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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 08 . 2 up
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 ときどきアレ〔クサンドル〕・ミハ〔ーイロヴィチ〕は、ぐっしょり無力の汗〔性的不能?〕をかいて空想に耽ることがある。いわば夢想の汗まみれ。身体の内側から光が出ている感じ。恍惚状態。眼前に故郷エレーツがブリュッヘ〔ベルギーの都市、フランス語でブリュージュ〕のごとくに立ち現われるのである。ミハイル・エフチーヒエヴィチ〔エレーツの商人、プリーシヴィンの知人〕やマリヤ・イワーノヴナ〔実母〕のような老いぼれたちが庭の盛り土に腰を下ろしている。断崖、それと樹木。もう〔とうに〕〔誰もいなくなったこと〕に、気づかない。まわりの荒涼たる風景をバックに、見よ、この絶妙の舞台装置! ノーヴゴロドの天才たち、イーゴリ・グラバーリ〔ペテルブルグの人、遺跡の保護・保存協会の会員で、1914年から17年までノーヴゴロドにおける歴史的記念碑の研究調査隊で活動した〕、古儀式派、民族誌学。そして市中には、古い本物の教会などひとつもない。美しい家もなく、ただどこか愛しくも懐かしいものがあるばかり。アレ・ミハは夢想の汗をかきかき、周囲の新しい波、新奇なものを軽蔑し憎悪している。まだ若いのに、頭は白くなり、無力な夢に耽っている。掲げる旗(スチャーグ)がない。グラバーリ。故事旧習と、あとは概ねブリュッヘだ。

アレクサンドル・ミハーイロヴィチ・コノプリャーンツェフは、エレーツ高等中学時代からのプリーシヴィンの親友のひとり。大学を出て省の役人になり、未来の作家にしきりに上京することを勧めた。彼の大いなる読者・良き理解者であった。1949年12月13日の日記に、「コノプリャーンツェフは親友だった。スラヴ主義者の雰囲気が漂っていた。アクサーコフからコンスタンチン・レオーンチエフ〔哲学者・批評家・外交官・検閲官・作家。審美主義を至上とし、晩年は修道院に籠った(1831-1891)〕、ローザノフまで」。彼はレオーンチエフの研究家で論文もある。

 タルホーフカ村〔ノーヴゴロド近郊〕を見てまわる。家を買いたくなった。何のために?

 ブロークとギッピウス。ブロークには二つの顔がある。一つは、石のごとく美しい顔、そこからふいと真情味あふれることばが飛び出す……かと思うと、突然げらげら笑いだす――まるでルナ・パーク〔ペテルブルグのオフィツェールスカヤ街にあった劇場〕の、ドッテコトナイ優男(やさおとこ)である。ギッピウスもそうだ。聖母がいきなり巻きタバコをくわえた娼婦になる。

 またよく訊かれるのが――「なんでフルィストはああいつも酔っ払ってんだね?」。それは彼らに表裏があるからだ――高く舞ったり、墜落したり……墜落とは酒場(カバーク)のこと。カバークとは何か?(これこそローザノフのテーマである)。メレシコーフスキイの家は、だいたいが宗教とカバークがひとつに(それと絶え間のない喫煙)なるものだから、それがモロカン派のプロハーノフには大変なショックだった。ひょっとしたら、メレシコーフスキイたちの議論や社会主義は、ある意味でフルィストーフシチナ〔フルィスト一派の人びとの意。語尾のシチナは、主義・流派、ある社会現象ないしその傾向を表わす〕からの知的な脱出法だったのかも。

モロカン派とはキリスト教異端のセクト。聖霊キリスト教に属す。18世紀後半にドゥホボールから分離し、農民・商人のあいだに広くひろまった。一時、信徒100万とも言われた。正教、教会、儀式、聖礼、聖職者を否定し、聖書のみを信仰の基盤とした。迫害を受けて、タムボーフ、サラートフ、ヴォローネジの各県およびカフカース地方に移住。分派が多い。イワン・スチェパーノヴィチ・プロハーノフ(1869-1948)は、ペテルブルグに住むモロカン派の神学家、出版人。首都でモロカン派の雑誌『聖霊キリスト教徒』を発行。プリーシヴィンは、鞭身派のレフコブィトフと同様、彼をも〈宗教・哲学会〉に招いて喋らせている。

 ギッピウスに恋するマリエッタ・シャギニャーン嬢*1――スカートがバタバタいっている。
 フルィストーフシチナの怖いところは、人間の生命が荒廃してゆくこと。自由気ままな(勝手な)夢想に至上の歓びを与えて……そのあとでいっさいが平凡で陳腐なものになってしまうのである。だが、わたしがメレシコーフスキイのところへ行きだしたころ、すでに彼はデカダン主義=フルィストーフシチナと闘っていたのだ。クニージニク〔クニーガは本、〈本の虫〉の意、ここではむやみと聖書や神学書に詳しい、セクトの狂信的な神学家のこと〕は躍り回る*2が、メレシコーフスキイはそんなことはしなかった。レーミゾフなら喜んで躍りだしたかも。まあでも、誰もが喜んで踊りの輪に加わったにちがいない。だから、あんなにフルィストたちを持ち上げてちやほやしたりしたのだ。〈インテリたちは躍りたがった〉が、フルィストのほうは全然そうでなかった。躍らなかった。フルィストにとってインテリ連中〔ここではインテリの求神主義者たち〕などみな〈お調子者〉にすぎない。メレシコーフスキイは〈肉化したキリスト〉なるものを説きだした。

*1(なぜいきなりシャギニャーンなのかわからないが、とりあえず紹介だけ)マリエッタ・セルゲーエヴナ・シャギニャーン(1888-1982)はモスクワ生まれ。16歳で詩人としてデヴュー。父はアルメニヤ人で医師、大学教授。本人は高等女子専門学校で歴史哲学を、モスクワで鉱物学を学んだのちハイデルベルク大学へ(第一次大戦の勃発で中断を余儀なくされた)。ロシア各地に移り住み、アルメニヤに住んで小説を書いた。革命前は、革命をキリスト教神秘主義の一事件として捉えていたようだが、革命後は社会主義政権を支持し、社会主義建設に積極的に参加。第二次大戦中に共産党入党し、作家同盟幹部に。シェフチェンコ(ウクライナの農民詩人)、ニザーミー(アゼルバイジャンの詩人)、カレワラ(カレリヤの民族叙事詩)、ゲーテの学術研究から、『中央水力発電所』や『レーニン家の人びと』(原題は『ウリヤーノフ家の人びと』伊東勉・植村進訳・未来社)などの小説、『ソヴェート・アルメニヤの旅』などの数多くの紀行文、音楽評論等々まで、凄まじいほど量産した。大なる好奇心は大なる長寿に通ず、か。

*2踊ること跳躍すること(радениеラヂェーニエ、またкружениеクルジェーニエ)。聖なる霊と合体するためのフルィスト派の秘密の儀式。(十五)の注と以下のメーリニコフのメモを参照されたし。

 メレシコーフスキイとフルィストは、エロスをとおして文化を救済しようとした。個性はその第一歩。
 もしかして、デカダン主義の時代くらい文学が民衆(ナロード)に近づいたことは一度もなかったのではないか。神々と倫理のタイプの評価、その特質をあきらかにすること。いちばんの特徴は何か? 美学だと主張する者、宗教だと主張する者、いろいろだ。それこそが特色である。

 ロシアの光景(共通の)――酒場、教会、墓地などなど――その共通した風景画を研究すること。

 目標――書くことの難しさを技術的に克服せねば。感受から表現へ。ローザノフ。


  

編訳者の参考メモ(1)――フルィスト(鞭身派)について

 以下、秘密のセクトについて語るのは、19世紀の作家で、異端とされた古儀式派(旧教また分離派・ラスコール)その他のセクトに詳しい作家のメーリニコフ=ぺチェールスキイ(1818-1883)である。オリジナル資料の書き出しの部分を訳してみた。メーリニコフについては、拙著『森のロシア野のロシア』(群像社刊)の〈注釈の多い序章〉の注を参照されたし。

 公認教会であるロシア正教会とは文字も儀式も異にする分離派―古儀式派のほかに、古儀式派のさまざまな教派толкиとは比較にならないほど正教会から遠くはずれた集団が少なからず存在する。ここではいわゆる〈秘密のセクト〉に属するロシア人たちについて考える。
 彼らが〈秘密のセクト〉と称されるのは、その教義と同様、共同体(オープシチナ) の内的機構が内部の人間(セクタント)によって極秘にされているからである。たとえば、秘密のセクトに入会するにあたって、一定の儀式が神そのものを立会人として執り行なわれるが、そのとき目にしたことを絶対に口外しないよう誓わされる。オープシチナの全員の前で厳かに彼(彼女)は約束する――『父にも母にも秘密を語りません。神聖なるものсвятое делоについては、教会の僧侶、法廷の裁判官にも決して喋りません。鞭で打たれようが、火に焼かれようが、八つ裂きにされようが、いっさい口を割らず、なにごとにも耐えることを誓います』。新参者には機密・秘蹟таинствоのすべてがすぐに明かされるわけではなく、オープシチナでの地位が上がるにつれて徐々にわかってくるような仕組みになっている。その点はフリーメーソン(そのメンバーは十分な教育を受けた社会の最上層部に属する)のロッジのような宗教的政治的秘密結社によく似ている。
 とはいえ、これから語る〈秘密のセクト〉の構成メンバーは一般庶民だけにとどまらない。彼らの歴史的背景、奇妙な教義、怪しげな儀式を手前勝手に想像していると、唖然としてしまうだろう。出くわすのが、農民、兵士のみならず、正教会の上層、将軍、閣僚、国家評議員(国会議員)、また上流社会の婦人や令嬢、文学者、ジャーナリストたちだからだ。そして昔も今も、そうした〈秘密のセクト〉に名門出身の富裕な地主たち(その所有になる農奴たちをも含めて)が属していることを知るはずである。その秘儀の場では詩人にだって――もっとも、彼らが作るのは、ロシア詩壇とは無縁の、秘密のセクトの集まりでしか歌われないものばかりだが――お目にかかるだろう。彼らの秘密の儀式についてよく知ってもらうために、われわれは読者を、大きな村のはずれにひっそりと立つ百姓小屋や僧房ばかりでなく、大地主の邸宅にも、修道院にも、いやペテルブルグの宮殿の一つにも案内しようと考えている。(十七)につづく。

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