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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 05 . 11 up
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1月19日(つづき)

 メレシコーフスキイと彼の取巻きたちのことがとてもよくわかる。信じている者、あるいは信ずることを強く願い、それと同時にこの会で本気で死人たち(死人も立ち上がるにちがいない、でも、それはいつだろう!)を説き伏せたいと思う人たちの苦しい気持ちが、わたしにはよくわかる。メレシコーフスキイは、若い、もっとアクティヴな人たちから成る支部を組織しようとしたのだが、それは(二語判読不能)神について語るばかりで、どんな行動も起こさなかった。なぜか? 今は答えられない。だが、ここで時宜にかなった事件――ベイリス事件が発生した。それで会もおしまいかと思われたが、べつに抗議行動は起こらず、旧約がキーエフの事件とごちゃごちゃになり、なんだかごたまぜの、キーエフのセイヨウミザクラ〔チェレーシニャ〕と旧約の無花果のヴィネグレット〔ごたまぜサラダ〕みたいな、滑稽なくらい哀れな集会になってしまった。で、まさにそのとき、わざとのように、ローザノフは、みなが怒り心頭に発するような論文を書いたのだった。

「ベイリス事件」は、有名なでっちあげの血の中傷事件。1911年3月、キーエフ郊外の洞穴で12歳の少年アンドレイ・ユシーンスキイの遺体が発見されたが、それをユダヤ人による儀式殺人であるとして、煉瓦工場の監督のメヘナム・メンデル・ベイリス(ユダヤ人)が逮捕された。ユダヤ教徒が生血を過越の祭りのマツォット(種なしパン)に入れるというデマは、ヨーロッパでは旧くからユダヤ人苛めに使われている。これに対して国内外を問わず多くの知識人が抗議し、1913年の判決で、ようやくベイリスは無罪となった。二十世紀のユダヤ系アメリカ人作家、バーナード・マラマッド(1914-86)の長編「修理屋(フィクサー)」(1966)は、このベイリス事件を扱っている。ニューヨークのブルックリンに生まれたマラマッドの両親は、ロシアから移住したユダヤ人。短編の名手である彼らの息子の作品には色濃く「帝政ロシア」が出てきて、よくチェーホフと比べられる。

 もちろん、すべての責任はローザノフにある。彼とはやっていけないし御免こうむる、除名しなければこちらが出て行く、というわけである。
 「ローザノフはここではいちばんの重要人物かも!」メレシコーフスキイがそう言うと、すぐさま誰かが――「それはあなたの思い過ごしでしょう!」
 (一語判読不能)そうだろうか、わたしにはメレシコーフスキイの言うことが――その気持ちも、脚を折られた椅子のことも、よくわかる。除名の一字にみなが烈しく動揺したけれど、それは単に除名だけの問題ではなく、おそらく新しいセクトのごときものの創設に関係があるのだろう。なんと言っても、そのことでメレシコーフスキイ自身、自分の最も愛する人を切り捨てようと決意したのだから。メレシコーフスキイにとってローザノフは単なる個性(オーブリク)ではない、〈世界的な天才作家〉だ。アンチキリストの先触れであり、大地であり、牧羊神(パーン)であり、何でありかんであるのだ。そうした一切の不浄なものから今や彼は切り離されようとしており、一方の〈宗教・哲学会〉の会員たちの憤慨はまことにもって(純粋この上なく)俗物根性まるだしである。メレシコーフスキイはまるで生活を知らない。観念の人。肉と血の人ではない。彼があるとき社会民主党員である労働者と議論したときのことを、わたしは決して忘れない。人間におけるおのれの不死の意識の必然性という問いに対して、その労働者はこう言い放った――「とにかく腹いっぱい食わせてくれ」。すると、いかにも野卑なこの応答にメレシコーフスキイは思わずカッとなって、こう怒鳴り返した――「ええいクソ、碌でなしめ!」。
 それはもちろん純粋に哲学的な意味での〈碌でなし〉――屍肉(パーダリ)、すなわち斃れ死ねということだったから、労働者はそれをまったくの悪口雑言と思い込んだ。これにはどうも参ってしまった。最低である。
 今まさに起こっているのは、これとそっくり同じことなのだ。〈宗教・哲学会〉全体が決まり切った倫理の法則どおりに行動するだけで、メレシコーフスキイを理解しようとしないし、彼について行こうともしない。でも、俗物どもをあまりやり込めることはすまい。というのは、今回のアピールには、われわれが叡知(ムードロスチ)と呼ぶところの、人間の必要欠くべからざる環がひとつ足りないことは明らかだからである。  

1月23日

 今日は誕生日。41歳だ。
 ときどき自分の人生の〈宗教〉時代――メレシコーフスキイを初めて訪ねたときからギッピウスを最後に訪ねたときまで――に回帰する必要を感ずる。その間にわたしが手にし今も手にしている価値あるもの、それはロシア国民における宗教理解だ。

 朝の祈り。主よ、どうか助けてください、心に清澄と静寂と理解とを保(も)ち続けたいのです。人びととの出会いにはこの祈りを忘れず、人生の嵐にも再びそのような自分に立ち返ることができますように、どうかお力をお貸しください。

 誰の人生にも〈宗教時代〉はあるだろう。日記に誌されたとおりで、プリーシヴィンのそれは二十世紀の初頭に当たったのだが、それはそのまま祖国ロシアの、束の間の〈宗教時代〉でもあった。

           

編訳者によるエッセイ(一)

セヴンティーン

 哲学者で批評家のワシーリイ・ローザノフ(1856-1919)は、周知のごとく、ドストエーフスキイの崇拝者だった。1881年にその天才作家が亡くなったとき、ローザノフはまだモスクワ帝国大学の学生で、文豪の生前にまみえるチャンスはついに訪れなかった。それを穴埋めするかのように、この文学青年は、ずっと以前――(18)60年代――にドストエーフスキイの若い愛人だったアポリナーリヤ・スースロワに恋をしたのである。時にスースロワ41歳、ローザノフ24歳。二人の年齢差は17だった。きちんと手続きを踏んだ正式の結婚だったが、結婚生活はうまくいかなかった。「自分はまったくの子ども、彼女はまるでフランスの正統王朝派(レジティミスト)だった。高慢で気紛れで……」。スースロワは何度も家を出て行く。姿を消すたびに、若い亭主は捜し回った。何度かは自分から家に戻っているが、結局、ふたりの生活は数年で終わった。耐えられなくなったローザノフのほうが姿を消したのである。

 

 ローザノフは田舎教師になった。ブリャンスクの中学予備校や高等中学(ギムナジア)で教鞭を執りながら、真面目にせっせと論文(「理解について」など)を書いていた。エレーツ市(オリョール県)の中学で地理学を教え始めたのは、その凄まじい気性の妻から身を隠していたころのこと。破綻した結婚生活に見切りをつけたあと、彼は、気立てのいい若い未亡人(24歳のワルワーラ・ブチャーギナには連れ子がいた)と所帯を持った。スースロワが頑として離婚に同意しなかったので、ローザノフの新しい家族は――当然ワルワーラも正式の妻にはなれず、長女のターナャ、ヴェーラ、ワーシャ、ナーヂャ、ワーリャも、〈永遠の妻〉であるスースロワがこの世を去る日まで、ずっと私生児のままだった。
 ところで、29歳のローザノフがエレーツで教師をしていたとき、生徒の中になかなか利かん気な男の子がいた。名をミハイル・プリーシヴィンといった。第2学年のときに落第、その年の夏の終わりに四人の仲間と〈黄金のアジア〉へ脱出を企てたものの、翌日には名うての巡査に取っ捕まってしまう。級友たちには「アジアをめざしてギムナジアに戻って来たな」などと茶化された。しかし、反抗心は少しも治まらず(もっとも、成績の方も芳しくなかったが)、2年後にはついに退学の憂き目に遭った。その理由というのが、地理の時間に教師(ローザノフはこのとき地理を担当)を侮辱したというものだった。校長にそれを報告したローザノフの報告書は、今でも読むことができる(拙訳『巡礼ロシア』の「詩人の誕生」を参照のこと)。少年は放校のあと、ほぼ30歳まで、かなりつらい時間をチュメニ(ウラル)やエラーブガで送っている。実科中学を転々とし――当時ギムナジアを退学させられた者は〈狼鑑札〉の所持者として国内の中学への復学は不可、したがって大学には進学できなかった――最後にたどり着いたリガの総合技術高校で化学を勉強しているときに、マルクス主義に染まって逮捕され、丸一年をリガの刑務所の独房で過ごした。

 ドストエーフスキイとスースロワの年齢差が17、スースロワとローザノフの差が17、教師ローザノフと退学処分を食らった少年の年の差が、やはり17。それでこの二人のその後はどうだったかと言うと、やはり17年後に、なぜかペテルブルグの〈宗教・哲学会〉で顔を合わせたのである。一方は論壇の大御所として、一方は新著を2冊抱えた新人作家として。これをしも因縁の糸と呼ぶべきか。ともあれ、プリーシヴィンが生涯ローザノフに対して、嫌悪と敬意の混じった複雑な気持ちを抱き続けたことは間違いない。ローザノフは革命後の1919年に亡くなった。振幅の非常に大きな、矛盾に満ちたこの哲学者の著作は、ソヴェート体制下で、ほとんど発禁状態だった。プリーシヴィンの半世紀にわたる日記には、ローザノフにこだわり続けたかつての生徒の哲学的なメモがいくつも見つかる。

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