気はわたし自身であるから。自分は自分の生をつくり上げる。わたし自身とは、すなわちわたしのごとき人間はわたしのまわりにいるし、わたしがわたしでない別の人間であっても、わたしのまわりにはわたしでない別の人間たちがいるにちがいない。もし別の人間がわたし自身であるなら、他者を見、他者を引き合いに出すことに何の意味があるだろう。自分を苦しめているものすべてに対して自分は責任を負っている。
 そうして突然の難局乗り切りだ。それがどんなふうに行なわれたか、出口がどこにあったかについては、まったく予測も理解もできないだろう。家の中は寒かったので外に出た。外の寒さはさほどでなかった。小高い丘の小道を歩きだす。増水している川に青々とした小島が出現。高みから見ると、そんな小さな島が至るところにある。まるで地球の大陸が水の底から姿を現わしたかのようである。それで自分の気持ちも一気に高まって、自分を苦しめていたものが何であったかを思い出した。恥ずかしくなった。苦の正体? ああ、そんなことだったのだ! 口にするのも恥ずかしい。いったい自分は何を……手で払ったみたいに謎が解けて、わたしは現実世界に、自由な地上に、舞い戻った

「春先、いつもわたしは思ったものだ――自分だけじゃなく、みんなも幸せになれるのに……独創的な幸福は人類の宗教にさえなり得るのに、と。独創的な、だって? ……でも、ほかにどんな幸福があるだろう? ああ、明らかにこれはわたしの言い間違いだ。そもそも幸福には形容詞なんか付かないのだ……」(『交響詩ファツェーリヤ』から「幸福な一瞬」)

 心浮き立つ祭日に、時おり、散文的客人が平日然とやってきて、せっかくのお祭りムードは消えてしまうのだが、その逆に、平凡この上ない平日に、思いもかけない祭日のような来客があったりして、一日じゅう明るい光で満たされることもある。
 然りまた然り。世界は美しい。完全な創造世界だというのに、人間はどうだ! まったくその裏返し、すべての創造物の病巣であり苦である。苦悩が人間に、世界創造そのものに近いことから生ずるのだ。

 森が衣をまとった。いま森の中だ。鳥の声に満ちみちた暖色の空焼け(ザリャー)に身をゆだねようとしたとたん、いきなりピシャピシャ、嘶き、音、罵言。馬の群れが〔こっちへ〕近づいてくる。そしてすべてが消えたと思ったら、今度は空いっぱいに、嘶き、罵り、わいわいがやがや。
 そのあとそんな雑音はどんどん遠くへ去って、小鈴の音も気にならなくなった。すると今度は森の奥からだろうか、みごとな歌が……合唱団が子守唄を歌っているのだ。何だ、あれは? 変だぞ、鈴の音も同じトーンでこっちに向かってくるようだ! まるで第2パートでも歌っているみたい。何だろう、何だろう? 不意に謎が解けた。森が衣服をまとったので、音の響きがよくなったのである。遠くの小鈴が森の中でシャンシャンと〔美しい〕合唱のように繰り返し、それが第2パートをさらに第3パートを生みながら、わたしがいたすぐ近くで、ついにひとつに融け合ったのだ。世界創造はそうして過ぎた。向こうでは素晴らしい合唱団が歌い、こっちでは合唱団を創るために苦しんでいたのである……

 自然における人間の始まりが不首尾と苦悩と労働であったことは明らかだ。ただもしその来るべき苦を前もってわが身に引き受けるなら、素晴らしい世界について語ることができるだろう――そうするためには、恐れず、死への準備をし、死を通して「世界を創造されたものとして」見るというところにまで達しなければならない。

 父と息子――ツァリグラード〔コンスタンチノープル〕と苦(聖地を解放すること)。その途次、民衆のうちに生きているツァリグラード〔の言い伝え〕を蒐めること(僧侶たちと語ること)。

 イサイカ。シャリャーピン。イサイカがシャリャーピンを管理している。彼は大歌手の秘書。心配ごと、不快、災厄、あらゆる面倒を一手に引き受けているが、シャリャーピン自身は王様であり旦那(パン)であり歌手である(ちょうどニコライ神父とイワン・リーシン(経理やマテリアルなもの〔雑事〕をすべてこなしていた輔祭)のような関係だ)。妻のソフィヤ・アンドレーエヴナに文学の仕事の一部を担わせていたトルストイみたいに、神父自身はただ聖職者の役目を果たしていればいいのだ。ヴィーリノ〔1939年までのヴィーリニュスの正式名〕のあるユダヤ人がこんなことを言った――「あんたには才能があるが、厚かましさとどこへでも潜り込む狡さが足りない。もし秘書を雇うんなら、喜んであっしがやってあげますよ」。イサイカはシャリャーピンのために働き、シャリャーピンのためだけに献身すべきだ。イサイカには養わなくてはならない家族がいる。シャリャーピンは声が駄目になっても生きていける資産があるが、彼には何もないということを忘れてはいけない。シャリャーピンは打(ぶ)つ。彼が怒ると誰も近寄れない。そんなときはイサイカが唯一の頼りだ。

 

 世の中はそうしたものだ。嫌な汚いものは誰か(労働者、百姓、女房)にやらせる。この秘書的なマテリアルなものは万人に平等で、精神的主(あるじ)などという特別席はない。それは、夢想家やウズラ撃ちにとって家族が無慈悲であるように、トルストイにとっても家族は情け容赦がない――そこにあるのは、顔のない盲目的なものである。だからこそ、社会主義者たちはその盲目的な力をわが身に引き受けようとする。集団大衆(マス)には旦那衆を打ち負かす十字架がある。この十字架を(無意識的に)マルクス主義者たちはわが身に引き受けようとしているのだ。ひとの好い主人は奴隷のために懺悔や教育その他で額を血だらけにしたが、マルクス主義者たちはそうした行為をすべてあざ笑った。主人自身は、ひょっとすると、自分の破滅が避けられないこと、奴隷マスの勝利が間違いないことを知っているばかりか、奴隷マスの勝利が自分の支配権と深い関係があることさえ承知しているかもしれない。それで〈あの世〉が出てくるのだ。(未来は《あの世にある》、つまり《未来にある》――現在を引き受けているのは主人だが、未来を引き受けるのは奴隷なのである、と。(レフコブィトフは未来を待ちきれずに《復活》を宣言した――一方、マルクス主義者たちも同様に、復活を宣言している

独立教派集団(セクタンツトヴォ)とマルクシズムの類型的近似については、初期の日記(1903-1913)で多く論じられている。参考文献としては、ア   レクサンドル・エトキンドの『フルィスト』を。

 主計官のレフコブィトフ――オレンブールグで知らぬ者なきあのパーヴェル・イワーノヴィチ・レフコブィトフ!――を、われわれはずいぶん陽気な、喜色満面の人間みたいに思っていた*1。こんなことがあった――高等中学の生徒らは、教会で左右二列に並ばされ、ついだらけてもぞもぞしたり足踏みなどして、つい通路を塞いでしまったところへ、ちょうどこの身ぎれいな、まるまっちいパーヴェル・イワーノヴィチが姿を現わしたのだった。なんとも優雅に、フランス語の〈アントレ・ス〉*2という単語を繰り返しくりかえし、われわれの間を歩いたものである。彼は几帳面に生徒の家庭を訪問した。われわれはその〈アントレ・ス〉をよく嘲り、パーヴェル・イワーノヴィチがそのことをひどく気にし悩んでいることを少しも疑わなかった。あるときわたしは、彼の仕事場である出納局にコーヒー飲みに立ち寄った。コーヒーを飲みながら、背嚢から本(ダヴィドフの代数学)を取り出して復習を始めた。それを目にしたパーヴェル・イワーノヴィチがわたしに〔代数について〕説明してくれないかと言ったので、わたしは解説を試みた。

*1奇妙な記述。パーヴェル・レフコブィトフ(1863-1937)が、ペテルブルグ時代にプリーシヴィンが深く付き合ったセクト(フルィスト)の指導者であり、そうとう魅力ある人物であったことは確かだが、事実とはだいぶかけ離れている。「高等中学の生徒たち」も「わたし」も創作上の単なるスケッチであろう。

*2entrez(ノックに応えて《お入りなさい》の意)。entreの二人称複数形の命令 の言い間違い。

 次に取り出したのはエンサイクロペディア……そこでまた説明だ。彼は辞典を一冊まるごと覚えてしまった。そんなことが一年間つづいた。パーヴェル・イワーノヴィチは痩せてきた。人相が変わった。彼はどっかでフェラーリやルナンや(一語判読不能)の本を手に入れた。信仰の話もした。すると突然、姿をくらました。誰もが逃亡したのだろうと噂した。なんにしても異常な出来事だったので、不幸な恋だとかどうだとかそんな話にされてしまった。そのうち主計官にまつわる噂も記憶も徐々に消えていった。そしてそれっきりだった。

フェラーリ(正しくはファーラー)――フレデリック・ウィリアム・ファーラー(1831-1903)は英国の作家で神学者。主著に『キリストの生涯』。ジョセフ・エルネスト・ルナン(1823-92)はフランスの思想家で宗教史家。主著に『イエス伝』。

 だが、パーヴェル・イワーノヴィチは、ロシアのステップを測量(まあどうだろう、ロシア全土をだ、しかも徒歩で!)するために〔要するに巡礼〕杖を手に町を去ったのである。シチェチーニンとの出会いもあった……彼のうちに内なるロシアが見えてきたのだ。こうして二人は世界征服のためにピーチェルへ上った。

アレクセイ・シチェチーニンはペテルブルグの異端宗の一人。初期の日記(1905-1913年の日記のこと)にプリーシヴィンは彼のことを「フルィストと革命家と警察局特捜部の間を往き来していた人物」とメモしている。

5月12日(火)

 朝の7時にペソチキを出てフルシチョーヴォへ、14日(木)昼の12時着。

5月15日

 フルシチョーヴォの問題解決には幾多の葛藤が待ち構えている。ニコラーエスク鉄道での出会い〔人物不詳〕。学生が言っていた――「目に見えぬことを為さねば。見えるようなものは自分のほうからやってくる」と。

5月17日

 フートルへ行ってみた。なんとも厚かましい煉瓦造りの家(ニヒリストふうの)。百姓じみている。まわりに大きな雨溝(オヴラーク)が広がったものだから、救いようのないその家宅を大きく迂回しなくてはならない。ステップ、畑――空の詩情(ポエジー)。キジバト、オオタカ、ウズラ、クイナ、ヒバリの声。

降雨時また雪解期に流水の浸食によってできた深く長い窪地または小谷。雨溝、雨裂、谷間などと訳されている。チェーホフの傑作『谷間』(В овраге)の谷間がこれである。

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