リレーエッセイ

第26回 - 1999.11.04

「おろしゃ」への遠き道

加藤史朗(愛知県立大学・外国語学部)

 ここ数年、若者のロシアに対する関心の低下は目を覆いたくなるほどの惨状を呈している。大学におけるロシア関連講座の閉鎖や担当教師の失業といった話しまで聞こえてくる。ペレストロイカで一気に高まったソ連とロシアへの関心は、まさにバブルとともに消え去ってしまったかのようだ。ソ連の継承国家ロシア連邦は、相変わらず民族紛争の中心舞台であり、2000年を目処とする日露間の平和条約締結も見通しは暗い。こうした中で学生たちがロシアを敬遠するのは、当たり前である。それでもなおロシアについて学ぶ必要を説くことは、ロシア語やロシア研究を講ずるものの任務ではあるが、非常に困難な仕事だ。

 私は早稲田大学で、15年来非常勤講師として社会科教育法(地歴科教育法)を担当している。手始めに学生に要求する作業は、自分たちが受けてきた歴史教育と歴史意識の形成過程を振り返ってみて、それを文章化することである。自分の体験を対象化し、乗り越える目標にすることが狙いであるが、模擬授業をやらせてみると、過去を振り返り、批判の対象としてきた筈の授業形態をそのまま踏襲した授業しか出来ない場合がほとんどである。でもそれに気づくと気づかぬとでは大違いだと思っている。ロシアについての自分の講義や研究も同じような状況にあるのではなかろうか。そこで学生たちに要求するように、自分のロシア意識の形成過程を振り返ってみることにした。

フンのロシア

 フンと言ってもアッチラ率いるフン族のことではない。kakaのこと。幼時の記憶の中でロシアはそれと結びついているのだ。三番目の兄(7歳年長)の友達が我が家に遊びに来ては、幼児の私を次のようにからかった。「シロウ、ロシヤ、野蛮国、クロパトキン、ケッチンボ、李鴻章のハゲアタマ」と。日露戦争後の「スズメ、メジロ、ロシヤ、ヤバンコク、クロパトキン、キンタマ、マカロフ、フンドシ…」というロシアを揶揄する尻取り歌の残滓が第二次大戦後まで生き残っていたのである。ある時ついに堪忍袋の緒を切らした私は、家の外まで兄の友達を追いかけた。すると彼は、あろうことか、道端の馬糞を新聞紙に丸めて、私に投げつけたのだ。私の首筋に半乾きの馬糞が命中。私は悔しく泣き崩れ、その日は晩飯も喉を通らなかったほどであった。「シロウ、ロシヤ」という屈辱感に満ちた響きは生暖かい馬糞の感触とともに、私の心にトラウマとして刻み込まれた。後年早稲田の畏友井桁貞義氏や伊東一郎氏の口から「バフチン」という名前を聞くたびに、何か言い知れない嫌な感じを受けたのは、バフンのトラウマのためかもしれない。「ロシア、野蛮国」という言葉の意味が歴史的実体をもつようになったのは、1956年、私が小学校4年の時に公開された嵐寛寿郎主演「明治天皇と日露大戦争」によっている。この映画は空前の大ヒットとなり、私も小学校の課外授業で映画館まで見に行った。日本が勝つ戦争なのだ。興奮の大拍手の中で映画を見た記憶がある。力道山の活躍を見るのと同じ雰囲気であった。

 しかし、その一方で当時の社会主義ソ連は、私のトラウマとは裏腹に燦燦たる輝きを放っていた。小学校1年の時、スターリン死去。部屋にスターリンの肖像画を掲げていた二番目の兄は泣きそうだった。しかしその後のスプートニク打ち上げ、ソ連からの小児麻痺ワクチン援助、オビ号による宗谷の救出、ガガーリンによる初の宇宙飛行と兄を上機嫌にさせるニュースが続いた。家の茶の間では、父と大学生の兄がソ連や社会主義をめぐって論争することがしばしばあった。兄が優勢に見えた。父は毎年、元旦には子どもたちを連れて氏神詣でに出かける。長兄と私と弟だけが父に従った。二番目の兄は、日の出を見に行くと行っていつも大晦日の夜から家を留守にした。しかし兄がとっていた『前衛』や『世界』は、いつも父が読んでいたような印象が残っている。1960年の安保問題は国論を二分したと言われるが、中学生の私にもその実感は残っている。中学校でも先生たちを保守と革新に分けることが簡単に出来た。だが英語をならった星川運八郎先生だけは、その分類には当てはまらない気がした。シベリア抑留を経験された方で、授業の合間に収容所の悲惨な生活を語り聞かせてくれた。とつとつとした話し振りだったが、実体験の重さは、中学生にも感じられた。特に印象に残っているのが、鍾乳石のように、凍って盛り上がる大便の始末の話し。ここでもロシアはフンと結びついていた。歌声運動の盛り上がりは、高校時代にも続いていた。生徒会執行部の一員であった私は、学園祭やサークル合宿で使うための歌集を作り、多くのロシア民謡をそこに収録した。国際学連の歌やワルシャワ労働歌も入っている。しかしそのようなソ連と社会主義優位のトレンドの中にあっても、ロシアとソ連に対する異臭感を拭うことは出来なかった。

どん底

 高校2年生の時、早稲田の露文出身の宮崎宏一先生が現代国語の先生として赴任してこられた。和田あき子さんや水野忠夫氏と同期の方である。この先生が授業で最初に語ったのがゴーリキーの『どん底』であった。授業中に「明けても暮れても牢屋は暗い。いつでも鬼めがエー窓から覗く…」と芝居の主題歌まで披露するほどであった。住井すえの『橋のない川』についての話しにも熱がこもっていた。当時私は生徒会執行部で会計を務めていたが、会長・副会長・書記長はみな民主青年同盟に加入していた。先生は彼らのヒーローであった。1963年部分核実験禁止条約が締結され、日本共産党はこれに反対した。生徒会内部でも大議論となった。この条約を支持した私は、執行委員会で完全に孤立した。果てしない議論を終えて夜遅く家路についた時、道すがら憔悴している私に書記長が慰めるように声をかけてくれた。「シロちゃんよお、中央は俺達より高い見地で判断を下しているんだから俺は中央を信頼するな…でもシロちゃんとは思想が違うことはわかったよ。一致できる点で一致していこうな…」と。私は釈然としないまま力なく肯くしかなかった。この問題を契機にモスクワのルムンバ民族友好大学への進学を希望していた会長は、進路を東大へと変更した。ところで私は生徒会の他に、社会科学研究会・文芸部・ESSに籍をおいていた。文芸部では新崎 智(現評論家の呉 智英)が部長を務め、一緒にカミュやサルトルを読んだが、ピンと来なかった。しかし彼との交友の中でドストエフスキーを知った。当時小沼文彦訳の全集が刊行され始めたばかりであり、彼は自慢そうにそれを見せてくれた。そこまで文学青年ではなかった私は、米川訳の岩波文庫で『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』などを読んだ。今からは想像も出来ないことかも知れないが、当時の若者たちの間では世界中が社会主義化するのは必至と思われていた。「諸君これから立身出世するにはマルクス主義者にならなければならない」という先生もいた。またマルクス・エンゲルス全集が金満家の応接室を飾る家財道具として売れるという嘘のような話しさえ聞こえてきた。社会主義になったときの保険としてである。ドストエフスキーの作品は、人間て奴はそんなに単純にはいかないぞと教えてくれた。さらにソ連の外皮の奥にロシアのナロードと大地があるという漠然としたイメージも与えてくれた。

 社会主義や共産主義の魅力と違和感の相克は私を仏教へと誘った。私が通っていた名古屋の私立東海学園は、もともと浄土宗立の学園であった。高校2年まで高校校長を務めたのが、戦前新興仏教青年同盟の書記長を務め、治安維持法に触れ入獄体験もあった林 霊法先生(現知恩寺法主)である。民青の諸君や新崎 智から頗る馬鹿にされたが、この先生の『現代思想と仏教の立場』や『わが復活の曙光』という著述からは多大な影響を受けた。毎月定例の日曜宗教講座にも通い、先生の発行されていた新聞『大地』の熱心な愛読者であった。先生との出会いを通して仏教社会主義という展望が開けたように思えたのである。

反スターリン主義のどん底

 早稲田大学政経学部の入試面接の時、面接担当の北河先生(英語)に「早稲田で何をやりたいか」と聞かれ、迷わず「仏教社会主義思想の研究です」と答え、「階級闘争のマルクス主義や一神教のキリスト教では真の平和共存は不可能です。自他共栄の仏教でこそ初めて社会主義は実現できるのです」と林先生の言葉を借用した。北河先生は「それは面白い。しっかりやりたまえ」と答えて下さった。入学後、迷わず仏教青年会に入り、ロシア語を第二外国語に選んだ。中国語選択者と合同の1年T組であった。中国語の新島淳良先生がクラス担任で、ロシア語担当は佐藤 勇先生であった。折りから政治の季節は春から夏に移ろうとしていた。クラスタイムには、革マル、中核、社青同解放派などの活動家が入れ替わり立ち代わりしてオルグにやってきた。一番説得力のあったのが、革マルの蓮見清一氏(現宝島社社長)だと思われた。しばらく彼の主宰する学習会に参加した。レーニンの『国家と革命』がテキストであった。階級対立の非和解性の産物としての国家、それが共産革命により、やがて死滅するのだというテーゼは、非常に魅力的であり、ソ連はおろか日本や中国の共産党を批判する共産主義者がいるということそのものが晩生の私には新鮮であった。ハンガリー動乱のことは、母校の社研では話題にもならなかった。反乱は共産主義者の専売特許ではなかったのだ。「基底体制還元主義だ」と他党派を批判する彼の言葉が、人間はそんなに単純じゃないぞというドストエフスキー体験と絡み、自己否定を通して革命的主体を形成するという彼の主張が、仏道修行を目指そうとする意識と奇妙に一致し、しばらくはこれだと思った。クラスに山西英一氏の息子がいて、共に現代思潮社版のトロツキー『わが生涯』を愛読し、ドイッチャーのトロツキー伝に感動した。しかし1965年後半から1966年初めにかけての学費学館闘争において、「調和の幻想」は完全に破綻してしまった。内ゲバが始まったのだ。当時の蓮見氏は有名な行動隊長でもあった。私は訳が分からぬままの学友会代議員という名の一兵卒。体育会系学生の本部封鎖解除を阻止するために動員され、「かかれー」という彼の号令一下、格闘の最前線に押し出された。結果はあっという間の失神だった(先方には当時短距離のスターであった飯島選手がいたことは覚えている)。またある時は、教育学部の民青との小競り合いでやはり最前線に押し出され、民青から殴られ、わあっと逃げ帰ったら民青と間違えられ革マルからも殴られた。実に惨めな体験であった。共産主義は本当に嫌だと思った。トルストイの『コサック』の中に「人間は精神的に高揚している時ほどエゴイスティックになることはない」という一句を見出し、文字どおり痛く共感した。その後の全共闘運動の高揚をシニカルに見るようになったのはこの言葉の体験によるのだと思う。

井伊先生1997年6月/左はセルゲイ・ガルキン
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 3年時に井伊玄太郎先生のゼミ「共産主義の理論と実践の批判的研究」を選び、ゼミ長に任命された。この先生には、一般教養の「社会文化人類学」ですでに接していた。最初の授業の時、先生は、黒板に大きく「マルクス坊や」と書いて、「こんなのは駄目ですよ」と言ったかと思うと、大きな×印でその言葉を消し去った。当時左翼学生は彼を「イイカゲンタロウ」と揶揄していた。先生の口癖は、本ばかり読んでいては駄目だ。フィールドが大事だというものであった。先生の言葉に半ば共感しつつ、漠とした思想の体系性に憧れていた私は、ここでもちぐはぐな感じを抱いたままであった。今から思えばトクヴィルを先生と一緒にもっと勉強すべきであったと思う。シモーヌ・ヴェーユについてもそうである。「人間は恋と革命のために生まれてきたのです」という太宰の言葉になぞらえれば、当時その双方において駄目だった私は意気消沈していて、「君は指導力がないねえ」と先生に面罵されることもしばしばであった。しかし、4年時のゼミ旅行の企画は、我ながらよくやったと思っている。私の故郷多治見でのフィールド調査の後、南木曽に勝野金政氏を訪ねたのだ。加藤哲郎氏や藤井一行氏の最近の研究でよく知られているように、氏は収容所群島の生き証人であった。氏の長男春樹君とは政経学部の同期であったのが縁で、南木曽町のお宅を訪問し、勝野氏の支払いで妻籠の宿で一泊したのであった。氏の夫人は、早稲田の政治哲学教授であった五来欣造先生のお嬢さんであった。全く偶然のことであるが、井伊先生が学生時代に幼女であった奥さんに会ったことがあり、半世紀以上を経ての再会に興奮されていた。旧家の佇まいを見せる勝野家の囲炉裏を囲んだ語らいの場には、春樹君の御姉上(早稲田露文卒)も控えておられた。彼女が長年にわたって勝野氏の名誉回復に尽力されてきたことは、迂闊にも数年前朝日新聞の報道で知った。その後ご無沙汰を続け、『日露200年』巻末年譜で勝野金政氏のことを取り上げたのを機に、春樹君に献本したが、彼は沈黙したままだ。私のことをトレンドに流され、義理を知らぬ勝手な奴だと思われているのかも知れない。

なろうど憧憬

 ゼミでは、荒畑寒村や松田道雄の影響の下にナロードニキについて報告した。集中力を失った私によく付き合って下さっていたロシア語の佐藤先生は、私の興味に沿ってコロレンコの『不思議な女』やトゥガン=バラノフスキーの『過去と現在におけるロシアの工場』をテキストに使って下さった。それだけではない。ゲルツェンの魅力について教えていただき、文学部に学士入学をして卒論を書く際には、レムケ版ゲルツェン全集を貸して下さった。学園紛争中に父を喪った私は、三人の兄たちの寛大さに甘え、文学部西洋史学科に学士入学することが出来た。佐藤先生から山本俊朗先生を紹介されたのだ。山本先生も政経学部から文学部に学士入学をされた経験をもっておられた。大学院に進みたかったが、しかしいつまでも兄たちに甘えるわけにはいかなかった。夜警などで自活の道を求めたが、完全な経済的自立には到らなかった。またもや佐藤先生が助け船を出して下さった。当時高校段階にまで広がっていた学園紛争で理事長代行の首切りにより欠員を生じた麻布学園が社会科の教員を求めていた。理事長代行の山内一郎氏は日ソ交流協会の理事長でもあり、副理事長を務めておられた佐藤先生と縁があったのである。大学院に籍をおいたままこの学園に初めは講師として、4年後には専任として都合27年半もお世話になるとは、夢にも思わなかった。就職した当初、日ソ交流協会からソ連留学に派遣してくれるかもしれないという甘い打算があったことを告白しておかねばならない。しかし、学園紛争はそれどころではない方向へと展開して行った。東大紛争の真似ごとのような学園紛争の当事者たちに私はシニカルに接していた。だがあろうことか、途中で理事長代行山内氏による学園財産2億円余の横領事件が発覚し、紛争の火に油を注ぐ態となった。混乱する学園に嫌気がさして、2年目には冬休み前後、休暇をとって1ヶ月半におよぶヨーロッパ旅行に出かけた。ウィーン留学中の稲野 強氏にお世話になった。モスクワ留学中の安井亮平先生からソ連にも足を伸ばすよう誘われたが、不遜にも、短期間の滞在ではソ連という外皮の下に隠されたナロードのロシアを見ることは出来ないと思って断念した。相変わらず観念肥大化の病は癒えていなかったのだと今では後悔している。代行の縁故で就職した麻布ではあったが、生徒も同僚も実に暖かく、学園は徐々に居心地の良い場所となった。専任になっても研究の時間を尊重してくれるところがあった。山本先生のゼミは定例の職員会議と重なってほとんど出席できなかったが、先生はそれを大目に見てくださった。金子幸彦先生の講義は、小人数で極めて恵まれたものであった。結局12年間も大学院に在籍していたことになる。この間、ロシア史研究会にも参加するようになった。この研究会に参加するつもりだと山本先生に相談した時のことは、忘れがたい。「僕もね、昔は出ていたのですが、何か明日にでも日本に革命が起こるような話しばかりするようになってしまいましたよ。だから今は出ていないのです」と言われたからだ。出てみると多少そういう痕跡はあったが、それほどでもなく、いつも庄野先生や和田あき子さんの暖かい笑顔に出会えた。

ペレストロイカ

 パック旅行でもよい、ソ連に行ってみたいと思うようになったのは、ゴルバチョフの登場による。1987年8月初めてソ連の土を踏んだ。ナホトカ、ハバロフスク、モスクワ、レニングラード、キエフをめぐる二週間の旅であった。あちこちで幼時のイメージを追体験した。ナホトカの水洗トイレはkakaが溢れて流れなかった。シェレメチェヴォ空港で最初に感じたのは何とも言えない異臭であった。チェルノブイリの翌年のキエフは、埃の中に沈んでいた。しかし、なんという生き生きとした国だろうと思った。混沌とした現状が、自分のロシア研究の混沌と見事にマッチしていて、ロシアに病みつきになってしまった。翌年、またもや佐藤先生のお世話で、モスクワ大学で毎年行なわれていたロシア語教師のための夏季セミナーに参加した。ロシア語教師のためのセミナーという以上、ロシア語を教える必要があると思い、その年の春から麻布学園で放課後にロシア語を教えることにした。募集してみたら30人以上の生徒が集まった。当時ソ連はまさにトレンディーな国なのであった。大学院で同期であった山内重美さんのコンサート、50人以上の高校生を連れてのソ連大使館訪問、その時知り合ったレオニード・シェフチューク一等書記官(現参事官)の三度にわたる学園での講演会、図書館での「ロシア=ソ連特集」と銘打ったブックフェアー、その一環としての和田春樹先生の来校などいずれも若い世代の熱気に支えられて実現できた企画ばかりである。しかし1991年を境に潮の流れは逆転した。ロシアへの関心は急速に消えていった。シェフチューク氏の来校は1990年、1991年、1992年の三度であったが、最初の講演会への参加者は400人、次が200人、ソ連崩壊直後に行なわれた三度目が100人である。詳しくは『日露200年』(1993年彩流社刊)所収の「若い世代の意識」の中で触れたのでここでは繰り返さない。

わたくし心を公に

エカテリーナ・コロボヴァ(カーチャ)
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 ソ連崩壊後も毎年短期間ロシアを訪れたが、職場における私のエネルギーは、学園百年史の編纂に向かった。この仕事は1995年に完了した。その後またロシアに対する関心を学園に吹き込もうと思い始めたのは、ロシアの歌手エカテリーナ・コロボヴァ(カーチャ)との出会いによる。山内重美さんが1996年、モスクワ放送に勤務することになり、6月に新宿で行なわれた歓送会で彼女と出会った。彼女は飛び入りで、ピアノを弾きながら「モスクワ郊外の夕べ」を歌った。今までに聞いたことのない独自の歌い方であった。これまでの印象では「モスクワ郊外の夕べ」は情緒的でセンチメンタルなものであったが、彼女の歌の調子は、もっと激しく切ないものであった。「おうこれがロシアだ」と思った。7月にソロヴィヨーフ大使の歓送会が霞ヶ関ビルであり、その帰り道に銀座に寄り、彼女が歌っているロシア・クラブ「マヤ・ローザ」に行った。経営者は兵頭ニーナさんで、かのアラ・プガチョーワの友達である。加藤登紀子が「100万本のバラ」を持ち歌とするようになったのは、彼女の仲介の労によるという。そこで聴いたカーチャの歌の音域の広さと情感の豊かさにすっかり惚れ込んでしまった。彼女の一人息子セルゲイともども家族付き合いが始まり、色々と彼女の歌を聴く機会に恵まれた。内戦期に白軍兵士によって歌われた(とあるロシア人友人は説明してくれた)「光り輝け、わが星よGari-gari, moya zvezda」とか、オストロフスキーの『持参金のない娘』を題材とした80年代半ばのソ連映画「残酷なロマンス Zhestokij Romans」の主題歌の一つ「最後に言っておくわ A naposledok ya skazhu」*を聴いた時には底深いエネルギーをもった悲しみを感じ、酔いも手伝っていたのかも知れないが、思わず落涙した。翌1997年夏、モスクワの居酒屋でロマの歌と踊りを楽しむ機会があり、見事な声量をもった歌姫に「ガリ・ガリ、マヤ・ズヴェズダ」をリクエストした。リクエスト代2万5千ルーブリを請求され、逞しい悲しみだという印象を受けた。モスクワの後、井内敏夫氏を頼りにワルシャワに行った。旧市街は見事に復興され、観光客がリーネクと呼ばれる広場に溢れていた。目立ったのは出稼ぎのロシア人辻楽士であった。ギターを奏でながら悲しげにロシアの歌を歌っている青年には誰も足を止めない。彼に「ガリ・ガリ、マヤ・ズヴェズダ」をリクエストした。広場の片隅で聴衆は私一人。彼は「この歌は自信がないけど…」と言って歌い始めた。なるほど心許ない悲しみという印象であった。カーチャの歌を生徒たちに是非聞かせたいと思った。彼女の歌唱力はValentina Ponomareva に比肩しうると思う。

*この歌を歌っている映像の一部を見ることができます。映像はQuickTimeムービーですので、あらかじめQuickTimeをインストールしておく必要があります。QuickTimeは、各種雑誌の付録で入手されるか、左のアイコンをクリックしてダウンロードしてください。

 1997年10月11日(土)にカーチャのコンサートを麻布で開くことにした。とは言っても、学校の正式行事ではないからどこにも予算はない。同僚の一人は「わたくし心の公(おおやけ)化だな」と揶揄しながら、熱心に準備を手伝ってくれた。同僚一人一人にカンパを募っただけではない。ロシア語講座の生徒、卒業生、父兄も協力してくれた。コンサートは大成功であった。観客400人余、カンパ約25万円が集まった。このコンサートを契機に彼女の息子セルゲイの「ロシア語会話教室」とカーチャの「歌の教室」が定期的に麻布学園で開かれるようになった。それは私が麻布を辞めた後の今も続いているという。嬉しいけれどもちょっと寂しい話しだ。私の細君も私に習って息子の公立中学校PTA活動で、一年後に同じようなコンサートを開いた。麻布の生徒や卒業生・父兄も参加し、これも成功した。やはり嬉しいけれども、いささか複雑な気持ちである。今では細君の方が彼女と連絡がある。「恋すれど さよならだけが 世の定め 蓮のうてなを 夢に見るとも」と歌に託し、「わたくし心」を「おおやけに」したのだとはしても、「橋づくり」の悲哀は私をさらに仏教へと誘う。

麻布ロシア語学習会におけるカーチャとセルゲイ
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おろしゃ会

 昨年10月に赴任した県立大学で「おろしゃ会」を作った。愛知県立大学外国語学部のサイトに「おろしゃ会」会報がアップ・ロードしてあるので、是非見て欲しい(http://www.aichi-pu.ac.jp/for/ 一般関連をクリック)。ロシアに対する関心を教壇からいくら喚起しても空しいというのが、この会を発足させた動機である。私のロシアとの関わりを恥ずかしげもなく長々と綴って来たのは、「滅私奉公」の時代は確実に終わったのだと言いたいがためである。「滅私奉公」の時代は第二次大戦とともに終わったのではない。自分自身を振り返って分かるのだが、社会主義の理念が戦後も長い間「滅私奉公」を支えてきたのだ。我々の世代までは、大義や理念や体系性を、換言するならば、Grand Theory を追い求めてきたのである。しかし、ペレストロイカの失敗とソ連崩壊は「滅私奉公」に完全に終止符を打った。「わたくし」にこだわり、「いやし」を求めるイヤシイ時代となった。こういう時代に旧来の「ロシア」が魅力をもつことはありえない。ロシア語を選択したとしても、「ロシア」に憧れたりするわけではない。教壇から語られる「ロシア」は、学生たちにとって教員のセンスのない「様々なる衣装(ママ)」の一つに過ぎないのである。厄介ではあるが彼らの「わたくし心」と触れ合わないと授業は出来ない。ロシアに対する関心が低下し、ロシア語やロシア関係講座の学生数が少ない今こそチャンスである。学生一人一人と接する余裕に恵まれたと解釈すべきであろう。セクハラ規定に抵触する恐れはあるにせよ、研究室でコーヒーを飲みながら、一人の女子学生とロシア語上級の授業が出来るのである。ロシア人の先生の授業についてゆけず、ロシア語を放棄しようとした男子学生がいる。電話で「なぜ出てこない」と言う。「なぜと言われましても」と口篭もる。とにかく一度会うことにした。「何をやったらよいのか分からない、気力が起きない」のだそうだ。唐突だが、彼にリハチョーフの話しをした。『善と美に関する手紙』の一つをコピーして彼に渡した。予習をやったら来いと言って。一週間後彼は現れた。単語を調べて真っ黒になったコピーを持って。折悪く教授会の始まる直前だった。30分だけやろうということになった。相手は必死になって調べてきてある、何が分からないかはっきりしている。こういう学生を相手だったら30分でも実に充実した授業が出来るということが分かった。これも「おろしゃ会」の活動だと思っている。

 私と時を同じくして新崎 智も名古屋の住人になった。両親介護のためである。「おろしゃ会」で講演もしてくれた。高校時代のように会って話しをする機会が増えた。よく話題となるのは、「最近の若者たちは、俺達に比べると大人に遊んでもらっていないな」ということだ。前任校の創立者・江原素六は「青年の友たるは余の素志である」と言って、名士の会合をキャンセルしては若者たちと付き合ったという。今まで書いてきたように、私も随分と色々な先生たちに遊んでいただいた。「おろしゃ会」を通して若者の友となれればよいと思っている。この点では、会の非常勤顧問をお願いしている田邊三千広氏から随分と刺激を受けている。

 名古屋にいても、日常的に多様なロシア人と出会う。学者・芸術家・ビジネスマン・マフィアがらみの風俗店店員だけではない。日本人と結婚して名古屋やその近辺に住んで平凡な市民生活を営んでいる人も多い。昨年は半田市で20才の青年がピストル自殺を遂げた。警察が職務質問したら突然路上でことに及んだという。ロシアは「わたくし心」をもって我々の隣人となりつつあるのだ。「おろしゃ会」はそういう時代にロシアを学ぼうとする会である。「隣人について無知無関心ではどうしようもない」ということだけを、唯一のスローガンとして。


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