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プリーシヴィンの日記        太田正一

2010 . 05 . 06 up
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1月19日

 ローザノフ追放のための〈宗教・哲学会〉*1の集会。かつてはローザノフ(1853-1919)がわたしを中学から追い出した*2のだが、今度はこちらが彼を追放しなくてはならなくなった。議決には定数不足だ。でも、闘士たちはやる気満々――メレシコーフスキイ*3の目論見が功を奏して、彼[ローザノフ]への怒りが爆発したからである。押し合い、混乱、ごたごたあり。あるアルメニヤ人などは、いよいよ表決というときに意見を求めて、「宗教・哲学会に拍手採決はない」と言おうとしたし、条項の改変を求める者もいた。ギッピウス*4は(一語判読不能)目を細めて、雌猫のような顔付き。カルタショーフ*5は眼鏡をぐいと上げ、メレシコーフスキイは腹を立てている。ヴャチェスラフ・イワーノフ*6はスキャンダルを起こす気だ。チュルコーフ*7は二律背反について語り、スタホーヴィチ[プリーシヴィンの知人]は二律背反とはそもそも何かと問いただす。神智学の老婦人、女子専門学校の学生たち、教授連、文学者、(一語判読不能)、バプティスト派、僧侶、東方の人と、誠実この上ないユダヤ人の学者たち。わたしはどうかと言うと、耳に入ってくるものを観察し思考し理解し保持する能力をあらかた失っていた。まったくのカオス。これこそメレシコーフスキイの社会的目論見の結果なのだ。5年ほど前、わたしはその〈輝ける異邦人〉*8を賃借りしたのだが、今はもう返そうと思っている。どうも違うのだ。

*1 1908年10月、プリーシヴィンは『森と水と日の照る夜』(1906)と『魔法の丸パンを追っかけて』(1907)の二著をひっさげて、〈宗教・哲学会〉の会員になった。この会は彼にとって二つの観点から非常に重要だ。第一に、同時代の宗教意識の問題が取りも直さず〈宗教・哲学会〉の活動(1907〜1915)の主要なテーマであり、奥ヴォルガ(『キーテジ――湖底の鐘の音』・1909)の旅で〔邦訳『巡礼ロシア』〕明らかになった民衆運動への関心が、ペテルブルグの知識層に新たな衝撃を生んだからである。奥ヴォルガ行きのそもそものきっかけは、メレシコーフスキイ夫妻の旅――妻で詩人のギッピウスの旅日記(「スヴェートロエ湖」)は、彼らの機関誌である「新しい道」(1904)に分載された――にあったのだが、民衆の土着の胸奥に一歩も二歩も踏み込んだプリーシヴィンの〈魂の巡礼〉は、上流人士たち〔メレシコーフスキイ夫妻〕の単なる「訪問」などとは似ても似つかぬものになった。ちなみに、奥ヴォルガの田舎町ヴェトルーガ(コストロマー県)は、〈宗教・哲学会〉の重鎮ワシーリイ・ローザノフの生まれ故郷でもある。
 第二には、ペテルブルグのシンボリストたちとの付き合いが、プリーシヴィンにとって必要欠くべからざる〈学校〉、また〈シンボリズムの《火と霊の洗礼》(ブローク)〉であり、それが彼の芸術のスタイルを決定する重要な要素となったからである。芸術におけるリアルなものとその役割へのかかわり方では、彼らとのあいだの大きな隔たりを十分意識していたプリーシヴィンだが、シンボリストたちによって<理論的に>示されたポスト・シンボリズム文学進化の展望、たとえばヴャチェスラフ・イワーノフ言うところの〈リアリスティックなシンボリズム〉などは、十分以上に受け容れている。その〈宗教・哲学会〉が、この日(1月19日)、ローザノフを会から追い出す集会を開いている。除名追放という険悪な動議が持ち出されたのは、彼の論文――「血へのユダヤ人の嗅覚的触感的関係」(ペテルブルグ・1914)のためである。彼はこれまでにもたびたびユダヤ人排斥のキャンペーンを起こしていた。

*2 ローザノフは若かりしころ、エレーツ男子中学の地理の教師で、そのときの教え子がプリーシヴィンだった。1889年にローザノフと衝突して、未来の作家は退学させられている。〈宗教・哲学会〉での二人の出会いは、この両者を結び付けている複雑かつ深い関係(近しさと反発)のみならず、プリーシヴィンの作品におけるローザノフの哲学的美学的達識と文学上のスタイルの継承という観点からも、大いに興味をそそられる。ローザノフがプリーシヴィンにとっていかに大きな存在であったかは、「日記」におけるローザノフという名の頻度の高さからも察せられる。編者であるリャザーノワとウラヂーミル・グリーシンが「日記」中の「ローザノフ」だけを別個に編集し公表しているほどである(「コンテキスト・1990」・ナウカ出版所)。

*3 ドミートリイ・メレシコーフスキイ(1866-1941)――作家、宗教思想家。詩と評論から出発し、ロシア象徴派の先駆けとなったが、次第に宗教色を強めていった。〈宗教・哲学会〉や月刊誌「新しい道」を中心に活動し、十月革命後に亡命。20年からパリに住んだ。キリスト教と古代の神々、霊と肉の対立など、一時その独特の弁証法的思考法がもてはやされた。代表作に『背教者ユリアヌス――神々の死』、『レオナルド・ダ・ヴィンチ――神々の復活』、『ピョートル大帝――アンチキリスト』などの歴史小説がある。日本でよく読まれたのは、評論の『永遠の伴侶』(1897)と『トルストイとドストエーフスキイ』(1901〜1902)である。

*4 ジナイーダ・ギッピウス(1869-1945)――詩人。メレシコーフスキイの妻。デカダン派の代表的存在。1903年、夫とともに〈宗教・哲学会〉を創設した。夫の神秘的宗教理論には同調しなかったが、1905年から17年まで、ペテルブルグの彼女のサロンは文壇の重要な中心となり、若い象徴派詩人たちに大きな影響を与えた。詩集のほかに小説『悪魔の人形』(1911)。1920年に夫とともに亡命、パリで客死。

*5 アントン・カルタショーフ(1870〔一説に1875〕-1960)――哲学者、教会史家。

*6 ヴャチェスラフ・イワーノフ(1866-1949)――詩人、文芸理論家。ベルリンに留学し、ローマ史を専攻。詩集『導きの星』(1903)と『透明』(1904)で、象徴派詩人として登場。ニーチェやウラヂーミル・ソロヴィヨーフの影響を強く受け、いわゆる〈銀の時代〉における後期印象派の指導的理論家である。発行誌である「金羊毛」や「天秤座」その他の雑誌に多くの論文を発表した。ディオニュソス信仰の再考、神話の核をなす〈象徴〉の発見、〈神話創造〉行為としての演劇などがその理論の中核。神秘的宗教的傾向が強い。ぺテルブルグの彼のサロン、通称《塔(バーシニャ)》は1910年まで、多くの詩人、画家、学者たちの交流の場であった。1924年にローマへ亡命、カトリックに改宗した。ダンテやペトラルカの翻訳がある。

*7 ゲオールギイ・チュルコーフ(1879-1939)――詩人、作家。若いころに政治活動で逮捕され、シベリアへ流刑。のちペテルブルグに戻って第一詩集を刊行。「金羊毛」、「新しい道」、「天秤座」などの雑誌を編集した。

*8 メレシコーフスキイのこと。〈輝ける異邦人〉という表現は、1909年から1911年の日記によく見られる。「その特異な洗練された優雅さと高い教養から、メレシコーフスキイの思想の信奉者たちは、彼を〈輝ける異邦人〉と称した。輝ける(светлый)というのは、わがロシアにヨーロッパ文化の華ではなく競争の刺、すなわち普遍的真理と分離を持ち込む〈暗い(тёмные)異邦人たち〉とを峻別した言い方なのだ」。

 キーエフのセイヨウミザクラ〔チェレーシニャ〕と旧約の無花果。
 メレシコーフスキイがローザノフに惚れ込んでいたのは周知の事実で、ローザノフ自身がそのことを書いている。『孤立せるもの』――「彼〔メレシコーフスキイ〕は何故わたしを愛するか?」。ところが今、そのメレシコーフスキイがローザノフを〈宗教・哲学会〉から追い出しにかかっているのだ。脱会させて、彼をロシア社会の一隅(ローザノフはそこから素顔をさらけだしていたのに!)から放逐するという、言ってみれば、まともにその顔面を殴りつけるに等しい、そんな大胆不遜な考えが、いつどこから芽生えたのか、(誰もが彼に憤慨していながら)誰ひとり知らないのである。会議の決定に団体が、いわば世論の処女地が動揺を来してしまった。そして、さまざまな党派・宗派の者たち(そこにはローザノフを目の敵にしている連中がごまんといた)がこぞって腹を立てたのだ。要するに、このちっぽけなペテルブルグの蟻塚――しばしばロシアの最高の知識人、それもじつに多種多様な人士が顔を見せた――の社会的基盤の完全な崩壊が起こってしまったのである。

 これはプリーシヴィンの誤記。『孤立せるもの』(《Уединенное》)ではなく『落葉』(《Опавшие листья》ペテルブルグ・1913)の「第一の籠」。

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