リレーエッセイ

第49回 - 2003.07.02

ブダペシュトに見る『ハプスブルクとハンガリー』

渡邊昭子

 ドナウ川を挟んで向かい合うブダとペシュトは、18世紀になるとそれまでの戦乱の痛手から立ち直って拡大し始める。当時のペシュトはおよそ現在のベルヴァーロシュ(ベル=内側の、ヴァーロシュ=街)と呼ばれる区域と同じで、まだ市壁で囲まれていた。その市壁の外側に、最初は農民が、のちには内域に住みきれなくなった人びとが移り住んだ。そこで1777年に壁の外側の部分にも名前が付けられることになった。北側がテレーズヴァーロシュ、南側がヨージェフヴァーロシュである。もちろん、ときの女王「マーリア=テレージア」と皇帝「ヨージェフ」の名にちなんでいる。19世紀後半になるとテレーズ街の南側部分はエルジェーベト街として分離する。第二次大戦後は6区と8区という殺風景な名前だけが通用するようになり、テレーズ街を通るテレーズ環状道路はレーニン環状道路へと変わった。だが、体制転換を経て以前の名が復活し、今では区の名称として元の名がよく使われる。

 テレーズ街にはブダペシュトのシャンゼリゼと呼ばれたアンドラーシ通りが走っている。本物のシャンゼリゼとは比べ物にならないが、中心に近い方にはおしゃれなカフェやブティックが並ぶ。外側に行くと閑静な住宅街が広がっていて、大使館が集まっている場所もある。一方のヨージェフ街は場末の荒んだ雰囲気を漂わせている。こちらにはブダペシュト最大の中国市場もある。街の性格はずいぶん違うが、全部で23あるブダペシュトの区のうち2つの名を親子で占めているだけでも、たいした存在のはずである。

 ところが、この2人の視覚的な存在感はどうも希薄だ。まず、その名のついた広場がない。ウィーンならば中心部に広々としたマリア=テレジア広場があって、そこにはマリア=テレジア像がそびえている。これほど目立たないがヨーゼフ二世広場にもヨーゼフの騎馬像がある。しかし、ブダペシュトの地図を探しても2人の名のついた広場がない。かろうじてマリア=テレジア通りが一つ見つかるけれども、そこは20世紀半ばまでブダペシュトの範囲外だったブダの南のはずれの場所である。だが、戦前の地図を広げると、ペシュトにもマリア=テレジア広場があったことがわかる。ヨージェフ街の教区教会前の広場がそれで、現在はホルヴァート・ミハーイ広場と呼ばれている。19世紀初頭に生まれたホルヴァートはカトリックの司教で歴史家として有名だ。1848年革命に加わり、1849年の春から夏にかけて、つまりハプスブルクの王位廃絶が宣言された後の独立戦争中に公教育大臣を務め、戦争敗北後は20年近く亡命生活を送った。ハプスブルクの女王からはずいぶん隔たった人の名が選ばれたものである。

 マリア=テレジアやヨーゼフを称える像も見当たらない。ブダの元王宮(現美術館)のドナウ川を臨む側には「ハプスブルクの」と名付けられたバロック風の階段がある。観光客ならかならず訪れる場所だろう。ここに王家の誰かがいてもよさそうなものだが、階段の前にそびえている勇壮な騎馬像は、マリア=テレジアの祖父レーオポルト一世の時に、対オスマン戦争で功績をあげたサヴォイア公オイゲンである。銅像が盛んに作られるのは1867年に二重制が成立して以降のことだが、マリア=テレジアとヨーゼフ二世はその題材としてあまり好まれなかったらしい。

 ポジョニ(現ブラチスラヴァ)にマリア=テレジア像があったことはバラージュが本の中で触れている。この像は1897年に完成した。ポジョニ市が、フランツ・ヨーゼフ戴冠の四半世紀を祝うために作らせたものである。ポジョニは女王が戴冠した都市であり、ブダペシュトと違ってそれなりの思い入れがあったのだろう。しかし、像のデザインを決めるのは難しく、依頼されたファドゥルスは何年もの間悩んだらしい。宮廷とハンガリーとを調和させた像を作るにはどうすればいいのか。作者のこじつけたような説明によれば、完成した像は、「オーストリア帝国がハンガリー人の比類なき勇敢さなくしては存在しえない」ことを示すものだった。

 この像は三体からなる。真ん中にはハンガリー王冠をかぶったマリア=テレジアが馬に乗り、両側に二人の男性が立つ。一方は大貴族で、女王を敬意のまなざしで見上げ、女王もそちらに目をやっている。もう一方の側にはクルツの兵士が、つまり、その昔は反ハプスブルクの陣営に加わっていた兵士が立っている。こちらの兵士は女王を守るような姿勢をとりながらも、女王の反対側を睨んでいる。つまり、女王とクルツの兵士とはそっぽを向いている。

 ちなみに、バラージュはこの像の両側にいるのが貴族と農民だとして、それがマリア=テレジアの治世の前半と後半を象徴するように読み取っている。どこかでそのような記述を見たのだろうか。両者が親ハプスブルク的な大貴族と反ハプスブルク的な中小貴族だとしても、やはり別の意味で象徴的であるには違いない。この像はスロヴァキアがハンガリーから独立してすぐに取り壊された。そのため実物を見ることはできないし、写真もなかなか見つけられなかった。私の場合は、10年前に出た『ハンガリーの歴史主義美術』という本で写真と以上の説明を見つけることができたのだが。

 さて、この時代のハプスブルク家の人物の中にも、ブダペシュトの中心部に銅像が据えられ、現在まで存在を誇示している人がいる。この本のエピローグに登場する副王ヨーゼフ大公である。ヨーゼフの名がついたこの広場はすでに1848年の地図にもあるので、存命中か死去直後のかなり早い時期に名付けられたのだろう。その立像が作られたのも1869年とかなり早い。それまで宗教的な像は作られていたが、ペシュトに建てられた最初の世俗的な題材の像がこれだった。

 副王ヨーゼフ、ハンガリー語で呼ぶならヨージェフは、バラージュも書いている通りハンガリーびいきだった。ブダに住み、死後もここに残ることを望み、今でもブダの王宮の地下に家族とともに眠っている。王宮は今では美術館となっていて、普段この墓の入り口は閉じられているが、受付に頼めば見学することもできる。

 街中にある副王ヨーゼフの台座には「ペシュト市を再建した」と書かれている。たしかにこの都市に様々な貢献をした。ペシュト「美化委員会」を設立し、それは道路や建物や様々な施設を作り、整備した。そのおかげか戦前のブダペシュトには、製粉所、孤児院、サナトリウムなど、「副王ヨージェフ」の名が付いた施設が多かった。現在の工科大学もそうである。ヨーゼフ二世もハンガリー語では「ヨージェフ」となるが、ヨージェフ街以外はほとんど副王ヨージェフの名にちなんだものである。

 そのヨージェフ副王広場は、くさり橋のペシュト側のたもとから少し東に向かったところ、観光客も集まるヴェレシュマルティ広場の北側に位置している。広場を取り囲む建物は19世紀のもので、官庁や銀行が入っていて、こぢんまりして落ち着いた雰囲気がある。日本人観光客にはヘレンドの直営店がある広場と言えばわかるかもしれない。面白いことに、ヨージェフ副王広場の名前と銅像は、社会主義時代にもそのまま残されていた。すぐ近くにはエルジェーベト広場もある。ヨージェフ同様にハンガリーびいきで知られる皇妃エリーザベトにちなんだ名の広場である。だが、こちらは戦後まもなくスターリン広場となり、のちにエンゲルス広場と呼ばれ、1990年から元の名に戻った。エルジェーベト広場にはバスターミナルもあったし、国民劇場の建設が企画されるほど大きく重要な広場だったことも、名前が変転した理由かもしれない。社会主義期にもエルジェーベト橋の名は残っていたのだから。だが、それは差し引いても、副王ヨージェフ広場だけがずっとその名を保ってきたことは、ハプスブルクの中でも副王「ヨージェフ」がハンガリーとブダペシュトにとって別格の存在であることを示しているように思われる。

地図は1848年のペシュト=ブダ
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