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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 07 . 06 up
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 婦人問題は偉大な芸術家たちによってすでに表現し尽されている。巨匠はミロのヴィーナスの像を造る過程で、男女の組成分量をすべて試みて、ついに絶妙の、ハーモニックな配合を発見したのだ。すなわち、女性は元のままでも、それは行動する女性――ただ身を焦がしてまわりを照らすだけではなく、昼の明るい意識をも混濁させない女性なのである。
 われわれの婦人問題は選れた芸術作品として、また未来への志向として受け入れられているけれど、しかし目の当たりにしているのは、絵具の下手な混ぜ合わせと中途半端な様式、つまり、ヴィーナスの顔がいきなり女商人やそれの亭主に変わったりして、なんともかんともそれは凄まじい変化を見せつける。
 婦人問題の醜い側面は、新しい女が身内に多量の男性服薬量を摂取し過ぎて中毒を起こし、その意識の光を浴びて、神秘的女性的なるものを残らずさらけ出すことだ。裸の、動物的で淫蕩な(日曜ごとに)……(その女は)痛みを恐れるあまり、高度の愛を引き合いに出すことでおのれを正当化する。痛みを、犠牲を恐れて……触ってみたいし棘は痛いし……叫び声、突然叫びだし……頭に思い描いた痛みから叫び声を発するのである。

 短編のためのノートの続き――
 彼の妻は〈翔んでる女〉の羽で身を飾って(夫に気に入られようと)町工場に就職、そこでヒロインを演じている。サーモンと瀑布。『サーモンじゃないね、鰊だよ』と、セルゲイ・ペトローヴィチ。『尖った棒ぐいを一発ぶち込んでやったら、あとはいくらでも勝手に突き刺さってくるさ……』――『言っとくけど、あたしは自由な市民よ!』。このテーマを発展させる。ナターロチカは独りぼっち!
 アファナーシイ・イワーノヴィチとプリへーリヤ・イワーノヴナが念頭にある〔ゴーゴリ『昔かたぎの地主たち』の主人公夫婦〕。ふたりは悲劇的な瞬間まで一緒だった。妻のプリヘーリヤは、自分が〈翔んでる女〉でないこと、先頭に立つような人間でもないことを承知している。

ニコライ・ゴーゴリ(1809-1852)の中編小説集『ミールゴロド』の一編。日記でも作品でもこの小品への言及は多い。『森のしずく』(「交響詩ファツェーリヤ」所収の一編「歌うドア」には、こうある。「日差しの中をあちこち飛び回る蜜蜂、身軽に飛んでいっては、重たい花粉をしょって戻ってくる――そんな蜂たちの巣箱を眺めていると、ぴたりと呼吸(いき)の合ったヒトとモノ(老夫婦の家のドアみたいに、歌をうたうまでにヒトに馴染んでしまったモノ)の世界もたやすく想像できる……。養蜂場に行くと、わたし〔プリーシヴィン〕はいつも、昔かたぎの地主たちのことを思い出す――ゴーゴリにとって彼らは何だったのだろう。どうやらゴーゴリは、おかしな老夫婦と〈歌うドア〉のうちに、地上における人間の、調和に満ちた、完全な愛の可能性を見たようである」。

 個々の女性が何を求めているかを知らずに、〈婦人問題〉を論じてはいけない。

 わたしをローザノフに近づけたのは、思想的空っぽ(脳の崩壊)の悪夢に対する恐怖と、その空っぽを救ってくれる自然への感謝。

 〈翔んでる人びと(前衛)〉を創造へと運び去る波は、その引きぎわに、創造を夢見つつ来るべき海へ顔を向けている多くの者たちを常に置き忘れるのである。そうした者たちの中からギムナジウムその他多くの学校の教師が生まれる。そうしてそこにはいつも何かしら外因が存在するようだ。邪魔をする何かと支える何か。気がついたときには、引き潮に取り残されている。追い散らされる白い波頭。波の行く先はもう神のみぞ知るである。

 Л(男、不詳)がЖ(女、不詳)とくっついたのは、弱さのせいだ。男が弱みを見せたとき、女は男をわがものとした。それは法則――女が撃つアキレスの踵。彼女の力はその踵をよく知ることにある。知は力なり。男はときに非常に雄々しい、あらゆる点において非常に尊敬すべき存在であり、その並はずれて奇妙な結びつき(情交)でみなを驚かす。だが、踵のことさえわかっていれば、驚くようなことは何もない。たいていこの踵を通して、健全性やこの先ずっと生きてゆく能力も生ずるのだ……
 ここ、この男の弱点にこそ女の力は存する。
 妻帯した詩人。よくあることだが、〈生活)への完全な埋没。(プーシキンは忘れられて、おいグリーシャ〔ペテルブルグで知り合った同郷人(エレーツ出身者)、ホテルのドアマン〕、プーシキンて何だっけな?)。それから、傲慢なるもの思想的(観念的)なるものをことごとく呪って、その〈生活〉を聖なるものとして祝福するときがある。おそらくそれが極め付きの傲岸不遜であって、アンチキリストに(ローザノフみたいに)向かわせるものこそ、それ。聖書はローザノフにとって単なる仮面にすぎない。
 聖書のポエジー家庭のポエジーであって、聖書そのもの家庭そのもの、ではない。まさに然り。ローザノフの家庭は身もひっちぎれそう、罪業のコレクションだ。  しかし、実際にインテリの、つまり知的(一語判読不能)には何かもっと大きな罪――自殺という罪がある。それで自殺とローザノフ(これらは平均的な人間にとって、同様に恐ろしい二つの極)を取り上げれば、大論争になってしまう。だからこそローザノフを分析しなければならないのだ。中庸というのがまるで無い――自分を殺すか、それともすべてを受け容れるか。
 知識人たちはローザノフを、健全な大衆が彼を憎悪するように憎悪している。
 社会における革命の挫折はまさに画期的な出来事だ、心理学的に。ローザノフとその著作『理解について』と『孤立せるもの』。ファウストとマルガレーテ。

 

 『ローザノフのマルガレーテ』。耳たぶのない、傷心の天才とでもいった顔つきのその神経質な紳士と山のごとき麗しきドイツ女をレストランで見かけるたびに、なにやら秘密めかした自嘲的な声――『ドイツ女と暮らしてるんだよ』という声が聞こえてくる。わたしは思い出す――ローザノフとそのマルガレーテ。巨大なヒップの持ち主である聖書の女。『理解について』に粉骨砕身のローザノフはファウスト、聖書の女はそのマルガレーテだ……がそれは、夢を持たぬローザノフ、裸のローザノフだ。裸のマルガレーテだ。
 ローザノフ――狡猾によって乗り越えられた弱さ。あらゆる人を――自らを、そして妻をも子どもたちをも欺いた男。

text - 太田正一  //scripts - Lightbox PageDesign - kzhk


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