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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 07 . 27 up
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 海軍省のあたりで弾丸が唸りを上げた1月9日〔1905年1月9日の〈血の日曜日〉事件のこと。ガポーン神父に率いられた首都の労働者の平和な誓願デモに警察と軍隊が発砲、数百名の死傷者が出た。この事件をきっかけに民衆の皇帝に対する「親愛なる父」というイメージが大きく損なわれ、第一次革命の因となった〕、その周辺が最美の建築群の屹立する場所であるということに、誰ひとり気づかなかったのだろうか! 今頃になって自分たちは、街をぶらつきながら、ペテルブルグが世界で最も美しい都市の一つであることを発見する。ペテルブルグが美しい街であるという発見は、まったくもってごく最近のことにすぎない。すべてが落ち着いて、革命の波が芸術に覆いをかけることのない今にして、そんなことがわかったのだ。

 壮麗な宮殿もその内部は退屈だ。美しい建物は書物にされてこそ素晴らしい。白い光沢ある上質の紙、美しく端然とした装丁、正しく組まれた活字の物語となるからだ。しかし現実にそれらを見ることは不可能である。状況と時(夜か昼か)と、たとえば夕方4時のカザン寺院……

 В〔Варвара、永遠の女性ワルワーラ・イズマルコーワ〕とФ〔Фрося、妻のエフロシーニヤ・パーヴロヴナ〕。Фがいなかったら、自分は破滅していたろう(マルーハ)。肉化されなかった霊のごとく〔メレシコーフスキイのことか?〕。Вがいなかったら、自分はただの生活者〔個人的利益のみ考える俗物〕、つまりマテリアルになっていただろう。救い、それによってわたしが在るところの救いは、人と人とのつながりから生じた。つながるためには信頼が、(赤子を慈しみ育てる)自然の聖性を感受することが、必要だ。カールポフ〔ノーヴゴロドの知人で商人〕の結婚はチャン(чан)、すなわち柔和・従順(смирение)にある。これは衷心からの告白だが、人間はみな平等なのである。で、それが同時に悩みの種。そう、彼女。心はひとつ(霊的にも)になった。そこへものを書く仕事である。つまり、Вは内へ孤独へ、Фは外へ社会へ関係(общение)へとなるわけだが、現実にはその逆――Фが孤独(日々の暮らしでは交際嫌いの遁世者)、Вは社会(文学という)である。

チャンとは、フルィスト(鞭身派)の重要な属性、象徴。この一派を研究していた時期にプリーシヴィンは、これがスチヒーヤ、すなわち個の原理をあっさりと呑み込んでしまう民衆の、自発的かつ盲目的な暴威またエネルギーの象徴であることを知った。革命後、チャンは革命解明のキーワードに。詩人ブロークへの返信「見世物小屋のボリシェヴィーク」にチャンについてのコメントあり(論集『花と十字架』所収)。

 わが文学上の処女作。それ以前のものはただのガキの手遊(てすさ)びにすぎない。わたしは病気だ。彼女〔В〕の手紙に――あなたは気が狂っている、と。クルーモワ〔ライプツィヒ大学留学時の知人〕も、わたしの顔を見て、こう言ったものだ――「あなた、病気よ」。それは最悪の声、廃墟のような……人にあるべきいかなる権利も自分にはないのだと宣告されたような……そのときだ、その廃墟の下から、つつしみ(смирение)の感情が、全民衆的で全世界的な改悛の感情がほとばしり出た。それで自分は、小さき者でいい、何か小さな仕事でみんなに奉仕しよう、みんなのようになろうと心に決めた。さあ、あとはおのれの罪と秘密を医師に書き、すべてを白日の下にさらそう。それで今こうして、自分が何者かを書き記しているところだ――自分自身を偽らず、徹底的に、詳しく。医師の命ずることはすべて実行する!
 医師は読みだす。読みつつ、いろんな箇所で質問する。たとえば、「わたしは貴族ではない」とあれば、「あなたは貴族ではないのですね?」。「ええ、貴族じゃありません」。チェックし、さらに先へ。「働いているって? そんな状態で働けるのですか?」――「沼地の干拓をしていました」――「干拓ですか?」。チェックし、また先へ。そんなふうにしてすべてが終了。読み終わると、四つに折って、針で留めた。その同じ針にはすでに何枚か似たような紙が留めてあった。わたしには憤慨したり大声を上げたりする力がない。なにせ病人なのである。身も心も捧げている。わたしはわたしじゃない。医師にとってわたしはマテリアル〔物質、データ〕なのだ。そしてそれがわたしの新たな屈辱の道への第一歩だった。わたしは医師にお金を提示した。彼は受け取りを断った。で、わが文学上の処女作は四つに折られて、針で留められたままである。まるで採集家にピンで留められた、生きた昆虫みたいに。

 「さあ、〈チャン〉へ飛び込みなさい。われわれがあなたを復活させて上げます」――レフコブィトフはそう言った。

レフコブィトフの名はすでに(六)の年譜の1908、9年に出てくる。パーヴェル・ミハーイロヴィチ・レフコブィトフ(1863-1937)は、あまたある宗教セクトのうちのフルィスト、いわゆる鞭身派の流れの一つである〈世紀の初め〉また〈新イスラエル〉の創始者のひとり。プリーシヴィンと彼との出会いは、1908、9年ごろ。場所はペテルブルグ。親しく話を交わし、〈宗教・哲学会〉での講演まで依頼している。講演のテーマは「民衆の宗教意識のスチヒーヤ、すなわちその潜在的本能的猛威について」であった。
 以下はフルィスト=キリスト者について。まずフルィストとは細くしなやかな枝また鞭のこと。17世紀末に起こった〈霊的キリスト者〉のセクトで、聖書と聖職者を認めず、精霊(Святой дух)との直接的な交わりを求めて、熱狂的に踊り、歌い、互いに体を鞭打ったところから、その名が生じた。神の化身である複数の〈キリスト〉、〈聖母たち〉あるいは〈母君(マートゥシカ)たち〉のもとに集まり、祈り、祈りの最後に執り行なわれる独特の儀式(ラヂェーニエ)。それが始まると、宗教的エクスタシーに達するまでみなが踊り狂ったという。自らを〈神の人びと〉と称した。旧タムボーフ、旧サマーラ、旧オレンブールグの各県、北カフカースやウクライナに彼らの小さな共同体が存在した。メレシコーフスキイには彼らの生態を作品化したもの(歴史三部作の第三部で長編小説『アンチキリスト――ピョートルとアレクセイ』(邦訳は『ピョートル大帝』米川哲夫訳・河出書房新社)がある。宗教上の探求に並々ならぬ関心とシンパシーを抱いていたメレシコーフスキイにしても、世間の暗い噂話、根拠も立証もなされていないフルィストへの非難(堕落した淫らなオージイ集団という)を額面どおりに受け取って、ずいぶん興味本位に書いている。面白いがインチキ臭い。プリーシヴィンはそういう彼らに対しても本気で真剣に向き合っていたようである。ローザノフにも『黙示的セクト』(副題はフルィストと去勢派)と題するフルィスト村探訪記(1914)が、またプルガーヴィンにもかつてフルィストだった人たちへのロングインタヴュー(『鞭身派ノート』)がある。いずれも大してこの派の核心には迫っていない。

 復活を信じて飛び込む。サタンの誘惑と比較対照する。トルストイの逃亡〔家出〕。誰かにとって必要なのは、おのれを捨ておのれの小さな意志(自由)を捨てて、それを世界の意思のうちに発見すれば、こうした心理学が――苦しみ、憎悪、悪念その他の感情が、もう今はつまらぬものに思えてくる。(旅にあるときのあの)幸福にも似た情が愛が烈しく波立って、なんだかもともと何もなかったかのよう。あの大波はいったい何だったのだろう? もちろんそれは孤独からの脱出だ。
 それは何か? 革命? 掠奪か?
 そっくり同じ彼が、監獄にも、彼女〔ワルワーラ〕にも、文学にも、ステップにも向かおうとする。罪のあとの魂の拡張だ。

 社会主義(本物の)の姿そのものが、救世主のことばによって表わされている。いわく「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない〔マルコによる福音書第4章22節〕」。個々人(秘密)がおのれの至上の完成に達するとき、個々人は自分一個のため(秘密)ということをやめて、すべての人のために明るみに出る(公然となる)はずである。これは為されんとしている。これからだってそうなる。いつだってそうだったのだ。社会主義だったし、これからもそうである。今日の普通の(ありきたりの)社会主義について言うなら、これは単なるファクトの登録にすぎない。ファクトに関心があって記録しだしたのだ。概して、いわゆる社会主義は、〈社会活動家たち〉が〈自由〉を口にしながら、その何たるかを理解しないで、ただ異常な正確さでもってつけた出納簿にすぎない。それ以外の何ものでもない。

 わが内なる良心の鏡に照らして、〈オーフタの聖母〉*1に罪はない(ダーリヤ・ワシーリエヴナ・スミルノーワ)。なんでまた低級なジャーナリズムはああまで彼女を責め立てるのだろう? 芳しくない呼称(フルィスト、鞭身派)まで使って。おかげで、フルィストを不道徳な人間であると思わせる、悪意に満ちた噂がひろがっている……ところがそれには、いつかアンドレイ・ベールィ*2がある講義でギッピウスを聖母と呼んだ以上の意味はないのだ。そこにはいかなる鞭身派もない――〈新イスラエル〉においてかのボンチ=ブルエーヴィチ*3が証明してみせたように。わたしはダーリヤ・ワシーリエヴナ(数語解読不能)……と知り合いになった。わたしの知るかぎり、世評とはまったく逆の人である。だからそれを百パーセント信じて、自分は傍聴するつもりでいる。法廷でわれわれはひとりの傑出したロシア女性を見出すだろう。

*1ペテルブルグの宗教セクト〈オーフタの聖母〉の創立者。プリーシヴィン自身、マーラヤ・オーフタ地区に住んだことがある。ダーリヤ・スミルノーワは正教徒を異端に引き入れ、かつまた正教への聖物冒瀆、誹謗、非難、謗りを繰り返したとして裁判にかけられた。審理は1914年3月7日から17日まで続いた。下された判決は全財産没収の上、シベリアへの流刑。プリーシヴィンのオーチェルク『アストラーリ』(1914)はスミルノーワ裁判の傍聴記である。

*2アンドレイ・ベールィ(1880-1934)は詩人、小説家、批評家。本名ボリス・ブガーエフ。数学者の息子。モスクワ大で自然科学と哲学を学んだ。ウラヂーミル・ソロヴィヨーフの神秘主義の影響を受け、詩人として出発し、ブローク、ヴェチェスラフ・イワーノフらとロシア後期象徴派の中心的存在として活躍した。ブリューソフとともに雑誌「天秤」に参加。詩集に『瑠璃色の中の黄金』、『灰』、長編散文詩『北方交響楽』、評論に『シンボリズム』、小説に『銀の鳩』(小平武訳・集英社)、『ペテルブルグ』(川端香男里訳・講談社)、自伝的小説『魂の遍歴』(原題は「コーチク・レターエフ」川端香男里訳・白水社)。一時期ベルリンに亡命したが、まもなく帰国。20世紀前半のロシア文学には、彼の文章・文体の影響がしばしば見られる。フルィストについての論考もある。

*3ウラヂーミル・ブルエーヴィチ(1873-1955)はソヴェートの政治活動家、歴史家。ボリシェヴィキ系新聞の発行や出版物を組織統括、また人民委員会議を指導(1917〜1920)した。20世紀初頭のロシアの宗教的社会的な民衆運動に関する多くの著作がある。ここでは、外国で企画し、国内では1908年から続けていた『ロシアにおける宗教的セクトの歴史と研究のための資料』を指す。

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