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プリーシヴィンの日記        太田正一

2013 . 02 . 03 up
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1919年1月1日

 問題は、この歴史的大時代を〔われわれが〕一刻も早く飛び越えたい〔やり過ごしたい〕と夢見ていることにある……

1月2日

 新年のきょう、自分の発案で文学の夕べを催した。生まれて初めてのスピーチ。自分が民衆(ナロード)を身近に感じ、また〈十字架と花〉が民衆のイデアであると実感して嬉しかった。ヒントというのか、新事業の可能性のようなものが閃いた。

〈十字架と花〉は革命後の日記にたびたび記される対立概念。必要性と自由、沈黙と言葉、冬と春、地と天、カオス(スチヒーヤ)とコスモス(個、芸術家)、ナロードとインテリゲンツィヤなど。十字架と花、すなわち苦と再生のシンボルは生のアンビヴァレンスを示す。十字架はナロードの地下に消えた生命の根――〈雪に埋もれたスキタイ人の故地(空間)〉を象徴し、花は漂泊者=インテリゲントの空間、芸術家の空間を象徴している。また同時に〈十字架と花〉は不可分の相互関係にある。十字架は大地の根の力が花を追い出すまで存在する。

 そう実感したのはむしろ今日になってからだ。コノプリャーンツェフもやって来た。あとで出席者たちがこんな感想を述べた――コノプリャーンツェフの話はよくわからなかったが、わたしの話は込み入った難しいものだったのにわかり易かった、と。

1月3日

 兄〔次兄ニコライ〕が床に伏している。胸に傷を負って〔胸を病んで??〕今にも死にそうだが、いっぽう自分は元気で、まだどんな露のしずく〔ささやかなこと、些細なこと〕も嘆賞の対象である。兄が味わっている苦〔の感情〕が真実なら、この歓び〔の感情〕もまた真実なのである。それが生の本然(プリローダ)、(プリローダとはそういうもの)。だが人間の始まりは、わが身わが事を歓ぶ者が兄弟の苦をも受容する〔同苦〕ところにある。苦もて苦の魂。苦と共苦。

 イワン・アファナーシエフがこんなことを言う――
 「強盗を裁判官にしてみちゃどうか? 意外とまともな裁きをするかも。立派な人よりずっとまともな立派な裁判官になるかもよ」

 イワン・アファナーシエヴィチは土地所有者だ。自分の菜園は6度もシャベルで土をほぐす〔自分のものには心血を注ぐ〕。自分に対しては公平で正義感が強いが、しかし他人は自分のためではなく公共(社会全体)のために働くこともあるということが、どうしても理解できない。
 「いかにもわしがやってるのは自分のためだ。そりゃ他人とはぜんぜん違う。もうほとんど自分のためにやってるんだよ。たとえば、わしは濃いお茶が大好きなんだが、小さい子には薄いお茶を注いでやる。するとその子は言うだろう――『濃いお茶は僕には良くなくて、どうして小父さんには良いの?』―『濃いお茶は子どもには良くない。わしは大人だから、子どもとは違うんだよ。おまえは育ち盛りだが、わしはもうちゃんとした大人だ。な、だから濃いお茶を飲んでも大丈夫なのさ』

1月6日

 あたふたしているという印象を抱いてコノプリャーンツェフ家を辞した。逢えたのは彼女〔ソーニャ〕だけ――自分が来たことで嬉しそうだった。別れるときは心騒ぐが、逢えれば自分も嬉しくて堪らない。
 夫を愛さずに家庭での自分の義務を果すことは可能だが、夫に同じ義務の実行を要求し、夫の目の前で他の人間を愛すること――これはエゴイズムだろうか? エゴイズムではない、それはこんがらかった糸、縺れた感情の糸。

 〔夫は〕会議に出なければいけないが、〔妻は〕それより薪集めと雪掻きをしてくれと言う。『退屈以外の何ものでもない会議なんて、氷点下の薪集めの当番やそのあとの一本の薪をめぐる戦いに比べたら、ほとんど夢のひとときだわね。こんな生活は……ああ、まったくもう、いったいどんな夢を見たら、こんなあからさまなむき出しの試練〔現実の必要性〕に耐えられるのかしら?』
 今の暮らしをこれを〈試練〉と捉えて〔そう見なして〕生きるなら、会議に出たい気持を抱えて薪集めに行く必要性、つまり夢と現実は思いのほか容易にひとつになるのだろうが……
 あのときミハイル〔自身のこと〕が彼女とばったり路上で出会わなかったら、互いの間にどんな問題も生じなかったはず。生理学(フィジオロジー)の問題も。だがそれはこんな消耗の只中でどんなフィジオロジーなのであるか? 脂肪分の多い羊肉あるいはガチョウを手に入れ、久しぶりに羊肉を食べたあとで、深夜彼がセックスを迫れば、彼女は冷ややかに(ごく自然に夫婦らしく〕夫に対する性の務めを果して寝入ることだろう。そして翌朝には、おのが生活の本質の何たるかは一切これ弁えずにただ活発かつ精力的にその日一日を送ることだろう。もし夕方、立ち寄った親しい友〔女〕が『どうなの?』と訊けば、きっと彼女は『大丈夫、ちゃんと自分の務めを果たしてるわ』と答えるにちがいない。

 この〈務め〉の因は結婚指輪か? 花嫁側の持参金に存するのか? 可愛いおばさまたちにか、それとも歌をうたう旧いお屋敷にあるのだろうか?

 結婚指輪はどこかにいってしまった、おばさまたちとは喧嘩をし、旧家の床や羽目板の割れ目には南京虫が棲んでいて、どのドアも歌をうたわず、ただキーキー鳴ったり嗄れ声を出したり咳をしたりしている。まるでどのドアもすべての父祖たちの病を患っているかのよう。彼らの罪をみな償えと訴えているかどうかは、神のみぞ知るである〔誰にもわからない〕。

ニコライ・ゴーゴリの中編『昔かたぎの地主たち』(1834)。プリーシヴィンの常用例――家父長制の調和に満ちた暮らしの典型として。そのアンチテーゼはそうした暮らしに隠された〈罪の意識〉と〈病〉のどす黒い影。

 諸事情を勘案し、小さな疑問(問題)を隠蔽して、いざとなれば妻として母としての務めを果すという自分の力を信じ、勢いに任せて、彼女は彼に手を差し伸べて『はい!』と言った〔結婚の誓い〕に相違ない。そして十字架にキスをしたとき、つい目に涙が溢れて(十字架の効果)……でもそのとき神父が変な言い間違いを――ソフィヤの結婚相手の名を言い間違えてしまった。なぜかアレクサンドルではなくミハイルと言ってしまったのだ。一瞬、彼女の心にはっきりと〈小さな疑問〉が湧いた。しかしそれについて深く考えることもなく、その場ですぐに神父の間違いそのものを忘れてしまった。何年も経ってからおばさまたちに指摘されて神父の言い間違いを思い出したのである。今は誰でもその言い間違いを知っている。

 彼女はオーリャ・ヴォローヂナの人生について話してくれた。おかげで言葉の本来の意味で(つまり文字どおり)われわれ全員が亡びつつあることが完全に明らかになった……男たちはあまりにも早く老い、女たちはしわくちゃになり干からびてしまった。われわれは亡びつつある、われわれは沈みつつある!

オリガ・ミハーロヴナはプリーシヴィンの知人、エレーツの人。

 実質的な生存競争であるこの闘争、この日々のパン獲得のための心労においてあらゆる手段が合法性(ザコーンノスチ)を持つという新しい感覚――そこに歴史の意味のすべてがある。  (ユダヤ的ペシミズムの起源)。

 嵐のあと――雪解け陽気、それからマロースが始まって、雪面を氷が覆った。
 馬で原っぱへ向かう。路上の馬糞をシャコたちが啄ばんでいる。かまわず突っ込んでいく。シャコの群れは一斉に飛びのくが、前方へ移動するだけだ。また追いつく。飛びのく。その繰り返し。シャコたちには落ち着く場所がない。雪面はカチンカチンで、緑などどこにもない。目下、彼らの生を支える唯一の場所は路上であり路上の馬糞である。
 今ではわれわれの暮らしもシャコのそれと大差ない。どこかで何かを手に入れなくては……
 誰よりも有利なのはユダヤ人だろう。拠って立つべき土地を持たぬこの民族の根は、とっくから人工栄養〔の摂取〕に順応している……

 女の勝利。どんなに痩せようがどんなに老いようが、女たちは目立つ(目につく)。残酷な戦いの場だろうとどこであれ至るところに登場するが、男はからきし駄目で、いつの間にか舞台から姿を消している。影〔幽霊〕のようにさ迷い、紙製の軽業師(アクロバーチク)のように恐ろしく面倒な任務を担ってきりきり舞いをしている。
 バザールの日、でこぼこ道を軍の輜重か何かみたいに無蓋の大型橇に乗った〈スキタイ人たち〉が突っ走る。その大橇には何も積まれてないように見えるが、藁の下に脱穀したキビと麦粉と豚肉がっちょっとだけ隠されている。町でそれらを編み上げ靴やウールの着物や古時計と交換するのだ。町の文化財はそういう形で移動するのである。
 スキタイ人〔野蛮人〕は意気揚々と町へ入っていく。あくせくする旦那たちを見て、可哀そうにと同情したり共に嘆いたりするが、内心ざまぁ見ろと思っているのだ。
 村ではコミュニストたちにずいぶんな目に遭わされているが、町では自分たちが主人なのだ。
 すべての根底にあるのは、パンと土地であり、土中の生ける根……いのちの根っこ。花の茎が黄ばんでざらざらしてくる。やがて雪に覆われ、氷層ができて……生きているのは地下の冬麦やライ麦の根ばかり。冷たい土の中で凍りつき、死を待っている。
 冬の只中。雪の荒野。そのでこぼこ道を無蓋の大橇で突っ走るのは、高価な羊皮に身を包んだスキタイ人。彼らの前方に馬糞が落ちていて、シャコと生きるに必死な鳥たちが啄ばんでいる……
 スキタイ人たちはシャコをからかいながら――『ああちっくしょう、鉄砲がありゃあなぁ!』などと言って、しきりに狙う真似をする。そして最後にまた繰り返す――『なんつっても悪(わり)いのはインテリゲンツィヤさ』

 〈務め〉を果す女に寄せて。町外れの牢屋の先の雪原にお嬢さんが立っている――4分の1リトル壜を手にして。
 『ああわが愛しき人よ、きみはどうしてそんなことになったの?』―『そんなことってどんなこと?』―『酷い恰好だ、みっともない恰好だよ』―『あたし、一瞬思ったの、あなただってアレクサンドル・ミハーイロヴィチのようだわ。みんなあんなエゴイストの空想家なのね、あなたたちは性格的に言って生活の探求者ではないのね』―『しかしきみはどうなんだ? 今のきみは僕も気に入らない。僕もきみの言葉は前にどっかで聞いたように思う。なんだか旧家の古い蝶番(ちょうつがい)の軋む音みたいだよ。きみの言葉は僕の耳に馴染んでいる。エフロシーニヤ・パーヴロヴナを思い出してしまった。彼女がそれとまったく同じことを僕に言ったんだ。彼女には僕の心がわからない、僕の夢を自分にとって必要なものとして心に留めることができないのだ。僕はそう思うことで自分を守ってきた。僕と彼女はそこのところで食い違っていた。そして今またそれの繰り返しだ。ああ愛しい人よ、そこで大いに僕は……うろたえた』

 自由というのは単に陳腐な言葉。自由は象も馬も驢馬も誰もが通れる巨大な首輪になってしまった。どんな動物でも容易に〔引っかかりもせずに〕そこをくぐれるが、積荷はそうはいかない(すり抜けられずに残ってしまう)。真の自由の下では、首輪はどの動物の首にも合っていて、積荷はその能力に応じている。したがって積荷が運べるか否かはわからないのだ。そういう自由は愛の別称にすぎない。

 わたしたちはリョーヴァが財布を盗んだ話をしている。『そんなことは何でもない』とわたし。『あなたたちは男の子を知らない。男の子というものはたいてい盗みをやる、自分も小さいころバザールで林檎や白パンをちょろまかしたものだが、今はどうだろう、盗みの専門家だろうか?』。彼女は思わず本音を吐く――『でも、あなたは自分の友人の女房を盗んだでしょう!』―『ああ何を言い出すかと思ったら。あれは自分の意に反したことです。結果としてそうなってしまったのです』―『それはわかります』―『そんなのは陳腐な言葉ですよ。だって村では花嫁を略奪してるじゃないか。しかしああベストゥージェフ出の女を盗むなんて……ああ、あなたは下らないことを言ってる。いや、もしかしたら、ベストゥージェフ出の女もハーレムの女も大して変わらないのかも』

 アンナ・カレーニナの生理学(フィジオロジー)を考えてみると面白い。もし彼女が肉体的に一度も満足したことがないとしたら――そういうことはよくあるわけで、子どもは生まれるが、女のほうはどんな動物でも体験することを一度も味わわなかった。

1月7日

 降誕祭。いや自由はまだ愛ではない。自由は愛の道、あるいは自由は人生の石ころ道の愛の光。

レールモントフの詩「わたしはひとり 旅に出る。霧の向こうに 石ころ道がひかっている……」か?

 教会はサーカスだ。壁の向こうで言っている(コミュニストたちの党)――彼らは、教会はサーカスだが、サーカスは国民の娯楽であるとも言っている……

 キリストは指導者。集会である男が言った――『わたしはナロードが何によって騒ぎだすのか〔台頭するのか〕、ナロードがどんな才能を顕すのか、よくわからない。キリストなしのナロードは騒ぎださない、キリストなしということは指導者なしということだ』

 〈ボリシェヴィズム〉、〈コムーナ〉――こういう革命の言葉に〔必要以上の〕意味を持たせるのはもうそろそろやめていい。どこにいようがどう名乗ろうが同じこと。人間として留まることが重要なのだ。そしてそのあと、そこから自然に、本当の生きたスローガンが生まれてくるのだ。それだけだ。

 われわれの方にそっと音を立てずに新たな敵が近づいてきた。彼〔アレクサンドル・ミハーイロヴィチ〕はおまえ〔プリーシヴィン〕を苛立たせる。理由もなくおまえをカッカさせる。おまえは彼の目の前で、醜く、狡く、公正でなくなる。
 敵はわれわれが思っている以上に恐ろしい存在だ。なぜならそこには同情〔同苦〕があったから。でも、ここには何もない。苛立ちしかない。

1月8日

 うちの子〔息子〕が眠っている。みんな眠っている。静かな朝。目には見えないが、雪の上に朝の星を感じている。わが使命は、〈時と所〉の一瞬の生を海綿のように吸収し、それをおとぎ話か寓話にして再生させること。われは〈時と所〉の花なり。非臨時的にして非空間的なるおのが花弁をひらく花なり。

 きのう若い男がやって来て、こんなことを言った――村から税を徴収するよう党から委託されたが、どうしたらいいかわからない。自分は党員なので実行しなければならない。でも村の人たちが可哀そうだ。どうしたらいいのだろう、と。
 わたしはまず、権力について話した――だいたいロシア人はそれを避けてきたのだが、ついにそれ〔権力〕にかかずらって、結果として身を亡ぼしたのである、と。革命の時代の到来とともにロシア人は、権力の問題をおぞましい問題と理解した。〔だが〕われわれにはもともと人間を支配〔統治〕する使命などないのである云々。
 青年はコムーナについて語る。やたらと広い概念のようで、これだと駱駝もらくらく通れる首輪である。いずれコミュニストたちは地下の布教師か農業生産協同組合の活動家のどちらかに変身するに相違ない。

 社会主義と宗教について。〈革命的社会主義は宗教的民衆の魂の生のモメントなり。それは何よりまず、教会の欺瞞に抗する大衆蜂起であって〉、地上のマテリアルなものの名においては言葉で、また(古い神の名と新しい神の名を混同しないために)敢えて名を言わず言うことを欲しない新しい神の名においては内的に無意識的に行動する。

初期の日記(1905-1913)にすでに同様の記述がいくつも見つかる。マルクシズムの人間・組織機構と宗教セクトのそれに関して、たびたびプリーシヴィンは、レフコブィトフの語るセクトの歴史とマルクシズムの歴史(隠れたミスティックな本質)の非常な類似を指摘している。

 革命ロシアの現在について。今は冬――上に向かって伸びていたものがすべて死に絶えようとしている。いよいよ強固になるのは地下の根だけである。地下の奥深いところでは、すなわちどの根も必要性の闇の中で、おのれのために熱と養分(熱と養分をのみ)を求めている地下の奥ふところでは、よりそれを欲するものたちが耐えに耐えて生き延びるのである。そこには〔地下の暮らしには〕歓びも愛も希望もない、意識(経済的必要性)すらもない。あるのはもっぱら女性的なもの、ユダヤ的なもの、孕み腹のみ。

 焦眉の問題。風が猟犬たちの吠える声を運んでくる。野ウサギがひょいと駆けだす。そしてまた蹲る。が、またぴょんぴょん。何か食べ物を探しているのだ。自分も痛めた足を引きずって家を出る――脱穀したキビを探さなくては。都会ふうの服を着て、雪の吹き溜まりを行く……キビを10フント。幸先がいい。黄色いキビ、粒ぞろい――嬉しい。生肉5フントと塩を少々。小さな器に入れて塩漬けにするやり方を習った。胸騒ぎがして深夜に目が覚める――鼠どもにやられては堪らないので、戸棚に移す。そこでふと疑問が生じ、塩抜きを試みる。牛がいたらどんなにいいだろう。飼うべきはやはり乳牛だ! それが夢に出てきた。ドロップ2フントをウールの長靴下と交換。靴底を持ってきたら麦粉半プードやると言われた。ガチョウを100ルーブリで買うが、脂肪はほとんど腸(はらわた)にあるので、そこは主人が自分で取る。それでガチョウの腸のことでしばらく言い合った。茶葉ひとつまみで祝日までに水漬け林檎を入手。砂糖4分の1フントで重さ3フントのピローグ。町では百姓に約束、薪一台分(一語判読不能)……青いウールのジャケット。
 捕虜になっていた小店主が戻って、自分の屋台を捜すが見つからない。ブルジュイみたいに居場所がない。土地もパンもない。ただ許婚がいた。これがそんな境遇をものともしない娘。男は娘と所帯を持ちたいと思う。どっかでワーレンキ〔フェルトの長靴〕を手に入れなくては。30露里先まで出かけ、あるところで麻実油(あさみゆ)〔塗料用または食用〕を手に入れ、それをワーレンキと交換した。娘の親から部屋の一部を貸してもらえることになった。まず必要なのは、小麦、キビ、ジャガイモ、肉、脂身(内臓の脂身がいい)それと毛皮の長外套(トゥループ)だ。

 文学は今や〔上からの〕指令である。

 すべてがこんな調子。地下の生活、経済的必要性、女の、ユダヤ人の――それから漂泊者(何も要らない、ただ漂泊あるのみ)。捕縛された放浪者……根(共同)のエゴイズムと個(霊的)エゴイズム。漂泊者=インテリゲントは寄食者。漂泊者に根の力(個人とスチヒーヤ〔盲目的自然力〕)に対抗する力を発見。根の力が花を追い出すその一瞬(とき)まで十字架を負う漂泊者の力。
 ユダヤ人たちが強いのは必要性を知っているから(われわれは今になってやっと知った)。ユダヤ民族の生活――それは人類の冬。そこにあるのは断崖――深淵だ。個的なものはそこでは生存不可能……

 自分は誠実だったし正しかった……春、彼女に『僕の愛は邪魔をしない、きみの夫から何かを盗むこともない』とそう言ったときには。自分は不安に駆られた――自分の愛が裏切られている、裏切ったのは誰? 彼女だ、おお愛しき人よ。自らの内に、地上の、官能的でみだらな女が目を覚まし、自らの権利を口にしだしたのである。

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