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プリーシヴィンの日記        太田正一

2013 . 02 . 24 up
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1919年1月13日(の続き)

 肉食期(ミャソエード)*1。年配の可愛らしい女性は学のある講演者(レークトル)に感じ入り(もちろん敬意を表して)、講演後にこんな質問までしたのだった――『どうでしょうか先生、今年はミャソエードはちょっとお高くありません?』彼女が問うたのは、郡内の肉類、つまりガチョウや鶏の肉はいつ食べ尽くされるのか、食用の羊はどこにも見当たらないのですが……ということだった。講演者はその質問に驚いた。〈ミャソエード〉は彼には小さいときから聞き慣れた言葉で、その意味についてあまり深く考えたことがなかった。ミャソエードは彼にとって〈ムラヴィエード〉以上のものではなかったのである。だが、ずぐにミャソエードが動物でないことに気づく。なんだ、ミャソエードは降誕祭と大祭前週(マースレニツァ)*2の間の時期ではないか、この期間に庶民は肉を喰らうんだ。年配の女性は重ねて訊ねた――肉が残らず食べられてしまったのです、いったい何のためにミャソエードなど必要なのでしょう?』――『わかりません』と講演者。『そう言えば今年は簡略カレンダーが売り出されませんでしたね……』

*1ミャソ(肉)+エード(喰うこと)――ミャソエードは肉食が許されている期間。また冗談気味に〈肉食主義者〉。

*2マースレニツァはカトリックでいう謝肉祭に当たる。乾酪の週(大斎)前の1週間で、キリスト教受容以前のロシアでは冬を送り春を迎える祭日だった。ムラヴィエードは動物のアリクイのこと(ムラヴェイ(蟻)+エード(喰うこと))。

 コミュニストが問われた。『われらが農民の魂(ドゥシャー)をどう思っているのか? 言葉で言うドゥシャーはドゥシャーでない、闇だ。言葉にドゥシャーはなく、それは沈黙にあるのではないか?』それに対してコミュニストは――『ふぅむ、そうだなあ、農民のドゥシャーは十分ブルジョア的だよ』

 二人〔コノプリャーンツェフ夫妻?〕の人びとへの接し方(態度・関係)は完全だ、最後まで心がこもっている。その完全さは迎合であって、中身は秘密だ。彼らが自らの秘密を溶解しようとすればするほど、秘密はよけい深く身を隠す。〈ひとつになること〉は彼らには不可能、〈魂の合体〉などとてもじゃない……完璧な家庭の幸福といかにも一家団欒という雰囲気を装ってはいるが――内実はドストエーフスキイの『永遠の夫』、レーミゾフ、ローザノフ、ゴーリキイ、シャリャーピンなのである。

 レゲンダ〔噂〕。その1)償金〔不当な税金〕はボリシェヴィキたちの逃走資金なのだとか。その2)レーニンは今ではコムーナを放棄(関係を断つ)し、憲法制定会議に賛成しているが、これは〔こうした事態を引き起こした元凶は〕ユダヤ人のトロツキイであるだとか。  パヴリーハ婆さんは〈寒いところ*1〉行く仕度をしている――鶏を潰して煮たので、われわれも主顕節(クレシチェーニエ)*2のラプシャーのご相伴にあずかるかも。プシャーを食べられるかも。人びとは納屋(アムバール)でいろんな話をする。アムバールが寒すぎるので、肺炎に罹って病院に運ばれる連中もいる。

*1ハロードナヤは寒いところの意。「寒い納屋(アムバール)」に同じ。警察の留置所、ぶた箱のこと。

*2洗礼祭とも。旧露暦1月6日(新暦1月19日)、キリストがヨルダン川で洗礼を受け、神の子として公に現われたこと(богоявление)を記念する日(前出)。

 命令を下されるだけの暮らし。これだけ呻き声を発しているのに、百姓たちのコムーナ観はそれほど仮借ないものではないようだ。『こんな暮らしは、命令されるだけのこんな暮らしはいったい何なのだ?』そんな反ボリシェヴィキの声が聞こえてくると、別の声が返ってくる――『だからどうしたってんだ? 命令を下されなかった時代なんて、これまであったか、いつそんな時代があったってんだよ?』
 最も貧しい(アナーキーな)農民階級は反コムーナであるようだ。

 理想は達し難いとわれわれが言うときはこういうニュアンスなのだ――『われらは死ぬ、われらは物質的に制限されていて、みなに共通の永遠なる運動とひとつに合体できない』。幸福と不成功〔失敗〕、歓びと悲しみは同様に、われわれの運動を停止させることも妨害することもまた開始することもできる。われわれの道は明るい綿雲の空に向かって展開することもあれば、全天が重苦しい黒雲に覆われることもある。われわれの気分は歓喜に満ちたり陰気なものにもなるが、辿る道はどこでも同じだ。悲哀と失敗は新たな力を与えるが、弱者にとってそれは破滅そのもの。いっぽう、幸福=歓喜は強者を亡ぼし、弱者にはためになる。けっきょく歓びは不幸な人間に与えられ、それを通して不幸せな人間が幸せになるのである。
 したがってこれからはこう言えばいい――『幸福の腕のほうが長いのだ』と。

 歓び。完全なる歓喜の目に見えない光は幸せ者と不幸せ者とを同様〔同時に〕に待ち受けている――もし地上の光(=幸福)が幸せ者の目を眩まさず、悲しみの闇が不幸せな人間に道を閉ざさなければ。

 窪地の道。現在のような〈激情〉の時代には、明るく幸福な人間も難破船の柱にしがみついて漂流する人間のように思い描くことができるということだ。まわりで人が破滅しかけているときにどうしてそんなに明るく幸福でいられるのかと問われるかもしれない。わたしの答えはこうだ――『友よ、自分はもうあなたたちのその悲哀=不幸を経験しているのです。ひょっとしたら自分は、あなたたちと同様、すでに亡びてしまった人間なのかもしれないのだ。自分は今、あなたたちの悲哀=歓びによってではなく〔自分が〕亡びようとしたときに目にしたあの光によって、あなたたちには見えないその光によって、生きているのです――山々に閉ざされた谷間で、霧の立ち込めた山中で、あなたたちには見えない城市(グラート)で』
 今あなたたちは思っている――『もしあなたが本当にわれわれには見えない何かを見たのなら、ぜひともそれ〔その道〕を教えてくれ』と。わたしは答える――『不幸な人びとよ、今まわりは霧に閉ざされています。霧の向こうに何があるかを自分は知っています、それを示すことはできないのです』
 『できないって!』と、あなたたちは叫ぶ。『それじゃもうどっかへ行ってくれ。何のためにわれわれと一緒にいるのか?』――『不幸のためです』とわたしは答える。『不幸ゆえにあなたたちと共にあるのです。あなたたちを置いてどこへも行けないし、行きたいとも思いません。わたしはあなたたちと一緒にこの暗い〈窪地)を行く。一緒に行けば身の破滅かも。でも、山の向こうに光があることをわたしは知っているが、あなたたちはそれを知ろうともしない』。彼らは言う――『ここに、この窪地にいるのがわしらを家畜のように捌(さば)くプローソルたちなら、そんな光はわしらには何の関係もないんだ!』。そしてそのとき、あなたたちの群れのひとりが「絶望のあまり」こんなことを口走る――『光を見る運命がおまえにあって、わしらをその光にあててやろうってのか? 結構な話じゃねえか、涙が出るほど嬉しいわい(えい畜生!)、でもな、いいか、わしらのあとに付いてきたけりゃ、黙って歩け。わしらみたいに口を閉じてろ、わしらを説き伏せようなんて料簡を起こすんじゃねえぞ……』

仲買、卸商のこと。村々の小売商に魚や肉を卸した業者。商品の塩漬けも行なった。のちに家畜や種々の原料、木材その他の買付け人をもプローソルと称した。プリーシヴィン家の生業でもあった。ここでの「捌く」は家畜を屠殺するの意。

 われわれは〈窪地〉を、昼も夜も暗い窪地を、黙々と歩いた……いずれわれわれの中の誰かを喰わなければならなくなるだろう。いや、われわれはいない??と、そのとき例の「絶望した男」が飛び出してきた。そしてわたしの方をちらと見て――『ほれ、こいつが光を見たと言う奴だ。奴は見たが、わしらは見ちゃいないんだ。まずこいつを先に喰っちまおうじゃないか!』。彼らはわたしの体を喰いわたしの血を飲んだ。わたしは明るい遠くのひらけた山の中で、自分の〈父〉とひとつになった。一方、彼らは互いを喰いながら、暗い窪地を先へ進んだ。人の肉で口を血だらけにして……

マルコによる福音書第14章22-24節。主の晩餐。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』

 中に美しい顔の若者がいたが、その子を彼らは夜が明けたら殺すつもりなのだ。みなが眠っているときに、わたしはその子の方へ行き……最後まで一緒にいた。そして永訣の朝が来た。

 メーテルリンクから。『全人類の悲しみもそれとまったく同じ。まったく同じことが言える。彼らはわれわれの個人的な悲しみの道とそっくりの道を通るのだが、その道はさらに遠くさらに確かな道で、最後の生存者のみが知る祖国(ローヂナ)への道であるにちがいない』(『従順な人びとの財宝』、『星』)。
 『人間はつねにおのれの君主〔統治者〕だ。ギリシア時代、人間はずっとずっと弱い存在であると思われており、その頂点に君臨したのは運命(スヂバー)だった。だが、その運命は近寄り難かった。だから誰も敢えて運命に訊ねることをしなかった。ようやく今、問いが発せられようとしている。ひょっとしたらそこに、大いなる兆候、優れて新しい舞台芸術(テアトル)が起こるのかも。
 『人生の〔問題〕にあまり病的に反応する者たちのための最後の避難所となった愛の感情というのは、自分自身のためではないように思われた。どうもそれは……』

 ソフィヤ・パーヴロヴナの毎日の悲劇。ワシリーサ〔不詳〕、横流し――それは小麦粉になったりケロシンになったり、夕方までに何もかも消えていたり。
 行列。這い回る発疹チフスの虱〔の行列〕。わが身を守るには列外に出ること。通りでは質問攻め――どこで何が起こっているか? 百姓は集会に――釘はいよいよ深く。子どもじみたこと〔問題〕、子どもじみたエゴイズム。家中を走り回っている。ペチカ、部屋の隅々、蜘蛛の巣。悲劇の出来(しゅったい)。〔以下のやりとりはコノプリャーンツェフ家の会話にもプリーシヴィン家の会話にも思えるところがあるが、創作であるかも?〕アーリク〔コノプリャーンツェフの子?〕の名の日の祝いが忘れられている。夫――どうしておまえ〔妻〕はあの子の大事な日を忘れることができたんだね? 妻――でもあなたは、あたしたち〔家族全員〕を忘れてたじゃないの? あたしが憶えているのはあなたの集会だけだわ。そりゃ集会は忘れないさ。おまえの集会はどうなんだ? 憶えているのか? あたしの集会ですって? ああ、ほんとにあなたにとって子どもたちはどうなのよ? 自分の子じゃないの? 子どもたちはおまえになついてるということだ。いいえ、二人の子なんだから、どっちになついているとかそういう問題じゃないわ。夫――そりゃ僕とおまえは同等さ。でも……。何が「でも」なの? 僕は自分の問題でおまえの意見をあまり聞くことがない。いや、そうじゃない。僕が家に帰ってくるころには、もうおまえは眠くてしょうがない。あたしは朝が早いのよ。あなたは昼の12時まで寝てるじゃないの。そうだよ、床に就くのはたいてい朝だからだよ。問題は何なの、どうしてこんな話になったの? おまえがアーリクの名の日を忘れたからさ。おまえが悪いんだ。どうしてそんなことでそんなに気を揉むの? どうもこうもない。どうして母親がそういう大事なことを忘れられるのか、僕にはわからない。これは根本的な問題だ。僕らはその根本のところがおかしくなっているんだ。おかしいだけじゃないわ。もともとその根本が、土台がないのよ、あたしたちには。どうして? ペテルブルグに住んでいたころのこと、思い出しなさいよ。あたしはまる9年もあなたにお目にかからなかったわ。あたしが寝ている真夜中に帰宅し、あたしは朝早く起きて食料を買いにいって、戻ったときにはもうあなたはいない。でも、なんで今ごろそんなことを言い出すんだい? なんでそんなことを今まとめて思い出すんだい? アーリクの名の日を忘れていたからだわ。あることを忘れてあることを思い出した――あたしたちにはもともと土台がなかったってことをね。

 第二幕はさらに強烈――婚約指輪を失くしたこと。それでわだかまりがどんどん大きくなってきた。

 われわれは〔キリスト教的という形容詞を抹消〕愛自体、一般大衆の一定不変の(いつもの)命令に従っている。
 われわれの存在そのものの不幸は、われわれが自分の魂(ドゥシャー)から少しばかり離れて生きていること、そして魂(ドゥシャー)に揺れが生じるのを極力恐れていることである。
 日々の、慎ましくも平凡な、だが避けられない厳しい現実。しかしひとはそこでそれぞれが(まさに個人的に!)最上の生を生きる可能性を見出す必要がある。

 われわれの魂が天使のそれのように賢く深いものになろうとすれば、宇宙を一瞥するだけでは足りない――死あるいは永遠の影の中に歓喜の光あるいは美と愛の炎の中に、宇宙を一瞥するだけではとうてい足りない。そんな瞬間なら誰の人生にあるし、それだけことならひとすくいの無用の灰と一緒に捨て去られるだけである。機会(チャンス)を多く持つ――習慣こそ必要不可欠。

 生活を変える(изменить жизнь)より生活を見る(увидеть жизнь)ことがはるかに大事だ。なぜなら、それを見た瞬間から生活そのものが変化するからである。

 これ以上ない犠牲者が出ているときに、善も美も高尚もないのかもしれない。チフス患者の枕辺で死に瀕している看護婦〔死につつあるのは患者ではなく看護婦のほうだ〕は、ひょっとしたら、復讐心でいっぱいの、つまらぬ、哀れな人間であるかもしれない。真理を知る人が何人かいれば、どう振舞えばいいかは自ずとわかろうというもの。みんながそれを知るには及ばない。

看護婦(сетра милосердия)の元の意味は、「慈悲の人」「憐れみの人」。

 われわれの魂の唯一の〔秘密〕は美(クラサター)であると言うことができる。

1月19日

 主顕節。たまに春めいた日があったりすると、もう農民たちは、寄ると触るとその話でもちきりである
 「そろそろ遠出をしてもいいころだ。長靴がぶかぶかになるくらいな、そしたら……」
 日射時間が1時間ほど長くなり、冬も半ばを過ぎた。

「春の話でもちきり」は、『ロシアの自然誌』(1925)の春の最初の章(「ひかりと水の春」)の農民たちの会話を髣髴させる。

1月20日

 作家というものは、幾つか短いものを書くと、自分をそれなりにひとかどの書き手であるように感じて、印刷や出版に携わる人、〔文学の〕批評家、クラブその他の面々がなんだか自分の協力者か後援者であると思ったりするのだが、でも今はそうした繋がりはみな断たれてしまって、より高尚な関係など望むべくもない〔見つからないでいる〕。

 ソヴェート・ロシアの国際的状況の諸問題に関する百姓たちのミーチング――くしゃくしゃの頭、顎鬚、マホルカのもうもうたる煙――息苦しさ(ザドゥーハ)、騒がしい話し声、怒鳴り声。と、いきなり手紙を手にした誰かの手〔が伸びてくる〕……千露里、いや数万露里の彼方から! 自分はこういう野蛮人たちを愛する。ここにはまだ繋がりがある。
 この繋がりとこれら野蛮人は、いずれにしても、少女時代のカーチャ・ラグーチナやアメリカの虎であり、インディアンや大草原(プレーリー)である。

エカテリーナ・ラグーチナはプリーシヴィンの幼友達(不詳)。1885年、エレーツ男子高等中学生ミーシャ・プリーシヴィンは、イギリスの冒険小説家トーマス・メイン・リード(1818-83)に夢中になる余り、仲間と共に〈理想の国〉へ出奔する。「虎、野蛮人(インディアン)、大草原」つまりリードの〈アメリカ〉は言わば、自国ロシアにプリーシヴィンが見出そうとした夢、手つかずの自然のメタファーであった。『愕かざる鳥たちの国(邦題『森と水と日の照る夜』)。1918年のメモに「〈アメリカ〉への逃亡、ときどきアメリカが〈アジア〉になったけれど……」とある。

 戦争についての報告と報告の意義――同盟国がわれわれに戦争を仕向けてくるとすれば夏しかないが、それまでにはドン、ウクライナ、シベリアを支配し、パンを手に入れる必要がある。決戦の日々。

 過去と未来の隙間――これがわれわれの現在。
 現在は過去と未来の間の小さな裂け目。現在は飢え、病気。過去は不可能。未来はコムーナの幸福。
 「われわれはトラクターを動かす、工場を始動させる、われわれは土地を改造する」
 それを信じない者たちの反論――
 「わしらには今、何もない。すべては徐々に少しずつ実現されるべきだ。何もないところからどうして蒸気プラウが作れるのか? わしらは今、過去に作られた出来合い〔のもの〕を手にしているが、同時に過去を拒否してる――新しいものなど何ひとつ作ってないのに。これはどういうことだ?」
 労働者グループ議員(トルドヴィク)」の声。
 「そうだ、無からどうやって作り出すというのだ!? 何もないとは〈現在〉の深淵(つまり破滅)だ、深淵を跳び越えようというのか、ただ闇雲に!?」

革命前の1906-17年の第1~4次国会における農民とナロードニキ知識人の民主的派閥。労働者グループの所属議員。

 納屋(アムバール)は冷えびえ。納屋はみんなのもの〔前出。納屋=寒いところ=留置所、ぶた箱〕。
 ケーレンスキイ時代の始まり。ヴラドゥイキン〔不詳〕の演題――「みんなのアムバールについて」。
 レーニン時代の終焉。寒い納屋。
 護送される地主・フートル所有者たちの一団。破壊、寒々しい納屋、肺炎、兵站病院(ラザレート)、土地。

 舞台〔演壇〕用の横板と棺桶用材。演説が終わって弁士が意見を求めるや、あっちからもこっちからも――『パンが無い、ケロシンが無い、塩が無い! これじゃアムバールだ、アムバールだ、アムバール行きだ!』の大合唱。
 文化啓蒙サークルの議長が〔舞台の〕足場用の厚板を徴発しようとやってきた。『駄目だ、渡さんぞ!』と騒ぎ出す。『棺桶用に取ってあるんだ、駄目だ!』。烈しいやり取り……聞こえてくるのは、棺材を必要としている者たちの溜息ばかりである。『わしらはいま生きとるが、死んじまったら埋葬もされん、犬っころみてえに穴ん中に蹴落とされてお仕舞いだ!』
 毛皮外套(シューバ)に袖が無い〔不運をかこつ〕。演説「コムーナにおける未来の幸福について」のあとの群衆の叫び――
 「パンよこせ! 脂身(サーロ)よこせ! 法を要求する!」
 弁士の反駁――
 「同志諸君、要するに諸君は自分のシューバに袖が無いと言ってるのだ! 同志諸君、現在のわれわれは傾いたあばら家の子どもである。だからこそ力をひとつの結集しなくてはならないのだ!」
 「どうでもいいから塩をよこせ! ケロシンをよこせ! お寒いアムバールなんか消えてなくなれ!」 
 「同志諸君、そんなのはただシューバに袖が付いてないと言っとるだけではないか!」

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