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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 12 . 23 up
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9月27日

 嘘。彼らがその関係を愛欲的なものから精神的な親交に転じようと決めたとき、その精神的云々がありきたりの恋愛よりかえって深く彼を苦しめるだろうことは明らかだった。
 どこにも出口が見つからないので、彼らは合意する――
 「嘘をつくことにしよう!」
 それで二人は〈嘘〉を仲間に引き込んだ。

 エフロシーニヤ・パーヴロヴナが病気になった。働き過ぎ。体調を崩して、自分と衝突。摑み合い。その結果――1)ヒステリー性の発作。2)それで今回のような陣痛〔?〕(打撲のせい)。
 危機的状態にある病気の妻と子どもたちを抱えている作家が自宅から放り出され、コムーナが割り当てた畑で自ら収穫した穀物を取り上げられる懼(おそ)れがあるのだ。そうならないためには、なんとか〔彼らの〕裏をかくしかない。

 ロシアの民衆(ナロード)はおそらく、社会主義の俗物どもの最高指導の下に史上唯一の〈泥棒と人殺しのコムーナ〉を創り上げたのだ。

 彼らに対してはいかなる手段も許される。
 福音書に記された、〈にんげん〉なる言葉で呼ばれるところの生の悲劇的展望は、知的で精神道徳的な余暇の何分の一かを前提とする。
 例その1――『あなたはまだそれでも見究めようとしているけど、あたしには何もわからないのよ』。それはなぜかと言えば、自分には子どもが二人いて、彼らのために自力で何もかも手に入れなくてはならないの思っているからだ。ジャガイモの配給はない、これからだって手に入らないだろう――そんな思いで頭が一杯なのである。
 もう一例。『村で子どもを二人も食わせて学校にやる……そんなのあたしたちの能力を超えているわ』
 わたしは訊く――『オープチナの修道士にでもなるか?』―『そりゃ、あなたにはできるでしょうよ……』

 問題はそこである――〈暮らし(ジーズニ)〉は人間にとって窮屈なもの。ジーズニはほっといても、つまり人間なしでも、前に進む。今日のコムーナの諸事実から、人間にもいつか人間の歴史と悲劇を創造する余暇が生じるだろうが、現在のところ〈にんげん〉はお手上げだ。どうにもならない。きょうもジャガイモはと、そんなことばかりで頭が変になりそうだから。
 ペシミストのユダヤ人マルクスは、そんな人間不在の生を〈経済的必然〉と名付けた。
 われわれは今、人間のようではなく動物のように苦しみもがいている。われわれは奪われ、苦しんでいる……
 〈人類の救世主〉とは、こういう苦しむ動物たちにその苦悩の意味と目的(方向性)を信じ込ませて、それをしかるべく人類の悲劇として再生させる者のことである。

 きょうは碌でもない一日だった。病人〔妻〕の部屋のまわりを科人(とがにん〉みたいにうろつきまわって、自分の子どもたちを追い出してみたり……。『おまえ、ずいぶん頭が白くなったなぁ!』とコーリャ。『そりゃそうだろ!』と言い返してやった。
 夕方近く畑に出る。人の手を借りずに耕し始めたころのことを思い出したが、それがまるで10年前のことのような気がして仕方がなかった。去年のことなのに、何年も何年も経った感じがする。そして事態はますます悪くなっている。自分自身の問題と捉えるられずに、こんな成り行き任せを続けるなら、何もいいことは期待できない。

 さまざまな事実を踏まえて歴史的認識(多くの女性に)というものが存在する。芸術的認識は詩人に、理性的認識は学者たちに、そして最後に宗教的なそれ――それがすべてで、つまるところは宗教的認識なのである。現在はそれらの認識がすべて消滅し、〔裸の〕事実だけが露になって、認識はすべてこれイリュージョンという時代なのだ。

 きのう自分たちは初めて〈嘘〉を生活の手段として受け容れ、自らもそれを制限条件と理解した……  

9月28日

 茂みの中で子どもたちが火を起こし、ジャガイモを焼いている。そばに老犬が臥せっていて、ジャガイモが焼けるのを待っている――焼けたら投げてくれるだろうと期待して。犬は火が起こせないからジャガイモを焼くことができない。そうするにはプロメテウスの偉業が必要だ。ジャガイモが欲しければ、小さな子どもの奴隷にだってなるだろう。ああ、せめてこの瞬間(とき)、神の火の盗っ人であるプロメテウスがこのジャガイモに目をとめめてくれたらいいのだが。いやまったくの話、これが彼が人間に与えた〈自由〉なのか!
 今、フランス革命の指導者たちも腰を上げて、彼ら〔目下の権力者たち〕のやってることを見てくれたらと思う! 大人を真似た小さな餓鬼さながらに、いかなる個の理想の熱狂(エントゥジアズム)もなく、彼らは自由の火を手に入れ、国家に火を放ち、主人づらして居坐ったが、なに、よくよく見れば、そのまわりに寝そべっているのはジャガイモが焼けるのを待っている犬たちだけなのである。

 たとえ追い払われても、収穫物を奪われても、ここは去らないことにした。死んでも、ここを出ていかないことにした。 
 「焼いてしまおう!」とわたしは言った。
 「そうしましょう!」これが家族みんなの答え。
 (スチヒーヤに目覚めたインテリゲントを描くためのテーマがここにある!)
 ともかくも、最後の一線を見逃さないこと、自分の立場を主張することが必要だ――いかなる人いかなるものに対しても。ドゥラチキ〔トランプ遊び〕は切り札を持ったまま終わってはいけない。

 アメリカへ逃亡するという子どもの夢は、たとえばプルジワーリスキイのような英雄の事業の反映だ、とチェーホフは書いている。たしかに。そこまで言うなら、プルジワーリスキイの事業がいかなる英雄的行為の反映であったかにも触れてくれたらよかったのだが。

 われわれロシア人には(プルジワーリスキイのような)荒野における個の偉業としての禁欲者=苦行者の夢があり、同時に荒野における人びととの共同の英雄的な夢(すなわち社会主義。たとえばナロードと共にアルタイの山を掘る汗)があるのだ。おそらくそれらはみなわれわれの古い正教の遺物であるだろう。われわれの個人的(インヂヴィヂュアル)で情熱的な愛が、はるか昔の先祖たちの熱狂(エントゥヂアズム)の反映であり、アメリカの夢がシナイ山の偉業の反映であり、してまた社会主義の夢がソボールノスチの理想の反映であるように。

詩篇67章9節、18節。使徒行伝7章38節。ガラテヤ署4章24節、25節。使徒行伝には「彼〔モーゼ〕はシナイ山にて語りし御使および我らの先祖〔旧字〕たちと共〔旧字〕に荒野(あらの)なる集〔旧字〕会に在りて汝らに与〔旧字〕へん為に生ける御言葉を授りし人なり」

 見よ、われわれの目の前には今、巨大キリスト教国家である〈第三のローマ〉が横たわっている――獣が棲み日ごとにその数を増す大いなる荒野のように。愛の偉業における個の火の洗礼の時代、人間創造の時代……

モスクワは第三のローマ――16世紀の初め、プスコーフの修道僧フィロフェイがワシーリイ三世に宛てた書簡の中で述べた。すなわち、第一のローマと第二のローマ(コンスタンチノープル)はすでに滅び、モスクワこそ第三のローマであり、第四のローマはあり得ない、と。火による洗礼についてはマタイによる福音書3章11-12節、ルカによる福音書3章16-17節を。 

 より良き夫こそはより良く大いなる者と〔ならん〕……
 「畑でソバを刈ってくるぅ!」いきなりヤーシャが馬鹿でかい声を張り上げたので、思索の糸がプツンと切れてしまった。より良き夫は妻をいちばん頑丈な鎖で縛ると言おうとしたのだったが……

 婚約指輪を失くしたあと、自分たちは、何も語らず、互いに見つめ合っている。まるで鼻の先に線でも引いたかのように、敢えてその一線を踏み越えず、じっと相手を見つめている。

9月29日

 トルストイは、象の力を誇示するように、いかにも重々しい調子で、ヨハネが〈分別〉と呼んだ、とたも消化できない大槌を「福音書」からひねり出した。

トルストイが1881年に編纂した『要約福音書』。「生の分別」はその序文。

 『そは神によらぬ権威なく、あらゆる権威は神によりて立てらる』は、すべての権力(威)は神による、ではなく、真の権力は神からしか生じ得ないと、理解しなければならない。あるいは人間相互の関係は彼らの神への関係(態度)によって決定されると知る必要がある。

ロマ書13章1節。

 フートルでのわが生活について書くときは、地中に埋められたチェトヴェルチ〔約リットル〕のアルコールの話を、つまりそれが50ルーブリから1250ルーブリまで値が上がったから、破産に追い込まれた所有者にしてみれば、最後の期待がその埋蔵アルコールであるしかなくなったという話を、ぜひ入れる(忘れずに)。

〔書き込みあり――1チェトヴェルチ(で6000ルーブリまで高騰)、ずっとずっとあとには(1922年1月現在)100万ルーブリに〕

 第2の形象――シーニイは狡猾で親切で、自分でパンも焼くし殺人だって(頼まれればほいほいと)やってしまう召使。もっとも、それは誰かのためにやるのであり、うまく罪を免れればの話である。それでいてむしろ愛すべき男、とにかく恐ろしがられるような男ではない。コミュニストを〈クマニョーク〉のようなものと思っているので。

 がっちりした体躯の猟犬のザリヴァイは、このところ精力の衰えに悩んでいる。今も雌犬のゾーリカと藁の中で眠っているが、ゾーリカを満足させられない。中庭の藁山の周囲は、精力を持て余した雄犬たちでいっぱいである。舌をだらりと垂れている雄犬たちは、敢えてザリヴァイに一騎打ちを挑まない。かといって連合もしない。どの犬もゾーリカを独り占めしたいと思っているからである。
 現在のロシアがまさにそんな感じ――がっちりした体躯の、孤立無縁の雄犬でありながら、ただごろりと横になっている。だが、まわりには舌を出し涎を垂らしている〈ブルジョアジー〉がうようよしている。

 ボリシェヴィキの獣性(蛮行)を描いてみせたとき、セマーシコが言ったことを忘れるべきではない。彼はこう言ったのだ――  「大義なんだ。一大事業なんだよ!」  ボリシェヴィキ、一大事業、大計画、エトセトラ。彼のあんなボリシェヴィズムが真の大事業者たる創造者の心を満たすだろうか。〔とんでもない!〕

 セミヴェールヒは静寂につつまれていた。ペーチャ〔次男〕とわたしはドゥープのそばに立ってある音を耳を澄ます。カブトムシ? 脱穀機? それとも見えざる町〔キーテジ〕の湖底の鐘の音だろうか? なぜかわたしたち〔ソーニャと〕の逢引の場所のことを考えたくない。でも、また再び二人一緒にいられる可能性のことなど思ってしまうと、荒野の建物(フラーミナ)も大地も空もこの静寂も、『ああ、ここからすべてが始まったのだ!』となって、いっさいを受け容れてしまい、それだけでなく、すべての過去、忘れかけていたあの歓びあの有頂天が自然とひとつに溶け合って、なにやらそれは黄金の巨大な埋蔵品でも見つけた気分なのである。まわりはどこも黄金の木の葉――わが人生の黄金!と黄金の上の赤い血、至るところ黄金と黄金の上の血だ! わたしの中に黄金の秋のすべての富が発見されたのだ! 『おお、金よ、黄金よ、黄金の上の血よ!』そうわたしは繰り返す……

『巡礼ロシア』(1908)の第二部「キーテジ・湖底の鐘の音」。

 こうした他人のごく私的な公園――以前なら持ち主の許可なしには入ることのできなかった公園を散歩するのは、なんとも奇妙な気分。一族の記録(アルヒーフ)を調べながらいろいろ頭を働かせる公証人、のような……そんなとき、茂みの向こうには、おのが天性に逆らわぬ男がいて、そいつ――そいつこそ〈勝利者〉!――は、しゃがんだまま、兵隊帽の下からその小さな灰色の目で冷たくじっとこっちを見ているのだ。こっちは、いや、きみらは彼にとっては憎むべき、蔑まれるべき、種の撲滅に相応しい存在なのである。捕獲された名馬が葬られた板石に唾を吐くと、〈勝利者〉は、ちょっとないような深い松の並木道から貧農委員会のビラがはってある旦那の屋敷の方へすたすた歩いていく。彼は小柄な不細工な男である。鼻の頭ににきびが吹き出ている。秋のひん曲がった胡瓜にすぎないのに、ただただがなり、絶叫し、勿体ぶっている。こんなのが今や主人となった勝利者なのだ。貧農委員会の会議が終わると、アコーデオンと半壜のアルコールでを手に村娘の肩を抱きながら、その公園の並木道を抜けていく。

 農作業か何かの最中に、自分は何もしないで『さあ、やれやれ、どんどんやれ、зоводи пелену!』みたいな、訳のわからぬ下らぬことを(だが彼らの作業には欠かせない言葉を)喚き散らすどん百姓が必ず一人はいる。そういうどん百姓はダルドンと呼ばれている。

ダーリの詳解辞典に「ダル(ドル)ドーニチ」という動詞。タムボーフ、ペンザあたりの方言で、お喋り・無駄話・多弁を弄するの意とある。ダルトンはやたらと喚く奴?

 エフロシーニヤ・パーヴロヴナは自分の欲しい愛情が得られないので、わたしを憎んでいる。ただ彼女に対する自分の優しさはそんな不幸な悩みの中でしか目覚めないのだ。そのときだけ自分は彼女を愛しいつも愛してきたように思える。

 リーヂャ〔長姉リーヂヤ〕をユローヂヴイの女地主のように描くこと。リーヂャに〈立ち退き命令〉が来たらしい。

9月30日

 ソフィヤの名の日。町へは土手を通って。下流のノーヴァヤ・メーリニツァ〔新しい製粉所の意〕の方から荷馬車に乗ったスキタイ人〔野蛮人〕が現われる。そして秋の野の沈黙を突然、人間の声が切り裂いた。馬車の後方で『はい、そら!』と馬を促しているが、少々もの憂げな響きである。『おい、どうしたよ? 落っこちまうぞ、頼むから頑張ってくれ。引っぱり揚げるんだ。恩に着るからよ、頼むぜ、はい、そら!』。時ならぬ秋のヒバリの歌のように、その人間の声は、ちょっと土手を登ったところで消えてしまう。わたしが歩いているのは、蹄で均された歩きやすい道の真ん中だ。背後でもっと元気のいい声。『はい、そら! どうした、この悪魔!』。たぶんこっちの土手からも誰かがのぼって来るだろう。『はい、そら! ダマヴォイめ、どう-どう! 駄目だ駄目だ、穴に落っこちまうぞ、くそ!』。荷馬車がガタガタいいだし、どこか壊れたような音。それでもどこかのどかな『はい、そら、はい、そら!』が虹のように野面いっぱいに響き渡る。窮境脱出。どうやらうまく土手の上に出たようだ! 荷馬車が私を追い越した。またしても荒野は押し黙る。そのと、川上から旅人がひとり……
 旅人はわたしを追い越していったが、しかし追い越しざまに、わたしに向かって(妙な話だが)天地創造についてこんな質問を投げかけたのである――『それで、あれは、アダムとイヴの話はただのおとぎ話なのですか、それともほかの君主制主義者の偏見にすぎないのですか?』と。それからやにわに政治の話に移って、ツァーリは必要です、もし百姓たちが〔自分らが犯した〕ポグロームのことをツァーリが非難しないとわかれば、そりゃ嬉しくなってみんな一緒にツァーリのあとを追いかけるでしょうね――だいたいそんなこと言ったのである。

 アレクサンドル・ミハーイロヴィチとフルシチョーヴォへのハイキング(?)から。

〔コノプリャーンツェフのことも唐突な「旅人」の出現もさして深い意味はないようだ。10月4日の日記に、水彩画の短編『荒野(ヂーコエ・ポーレ)』とあるところを見ると、浮かんだ物語のメモであるかも。『荒野』については不明〕

 彼らは町を出て土手下の道へ。野の静寂。その静けさときたら、耳の中でキリギリスが音を立てたかと思ったくらいである。静寂があまりに深かったので、二人のあいだに秘密のようなものができたこと。そうだ、二人は以前、町をほんのとちょっと歩いたことがあるのだ。それでそのとき、エックス線か何かに包まれた鉛の弾が限りなく透明な空に暗点のように懸かったのであった。彼はそのことを自分でするのが怖くなったのだが、でもその場をあとにすることができず、どこへ逃げたらいいかもわからなかった。なんせ地平線の彼方まで広がる渺茫たる野は海さながらで、すでに二人は海に、いや野に浮かぶちっぽけなボートにすぎなくて、そら恐ろしい空間の圧迫を全身で感じていた。

『森のしずく』にも耳の中のキリギリス。幻聴?

 その門を支えているのは小さな杭だけだった。風が吹いていた。門が開けられても、泥棒たちは入っていかない。泥棒は自分のものには手を触れないのだ。泥棒だって人間だ。迷惑するのは、まあ物を盗まれた当人だけである。

 17日の深夜は騒然としていて、朝方に雨。日が差し始める。雷が鳴ったが、雨は降らず、重苦しい夜明けである。そのあと一日中、雨が降るのか降らないのか、甚だ不安定な一日。

 十分網に絡まっているかどうか調べようと、蜘蛛が蝿に近づいていく。触れると、びくっと蝿が動いた。蜘蛛は飛び退く。『なんだよ、おい。おれが何かしたか? 何もにもしてないぞ。おれは〈静かな客〉なんだ』――そんなことを言っているようだった。二人はどんどん愛の糸に絡まっていくが、蜘蛛の接近に驚いて、ようやく事態を察する。そしてもっと理性的に行動しようと約束を交わし合ったとき、〈誘惑者〉は大地を離れてふわりと舞い上がり、そこから二人に純粋愛について囁いた……頭の上から祝福されて、二人は自分たちの約束を忘れ、顔を寄せ合い、唇を合わせる。と、そのとき、蜘蛛が音も立てずに近寄ってきて、毒針をぶすり! 聞こえてきたのは、弱々しげな、哀れっぽい歌だった……
 蜘蛛の本性。嘘によって障害物を回避すること。彼女――「駄目よ!」。彼――「どうして駄目?」
 結婚における愛は宗教的感情と結びついており、〈家〉の誕生、〈日常生活(ブィト)〉の始まり。十字架、ルバシカ、ぼろ毛布、すなわち〈家〉。
 なに隠すこともない百姓家(イズバー)には、ペチカのそばに坐る永遠の老婆……インテリゲンツィヤの家庭もまったくもって同様。家庭でくつろぐ社会活動家には、どうして自分がこんな居心地の好さ(ウユート)を手に入れたのか、よくわかってない。

 ところで、われわれをどこへ移住させるつもりなのか? 噂だと、ベールゴロドというどこか知らない町らしい。そこの郊外のバラックが資本家たちの住まい。要するにバラックに収容されるのだ。

12~13世紀ごろに存在したとされる古代ルーシの町。正確な所在地は不明。

10月4日

 水彩画の短編『荒野』。秋、秋播き冬麦、縞々の頂き、コローワの丘、晩秋。ジャガイモの収穫、夕焼けに轍(わだち)が光り、やがて無事に残った〔伐採されずに〕カエデの林も燃え尽きて……ただただ静寂。『はい、そら!』『どう-どう!』(荷馬車)、旅人の後ろ姿。

 きのうの深夜、車輪が盗まれた。いよいよ来たなと思う。まったく、『狼(泥棒)と暮すには、狼のように咆えるしかない』か。

10月6日

 留守中(きのうは追い出されないために奔走していた)に〈立ち退き命令書〉が来た。
 きょうミシュコーフのとこへ行ってきた。野ウサギはみな逃げおおせた。『これまで野ウサギを追っかけてきたが、今じゃおれたちが野ウサギだよ、おいウサ公、おまえたちゃいいな、みんな逃げたし、食糧の心配もない。見ろ、どこも草だらけだで、とても食い切れねえや!」

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