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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 11 . 11 up
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8月27日

 解決すべき問題は二つ。その第一は、いま自分は彼女から離れて、わが旅の興味深いエピソードを眺めるように、来し方を振り返ることはできないか? それともこのまま行き着くところまでずるずると行ってしまうのか? 第二の問題はどうすれば彼女を〈世に出す〉ことができるかだ(アレクサンドル・ミハーイロヴィチは見ていて可笑しいほど彼女を教職に就けようと躍起になっている)。

 ああ愛しい人よ、きみは正しい。情欲は二人の愛のいちばんの核心ではないのだ。われわれを引き合わせた第一のものは、きみにしても僕にしても、本当の彼(彼女〔完全な彼女?〕)がいつか現われるのを――それはどこでも出会えるけれど百パーセントは献身できないベターハーフ〔ではない誰か〕――いつもいつも心ときめかせながら生きてきたその熱い思いなのである。時が流れて、ついにある日……その人が、それらしき女性が現われる。はたしてこれが〈その人〉なのか?

 彼女が夢見る人(イデアリスト)を愛したのは、自分の中の赤裸々というか、むき出しの欲情を恐れていたからだ。イデアリズムの衝立の陰で、秘かに、自分のためにもうひとつ別の〈生活〉を探し求めていたのだ……

 また思い出が甦る。婚礼の家〔前出〕のテラスの柱のそばで、彼女が言ったこんな言葉――
 「あたしが恐れているのは、束の間あなたはあたしに夢中になっている〔だけかもしれない〕ということなの」
 「一時的な恋着にすぎないって? 束の間……、そうか、そうかもしれない。でも、僕は、今夜きみが何かが因で死ぬようなことがあれば、あしたにはきっと僕もあとを追う」

 あるときソーニャが、本当にあなたはこの世でたった独りきりなのねと言った。それはわたしが自分の話をしたときのこと。自分は一緒に住んだ女性の手にも足にも一度もキスなどしたことがないと言ったあとに、彼女が洩らした感想だ。性交は禁欲的な(没個性的な)行為であって云々……

 最後に告白したとき、こちらが――『僕を愛している?』と言うと、『愛してるわ!』と彼女は答え、そしてさらに『ねえ、いいこと。あたし、あなたの運命の女なのよ』と言った。わたしは訊いた――『ということは、これで終わりじゃないんだね?』――『ええ、終わりじゃないわ』
 きょう、自分は思った。いま彼女は大変だ、自分たちのことを彼に話せば、それだけ嘘が多くなるだろうし、かといって何もかも話すことなど不可能なのだから。きっと彼女は迷いに迷って困憊することだろう。結局われわれを救うのは、アレクサンドル・ミハーイロヴィチの家庭の守り神(セメイヌィ・ゲーニイ)かも。それは守り神(ゲーニイ)の愛の力の試練である。最悪の場合に備えていなくては。そのときはしっかりと腹を決めて行動する!

8月28日

 聖母昇天祭(ウスペーニエ)〔旧暦8月15日〕。
 エフロシーニヤ・パーヴロヴナとコーヒーを――残りものを食べながら。
 「もういい、やめておこう。食べないようにする。作家が死んで、死因が食い過ぎだと知ったら、どっかの恋するマダムが嘆くだろうからね」
 「若いお嬢さんならそういうこともあるでしょうけど、マダムはどうかしら? お嬢さんなら〔わかりますよ〕――激しい恋だから。でもマダムというのは自分の夫を騙しているわけで……嘘や犯罪に何もいいことなんかあるわけないわ」
 「どうして自分の夫を〔騙すんだい〕?」
 「たとえて言っただけです。マダムなんて言い出したのはあなたのほうですよ。マダムは奥さん、つまりご亭主がいるんです。なにが愛なもんですか。あるのは計算だけ……尻軽女は亭主が見ていなければ、誰にでも媚を売りますからね」
 こうしたやりとりは客観的生活(経済的必要性、妊娠した女)の声として面白い。

 彼女〔ソーニャ〕の言葉――
 「あたし、こんなタイプを研究したわ。この手のタイプに出会ったら、心の中でこう言うの――『ああこの人だわ、あたしが欲しいのはこの人。これはあたしのもの!』。あなたがそのタイプなのよ。『僕が恋するのは若い娘で、バルザックの年増じゃないんだ』とあなたがおっしゃったとき、あたし、こう思ったの――『まあそれもいいでしょう。でも二日と置かずに、あなたはあたしのものになるわ』。あたしのゲームはそのとき始まったのだけど、気がついたらあたしのほうが夢中になってしまったわ」

 何にでも腹を立てて、〔二人が〕別れる日には、子どもたちに当たり、猫をほうり投げ、犬を叩いた。彼女のことでイライラが昂じて、手がつけられなかった。それは彼女が夫への愛や結婚生活の話をしたからだ(たとえば、寝るときは互いに抱き合って寝るとか、それでも子どもはできないが)。そんな話をしながら、自分とも抱き合っているのだ……同時に自分は、自分を苛立たせる彼女の二心がいやが上にも悲劇を助長し、彼女は彼女でそわそわし絶えず動揺していることに気づいていた(二、三時間ごとに顔が変わって、なんだか別人のようになった)。

 公園がいかにも若々しい。そうしているうちにも、ぶち壊されたロシアでは、先祖(ロード)の守り神が自分の王位を確立しようとしていた。ロードの守り神にとって国内戦争も、無法〔不法、無権利〕も、飢餓も、コレラも、まったく関係なかった。二人が坐っていたのは、美しい公園の、春に百姓たちによって無体に伐採されたトネリコ、白樺、トーポリが死体のように転がっている場所だった。日が当たって少し赤みを増した雪は、まるで切株から流れ出た血のようである。その雪の上を、屍肉を喰い過ぎた鴉たちが酔っ払ったみたいにふらふら歩いていた……今やどの切株もしたたかな薄紫のツリガネソウに覆われている。そしてその上にすっくと勢いよくトネリコやトーポリや白樺の若木が伸びていた。〈若い公園〉の誕生だ! 分断されたこの国のあちこちで、われらが先祖(ロード)の守り神が〈いのちの水〉をじゃぶじゃぶ振りかけては、心ない〈人間ども〉が自然に押しつけてきたのとは違った法則(ザコン)のもとに生活を始めていた。われわれ二人もまた、男女の理想的な友情の覆い布の下で、互いの気持を確かめ合いつつ、手へのキスから足のキスへと歓ばしきロードの守り神がつけた小道(みんなの道)をいつものように〈結果〉に向かって歩を進めていたのである。

 淫蕩はその本質上、純粋にして聖なる性交のポエジーだ。
 聖なる(禁欲的なる)セックスは没個性的(雄が雌に背後から近づくのは、〔雌の〕顔などどうでもいいからで、男はよく――『嫁の顔なぞ気にしちゃいない。あばたづらとだってやっていけるさ』などと宣う)である。
 女や雌に対する単純かつ自然な関係は、地表を飾るもの〔見てくれ〕を嘆賞する力しか与えずにわたしを解き放った。そこに〈人間(チェラヴェーチナ)〉が介入することはなかった。だが、このまま最後まで(死ぬまで)とはいかなくなった。しっかりと顔を見つめて(つまり背後からではなく)近づいていくべき相手が、女が今、自分の目の前に現われたからである。
 父も母もそんなふうに生きたし、誰もがそんなふうに生きているのだ。

 これまでのわがヒロイン(生活においても書くことにおいても)は未開人だったが、今度はそうでない――複雑で厄介な女である。
 課題。ロマンのスチヒーヤ、その悲劇の進行にブレーキをかけ、暴走する感情を冷静に抑えること。リズム、韻律、分析(アナリス)。
 緊急の課題。向こうの二人の〈取り決め〉を注意深く見守り、その出方を待つこと。考えられる展開は、彼女が夫にわたし〔プリーシヴィン〕を愛していると告白し、その場合、その愛には彼女自身にとって〈より理想に近いもの〉があるので、彼女が夫の忠実な妻であり友であり子どもたちの良き母であることに些かの支障も来たさない云々。彼の側の最もありそうにないのは、即、絶縁〔離婚〕であり、最も可能性が高いのは、彼が自分の意のままにこの愛を解決すること――わたしに対しては自由を拘束する友情の強化、彼女に対してはわたしの内なる〈フランス人〉の暴露だ。彼に対するわれわれの強い憐憫、同情その他を慮るなら、彼が思い切った行動に出るとは考えられない。かくして過去はすべてセミヴェールヒのトゥルゲーネフふうの悲哀(それこそまさに彼女の天稟!)のヴェールに覆われてしまうだろう。
 危険なモチーフ。1)その如何ともしがたい年齢。2)彼女の家庭における優位。もっとも、彼女はその〈形而下的なる〉ロマンに終止符を打って、理想主義者の嫁になることができたので、その意味では、わたしとの関係は多くの意味を含んでいる……

 きのう、二人のランデ・ヴーの場所だったところをまわって歩いた。二人が馴染んだ四本のトネリコの木(四兄弟)の公園にも行った。エンツォーヴォの急斜面、セミヴェールヒの樫の群落にも。たわわに赤い実をつけた明るく清純なナナカマドを至るところで目にした。

 アレクサンドル・ミハーイロヴィチに言おう――自分は彼女を愛している。どんな結果をもわが身に引き受けるつもりだけれど、自分のこれからの関係については、そちらが(彼女も共に)提示することすべてに同意するつもりである、と。そうだね(ヤースナ)、ニワトコ(ヤーセニ)?

 彼女の言葉から――
 「あなたはおっしゃったわね、自分にはあまり病人たちへの同情心がないって。でも、もしもあたしが病気になったら、あなたは看護婦みたいにあたしのそばに付いててくれるでしょう? 自分は移り気な、ぐらぐらした人間だとおっしゃるけど、あたしには少しもぐらぐら揺れずに何でもしてくれるのでしょう?」そしてさらにこんなことも言った――「あたしはね……〔?〕」

 彼女は言った――
 「ここには、あなたとの〈聖の聖なるもの〉があるの。それは誰にも、彼〔夫〕にも話せないものよ。彼との間にもそんな、あなたに話せない〈聖の聖なるもの〉(秘密)があるわ。だから今、あたしにはそのように〈生きる〉義務があるんです――あなたにも秘密の、彼にも秘密の……
 変な話ではないか。〈聖の聖なるもの〉を抱く心に、同時に罪が生まれるとは? どうしてそんなことになるのだ?

 夕方、わたしたちはエレーツの通りをぶらついた。彼女に日本の話をした――ねえ一緒に日本に行こうよ。彼女は声に出して笑った。
 「ああ、あたしの坊や、あたしたち、どこにも行かないわ。あたしはサーシャと暮らすんだもの、あなたはお客さんなのよ」

 愛をこんなふうに捉えるなら、わが民衆(ナロード)がいかに正しくいかにまともであるかということに思い至るだろう。わがナロードは愛を善悪二つに分けて、われわれのような恋愛(ロマンチックな愛)を悪とし、理解という名の愛を善とする。ただしその境界は曖昧で、よくわからない。ロマンは始まっている……われわれのロマンは互いに理解し合うことから始まったのだ。二人は出会い、互いの心を知り、二人の優位を意識する。つまり、この世には自分たち二人しか存在せず、自分たち二人だけが秘密を発見したと感じている(二人揃っての気狂い沙汰)。
 いやそうではない。彼らは貧しく哀れで、何ひとつ理解しない人たちだ。彼らがその理解において自分たちの特異と優位のように思っているのは何なのか? それは彼らが思いがけず足を踏み入れた先祖(ロード)の守り神の畑(ニーワ)であり、そこでは人と人の間で分割などは行なわれず、すべてあけっぴろげで、着物も壁もなしに暮らしている。彼らはロードの守り神の土地に足を踏み入れながら、あらゆる敵対する物質(マテリヤ)の部分につながる人間として、まだ自分を忘れることができずに、それを自分の個のせいにしようとする……いや、そうではない! 昔の賢者、その彼らの(われわれに近い)子孫たちやわが祖父母たちは、愛の畑(ニーワ)に生きているのは没個性的なものだけであることを知っていて、自分の娘たちをよく知りもしない男に嫁がせるのである。彼らには正しい計算〔打算〕があった。幸福を求めんとするその意志が自分の幸福の躓きの石になる。それでも幸福がやって来るなら、それは〈自分の意志〉を避けてやって来たということである

「日記」の(二)、1914年1月12~13日を。

 若い理解者たちが互いを見つけ合う現代においても、彼らが発見するのは、みなが思うような〈自分自身〉ではなく、〈運命(スヂバー)〉の法を執行しながら、われらが先祖が生きてきた、平凡でありきたりな陸地(ベーレク)なのである(それゆえ自然は今、こんなにも美しく見えるのだ)。

 二人の関係がどういうものになるのか、自分にはわからない。こうしたカップルについてはいろんなときにいろんなことを考える。彼女は、ときに肉欲に負けることがあっても、最後にはその内なる〈聖の聖なるもの〉の本質を究明するだろうし、自分の女の権利を発見し擁護する(きっと自分もそれに手を貸そう)ことになるだろう。夫もよくそれを理解して、われわれに心をひとつにする可能性を与えるにちがいない。ときどきその可能性を思って、ちっぽけで低級で気まぐれな戦いの場にわれわれ三人を登場させみたりする。ああ、しかし自分にはまだ、理想と意味あるものとして(ままよ)自分自身が創造した女性像が残っていて、それを通して自分は今も、自分の人生の大きな部分を理解することができるのである。これまで自分は、わが家の人付き合いの悪さはひとえに妻の至らなさにあると思っていたが、そうではない。問題は自分自身にあったのだ。今ではそれがよくわかる。自分は妻に対して獣のように(心根やさしい獣だったかもしれないが)、いや何と言おうと獣は獣なのである。わたしは愛する人への奉仕の喜びを――愛とは愛する人への奉仕であるという心からの喜びを一度も味わったことがなかったのだ。

 エフロシーニヤ・パーヴロヴナは自分がいろいろ気遣いだしたせいで、ずいぶん元気を取り戻したが、こうした態度の変化を自分に吹き込んだのが、彼女が〈みだらな女〉、〈仲を引き裂く女〉、〈嘘つき〉などと見なしていた当の女〔ソフィヤ〕であることには気づいていない。これが単なる見せかけであることはわかっている。でも、どうしたら彼女に本当のソーニャを知ってもらえるのか、さっぱりわからない。

8月29日

 今ではもう気軽に友〔コノプリャーンツェフ〕の前に顔を出せない。家で電話が鳴るのを待っているしかない。会って何を話すのか? 嘘はつけない。とても堪らない。言い訳を、最後まで? それはできない。解決法は一つしかないようだ。「歓ばしき朝(あした)まで」、関係を絶つことだ。

「歓ばしき朝まで」――死が訪れるまでの意。ニコライ・カラムジーンの詩「墓碑銘(1792)」に「わが愛しき屍灰よ、歓ばしき朝まで、安かれ」。

 まったく、エフロシーニヤ・パーヴロヴナと一緒にいても、10分もしないうちにソーニャのことを思い出して、〔そっと〕やさしい言葉をかけたりしている。なのに、エフロシーニヤ・パーヴロヴナとわたしの仲がこんなに良かったことはなく、こんなに楽しく暮らしたこともないのだ。

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