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プリーシヴィンの日記        太田正一

2012 . 07 . 01 up
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3月29日

 土地と自由(ゼムリャー・イ・ヴォーリャ)。
 「さあ、何か言ってくれ、教えてください……」
 「〔言うべき〕言葉がないんだよ。それを言っちゃお仕舞いなんだが」
 「じゃあどうすれば?」 
 「どうしていいかわからない。話すより自分の心に耳を傾けるべきだ」
 「しかし、とにかく何かする必要があるでしょう? なぜ耳を傾けてばっかりいるんです? 行動を起こさなくちゃ。あなたはなぜか、書くことで行動を起こしていると思っているようだけど、おれたちはもうまる1カ月も喋りっぱなしだよ。この1ヵ月の間に何がなされました? いったい何が明らかになりました?」
 勇気を出したまえ、作家たちよ。このカオスから人間の顔が見えてきたら、そのときはペンを取る、だって? 見えてきたら、だって? そのときはもう手遅れなんだよ。いいですか、恐ろしい真実はとうに幕を下ろして、すでに心地よい嘘が虚偽が始まってるんだよ!」
 いま破滅の道をふらふら歩いている。またあのときみたいな、言葉を持たない原生動物が姿を現わしたのだ。自分はそいつの中に身内〔自分に近いもの〕を認めて、また痛みと歓びを分かち合おうというのか。


自由(ヴォーリャ)
土地と自由地主屋敷(ウサーヂバ)
百姓たちの分割土地分割
土地の力惑星文化の力
ミーチング 言葉による消耗
カオスの軍勢スキタイ無力な言葉
カオス 空々漠々
火、血
浄化


子どもたち
ルーシの狭さルーシの広さ〔一語判読不能〕(ヨーロッパ)
関係〔絆〕
決裂ニコライミハイルセルゲイ
分割(レーミゾフ)引き裂かれる者(ラズームニクの形象)


 場――舞台はオリョール県の地主屋敷。時――1917年の早春から秋まで。
 登場人物――マリヤ・イワーノヴナ・プリーシヴィナは変わりやすい天気のような、強く、万事に高圧的な老婆。機嫌のいいときはやたら気前がいいが、なかなかのケチ、猜疑心が強い。怒り出すかと思うと、急におとなしくなったり(死期が近い)。要するに気紛れな性格の持ち主。
 リーヂヤ・ミハーイロヴナ・プリーシヴィナはその娘。オールドミス。母親とたえずぶつかるが、内心とても〔母を〕愛している。その役どころ――悲劇的に破断する親子同士姉弟の絆。
 ミハイル〔本人〕――母のお気に入り。母の期待であり、その太陽的側面(ゴーリキイの形象)。医師。
 ニコライ――ミハイルの兄、母親の家事経営に振り回されている。小さなことにいちいちこだわる母親の性格を受け継ぐ(レーミゾフの形象)。独占的なモノ収集家〔何でも集める〕。
 セルゲイ――弟で作家〔訳者注・実際はセルゲイが医師、ミハイルは作家〕。社会主義者(チェルノーフ――ラズームニクの形象)、原稿書き――言葉、未来の左派エスエル。
 第一幕。食堂で母親が娘とテーブルを挟んで言い合っている。ミハイルと自分のこと、戦争、土地、遺言をめぐって……バルコニーが見える。その向こうはすでに春景色。農場の管理運営。寒暖計。バルコニーに百姓がひとり。母親は気分がすぐれない。ソファーに坐る姉。喧嘩どころではない! ……やがて母の死。一家はパミックに陥る。ただあたふたして、気がつくと舞台には誰もいない。壁と壁の間に置かれた姿見。使用人のピョートル・ペトローフ。ペトローフは姿見にカヴァーを掛けると、あちこちに電報を打つ。

これはプリーシヴィンの自伝的長編『カシチェーイの鎖』の構想を綴ったメモの一つ。ひとり主人公の運命ではなくミクロコスモスとしての一家族の生活を登場人物たちの対話を通して描く。個人の運命から集団の運命へとアクセントを移動していく。弟セルゲイの「チェルノーフ――ラズームニクの形象」とは、社会革命党(エスエル)活動家のチェルノーフの右傾化、同じくラズームニクの左傾化を表わしている。

3月30日

 歴史の隙間に。
 ロシア再生への真剣な渇望(志向)が起こるとき、わたしはすべてを(もしくはほとんどすべてを)理解し、忘れ、許すことができる。だが今、ひとりの大作家――胃潰瘍に苦しむレーミゾフが、藁屑の混じったパンをそれも一日たったの8分の1フントしか摂れないでいるときに、(たぶん)独裁者のレーニンはスモーリヌィ〔十月革命の司令部〕で食いたいものを食っている(何でも注文できる)のだ。このことは決して忘れまい――たとえ独裁者が救済者であったとしても。自分は歴史の隙間に、その人類の〈救済者〉の、また庶民の日々の暮らしぶりに目を凝らす。教会暦がいかなる歴史を編もうとも、自分は自分の主張を固持しよう。人間はずっと豚同然だったし、その救済策も豚のそれだったのである。
 作家たちよ、来るべき春のナイチンゲールと鈴蘭を信じてはいけない。それは騙しだ、瞞着なのだ! ナイチンゲールも鈴蘭もあとに続く者たちの婚礼用に取って置くがいい。われわれは柩に身を横たえて、ただ板の隙間から覗き見するしかないのだ。歴史の人間的な関係(つながり)がついに断たれて、のちのちその屍の上に――あたかも永遠に救済されて不滅と化したるがごとき屍の上に鈴蘭が生えて、馥郁たる薫りを漂わせているにすぎないのだ。
 経済人=マテリアリストたちとさまざまな唯物論哲学者タイプの頭脳労働者のエンジニアたち。底なしの奈落の上の歴史。頭の中に描いた橋梁と上部構造。架設したそんな橋を人間は、顔(個性)のない動物たちを追い立てて無理やり渡らせ、ずたずたにされたヒトの命の部分と部分とを繋ぎ合わせると、またさらに追い立てて、再び動物の群れを人間の群れに変えようとする。だが、われわれ凡なる人間は、決して忘れることのできぬものを、そう、屍を――見たところ永遠に救済されたかのごとき累々たる人間の屍を、歴史の隙間から見てきたのだ。この絶望はわれわれにいかなる力も付与しない……

 救いの船。ソロモンたちは群れやその他を追い立てて、その橋を渡らせようとしている。深夜、声が聞こえてきた――あいつを磔(はりつけ)にしろ、あいつを磔にしろ。大いなる闇がやってきたのだ。
 船は水がなくては生きられない。船は説教を始める――『個人の利害など忘れろ!』
 獄窓の日々は磔の闇の感触。

  山羊も羊もともに一本の鞭で追い立てられた〔マタイによる福音書第25章32-33節〕。それら追い立てられた山羊と羊の群れ(寄せ集め)をコムーナと称した。
 しかし〈磔〉なんて伝説じゃないか、絶望の棘にすぎないじゃないか。裸の土地よ、もしおまえの上に鈴蘭が生えてきたら、天はあすにもみなにそれを配ってやれるじゃないか。
 明かりの下で〈磔刑図〉に祈るのも結構だが、もし明かりが消えてしまって、その絵がどこに掛かっているのかわからなければ、そんなものが本当に存在するのかどうかさえわからなくなる――それこそ今われわれが置かれている現状だ。そんな闇の中でどうして生きていけるのか?
 われわれが過去の苦悩によって救われることはない。過去との繋がりがすべて断ち切られて、暗黒の深淵が口を開けているのだ。とても渡るどころでない。今はヒトの顔が見えない。
 とにかく起こってしまったのだ! 闇が深くて何も見えない。起こったことについてはいずれ、神が磔にされたのだと語ったり教えたりすることだろう。でも今はもう起こってしまった。闇より濃い闇に包まれて、何も見えない。どうなと勝手に生きていけ。
 受け容れなくてならないのは、真っ二つに裂けたのが神殿の垂れ幕〔マタイによる福音書第27章51節〕などではなく時代そのものであったこと、そこばくの時(数語抹消)を信仰も希望も愛もなしに生きたわれわれこそその生き証人であること、何もないそんな「空無の間〕があったこと、それでその空無が強者にあっては獲得物(蓄財)、弱者にあってはもっぱら餌漁りだったこと――そうした事実をすべて受け容れなくてはならないのだ。
 せめて生者と死者を最後の審判に呼び出す大天使アルハンゲルのラッパでも聞こえてきたらいいのだが! でもそんなことはなかった。ラッパは聞こえてこなかった! 人びとは古い着物を縫い直した。コーヒー滓と籾殻でレピョーシキを作ることを思いついた。

 怠業(サボタージュ)のせいで2ヵ月も獄中にあったセルゲイ・ゲオールギエヴィチがやってきた。
 〔以下は書き足し〕
    〔もうこれ以上〕約束できないとでもいうように、電気がすべて消えてしまった。われわれは完全に闇の中に置かれた。マッチを探すのも蠟燭に火をつけるのも困難になった。誰もが喋りだした。誰かがこんなことを言った――
 「今ここ〔ロシア〕は、酔っ払った百姓が女房をめちゃくちゃ殴って気絶させたような状態だ」
 〔補足〕――酔っ払った百姓=インテリゲンツィヤ。
 「地上で燃えてた灯火用の木っぱを吹き消してしまったんだね。だから今ここには何もないんだ。あるのは闇だけ。キリストが磔にされたときもそうだったんだろうか。しかし……しかしゼロからでも、闇の中からでも、何かが飛び出してくることはあるのかな、さあ教えてくれませんか?」
 わたしは答える――
 「太初(はじめ)、大地には水もなく空虚だったが、やがて無から創造が始まったんだ」
 「誰が始めたんだろう?」
 「神(ボーフ)だ言われてるが」
 「あんたは信じてるの?」
 わたしは何も言わない。
 「どうして黙っているんです?」
 「〔言うべき〕言葉がない。何かが起こった。とたんに時〔代〕の繋がりがなくなり、地上を闇が覆ってしまったんだ」
 「キリストを磔にしようとしているのかも」
 「そういうことはいずれ12人の賢いソロモンが解き明かすだろうが、でも今は何もないんだ」
 「あんたは信じてるのか?」
 「きみはどうなんだ?」
 「あんたは信じてないんだ?」
 「じゃ、きみは?」
 「おれは信じてるけど、でも、信じるべきじゃないような気がしてる。信仰というのは、まだ略奪されてない財産の残りのようなものかな。身ぐるみ剥がれてしまった人間は、今もそのことが理解できないで、いやまだ何か残っているはず、そう思って手探りしてるんだ。おれは自分の信仰を恥じてるんだが、あんたはどうなんだ?」
 「わたしは苦しんでいる」
 わたしの信仰は言葉では言い表わせない。
 この信仰の行き着く先は来るべき世の新しい創造的信仰である。
 「もうすぐわれわれは掻き集められて、指定の場所に豚の糞を運ばされるような気がする。その場所から植物が芽を出し花が咲き誇る。それを見に子どもたちがやってくるんだ。そしてそこの脇の畜舎からわれわれは彼らの様子を眺めている。するとひとりの男の子がわたしを呼んで――『お爺さん、この花は何ていうの? なんてちっちゃな葉だろうね!』わたしは教えてやる―『ああそれは〈天なる父の花〉、それでこっちが〈神の子の花〉、これはね〈〈聖霊の花〉というんだよ』。男の子はまた尋ねる―『ママの葉はあるの?』―それは、ほらこれだ。パパの葉もあるよ』―『わあ、きれいだねえ!』と男の子は驚く。そこでわたしも、この世に生きるのは素晴らしいことだと言ってやる、そう教えてやるつもりだ。男の子は小道を駆けだす。わたしは小屋に戻る。友よ、セルゲイ・セルゲーエヴィチよ、わたしはこの時代をそんなふうに理解してるんだよ。ロシア人たちは畜舎の掃除に駆り出されるだろう。なにせそこは糞尿だらけだから。わたしは徹底的に掃除しなきゃと思っている。それで、そのときどうしてもしたいことが一つだけある――それは、お爺さんになってもせめてこの畜舎から小さい者たちを眺めていたいということなんだ。

 セルゲイ・ゲオールギエヴィチは訊く――
 「今どんな本を読まれてますか?」
 「アナトール・フランスの『神々は渇く』を読んでる。きみはまだ読んでない? 凄い作品だよ。フランス大革命時代を描いてるんだが、われわれのと同じ尻尾〔並んだ列の最後尾〕や行列がじつに正確に描かれている。そして牢獄にはやはりわれわれのとこみたいに無実の罪で画家たちや賢者たちが入れられている。とにかく驚いたんだが、民衆に対する作者の思いやりの深さについついにっこりさせられた。わたしはこれを子どものために書かれた本のように読んだよ」
 「そうそう」とセルゲイ・ゲオールギエヴィチ。「おれもそんなことを思ったことがある。おれはドストエーフスキイを読んだけど、たとえばあれ、あのスヴィドリガーイロフ〔『罪と罰』の登場人物〕、あれは学校じゃ恐ろしい奴だと教わったんだが、書いた本人もなんだかかきながら震えたとかどうとか、ね。でもおれは、なんていい人間なんだろう、だって若い娘を誘惑したあと、帰してやって、自分の全財産を自分の恋人にやっちゃったあとにピストル自殺するんだからね。なんていい奴だろう。今どきどこを探したってあんないい奴なんかいやしない。あなたは言われましたね、アナトール・フランスにも立派な人間たちが描かれているって」
 「とても立派な人間たちだ。ヒーローだけじゃない、群衆自体がそうなんだ。たとえば
作者が路上の群衆について語るところ――彼らはあっちこっちの宮殿に押し入って略奪を働いたが、そうした行為を内心致命的な犯罪だと思っているにちがいない、と。読みながら羨ましくて仕方がなかった――どうしてフランスの作家は自国の民をあんなふうに語れるのかなってね。
 セルゲイ・ゲオールギエヴィチは考え込んでしまう。なんとも辛そうな表情だ。それから小さな声で――〔訳者の注・以下記述なし。書かなかったか消失したかは不明〕

4月1日

 永年仲良くやってきて、何でも――それこそ天与の理性も心もすべてを分かち合った親しき友人同士が、これという理由もなく、まったくつまらぬことから決裂してしまう! きのうまで互いに友と呼んでいた相手、彼がいなければ生きていても意味がないと思われていた人間が、もういない、必要でなくなったのである! よくあることだが、きのうまでほとんど天才、あるいは女性の場合は貴婦人(ダーマ)とも思い込んで――その瞳を見つめただけで何でも赦し、そのたびに『ああなんという眼だ!』とそればっかり繰り返してきたというのに、きょうになったらその天才を馬鹿となじり、通りを行くその魅するがごとき瞳をちらと見て、なんだいあれは。いやに脛の長い鳥みたいな女だなどと憎らしげに呟く始末。〔訳者の注・いったい何があったのか詳らかにしないが、相手はレーミゾフ夫妻か、あるいは構想中のモチーフ?〕
 手っ取り早く結ばれたこうした親愛この上なき人間関係は、ちょっとした風のそよぎで吹っ飛んでしまうと、しばしば毒ガスの泡に一変する。まさにこれはわれわれ人間の生活のうわっつら、泡末(うたかた)そのものではあるまいか。

 〈きのう〉の分析。第一の理由。賢い女性たち。確かに目の前にいるのは女だと感じながら、親しい友人同士のように会話を交わし何かを論じ合っているのに、同時にどこかで女と思っていない。と、急に相手が、混じり気なしの女の気持ちで突進してくる――まるで出水。堤も何も決壊してしまう。忽ち二人の関係はお仕舞いだ、こんな女見たことがない、と。
 決裂の第二の理由。悩みをそうあからさまに見せつけられるのは、〔自分は〕我慢できない……
 反対にわたしは、勝利と美による得意な気分、押し隠した苦悩と悲哀を支配する喜び、不運不幸なおのが精神に被らせた王冠の輝きが好きである。自分はレーミゾフをそのような存在として敬愛してきたのだが、ここ何週間もぶっ続けにその彼から聞こえてくるのは、同じことを執拗にせがむ小うるささである。なんだい? どうしたんだ? それで今では、自分の気持ちも白いコヴリーシカ〔蜜入り菓子パン〕を一つ買えるくらいの偽りの心でつくろった恨みと嘘の甘味が残っているだけだ。もううんざり。いつまでもこんな感情とかかずり合っていては身が持たない。

 理由はもっとある。他人(ひと)と会うさい、おのれの荒野に積もりに積もった悲しみが出水のように溢れて土手を越えてくる。だからこそわれわれは一時的な楽しい同盟(付き合い)を結んでいるのだ。でも我に返るときが来るだろう。もしそれをむこうが理解できなければ、この関係は跡形もなく毀れてしまう。自分の人びととの付き合いを訳わからなくしている主たる原因は、所定の日にきちんと自分が訪ねていけないことにあるのである。

 飢餓物語のテーマ――将官級の役人とちっぽけな役人イワン・ポリカルポーヴィチ。高官の妻は新聞を売っており、夫は筆耕の仕事をしている〔訳者による注・二人とも怠業者として処罰された〕。こんな不幸の時期にも、イワン・ポリカルポーヴィチはかつての上司に対して敬意を抱いていて、ときおり真面目くさった顔をし、手に贈り物を抱えて、ご機嫌伺いにやってくる。迎える方には大歓迎とともに隠し切れない戸惑いとまごつきみたいなものが窺がえる(どう対応したらいいのか。なにせ両者の関係には何ひとつ共通するものがないわけで!)が、一方イワン・ポリカルポーヴィチの頭にあるのは、感激の一文字と、誰にとっても苦しいこの時代にささやかな自分の幸福を手にすることだけなのである。元上司の名の日の祝いにイワン・ポリカルポーヴィチは奥さんにずしりと重い金のブローチ(母の形見で、彼にとって最も貴重なもの)とケーレンキ(これだって大変な財産だ!)を持っていく。奥さんは嬉しくてブローチをみなに披露するが、同時に大いに困惑している。というのは、朝早くやってきたイワン・ポリカルポーヴィチがぐずぐずと居座ってついに一泊することになり、それで済めばいいのにもう一泊、さらにもう一泊と、結局、名の日の祝いが3日も続いてしまったからである。家族にとっちゃああああ堪らない!

4月3日

 もっぱら関心は権力の問題というインテリもいれば、創造的インテリもいる。権力と聞いてわれわれが理解するのは、それは寝ても覚めても権力のことが頭から離れないインテリゲンツィヤだ。今は革命の最中だから、彼らはその権力を、百姓たちが土地を分配するみたいに分配し合っている。
 権力を分け合うインテリも土地を分け合う百姓もあまりに似ているので、何が起こってもつい両者を見比べてしまう。
 百姓たちが分裂するのは土地問題がうまく解決されないからだし、インテリゲンツィヤが分裂するのは国家の問題がうまく処理できないからだ。
 すべてこれらは過去の罪障。いずれも罪の力。
 生きている無垢――アダムは罪を発しない〔無原罪〕。
 経営能力のある百姓が土地の共同分配をきっかけに零落していくように、創造的個性は囚人のように口を封じられていいく。
 ものを書きだしそれを天職と思うようになってから、自分はなんとなくインテリを憎悪するようになったのか、いや断じてそうではない! そのずっと以前から――夢中で人〔ワルワーラ〕を愛した〔ワルワーラ〕ときからだ。インテリゲンツィヤのすべての学校――バックル、マルクス、監獄、流刑、外国生活――を終えたとき、わたしはインテリゲンツィヤのうちに自分とは生まれも育ちも異なる特別な種〔人間の部類〕を見出した。そしてはっきりとわかったのである。自分に、ものを書き、それを通しておのれ一個を突き抜けて全人間的なものを発見しようとする使命感(天職)が見つからなかったら、きっと黒百人組にで入っていたかもしれない。だが、書くという行為は荷馬車の列〔遅々として進まぬもの〕の上を行く遠距離飛行のようなもの。したがってインテリゲンツィヤも黒百人組も自分とはまったくかけ離れている。
 自分が愛するのはロシアの片田舎〔熊の棲むところ〕、嫌いなのはヨーロッパの俗物=小市民ふうのならいと体制だ。
 今の自分は穴を追い出された熊といったところだろう。

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