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プリーシヴィンの日記        太田正一

2013 . 05 . 12 up
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1919年9月26日

 今、この邸内(ドヴォール)に独りで住んでいる。いや、厳密には独りではない。もうひとり、ちょっと頭のおかしな老婆(コミュニストの母親)が離れに住んでいるらしいのだが、カーテンが降りたままで明かりも見えないから、本当かどうかはわからない……置き去りにされたのかも。息子がそうなので、ロシア人は誰でもコミュニストだと思っていて、コミュニストが幸せになることを何よりも願っているという。

このドヴォールが特定できない。

 重苦しい9月の、深夜も過ぎたころ、ようやく小雨と霧が退散。通りで「『犂(ソハー)と鎚(モーロト)』!」を連呼する牛乳屋の声。〈ソハー〉という声に無上の歓び、狂喜に近い響きがあった。そこで思ったのは、きのう「プラウダ」がクールスクの奪回とエレーツの危機回避を報じていたことだった。改めて目を通したら、エレーツのこともクールスクのこともひと言も書かれていなかった。どういうことだろう? 載っていたのはトゥルケスタンでの勝利とロンドンでのボリシェヴィキに対する好意的な世論(これまでと180度の転換)を喜ぶ記事だけだった。

新聞の売り子は牛乳配達夫。「犂と鎚」紙は1919年から22年までエレーツ市でエスエル左派が発行していた新聞。

 とはいえ、デニーキン軍の後方での暴動だって全然あり得ないわけではない。期待は大きいのだ。問題の解決はマーモントフの振り上げる拳にはなく、後方の整備にこそあるのである。その辺の情報をしっかり把握しておくことは、たとえば、商人サーハロフ〔エレーツの有力者〕が自分の財産(家具)を守るためにも絶対に欠かせない。

 あり得ないことが突然起こって、凡俗〔住人〕の心に変質(退化現象)が生ずる。なんといっても自分の財産と別れ別れになるのだ。そこでつい口に出るのがこの決まり文句――とはいえ、個々人には響きが新鮮――「命あっての物種だぁ、あるものは何でも売ってしまえ!」

 愛は理解、愛は触覚。まあ、どっちも雲を摑むような話だが……
 三重苦――こちらに恨みを抱いている相手の命令に従い、すべてを打ち明け、これからは決して隠し事は致しません――そんな三重苦から逃れる方法はないものか?

 階級闘争はどうなったか。犯罪人と復讐者、両者の間の指導員=インテリ(絞られるレモン)。

指導員(インストゥルークトル)=インストラクター――ソヴェート体制を維持するために欠かせない要員で、直属機関の活動を点検し、それに適切な指示(イデオロギーその他の)を与える人。

 ギーダはユダヤ人。ほっそりした、色白の、賢い現実家だが、ロシア人を憎悪する、なかなか捉えにくい女(ユダヤの〈悪魔の臼〉だ)と、ユダヤ人をすべて破産させたあとで、歯に痛みを覚えたカザーク兵。『ユダヤ女のとこになんか誰が行くか。くそ、行かねえよ』。そんな強がりを言ったところで、痛みには耐えられない。唯ひとり生き残ったギーダのところへ。それが両者の出会いの初め。

これはこのころ書いていた戯曲の題目。のちに『バザール』(1916-1920)と改題。悪魔の臼は未来を予言する能力を有する町人の女につけられた渾名。小さな顔、大きな前歯。いつも右手の指に紙巻たばこを挟んでいて、分離派みたいに二本指で十字を切る。スーリコフ描くモローゾワ大貴族婦人(猿顔の)に似ている。(評論集『花と十字架』から)。

 指導員=インテリはとどのつまり〈ユダヤ人〉に変身せざるを得ず、周囲に秘かな憎しみを抱きながらも、おのれの教養と知性で保身をはからなくてはならない。
 庇(ひさし)帽をかぶった鴉たち(シバイ人)。帽子を目深にかぶって、丸太に腰かけている。お互いに何も話さない、話したところで、どうせ誰にも彼らの言葉はわからないだろう。彼らがユダヤ人と違うのは食べものだ。彼らが口にする食べものは祖国(ローヂナ)である。彼らは国家(ナーツィヤ)のパラサイト、ユダヤ人は文化のパラサイト。

1917年5月20日の「日記」に詳しい。故郷フルシチョーヴォの隣村であるシバーエフカとキバーエフカ。その住人たちの俗称である。シバイ人はブローカー、博労を、キバイ人は暴れ者、喧嘩好きを意味する。戯曲『バザール』にもその名が出てくる。

 蝿が甘いお菓子にまといつくように、ユダヤ人は文化にまといつく。土地(祖国)のパラサイトであるシバイ人がまといつくのは百姓たち。だからユダヤ人とシバイ人は戦争するしかない。
 インターナショナルの露出は今や〈ユダヤ人〉にまで及んでいる。ロシアの失敗者と半可通(これはコミュニストたち)は一杯食わされたと思い込み、不満と悪意を胸に自らの原始〔非文化的〕状態に戻ろうとしている。
 二つのインターナショナルが存在する――キリスト教的普遍主義とユダヤ的パラサイト。どちらも社会主義と結びついており、さらにそこへロシアの百姓をも引き込んだ。
 肌を咬む9月の蝿は主(あるじ)にも間借り人にも(ユダヤ人にもコミュニストにも)見捨てられた家に居ついている。リョーヴァと自分はその咬む癖のある蝿の中で暮らしている。日中は食糧と噂を探して飛び回り、夜の7時には戸を閉めて(包囲されてでもいるように)じっとしている。蝿が群がる。通りでたまに騎馬の蹄の音、荷馬車のガタゴト、これもほんのたまにだが拍子木を叩く音。昔が戻ってくる。
 誰彼やって来て、あれこれ話していく。夜、実際に大変な騒ぎがあったらしいとか、偵察機がここから7露里ばかり行ったところで一群の百姓を目撃した(ザドーンスク街道を百姓たちがエレーツ方面へ向かっている)とか。しかしなぜか、そんなものは一向にやって来ない。それからさらに、きょう飛行機は引き揚げるはずです――ガソリンが無いので、とか。また、よく組織された赤い中国の軍隊(それも6万の兵)がエレーツに近づいている、とか。

ミハイル・ブルガーコフの『ある中国人の物語』(1923)に、この軍隊のことが出てくる。赤軍のインターナショナル構成部隊の一翼を担った中国人たちは、ソヴェート・ロシアの言葉も習慣もまったく知らなかった。そのためか、思い切りのよさと冷酷さで際立っていたという。

 Г(ゲー)が来て、言った――今夜、百姓たちがエレーツから7露里のところまで来たが、関銃を二つ備えた部隊と鉢合わせするや、百姓たちは銃を捨てて逃げた。しかし別の村では、別の「少し右がかった」暴動が始まっている、と。
 噂(真実らしいが)では、わが方の飛行機がきょうガソリン不足で撤退した。夜、〔機関銃の〕保弾帯を両肩に下げて、ヤーシャがやって来た。一晩中、部隊と草原を歩き回り、百姓たちを鎮定して7人を射殺した――などと言う。

9月27日

〈落ち込んだ(パーリ)〉とは、ある心の状態から別の〔心の〕状態に移ったことを意味する。彼らは高揚した気分〔調子に乗って〕町を歩き回ったが、あとでそんなことをしたのが恥ずかしくなった。
 愛は理解、愛は触覚。理解は人間のいいものに取りかかって、それを鼓舞し、進むべき道を指し示す。触覚はあらゆるものを探知し、小市民が生きがいとする苛立ちを作り出す(小市民階級は決して満足することがない)。

 秋の澄みきった大気に鳩たちの白い翼がきらり。なんという美しさ! 苦しみから解き放たれた〈生の歓び〉。そこにあるのは秘密そのもの。苦しみに慣れて、あれとこれとを切り離すこと。

 意識の統一であるЯ(ヤー)は、おそらく性格の発達のもととなる種子(ゼルノー)にその現実的な基盤を有っているのだろう。われわれが子どものときから知っている人たち――たとえばエレーツの市民(大人)はその行動〔立居振舞〕で少しもわれわれを驚かさない。彼らは本質的に(たとえばチジ・パーレヌイ〔?〕)そのままで、何も変わっていないように思う。相伝の、自然のまま生まれたままのものに、その人の個的なもの、その人の統一された自意識、その人のЯ(ヤー)が重なるだけである。
 意識の統一の喪失……
 毎日が噂話の中にある。きょうある若者から聞いた話。月曜日に彼は当番で、赤軍兵をリーヴヌィに運んだが、翌日(火曜)、デニーキンが正規軍を引き連れてやって来たから、これだと戦わずに降伏か……で、解散せよとの提案に、自分らはここに留まっていたいと返事したという。というのも、彼らにしてみれば故郷で動員されても同じことだし、おまけにデニーキンの軍隊はマーモントフとはまるで違って、まったく略奪行為をせず、反対に秩序を確立しようとさえしたからである。デニーキンたちはまずオリョールを、それからモスクワめざしてまっしぐら、なのだ。
 それが真実に近いのかも。そうでなければエレーツ市民がパニックに陥った理由がわからない――クールスクが占領された。いや、そんなはずはない、クールスクは遠いし、いやいや農民暴動が(彼ら自ら言うように)単なる法螺(ほら)話だとすれば、逆にそれは何か大変なことが起こっているということを証ししているのかも。エレーツ市の新聞にもきょう、こんなことが載った。クールクスの北50露里で戦闘があった……どうも日がかち合っている。火曜日にリーヴヌィが占拠されたようだが、その日はここでもパニック(疎開)が始まったし、その日ここで裁きを待っている連中のリーヴヌィへの移送を試みたが、戻されている。今になってわかったのは、木曜にはたと気づき、パニックを一笑に付したのだ――カストールノエもリーヴヌィもやられていない、クールスクだってロストーフだって占拠したのは赤軍なんだ、と。
 そういうわけでリーヴヌィの占拠は仮説(ギポーテザ)。Л(エル)に会った。彼の意見は、リーヴヌィは正規軍に占拠されたというもの。ある住人は半信半疑である。噂を本腰入れて調査し始めた住人もいる。大半は半信半疑である。わからない〔悪魔のみぞ知る〕ことは信じないのだが、エレーツに進駐していたマーモントフのカザーク兵の何人かは、町の仕立て屋に詰襟の軍服を(デニーキンの到着に間に合うよう)注文したという。
 夜、Р(エル)の家での話――わがエレーツの4級人質たちがオリョールで放免され、そのうちの一人がきょう戻ってきた。その男はヴェルホーヴィエで、占拠されたリーヴヌィからどんどん軍隊が集まってきているのを目撃したこと、軍の主力部隊はデニーキンの指揮下に留まっていて、一歩も引かない構えであること、デニーキンの飛行機がオリョールの上空から「日曜日に参上」というビラを撒いていたことなどを話した。男はまたこんな話もした――エレーツの人質であるマリヤ・イワーノヴナ・ゴルシコーワ、エカチェリーナ・イワーノヴナ、女学生たち、聖職者たちがトロツキイの列車を掃除し、トロツキイの姿を見たこと、黒の上下に青いネクタイのトロツキイが特別車から彼女たちを見て大きな声で笑ったこと。特別車には寝室も書斎もあって、豚、鶏、ひき割り、ジャムその他の食糧を積んだ貨車が連結されていたなどなど。
 モスクワではカデット、有名な教授その他の名誉市民(いずれも反ソ的陰謀で逮捕)50人が銃殺されたようだが、きょう報じられた党委員会での爆弾事件はその銃殺刑に対する報復であるらしい。
 Nのところで延々とやり合う。サモワールを山羊と交換するのは有利か否か? もしカザーク兵が牛を返してくれたら、自分たちのために使う(乳を搾る)べきか、それとも何かほかのものと交換すべきか。逃げた牝牛が狂暴化してやたら角で突っかかるなどなど。Т.Н.〔女〕がわたしなら交換するわと言ったが、誰も信じない――それはただ言ってみただけで、本当に自分の牛を手放すなどあり得ないと思っている。

9月28日

 一日また一日と過ぎていく。こんな美しい奇跡のような9月の日々もぱらぱらと〔日めくり暦のように〕跡形もなく消えていく。外で起こる事件は私的な個人的なものを次から次と吞み込んで、われわれには事件の噂だけを残していくのだ。しかしそれでもこんな王冠の日には、しばし〈自然感覚*1〉――あらゆるものから遠く離れて聖なる山の頂に立ったような感覚――に浸りきることができるのである。秋の木々の艶、光、密な暗藍色の露の玉、葉の匂い、それと庭園の向こうの教会の「心に秘めた佇まい*2」――そうした天上高雅(ゴールニェエ)がみな、黒雲の上から下界に大地に降り注ぐ小雨の、真実至高永遠の輝きのように感じられて……

*1чувство природы(チューストヴォ・プリロードゥイ)は。プリーシヴィンがよく使う表現。全身全霊をもって自然に感応すること、万物照応。

*2聖体儀礼でうたわれるケルビムの歌の一節。

 アネクドート。子どもたちの〈赤白ごっこ〉。赤が木の柵に登って『カザークだぁ!』と叫ぶと、本物の赤軍の中隊がひとり残らず銃を捨てて逃げだした。
 きょう、ふと思った。これは白軍が敗退して終わることじゃない。必ずヨーロッパ人がやって来るぞ、と。ボリシェヴィキの政治はヨーロッパ向けのデモンストレーションである。トロツキイの闇の軍隊(赤軍)。

    時には霹靂のゆく道にあたって、
    雷火の破壊の焔が燃え上がる。
    しかし主よ、おん身の天使たちは、
    日々の穏やかなる推移をうやまいまつる。
                  ゲーテ『ファウスト』

『ファウスト』第一部・天上の序曲「ミヒャエル」(相良守峯訳)から。

 わたしは聖なる山の頂の久遠の輝きの中にいる――黄金の十字架の燃える青い空の旗の下、青い旗の下の聖なる山の頂に。ここから見えるのは、血が大地に烈しく注がれれば注がれるほどにいや増す光であり輝きである。きのう殺された哀れな百姓もここにいる。「悪を為したいのに善を為す」というあの気持(感情)を描かなくては。「永遠に悪を願って善しか為さなかったあるかなきかの力であるわたし」。それは、黒雲の上の「善」、たとえばワーニカを(その愚かさ加減と賢明なる感情によって)コミュニズムが支えているところのものである。だからワーニカは、民衆(ナロード)のうちに何か新しきもの善なるものを見つけると、それはひとえにコミュニストたちに因ると思ってしまう。

『ファウスト』第一部、「書斎(一)」で初めて正体を現わしたメフィストフェレスの有名な台詞。ドイツ語の原文(直訳)はこうである――「常に悪を欲して、しかも常に善を成すあの力の一部です」。

     黒雲の下で

 仕返し、復讐のスチヒーヤ。
 今朝、火曜(9月23日)付の「中央イズヴェスチヤ」を読んだ。モスクワで陰謀が発覚して67人のカデットとメンシェヴィキが銃殺されたあの運命の火曜日の新聞である。「犂と鎚」には、コムーナの活動家(アクチーヴ)以外はすべて人民(ナロード)の敵であると出ている。ジャコバン主義の全盛のころとまったく同じ空気だ。こんなことはこれまでなかった。何か新しいことが起こっている。もしこれが続けば、自分も聖なる山から突き落とされるにちがいない。堪ったものじゃない。しかし、平和に通ずる道はみな断たれてしまった。真夜中、食事のあとも、ひっきりなしの車列。南(ゼムリャーンスクあるいはカストールノエ)からの退却が続いているのだ。数台の荷馬車に負傷者が。これは背後に敵が迫っているということか? でも、なぜか退却する軍の姿はなく、通過していくのはばらばらの兵隊だけである。

「ナショナル・センター」と称する白衛軍の組織による陰謀事件。組織のメンバーの大半はカデットだが、エスエルもメンシェヴィキ右派もいた。逮捕時に押収された資料から、この組織がデニーキンのために軍事スパイ工作を行なっていたことが判明した。ソヴェート・ロシアの中心(モスクワ)へデニーキンを近づける目的で、首都での暴動を準備していた。成功してまず最初にやることが〈ボリシェヴィキの殲滅〉だった。チェカーの決議により事件の首謀者は全員、銃殺された。

9月29日

 朝から赤軍の飛行機が飛んでいる。飛行機の音は、部屋で聞いていると、封印を解かれて鳴りだした鐘楼の鐘の音のようだ。エレーツにマーモントフがいたころの、興奮してヒステリックになったNのことを思い出した。彼はこんなことを言った――わかる、わかる。今はもう何でも受け容れる。もし『ユダヤ人をやっつけろ!』と言われたら、おれはやるね、オーケイだ、やってやる、そうすべきなんだ。

 「お父さんは白でも赤でもないよ。どっちの味方でもない」
 すると、リョーヴァが――
 「じゃ、お父さんは、魚でも肉でもないってこと?」
 「いや、人間さ。お父さんは人間の味方だから、白も赤もない。青い旗だ」
 「青か! それはいいや。青、青……青い旗かぁ!」
 「そうだよ、はるかな空の青。青空にかかる黄金の十字架なんだ」
 「それは特別な旗だね。なんて素敵だろう! ところでお父さん、僕に銃をくれない?」
 「わたしたちは言葉で行動するんだ。弾丸じゃない。思わず銃が手から落ちてしまうような言葉を見つけなくちゃ。言葉はね、そうとう危険なもので、そのために苦しむこともあるけど、最後は言葉が勝ちを制するんだよ」

 ヤーシャのブラウニング銃。ヤーシャには拳銃のほかには何もない。拳銃が命なのだ。そこがそれを持つ権力のないわれわれとは決定的に違うところ。
 5人の脱走兵と略奪した雄羊2頭をのっけた荷馬車。それを御しているのは、今にも死にそうな百姓だ……
 ヤーシャが訊かれている――『同志よ、何のためにおまえさんたちは発つんだい? ひょっとして、わしらも全員、あした発つことになるかもな」
 オリョールから来た男が言う――『おそらく町〔オリョール〕はやられちまったろうな。逃げるとき、敵は町から30露里の地点にいたんだ。ま、家財はみな持ち出したがね」

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